日米同盟と日本の東アジア戦略

慶應義塾大学教授 阿川 尚之

 

1. はじめに

 2005年4月までワシントンの日本大使館で広報・文化の仕事を担当していた。直接,安保問題を担当していたわけではないが,日米同盟をめぐる問題についていろいろな人々と話し,自分自身でも考えてきた。その経験を踏まえ,現在日米同盟に関して何が起こっているのか,また東アジアにおいて日米同盟がどんな意味を持っているかを概括的に,また多少独断的に述べてみたい。

2. 2005年秋の日米同盟をめぐる動き

 05年10月から11月にかけては,50年以上にわたる日米同盟の歴史上,大きな変革が起きた一つの時であった。10月26日には沖縄の普天間基地移設に関する日米合意がなされた。前日にはローレス国防副次官が交渉のために来日した。彼は東京で開かれたアメリカン・エンタープライズ・インスティテュート主催の安保に関するシンポジウムの冒頭で「私はフラストレーションがあるとは言わない」と述べながら,実は大きなフラストレーションを感じていることを体全体で表現していた。しかし翌日,そのローレス氏が折れ,日本側も妥協し,合意に至ったのである。

 それを受けて,町村外務大臣(当時)と大野防衛庁長官(当時)が急遽ワシントンへ赴き,ライス国務長官やラムズフェルド国防長官との間で,いわゆる「2+2」または「SSC」と呼ばれる大臣レベルの日米安全保障会議を行った。これを基に「日米同盟:未来のための変革と再編」と題する中間報告がまとめられ,10月29日に発表された。これは意味の大きな文書であり,今後何年かにわたる日米同盟の基盤をなすものと思われる。06年3月には最終報告がまとめられる予定である。

 この文書の中では普天間基地の移設問題がもっとも目立っていたが,それ以外にもさまざまな部門で大胆な提言がなされている。目につくところでは,米陸軍第1軍団司令部(米ワシントン州)をキャンプ座間に移転し新たな司令部として改編すること,航空自衛隊航空総隊の司令部を米軍横田基地に移転し米第5空軍司令部と併置して日米空軍司令部間の連携を強化すること,などが盛り込まれている。また米空母艦載機を厚木飛行場から岩国飛行場に移駐することも提言している。他に鹿屋や三沢の航空基地でも米軍航空部隊の移駐をめぐっていろいろな動きがある。これらに対して早くも国内では反対の声があり,前途多難という感じである。

 「2+2」とは直接関係ないが,その後,原子力空母の横須賀母港化に関する計画も発表された。米海軍は1970年代初頭以来,全12隻の空母のうち1隻の母港を日本に置いている。最初はミッドウェー,次がインディペンデンス,現在がキティホークである。これらは重油で動く空母だが,現在も重油を燃料として動いているのは12隻のうちキティホークとジョン・F・ケネディ2隻のみであり,ジョン・F・ケネディはすでに退役することが決まっている。これについても地元で反対の声があるが,これまで横須賀には原子力空母や原子力潜水艦が何回も寄港しており,そのこと自体が問題となったことは一度もない。

 安保に特段関係ない問題に関しても,10月から11月にかけていろいろな動きがあった。一番大きかったのは小泉首相の靖国参拝である。中国や韓国からは反発があったし,国内でも議論となった。同時に,自民党が遂に憲法草案を発表した。自民党は11月22日に結党50周年を迎えるが,これを機にはっきりとした自民党案を出す予定だ。この動きは,憲法9条の今後にも影響がある。シンクタンクや新聞社の案でなく,自民党の案であるところに重みがある。

 日本の外に目を向けると,ラムズフェルド国防長官が10月,初めて中国と韓国を訪問した。特に中国では,かなり突っ込んだ話をしたようだ。前述のローレス国防副次官はラムズフェルド長官と一緒に中国と韓国を訪問し,その後で日本を訪れた。ラムズフェルド長官は中国がもっと軍事面を透明化すべきであること,米国を除外するような動きが気になることを,はっきり中国側に伝えたそうだ。
それから胡錦濤国家主席が訪朝し,日朝協議が再開され,最近は北朝鮮が6カ国協議に関して新たな提案をしている。米国と日本の代表は北朝鮮の提案にはまだいろいろな問題点があるとして受け入れるには至っていない。韓半島をめぐる情勢はまだまだ流動的である。

