骨から見た縄文人のルーツと日本人の起源

東北大学大学院教授 百々 幸雄

 

1.骨を通して歴史を知る

 人間の骨(人骨)を調べることによって,その人間の生前の姿かたち,男女の別,その人の形状などさまざまな情報を得ることができる。形質人類学が研究対象として頭骨を一番扱ってきたのは,頭骨が人類集団の特徴を最も良く表していること,また他の部分の骨と比べて扱いやすいなどの理由によるものであった。例えば,手足の骨は,首から下だけでも200種類ほどの骨があるが,その一部をもとに全体を推定するのは容易なことではない。

 19世紀末から20世紀のはじめごろまでは,頭骨どうしを比較してどこがどのように違うのかといった形状的情報を記載的に収集することがまず行われてきたが,それらを数量化して比較するといった客観性に乏しかった。そこで20世紀初めに人類学の研究者間において,まず最初の段階として,頭の長さや幅など計測の世界的な基準を設定した。それ以降,人骨の研究では計測的研究が主流となった。

 1950年代になって東京大学の鈴木尚氏が「骨の形は,時代や環境の変化によって変わっていく」ということを主張した(「小進化説」)。実際,縄文時代から弥生時代,古墳時代,歴史時代,そして現代に移行する過程の人骨の形を調べてみると,確かに中世時代を境にして大きく変化したことがわかる。また江戸時代から明治時代への移行期にも大きな変化を見せている。その原因には,食生活の変化,生活習慣の変化などがあることがわかってきた。その結果,骨の形態的な変化だけを見て人類集団間の違いを調べることが,本当に科学的に可能なのだろうかとの疑問を呈されたのであった。

 その一方で,19世紀以来解剖学の分野では,頭骨にはいろいろな形態的変異があること,それらが人種ごとに一つの傾向性を伴うものであることが知られていた。例えば,目の上の部分に神経の通る穴のある人とない人とがあり,またある人にはある部分に余計な骨があるなどの変異で,それらを「形態小変異」と呼んだ。上述のような変異はあってもなくても日常生活には支障をきたさないもので,そうした形態変異は無数にある。手足の骨の場合は,歩く,走る,登るなどの機能に伴って生じる変異もあるが,頭骨の変異は,生体的機能と直接関係なく変異が現れてくる。そのような形態小変異を指標にして,人類集団の類縁関係を調べることが,1950年代ごろから出てきた。

 はじめは形態小変異の一つ一つを記載する研究であったが,その後の統計学の発達,コンピュータの発達によって,それらのたくさんの情報を総合的に考えてみようとする方向性が現れてきた。1970年代以降その手法が顕著になっていった。その傾向性の中から誰が見ても認められるようなものを選び出してより客観化していった。その基礎研究では日本の解剖学が多くの業績を上げており,日本の解剖学の教科書はかなり参考になる情報を提供してくれている。初めは50項目くらいあった形態小変異の項目が,その後の研究によって22項目に整理された。

 東北大学医学部で昔の赤ちゃんの骨がたくさん埋もれているのが見つかり,それらを調べてみると,子どものときから上述の形態小変異があることがわかった。また,関東地方,東北地方の古墳・鎌倉・室町・江戸時代・現代にわたる頭骨を調べてみると,頭の計測値は変化するものの形態小変異には時代変化がほとんどない(出現頻度がほとんど変わらない)ことがわかった。これらの事実が,形態小変異を調べることによって人類集団間の類縁関係を科学的・客観的に比べることが可能だということの根拠になったのである。

2.アイヌと沖縄人

 私がこれまで調べた弥生時代人(以下,弥生人)の人骨は,北部九州の弥生時代中期のものが大半である。それはそれ以前のものが余り発掘されていないためである。それらの人骨を調べてみると,縄文時代の人骨とは大きな違いが認められる。それは異質といってもいいほどの違いである。その理由を考えた場合には,やはり大陸・半島からの渡来要素を考えないと説明がつかない。ゆえに大陸からの渡来系弥生人が日本に渡ってきたことはほぼ間違いないだろうというのが形態小変異研究からの結論である。考古学者の中には現在も異論を唱える人がいるが,他の研究者もほぼこの説を支持している。

