中国の農業と環境保全
―雲南を旅して

宇都宮大学名誉教授 岸本 修

 

1.はじめに

 雲南省の小旅行をして感じた点について,農業と環境保全に関心を持つ立場から本論をまとめた。タイ,マレーシア,インドネシア,フイリピンなどを機上から着陸態勢に入った短い時間に空港周辺の農業風景や山林の景観をみると,その眺めが異国への憧れを高めてくれる。整然と植栽されたココヤシ,ゴム,アブラヤシなどには農業の息吹と,樹海のような熱帯多雨林には未来の可能性が秘められている。

 前記した地域よりやや北に位置する雲南省の山脈は,熱帯多雨林との記述もあったが疎林に覆われている部分が多く,予想外の景色に少しとまどった。

2.中国を考える基盤としての歴史的な特徴

(1)始皇帝にまつわる万里の長城と兵馬俑
 宇宙から見える人類の建造物の代表的なものとして,万里の長城がよく挙げられる。秦の始皇帝(BC 221―210)の時代に大増築され,現在のものよりも北に位置していたらしい。

 十年ほど以前に機会を得て,北京在住の知人に案内して頂き,長城の通称「男坂」をたずねた。観光名所の石段の緩やかな女坂とは,対照的に段差が50―100cm以上もあり,一区画を予定したが,観光客も少なく,さらに厳しい段差に直面し同行者が悲鳴を挙げて立ち止まってしまった。しばらく途方にくれていると,地元の人が現われ,降り口を通過していると告げられた。数百メートルごとにあるノロシの点火塔とも言われる石室の頑丈さには驚いたが,降り口を通過して発見したのは,長城自体の通路としての移動可能性の阻害も十分に計画されていたことだ。

 男坂への街道筋には筆者が注文したふじリンゴの農家があり,早速アンケート調査を試みた。農家の経営規模に関しては,借用期間などがオーナーでないと不明との回答が多かった。収穫や箱詰めなどをする貧しげな労働者たちの平均賃金は,15―25元に留まり,回答者によっては食事が加算されるなどと話した。知人が紹介した北京の高級ホテルでは朝食のバイキングのサービス料金として約20元を請求されていたので,貧富の格差の一端を実感した。

 始皇帝にまつわる話題としては,陵墓の1.2km離れた地点で1974年に発見された兵馬俑坑(へいばようこう)がある。地下の軍団ともいえる青銅製の武具を備えた等身大の陶製の像6000体以上と馬が整然と並び,始皇帝の死後の守護をする状況である。

(2)黄河の流域変更の歴史
 中国北部の大河川の一つ黄河は,全長が5464kmで流域面積は75万km2に及び日本の面積の約2倍に相当する。黄河の特色として「河川水が一石,その泥が数斗,一石は180リットル,一斗は18リットル」といわれ,泥の主成分はシルトと呼ばれる微細な砂と粘土の中間をなす土で,日本の春先に黄砂となって飛来する場合がある。大平原を時速9kmの水流での流下により,常時,土砂の沈殿降下と堆積を繰り返し,河床を高めて数メートルに及ぶ天井川を形成し続けている。

 黄河の治水の方法としては,歴史的にも河口を山東半島の北側の渤海へ注ぐように改修するのを「北流」と称し,半島の南側に位置する黄海に変更する工事を「南流」と呼んだ。
BC602年に第1回目の河道改修,第2回はAD

 11年,第3回は1048年の北流,第4回は1194年に南北分流,第5回は1494年に南流,第6回は1855年に北流に変更した。増水期は山岳の融雪水の7,8月,渇水期は4,5月である。
第7回は戦争中の悲劇ともなった南流である。1938年6月12日に蒋介石軍は日本軍の徐州作戦を阻止するために黄河堤防を破壊し,南流とした。堤防破壊で5万km2が湖となり,1250万人が被災し,300万人以上が故郷を離れ,80万人以上が死亡したと推定されている。

 第8回はアメリカ人のオリバートッドの指導の下,1947年に北流に改変した。この大事業は国共合作であり,共産党は旧河道に住み着いた50万人の農民移転と640kmに達する堤防の建設を実施した。国民党側はそれらの全工事費の労働者の賃金を負担した。