3. 日米同盟変革の背景

(1)日米安全保障条約の変遷
 このような一連の動きを,日米安全保障条約の枠の中でどのように捉えるべきか。私はもはや当事者ではないが,日本人として,また東アジアの平和を考える上で興味を持っている。学者として,あるいは関心を持つ一市民として,これまで20年,30年と日米安保について考えてきた。
今回の中間報告についてきちんと理解するためには,過去10年間あるいは20年間に日米同盟がたどってきた道を一度振り返ってみる必要がある。そうでなければ,今日なぜ日米がこのような議論をしているかを理解できないだろう。

 そもそも日米安全保障条約は,1951年にサンフランシスコ講和条約によって日本が独立国として国際社会に復帰した時点に遡る。当時,いわゆる「全面講和」か「単独講和」かで国内がもめたが,結局日本は全面講和を諦めて西側陣営の一員として米国と安全保障条約を結び,サンフランシスコ講和条約に至ったのである。

 2001年9月8日,サンフランシスコ講和条約ならびに日米安全保障条約の調印50周年記念式典が行われ,私も招かれて出席した。式典が終わり東部に戻った3日後,9・11同時多発テロ事件が起こった。サンフランシスコでの式典には米側からウォルフォウィッツ国防副長官やパウエル国務長官,日本側から中谷防衛庁長官や田中真紀子外務大臣らも参加していた。まさか数日のうちに世界がこれほど変わってしまうとは,その時誰も予想していなかった。

 日米安全保障条約の歴史において最大のターニングポイントは冷戦の終結であろう。しばらく日米関係は湾岸戦争もあり方向性を見失ってぎくしゃくしたが,沖縄で米兵による少女暴行事件が起きた翌年の1996年,クリントン大統領が来日し,橋本首相とともに「日米安全保障共同宣言」を発表した。遅ればせながら,それが大きな転機となった。日米は安全保障の面で冷戦後も緊密かつ強力な同盟であり続けることを宣言したのである。続いて「新たな日米防衛協力の指針」(新ガイドライン)とそれに基づく「周辺事態法」が整備され,90年代後半には日米同盟の新しい枠組みができたのである。

 考えてみると,過去には日米経済摩擦もあり,日米安保が揺らいだ時期があった。しかし90年代後半までにはそれをもう一度固め直すことができた。当時,そのために努力したのが第二期クリントン政権で活躍したジョセフ・ナイ安全保障担当国防次官補やペリー国防長官,コーヘン国防長官らである。ペリー氏は私の在任中に日本政府から勲章を授与されている。無論,目立たないが日本側でも日米関係の改善のために苦労した人々がいる。

 そのような経緯を踏まえ,日本は日本本土の防衛はやるけれども,周辺地域の平和と安全は基本的に米国に任せるという考え方が徐々に変化し始めた。日本の安全・安定のために日本の外で日本もできることをやろうという,一歩踏み出した形の安全保障の枠組みができるようになったのだ。

(2)9.11後の変化
 そんな時に起こったのが,9・11同時多発テロ事件である。9・11は米国の戦略に大きな影響を与えた。この事件は米国本土の安全が盤石ではないことを教えてくれた。米国は世界のどの紛争地域からもかなり離れていたため,自国が直接攻撃されることはまずないだろうと考えていた。米国本土が攻撃を受けたのは実に1812年以来である。1812年には米英戦争が起こり,イギリスの小さな軍隊が東部に上陸してワシントンに攻め込んで議事堂を焼くという事件があった。その後は1941年にハワイで真珠湾攻撃があったが,米国の中枢であるニューヨークとワシントンDCが攻撃された事実は米国人に大きなショックを与えた。