 さらに,文献に残された記録からみても,弥生時代に続く古墳時代の末期から現代まで,本州・四国・九州のいわゆる日本本土には,住民の遺伝的構成を変えるほど大量の人の移入があったとは考えられないので,われわれが資料としている古墳時代の人骨は,本土の日本人の直系の先祖とみなしてもさしつかえないであろう。実際,その時代の日本人の特徴は,現代の日本人に至るまでほとんど変わりないのである。このようにして弥生時代の中期ごろには,日本人の原型ができあがっていたと見られる。

 それゆえ日本人の形成過程については,「渡来系弥生人が日本列島の中央部に拡散して本土の日本人の祖型となり,列島の北と南の端には弥生人の遺伝的影響の少ない縄文系のアイヌと南西諸島人が残った」との説が一般的であった。しかし,その後のアイヌと南西諸島人(沖縄人)の研究成果によって,その説は大筋で認められるものの,それほど単純なものではないことがわかってきた。それでは弥生人が移入した後,縄文時代人(以下,縄文人)はどこに行ったのか。

(1)アイヌ
 アイヌと縄文人の形態的類似性については明治時代に小金井良精氏が指摘(「日本石器時代人=アイヌ説」)しており,それゆえ縄文人を祖先とする人の本流は北海道アイヌであるとの説は,以前から唱えられてきた。また最近の頭骨の計測的,非計測的研究や歯の形態学的研究からもそのことが確かめられている(図1)。

 ところで,アイヌは一般に,北海道アイヌ,サハリン(樺太)アイヌ,クリル(千島)アイヌの三地方型に分類されるが,ここではアイヌの基本型を最もよく表わしていると考えられている北海道アイヌに焦点を当てよう。歴史学の諸分野と同様に人類学もまた,中央志向型で研究が進められてきたので,アイヌはこれまでどうしても本土の日本人のつけたしのように扱われてきた。しかし実際は,アイヌは沖縄人とともに,日本列島の人類史上では,主役を演じてきたグループである。
近年のアイヌ研究によって,新たに判明した知見は次のようなことである。

 まず,縄文人と現代アイヌとの間には時間的に2000年以上の隔たりがあるので,その間を埋める人骨を調べて連続性を証明する必要があった。ところで北海道の歴史区分は,本州のそれとは若干違っていて,縄文時代に続く時代を続縄文時代という(表2)。一般に弥生時代は稲作農耕で特徴づけられるが,同時代の北海道の人々は水田稲作を取り入れなかった。縄文時代と同じように,サケなどの漁撈,植物の採取,海獣や陸の動物の狩猟などを基盤とする採集狩猟文化が続いており,稲作文化を受け入れなかった。

 それに続く擦文時代の人骨はぱらぱらしか出ておらず,あまり発掘されてない。しかし続縄文時代人の人骨が40〜50体発掘され,かなり詳しく調べることができた。その後のアイヌの人骨も見つかり,それらを時代的にきちっと調べてみると,縄文時代から現代のアイヌまできれいに連続していることがわかった。それは形態小変異のみならず,計測値においても同様の結果を示した。数少ない擦文時代の人骨でもそれらを見る限りにおいては,その後のアイヌとほとんど変わりないものとなっている。

 もちろん細かい点からの修正が今後出てくる可能性は残っているが,大きな流れはほぼこれで間違いないように思う。例えば,北海道の場合は,オホーツク人の移入という外来要素があり,本州から和人が入ってきたという条件もある。

(2)南西諸島人(沖縄人)
 明治時代に東京大学に招かれたドイツ人医師ベルツが,琉球・アイヌ同系説を提唱して以来,日本人研究者によって南西諸島人(注:ここでは奄美諸島,沖縄本島,先島諸島の人々を指す)の調査がさかんに行われるようになった。1950年代に,それまでの生体に関する研究結果を総括して,「琉球人は本土の日本人の一地方類型に過ぎない」と結論した(須田昭義)。当時の「琉球語は日本語と同系統である」との言語学の知見の支援も受けて,須田氏の結論で問題は解決したかに見えた。