3.雲南省を旅して

(1)シーサンパンナ周辺にて
 雲南省では昆明,麗江,大理,シーサンパンナ(西双版納)の4カ所を国内航空と自動車で移動した。
シーサンパンナ自治州の都の景洪から景真八角亭の寺院まで数十キロを2時間ほどの自動車観光をした。特に印象に残ったのは以下の数点である

@熱帯多雨林地帯に属する水田風景は日本人になじみ深いものであった。一部舗装が壊れた道もあったが,街路樹が整備されていて,いずれもが数十センチの直径を有し,10m内外の距離で道の両側に植えられ,数十年の経過が感じられた。強烈な日射による日焼け障害を防止するために地際から2mほどの高さに石灰を白く塗った農業用語でいう,「ホワイトウォッシュ」が実施されていた。これに似た風景はモスクワの郊外のシェレメッチボ国際空港までの並木道と同様であった。それに加えて数メートルの高さで主幹が切り下ろされていて,切断面から新生の若枝が伸び始めていた。適切な更新せん定による樹齢の若返り策であった。

A車中でのガイドの話によれは,標高1200m以下の山地においてはゴム栽培が,それ以上のところではアラビカコーヒーと茶樹の作付けが奨励されているようであった。それらに隣接するかなり急峻な山肌には焼畑農法でトウモロコシが栽培されていた。山肌の下部には水流の跡を示す土壌浸食の状態が散見された。

 とくに,コーヒー用に伐開された山容が遠望されたが,道路に平行していた山の稜線にほとんど緑を見ることがなく,山頂まで皆伐された状況に驚いた。

 20年ほど以前に,世界最高の品質を誇るブルーマウンティンコーヒーの改善計画のために,秋田県ほどの広さの小島であるジャマイカを訪れたが,高品質は標高の高いのが望ましいとして山頂まで皆伐して植え穴を掘っていた。その際に水源涵養と土壌浸食防止のために,稜線に数十メートル以上の幅にわたる自然植生の保存を提言した。

 前記の焼畑と樹木の皆伐の結果と無関係ではないと推定される事象として,都市の近くの河川敷に10mほどの高さの川砂が連続する状況を目にした。細部についての質問をしていないので論評は困難であるが,土木工事や建築資材としての川砂の供給施設と思った。かかる多量の川砂は土壌浸食の産物とすれば,環境保全の面でも課題となろう。

(2)農家訪問での知見
 一般旅行のガイドをする通訳に突然に農家訪問を希望し,2軒を聞き取った。一軒目は老婆と母娘の3人が家畜の干草を処理している農家であり,栽培面積を聞くと「15ムー(mu)」と回答した。通訳に「1haは何ムーか」と質問すると「2ムー」と答えた。8ha にしては貧しい状況であり,家畜も1,2頭と言っていた。
 2軒目は,8ムーの農家であった。別の現地通訳もいて,そこではじめて,1haが15ムーであることが判明した。

 筆者は他の国の大学の改善計画の調査の際,共産圏の国であったが,10 人ずつの学生と教官の2グループでのインタビューを試みた経験がある。そのとき,選択と必須科目の類別を聞いた際に,数日間の通訳をした人が,突然,「(日本語で)“選択”とは布を洗う“洗濯”とは異なるのか?」と逆に質問された苦い経験がある。そこで英語圏に留学した教官を臨時通訳として調査を継続した。異国での通訳の専門領域は日常生活レベルではその欠点(能力の程度)が分からないが,この度の中国での広さの基本も不明な事例にはがっかりした。

 また,庭先には調整されたトウモロコシがうず高く積まれて出荷を待っているようであった。老婆が対応したが,雑穀とイネが主要作物であった。土間には大きな家庭用冷蔵庫と,テレビが見られた。孫娘は昼食を終えて中学校に行くべく自転車で走り去った。その兄らしき人物がぽつねんと立っていたので,質問をすると,「中学の学費が払えず,最近中退した」とのことで,教育費の高さに苦労しているようであった。