 当時ニューヨーク市上空の防衛を任されている戦闘機は2機だけであり,スクランブル発進をした時にはすでに遅かった。それが今の米国の戦略見直しにつながっている。脅威が多様化する中でこれまで以上に本土防衛に力を入れるようになった。しかし本土防衛をするためには座して待つだけでは不十分だ。そこで事前に予防的な措置を取る,即ち打って出る戦術に出た。例えばブッシュ大統領は2002年春に国防大学で行った有名なスピーチの中で,「先制行動,先制攻撃」という言葉を使っている。それに対して「米国は攻撃もされていないのに打って出るのか」との批判があるが,ブッシュ大統領は座して待っていては米国の安全を守れないので,積極的に出て行かなければならないという考え方をとった。ブッシュ政権が誕生するまでは,共和党はどちらかというと過剰な軍事的コミットメントを避け海外から引く動きを見せていた。ブッシュ政権発足後,9.11事件が起きてからは,むしろ海外に一部積極的に出る方針をとっているのが大きな特徴である。

 一方で,どこに出て行くのか,どうやって出て行くのか,何をするのか,どのような装備をするのかは難しい問題である。そこで頑張っているのがラムズフェルド国防長官を中心とする国防総省の頭脳であり,これを「トランスフォーメーション・アンド・リアラインメント」(変革と再編)と呼んでいる。

 しかし米国は,9・11以降の事態に必ずしもうまく対応しているとはいえない。テロとの戦いは国家を相手とする戦争ではないため,対処が容易ではないのだ。アフガニスタンとイラクに対する攻撃とその後の施策も,私から見れば米国はよくやっている。中東地域ではこれまで考えられなかった状況が起こっており,例えばレバノンからシリア軍が撤退し,リビアが核開発を断念することなど,しばらく前には考えられなかった。完全とはいえないまでもエジプトなどで民主化に向けた動きが起こっているのもそうである。視野を広げればウクライナやグルジア,中央アジアなどでも同様の動きがある。

 けれどもイラクでの情勢は,最初の2カ月こそうまくいったが,その後は困難な状況が続いている。憲法について国民投票が実施され,近く国政選挙が行われるのは大きな変化ではあるが,米国国民はイラクへの軍事介入に疲れている。莫大な費用がかかり,これまで日本円で約35兆円を費やしている。上院が10月以降のイラク戦費として計上した額は約5兆円に上る。これは日本の国防予算1年分をイラクに投じるのと同じである。米国は相当苦しい状況に置かれている。

 テロリストなどの新しい脅威,あるいは専門家のいう「非伝統的脅威」「非対称的脅威」に対し,米国は苦戦しながら努力している。またヨーロッパでは,完全に冷戦が終わったために,米国軍はドイツに対するコミットメントを大幅に減らしている。ヨーロッパ全体がこれほど安定し戦争がないのは,少なくとも過去100年くらい見られなかった画期的な状況である。

(3)東アジア地域の情勢変化
 ところが東アジアやアジア太平洋地域に目を向けると,この地域は新しい事態と古い事態がそのまま残っている難しい場所である。冷戦自体の構造がある意味では変わっておらず,「変わる脅威」と「変わらぬ脅威」が並存しているので,簡単な方程式で解くことはできない。

 過去100年,東アジアにおける米国の最前線はどこにあったか。1941年の最前線はハワイとグアムとフィリピンを結ぶ線であった。日本が台湾,日本本土,千島,樺太を持ち,両者の間に潜在的な大きな亀裂が走っていて,ある意味ではその緊張が顕在化して起こったのが日米戦争である。戦争の結果,1945年には米国の最前線が日本列島まで動いた。北は北海道から南は台湾までが,米国の最前線となった。

 1950年の最前線は北海道から朝鮮半島の38度線の辺りを通り,6月に朝鮮戦争が始まる前までは台湾の東側にあった。そこから下がってフィリピンに至るまでが米国の防衛線であった。朝鮮戦争中この線がしばらく上下したが,結局今の南北休戦ラインに落ちつく。戦争後極めて大きな意味を持ったのは米国の防衛線が台湾海峡側に移ったことであり,それが現在まで基本的に変化していない。1950年代初頭から2005年まで,日米安保条約50年の歴史を通じてまったく変わっていない点が非常に特徴的である。