 ところが,1970年以降再び大規模な沖縄調査が行われ,歯の形態学的研究や血液の遺伝学的研究が進むと,やはり琉球人とアイヌの関係を無視することはできないとの結果が示された。
戦後に集積された全国各地の膨大な生体計測の資料を多変量解析した結果(池田次郎・多賀谷昭),日本列島人は,北海道アイヌ,本土日本人,南西諸島人の三地域集団に分けられ,アイヌと南西諸島人は,顔面が相対的に低く,肩幅が広いという点で共通するが,全体としてはその集団間距離はかなり大きいという。また,琉球人頭骨と他集団との相互距離を求めた結果,日本列島と近隣諸国の現代人との比較では,アイヌに最も近いのは琉球人であったが,縄文人,弥生人,古墳人を含めて比較すると,琉球人とこれらの古人骨群,現代日本人およびアイヌとの距離は同程度であった。このように生体や頭骨の計測値に基づく分析からは,南西諸島人とアイヌの近縁性を積極的に支持する結果は得られないが,歯の形態的特徴の分析結果は両者の近縁性がかなり強いことを示している。

 このように10数年前までは,アイヌと沖縄人は同系統だとの説が主流であった。ところが,私の専門である頭骨の形態小変異の出現パタンからみると,南西諸島人がアイヌや縄文人に近いという傾向はまったく見られない(図3,4)

 沖縄本島,宮古島,西表島などの人々の頭骨研究に関して私は,ここ10年来琉球大学の研究者と共同研究をしてきた。沖縄では,一度土葬した骨をきれいに洗骨して壷におさめ岩陰におく風葬墓という風習がある。そして永年の歳月の経過によってその壷が壊れて骨が露出している例がたくさん見られる。それらの骨を地元の教育委員会や地主さんの協力を得て調べることができた。それらはほとんど江戸時代のものであった。

 それらの人骨を調べてみると,沖縄人の顔の立体像について,縄文人やアイヌの人は非常に立体的な顔をしているのに,沖縄の人たちは非常にのっぺらした顔の特徴を持っていることがわかった。沖縄人のその特徴は,むしろ本土日本人,北方中国人,韓国人に近い関係にあることを示すものである。そうしたデータも含めると,それまで知られていたほどに,アイヌと沖縄人は近い関係ではないという結論になったのである。現在私たちのグループが,そのような問題提起をしており,この命題についてはっきりした結論までには至っておらず,論争中というところである。

3.縄文人のルーツ

 縄文人のルーツに関しては,次の二つが主な説である。
歯や頭骨の形態学的分析の研究者たちは(埴原和郎氏など),タイやベトナムを中心として研究をしながら「縄文人は東南アジア起源だ」と主張する人が多い。しかし,ベトナム,タイ,台湾などの新石器時代,旧石器時代から新石器時代にかけての時期の人骨の形態的特徴を調べてみても,ほとんど似ておらず縄文人との関連性は見出せない。

 また,遺伝子分析の研究者は,「縄文人は北ルート(朝鮮半島,北海道北方経由)でやってきた」と主張する(北東アジア起源説)。石器などの研究から見ると,北方文化につながるものがあるという指摘が考古学者の中にもある(佐川正敏)。そこで私は,中国の内蒙古,東北地方(旧満州地域)の新石器時代初期(7500年前ごろ)の人骨がたくさん出土したので,それを調査しに出かけた。しかし,それらの人骨と比べてみても縄文人のそれとはぜんぜん似ていない。

 こうした状況の中,山口敏氏は,新石器時代には縄文人のルーツは見つからないので,大陸の旧石器時代の人々と共通するものだろうと予想している。ただ,その時代の人骨があまり出ていないために,その説はまだ証明されてはいない。