 両軒ともに,農業機械などは見当たらなかったが,家を囲む壁の頑丈さに違和感を持ったが,国境に近いための防犯対策上の知恵かとも推察した。

4.中国の人たちの経験

 わずかな数回の短期旅行で記録を残すに当り,調査した範囲での中国の多面性の一端を要約したい。

(1)義和団問題
 19世紀末には山東省を中心とするキリスト教会の教徒と牧師などによる,現地住民に対するかなりの横暴な行為が見られた。これらの事例は,清国政府に対する当時の欧米列強諸国の租界要求に伴う,各種条約の締結を要請する行動とも無関係ではなかった。

 それに対して,各種の拳法を中核とする庶民の護身術育成にまつわる集団が形成され,世紀末,とくに1900年の6月から8月にかけては,教会の焼き討ちや教徒・牧師への虐殺行動も頻発し,またそれらの逆の闘争もあり,一時は中国の行政サイドも民衆に加担する事態ともなって,内乱状態を呈した。

 1900年8月以降は,欧米列強の軍隊が参戦して平定された。翌1901年9 月には講和条約が政府と11カ国(英,米,露,仏,伊,独,日,スペイン,ベルギー,オランダ,オーストリア)の間に締結され,さらに賠償金に関する協定も成立した。賠償総額は当時の清朝の国庫収入の5年分に相当し,39年間の1940年まで払い続けた。

(2)中華人民共和国
 共産党の数十年に及ぶ国民党との闘争やら,第2次世界大戦による甚大な庶民の被害も超えて,1949年に中華人民共和国が成立した。1960年前後には農村地帯で非正常な餓死に類する事件も記録されている。

 現在でも13億人のうち 9億人が農村に居住し,農民一人当たりの農耕地は20―30aと世界的に見ても小さく,余剰労働力があふれている状況もある。統計によれば,州境を超えた長期の出稼ぎ労働者が 2000万人以上との記載もあり,正月などの休暇の帰郷列車の混雑ぶりは相当なものである。地方の郷鎖企業による雇用増加によっても,余剰労働力は十分に吸収されず都市問題の課題ともなっている。

5.結語

 中国の長い歴史において,始皇帝にまつわる兵馬俑と万里の長城の構築については強大な権力と膨大な庶民の労力の集約の成果でもあろう。また,黄河の流砂沈積の害を除くために,渤海湾と黄海へと河口を移す流路変更をBC7世紀から 20世紀まで8回にもわたり実施している。
19世紀末には欧米列強による租界の拡大を求める不平等条約などに反対する義和団問題,太平洋戦争による被害,1960年頃の2000万人におよぶ餓死の発生などの厳しい史実もある。現在も貧富の拡大に伴う社会的な緊張も継続している。

 これらに対して,筆者が雲南省の一部を観光した範囲での山肌の植生の貧困,環境保全の不十分さによる土壌浸食の実情などは些細な事例であるかもしれない。人口増加に伴う食糧その他の資源の確保のために,ともすれば,過剰耕作,過放牧,燃料材の過伐採に陥りやすく,それらが砂漠化の原因になっている。

 20世紀の黄河の治水のために数十万の移住を伴う長大な距離の流路変更に成功した事実を考えるとき,雲南省のごとく熱帯多雨林地域にあっては,過伐採を避ける環境保全を前面に提起すれば,浸食防止の効果が期待され,21世紀の早い時期に砂漠化防止の里程標の一つを構築できることを信じて,本論の結論としたい。(2005年10月8日)

引用文献
1)青柳健二,『南中国 日本人のルーツを探す旅』,明治屋「嗜好」,2004
2)天児慧ら編,『岩波現代中国事典』,岩波書店,1999
3)小島晋治ら編著,『中国百科 改訂版』,大修館書店,1997
4)載国輝ら編訳,『中国 図説世界文化地理大百科』,朝倉書店,1988
5)地球の歩き方編集,『雲南・四川・貴州と少数民族』,ダイアモンド社,2004
6)三石善吉,『中国,1900年―義和団運動の光芒』,中公新書,1996
7)孟慶達ら編,『中国歴史文化事典』,新潮社,1998