 現在の緊張の線は韓半島の38度線にあり,台湾海峡は微妙だが,米国は未だに台湾関係法の下で台湾を軍事面で援助する義務を負っている。この線をめぐって東側の米国と西側の中国が緊張感をもって対峙している点は変わっていない。9・11事件以降の世界では,安全保障上さまざまな新しい事態が起こってプレイヤーが変わってきているし,中国そのものも変化したので昔のようなイデオロギー的対立はない。しかし地政学的には何も変わっていないのである。

 一方で,東アジアでも新しい脅威,新しい要素が現れてきた。例えば,中国は軍備を近代化し軍事力の拡張が激しい。つい5年前と比べても,中国の軍事能力は格段に向上している。しかもそれがどの程度の予算を使ってどの程度能力を向上し,誰が軍をコントロールしているかがよく分からない。これに対して米国はこの1年ほど神経質になっている。

 また米韓関係がかなり揺らいでいる。これが一時的なものなのか,より構造的なものなのか分からないが,現政権は明らかに米国とそれほど良い関係にない。ムードが完全に変わってしまった。それに応じて米国もかつてほど韓半島に多くの軍隊を置いていないし,第一線から引き始めている。これは前述のトランスフォーメーションの一部であり,その方が抑止力を高く維持できると,米国は言っている。

 しかし否定できないのは米国軍が38度線の最前線から引くことである。韓国も国連軍の総指揮を韓国人自身にやらせろと要求している。韓国は北朝鮮に対して融和的であり,中国とも近い関係を築きつつある。そうすると韓国が今までどおり日本と同じ西側陣営で行くのか,より中国と近くなるのか,あるいは自主独立の立場を取るのか。それは韓国の人々自身にとって大きな問題であるだけでなく,日本や米国も関心を持たざるを得ない問題だ。

 この他に新しい動きとして,南東アジアのテロリズムがある。先般もインドでテロ事件があったし,インドネシアにはジュマ・イスラミーアなどのテロ集団が存在する。イスラム原理主義の動きがこの地域まで迫っているのだ。シンガポールやマレーシアも国内にイスラムの要素を持っており,極めて神経質になっている。米国のテロとの闘いの最前線が,実は我々に比較的近いところにある。我々はそれらに対処せねばならない。

 東アジア,アジア太平洋地域の安全保障にとって大きな要素の一つは,中東石油への依存である。日本は自国で消費する石油の90%以上を中東から輸入している。中東からペルシャ湾岸,インド洋を抜けてマラッカ海峡あるいはロンボク海峡から北上するシーレーンの安全確保は,日本や米国だけでなく,同じく中東石油への依存度を高める中国や韓国の関心でもある。この地域は海賊も出没し非国家的な脅威がある。

 考えてみれば「シーレーン」は新しい考え方ではなく,日本が米国と戦争したのも,直接の原因は日本がその生命線であるシーレーンを確保しようとしたためである。当時,日本が石油を輸入するシーレーンは二つあり,そのうちの一つである米国とのシーレーンを自ら切ってしまった。それでインドネシアを確保するために攻めて行ったのである。それを考えると,現在日本にとって一番重要な生命線は,中東につながるシーレーンかもしれない。

 東アジアの安全保障にとってもう一つ大きな要素は何か。それは世界とのリンケージである。今や東アジアあるいはアジア太平洋地域だけで自分たちの安全保障を考えていては,現実に対処できない。東アジアの向こうには不安定な要素を持つ中央アジアがあり,東南アジア,南アジアの向こうには中東があり,この地域の情勢が日本の安全と密接につながっている。実際,9・11事件も少し前までは考えられなかった形で起きた。中東に住む米国に敵対する人間がいとも簡単に米国へ渡ってジェット旅客機に乗り,それを武器として米国を攻撃できる時代になったのだ。東アジアの状況も世界規模で考えなければならない。

4. 東アジアにおける米国と日本の戦略的利益

 こうした要素すべてが,日米同盟に対してどのような意味を持つだろうか。私は軍事技術の専門家ではないので,むしろやや広い視野で考えてみると,まず第一に,米国にとって同盟国である日本の価値が上がったことである。その反面,現在のままで良いかというと,同盟はそれほど確実で固定されたものではなくなってきている。放っておくと同盟の価値が失われてしまう可能性があるのが,新しい時代の安全保障の特徴だ。