 そこで私たちの研究グループでは,コーカソイドとモンゴロイドが境を接する内陸アジア地帯に縄文人に似た人がいるのではないかとの仮説を立てて,今年(2005年)西モンゴル地方に予備調査に出かけた。すると骨の形態的特徴が縄文人に非常に似た人骨がたくさんあることがわかった。それらは青銅器時代(2000〜2500年前ごろ)のものである。旧ソ連,ロシアの骨の研究者に聞いてみると,バイカル湖周辺で縄文人やアイヌに似た人骨を見ているようだが,彼らは「ヨーロッパ人との混血だから無視していいだろう」と考えている。それならば縄文人は,コーカソイドとモンゴロイドの混血かと地元の人に聞いてみても,そういうことにはならない。

 私の仮説は,縄文人やアイヌは,モンゴロイドやコーカソイドにあえて分類する必要がない人たちではないかということである。ひょっとしたら,彼らは,モンゴロイドやコーカソイドに分化する以前の特徴を持った人類集団で,もっと古い時期に日本列島に渡ってきた可能性もある。もちろん古いといってもせいぜい3〜4万年前くらいである。おそらくもっと調査をすれば,そのような人たちの骨が見つかる可能性がある。

 新人が出アフリカをし,その後5万年〜3万年前ごろにコーカソイドとモンゴロイドに分化していったといわれているが,私たちの仮説はその説とも全くかけ離れているわけではない。それゆえ縄文人やアイヌは,モンゴロイドの特徴も持つと同時に,コーカソイドの特徴もあわせもっているのであろう。
実は,アイヌのコーカソイド説ということは明治時代のころからあった。当時,ヨーロッパの人たちが日本に来てアイヌを観察してみておどろいた。「極東の日本にヨーロッパ系の人がいる」と言った。その印象的な言葉をまったく否定し無視してしまうのもまずいのではないかと思う。人間の直感による観察には真理に通ずる部分もあるからである。

 その後,縄文人もアイヌもモンゴロイドだという説が昭和40年代から出てきた。モンゴロイドは,寒冷地に適応したために顔が平坦で,ひげがない特徴の集団であると考えられている。そうした観点からアイヌがモンゴロイドとは言い切れない部分があって,しかたなしに「原モンゴロイド」という名称を用いて説明した。つまり,モンゴロイドに分化する前のモンゴロイドという意味である。われわれの仮説は,そういわなくても無理なく説明できる仮説である。それゆえ内陸アジアの研究を進めることが重要だと考えて,来年もモンゴル方面に行って調査するつもりである。

 今までは,「新人の移動は,環境のいいヒマラヤの南ルートを経て東南アジアに進出し,その後,北上した」との説が強かった。ところが遺伝学の研究者は,ヒマラヤの北ルートもあったのではないかと主張している。北ルート説に立てば,バイカル湖やモンゴルを通ったことになる。最近はそのようなルートもあったと考えるようになってきた。

 また最近,アメリカ先住民(インディアン)の現れる以前の8〜9000年前の人骨(パレオ・アメリカン)が見つかり始めた。それらを調べてみると,現在のアメリカ先住民とは系統が違うようで,彼らはむしろ北海道アイヌに近いと言われている。それをさらにたどると,モンゴル方面にたどり着くという。私が今年(2005年)訪ねた西モンゴルのチャンドマン遺跡から出土した頭骨の調査からは,モンゴルを経てヨーロッパにつながるとともに,ベリンジアを渡ってアメリカ大陸に行ったとの説も考えられる。それは現在のインディアンの祖先よりもずっと古い時期(12000〜15000年前)ということになる。ただそれらの関係については,まだ結論が出ていない。

 いずれにしても今後内陸アジアの人骨発掘が重要になってくるに違いない。その発掘で旧石器時代の人骨が見つかれば,いろいろな事実がわかってくることであろう。人類ルーツ研究の歩みはのろいが,少しずつ新たな知見が進展している。(2005年11月15日)