 このことは喩えてみれば,同盟が有志連合へと変化し,安全保障市場が固定相場制から変動相場制へ移行していると表現することができる。同盟というものは,未来相互に利益をもたらすべきもので,片方だけがその便益を享受するのでは成り立たない。国家とはそもそもエゴイスティックな性格のもので,得になるから同盟を結ぶ。相手に対する信頼のみで同盟に入るのではない。

 「我が国はいろいろ貴国の安全保障のお手伝いをしましょう。けれどもあなたの国は何をしてくれるのですか」と問われる。そのような取引が成立して初めて同盟が成り立つのだ。例えば日本は1941年,ソ連と日ソ不可侵条約を結んだが,ドイツを破ったあとこの条約はソ連にとって何の価値もなくなってしまった。愚かにも日本は最後にそれに頼ろうとして失敗したのである。

 同盟の相互性に関して第一に考えなければならないのは,同盟の「マーケット」についてである。独占禁止法には“relevant market”(関連市場)という考え方がある。経済学者や法律学者が考えるのは,そもそも独占が成り立つかどうか判断すべきマーケットが何なのかということである。日米同盟について言えば,これが変化しつつある。

 確かに最初は極東でソ連との冷戦に対峙する上で,米国は日本との同盟にはっきりとした価値を見出していた。この点では1990年代に入るまで固定相場のようであった。市場も商品もその価値もはっきりしていたのである。ところが1990年代以降,米ソ冷戦が終結し,市場と相場が変わってしまった。日本が日米同盟にとどまっている理由は,日本を守ってもらいたいからである。この点は変わっていないが,米国にしてみれば,ソ連という脅威がなくなったとき日米同盟からどのような便益を受けられるのかよくわからなくなった。

 このためクリントン政権の最初には日米関係がギクシャクした。そこで日本としては日米同盟の価値を上げるためにいろいろと努力した。米国が日本を守ってくれるだけでなく,日本も東アジアの安定に対してできることはするという意思を示すため,「周辺事態」という考え方が出てきた。同盟のマーケットを定義し直し,初めて同盟のバランスシートが落ち着いたのである。

 2001年以降の日米同盟はますますその傾向が強くなった。米国は今までのように余裕をもって東アジアの安全保障を別個のものとして考えていては済まなくなった。世界規模での視点に立って自国を守るため,東アジアにおいては日本との関係でどのような便益を得られるのかを考え始めた。今までのように同盟が動かぬものとして存在し,そこに固定相場があるということはない。その時々の脅威の多様化に応じて,米国にとっての最大の脅威にどのように同盟が役に立つかを考えるのだ。つまり同盟の価値が日々,変動相場の如く上ったり下ったりする。

 このような変化のもとで象徴的なのが,国際連合のような規定の枠にはまらない分野で,自国のためにもなり米国のためにもなると考える国々が集まって動き出した「有志連合(Coalition of the Willing)」である。イラクやアフガニスタン問題において,このようなゆるやかな連合が,同盟や国際連合に代わって機能し始めている。

 2003年に,中東からアフガニスタンまでの地域に展開する米軍を指揮・統率するフロリダ州タンパの中央軍司令部を訪れた。そこには“Coalition Village”といって,トレーラーハウスが並んでいる場所がある。トルコやフランス,ドイツ,日本などの国々がそれぞれの軍の代表を派遣して現地での活動を米軍と調整している。例えばフランスやドイツは「アフガニスタン村」に代表を置き米国と協力しているが,イラク戦争には参加していないので,「イラク村」には人がいない。二つの村の間に池があって渡れないようになっている。

 例えば,オランダやノルウェーなどの国々の戦闘機はアフガニスタンのバグラム空軍基地に派遣され,交替で現地の防空活動をしていた。また,例えばドイツの輸送機がアフガニスタンから帰国する際に,他国の同乗希望者を募ったりもしていた。非常にフレキシブルに動いている。米国は横暴だといわれるが,このような活動を見ると各国ととても仲良くていねいにやっている。

 これには二つの面がある。米国は大抵のことは自分たちだけでやれるが,そうすると世界中の世論から反発を受ける。したがってその時々の状況に応じて他国と協力する。もう一つの面は,米国もすべて自力でできるわけではないので,できる国があれば手伝ってもらうということだ。これは,やることがほとんどすべて決まっていて,それ以外のことはできないという同盟のあり方とは異なる。

 その中で日本もできることをやっており,感謝もされている。アフガニスタンにおける“Operation Enduring Freedom”(「不朽の自由作戦」)と呼ばれる作戦では,日本が有志連合11カ国の海軍の艦艇にインド洋上で給油活動を行っている。これは画期的なことである。米国だけでなく,パキスタンやフランス,イギリスの艦艇にも給油しており,機動的に動いている。

 そうすると,次に何かあったときには,これらの国々が日本に何かを返してくれるのだ。米国も日本が自国から遠く離れた地域で活動をしてくれることに感謝していて,それが同盟のバランスシートに影響する。日本だけでなく韓国やモンゴルなども活動しているが,こうしたことがごく自然に行われているのが今の新しい時代の動きである。

5. 世界規模での日米共通の戦略的利益

 前述のような観点から,東アジアにおける日本と米国の戦略的利益はどのように一致するのか。そもそも米国の東アジアにおける戦略的利益は明確であり,第一に前述のごとく世界規模で米国本土の国民の安全を保つということである。第二に,東アジアから中東に連なる「不安定の弧」に対処する上で,東アジアに基盤を持つことが非常に役に立つ。

 例えばこの地域で何らかの問題が起こったとき,米国本土から空母を出すには遠すぎる。サンディエゴから中東に着くまでに恐らく一カ月以上かかる。ヨーロッパ方面にいる艦船もスエズ運河を通らなければならず,かなり時間がかかる。空母が横須賀にいる意味は,中東に非常に近いということである。我々はこのような考え方に慣れていないため分からないが,沖縄の戦略的重要性も,その地理的な位置に由来している。

 もう一つは,民主国家米国の軍隊は休養を必要とする。その面でもサンディエゴまで帰って交替するよりは横須賀で交替するほうが効率が良い。よりひんぱんに家族のもとへ帰れる。したがって不安定の弧への前線としての価値は大きい。当然,東アジアにおける米国の経済的権益もあり,それも守らなければならない。そして最後に,米国として地域の同盟国の安全を確保するという意味がある。

 それでは,この地域における日本の戦略的利益は何か。自衛隊の創設以来,日本本土の防衛が他の何にもまさる目的であることに異論はない。その後,徐々に日本本土の防衛のためには周辺地域の安定が必要だという考え方が受け入れられるようになった。日米同盟の貸し借りの関係から見ても,周辺事態に関して憲法の範囲内できることはやるというのが周辺事態法の精神である。

 最近になって,強調され始めたのは,世界規模での安全保障という考え方である。東アジアや日本に限定せず,世界規模での安全保障に対して日本は何ができるか。そのことを考え,実行することが日本の安全にも寄与する。これまでは,例えばアフリカやゴラン高原に出て行くことが自衛隊から見れば何となく「親切でやっている」という感覚があった。法律的にも自衛隊法第8章雑則(第100条)で何とか正当化し,当然ながら武力行使はしないことになっている。最近になってようやく,日本の安全を守るためには海外に出て行って世界の平和に直接貢献することが必要だとの認識が出てきた。

 東アジアおよびアジア太平洋地域における米国と日本の決定的な差は何か。米国は遠いところに出てきているので,いざとなれば「我関せず」と言って本国に帰ることができる。しかし日本はハワイの近くに引っ越すわけにいかない。この地域の中にいて問題を考えなければならず,したがって近隣諸国との関係も非常に大事である。米国と一緒にやるのは良いが,場合によっては米国と異なる選択が出てくる場合もある。

 こうして東アジアにおける米国と日本の立場を考えてみると何が共通するだろうか。米国にしてみれば,世界規模で安全を考えなければならないが,どんなに強くてもすべてを自分でやることはできない。そうだとすれば米国が日本の防衛に寄与すると同時に,自らの戦略目標と自衛のために日米同盟を機動的・多角的に運用し効果を高めることは,日米双方の利益となる。もはや日米同盟は東アジアに限定した話,あるいは日本の防衛に限定した話ではなくなった。

6. 日米防衛協力の方向性

 米国は世界的規模の戦略の中で日米同盟を捉え,日本も自国の安全のために米国と付き合って世界の中で何ができるかを考える必要がある。そのためには日米同盟の能力がより高まることが望ましいし,日本がさまざまな事態に対処する能力を高めることが望ましい。そのような考えの下に出てきたのが今回「2+2」会合で示され,06年3月により細部をつめる日米同盟の新しいあり方である。
米国は常に世界を見て物事を考えている。それでいて,実は米国の国防予算は減っているし,米国国内の基地数も減少している。ヨーロッパからは兵を引き始めている。その中でどうやって東アジアに効率的に限られた軍事資源を配分するかを真剣に考えている。人的にも資金的にも,どのような方法がベストかを考えることが,ラムズフェルド国防長官の過去4年間にわたる最大の仕事であった。

 予算を削減しながら能力を向上するにはどうすればよいか。新しい脅威が出現する中で,例えばミサイル防衛をどう位置づけ,核拡散にどのように対処するか。テロ・ゲリラ対策をどうするか。さらに前述のシーレーン防衛や南沙諸島の問題をどうするか。これまでは考えられなかった新しい問題が出ている。ISR(Intelligence, Surveillance and Reconnaissance:諜報,哨戒,偵察),すなわち情報収集能力の向上も必要である。そのためには何をすべきか。

 一言で言えば,日米でいろいろなことを協力して一緒にやるということだ。例えば今回の中間報告には「相互運用性」(インターオペラビリティー)の向上という言葉が出ている。例えば米軍と自衛隊が異なる周波数を使用していては話もできない。信じられない話だが,レーガン政権時代に米軍がカリブ海のグレナダに侵攻したとき,同時に上陸した海兵隊と陸軍が隣のビーチで作戦を進めながらお互いにラジオが通じなかったという。日本でも同じようなことがあり,航空自衛隊と海上自衛隊が話すより海上自衛隊と米国海軍の方が話が通じやすかったということがある。

 特に今のようなIT時代には,日本と米国の間できちんとコミュニケーションがとれ情報が交換できるようにする必要がある。今まで以上に武器装備を共通化せねばならない。先ほどの給油に関しても根本的な前提条件は,給油管のサイズが一致するということだ。これはNATO仕様の給油管と日米の給油管のサイズが合っているからできたことであり,簡単なインターオペラビリティーの一例である。

 インターオペラビリティーを高め,共同運用,共同使用をして,一緒に訓練をして信頼し合える軍隊同士になる。自衛隊の人々と話してみると,米国と共同訓練をしてこれまで知らなかったことがとても多かったと言う。一緒にやることの意義がいかに大きいかが分かる。

 一方で,何もかもすべてを一緒にやっていくわけではない。日本には憲法9条もあるし国民感情もある。例えば,日本で空母を造って一緒にやろうなどということはあり得ない。そうなるとお互いに得になる部分,すなわち役割・任務・能力(RMC)のより効率的・効果的分担が必要になる。たとえば将来自衛隊はグアム基地の防衛を担当してもいいのではないか。将来,真珠湾に海上自衛隊の基地があってもいいのではないかとさえ思う。そういったことをお互いにもっとフレキシブルに考えるべきだ。その中から出てきた一つの考え方が,米国陸軍司令部を米国本土から神奈川県座間に移転させるという構想である。

 こうした問題は憲法9条や法律上なかなか難しいが,軍隊の最適な運営から考えれば,指揮・統率を一本化する方が良いに決まっている。そこまで行かなくとも両方の軍隊を効果的に動かす工夫が必要だ。当然ながら,こうした日米の協力を可能にするには両国国民の支持が必要であり,基地のある地元住民には騒音問題などもある。それらを解消しつつ進めていかなければならない。

 この観点からいえば,憲法が現在の自民党案のように改正されてもあまり日本の立場に変化はないだろう。まず平和主義を守り,侵略はしない。軍事拡大も資金がないのでできない。9条を改正して意味があるのは,日本が何をしても構わないとなれば周辺諸国に対する抑止力となりうる点だろう。

 もう一つ,より広い分野で日米防衛協力を強化しようとする際,一緒に作戦ができないとか,同じ指揮官の下に入れないままでは問題である。これは国際貢献の分野でも同じである。モンゴルやトンガの人たちでさえ,同じ司令官の下でパトロールくらいできる。別に大きな戦争をしようというのではない。日本のPKO部隊は警察のようなことさえできない。自衛隊はゴラン高原で非常によい仕事をしているが,彼らが実際にしているのは例えばトラックの運転手である。これが憲法の一つの実務的な問題点だ。

 ただし,私は護憲論者ではないが,9条のお陰で自衛隊の能力が高まった側面もある。武力を使わないでやれることをするのが非常に上手くなったのだ。イラクのサマワで最初に隊長を務めた友人によると,日本の自衛隊員は地域住民と仲良くなるために装甲車の上からいつも皆で手を振っていたという。日本の国内の基地対策でやっていたことが,イラクですべて活かされたのだそうだ。これは自衛隊のソフトパワーと言えるかも知れない。

 ロジスティクスや哨戒をきちんとやるなど,地味な活動もこれからの安全保障にとって大切なことである。これからは昔のように艦隊決戦をするとか,ICBMが飛んでくることはおそらくない。紛争を防ぎ,紛争後の情勢を安定化させるためには地道な努力が必要であり,自衛隊は人と人とのつながりを持つ活動を大いにやってもらいたい。しかしそこで9条のために意味のない制約があるとすれば,変えなければならない。

 これらのことに対して,周辺諸国はどう反応するだろうか。やはり我々にとって気になるのは中国の軍事拡大である。世界規模で日米同盟を考えても,日本がヨーロッパやアフリカの大規模な戦争に参加するわけがない。日本にとって相変わらずもっとも大切なのは日本本土の防衛である。そのために我々はF15を200機,P3Cを100機近く保有している。自衛隊の第一の任務はきちんと国の防衛にあたることである。中国が攻撃してくるわけではないが,この地域のパワーバランスを考えれば,やはり本格的な脅威に対する備えが必要である。北朝鮮の脅威も各国の友人が考える以上に日本にとっては深刻であり,6カ国協議の推移を見守りたい。

7.最後に

 東アジアで一つ考えるべきことは,日本は米国との同盟を破棄してフル装備の軍隊などもてないし,意味がない。日本がICBMなり攻撃型空母なりを自前で保有することも考えられない。かといって中国やロシアと同盟国になることも考えられない。そうすると米国との関係が機軸であるが,やはり近隣諸国には仲間がいて欲しいし,安定のためには近隣諸国との信頼関係を築くことも重要である。実際,海上自衛隊はロシアの艦隊などとも近年交流がある。

 最近,サッチャー政権で閣僚を務めたハウエル貴族院議員がイギリスと日本が協力関係を深める意義について説明してくれた。両国はともに「海の国」であり,価値観も近い。今後日本は,米国との同盟を維持するとともに,オーストラリアやシンガポール,インドなどとも関係を深めて行くべきだろう。

 今から100年ほど前に朝河貫一(注)という人物が,著書『日本の禍機』(1909年)の中で日米関係を危惧し,満洲で排他的な政策をとる日本に対して警告を発している。彼は「清国の主権尊重」「門戸開放」「機会均等」の原則を遵守するべきだと主張し,次のように述べた。
「最も誠実に支那の主権を擁護し,最も熱心に支那における機会均等を確保するの主動者となり,これによりて米国とかつ競争し,かつ協同し,もって相共に東洋の進歩幸福を助成せんことにあり。是れ豈に地理および歴史の自然の配置にあらずや。日本もし正路を踏みて誤まらずば,清国に関する日米衝突の一の理由だになく半の機会だになかるべし。」

 清国の主権や門戸開放を,世界各国の主権や貿易機会の機会均等に置き換えてみれば,今後も日本と米国が協力することは,日米両国のみならず,世界にとって大きな意味のあることではないかと考えている。(2005年11月12日発表)

注 あさかわ・かんいち(1873-1948)福島県生まれ。東京専門学校(後の早稲田大学)卒。23歳で渡米しエール大学などで学び,エール大学教授を務めた。1948年米国バーモント州にて死去。主な著書に『入来文書』『日露衝突』など。