21世紀の日本の教育とリーダーシップの育成

首都大学東京学長 西澤 潤一

 

1.はじめに

 現在の日本を見ていると将来日本がつぶれてしまうかもしれないと思うような状況である。まじめに取り組んでいこうとすれば,どこから手をつけていけばよいか。私は,国の指針を示すことのできる本物のエリートを養成することから始めるのがよいと信じる。

 日本自体の中にもさまざまな矛盾があり,国際社会では通用しないようなことも種々見られる。それを磨き上げて国際社会に通用するようにして,日本のいいところを伸ばしていけば,今後も世界の人が日本の価値を認めてくれるに違いないと思う。日本人自体は潜在的能力のある民族だと信じているが,それをなかなか具現化するような努力が足りないためにこのような苦境に立たされているのではないか。その秘められた能力を磨く体制をいまからでも整備していかなければいけないと思う。

2.エリート教育

(1)アメリカ偏重の教育制度と自国の伝統・文化
 エリート教育といえば,戦前には旧制高等学校があった。この仕組みを評価する人が多かったのに,戦後は米国式の学校教育制度が一番だということになり一気にそれに変えてしまった。教育制度などを変える場合は,根拠を示してよく考えてやらなければいけないと思う。ただ,米国にも特に東部地域には,精神面や人間教育に重点をおく教育の流れもあった。このように米国にはもっとすぐれた制度もあったわけで,そうしたところが見落とされていたようだ。いまもう一度その辺を真剣に見直しておくことも重要ではないか。

 ケネディー大統領(J.F.Kennedy,1917-63,第35代1961-63)は,通常の日本の学校教育制度の中にいれば落第してしまうような成績であった。そのようなケネディーでも,米国では高校から大学に進学して,歴史に評価される立派な米国大統領になることができた。日本であれば,試験の段階で振り落とされて,大物となる道が閉ざされていたに違いない。人の本性を見抜き,その中から将来日本のリーダーシップを取るような人物かを判別して育てていくことが重要である。しかし,悪平等や点数主義など変な風潮がはびこっているために,そのようなことができない日本の現状である。

 米国は大きな国であるので,そのような一部のエリート教育だけではなく,質の高い人間をたくさん育てる必要もあるために,ロボット生産工場のように人材の大量教育の道が生み出された。その過程ででてきたものが教育工学・人間工学の考え方である。私に言わせれば,本当の工学はそのような学問ではないはずなのであるが。その基本は,教育において基本的な知識を覚えこませることにあった。しかし,社会に出た場合に,それだけでちゃんとした仕事ができるわけではない。その基礎において,きちんとした人間性を教育しておくこと,基礎的な知識はすぐ使わなくてもしっかり教えておくことが何より不可欠である。このような考え方の伝統は,どちらかというと,アジアやヨーロッパの教育的発想であった。例えば,ヨーロッパではさまざまな文化の中からエッセンスを洗い出して将来の方向性を決めていくということをやってきた。しかし,この点で米国は,歴史の浅い国であるからそういう伝統や経験は必ずしも十分とは言えない。

 先般,台湾政府から招請を受けて日本の大学の独立行政法人化の成果について話をしたことがあった。そこで次のような趣旨の話をした。ヨーロッパでは,かつて11世紀ごろイタリアのボローニャで,学生たちが集まり「これからは法律の知識が必要だから,法律の専門家を呼んで話を聞き勉強しよう」というところから,大学が始まったと言う。一方,東洋には「孟母三遷の教え」ということばがある。これは孟子の母が,最初は墓所の近くにあった住居を,孟子が仏事の真似をするので次に市場の近くに,そうしたら物の売買の真似をして遊ぶのでさらに学校の近くにと三度遷しかえて,孟子の教育のためによい環境を得ようと図った故事(劉向,列女伝)である。これは紀元前3世紀ごろの中国における学校教育の原点の話であり,前述のボローニャの話と比べると1300年以上の差がある。そのような長い歴史的経験をもとにアジアの教育は運営されてきた。このように,まずは自分の国の伝統を洗ってどのような教育が行われてきたかをきちんと調べることが先決ではないかと話した。台湾にも教育に関する文化やノウハウがヨーロッパの歴史以上にたくさんあるのではないか。しかし,いまではそうした自国の伝統・文化を顧みなくなってしまいうろうろしているような現状である。それぞれの民族にあった教育のやり方というものがあるはずであるからそれを大切にしたい。もちろん,それが行き過ぎて失敗することもあるので,その点の注意は必要であるが。

 このように今までの経験をみな捨ててしまうような傾向が見られる。経験はサイエンスの対象であり,やってみていいことが積み重なっていけば,それが習慣化され継続していく。これは非常に科学的なことである。だから伝統のある教育制度の中には真実があるといえるわけで,伝統のある教育をよく研究しておく必要があると思う。

 以前,日本とオーストリアの交流である「日墺21世紀委員会」(1994年設立)に携わったことがあった。オーストリアには非常にすぐれた教育家ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner,1861-1925)がいる。その教育理念に基づいて作られた学校を「シュタイナー・シューレ」といい,今ではドイツとスイスに多くある。この教育の基本は,物質文明の影響を余り受けないようにして,人間性を損なわないようにする考え方である。同委員会では,日本とオーストリアとの間で年毎に交代でワークショップ(フォーラム)を開催してきた。ある年,翌年の東京での大会では教育問題を取り上げたいとの提案を先方から受けた。そこで私は外務省に出向いて,「来年の日墺21世紀委員会は東京で開催するが,そのテーマは教育問題である。このシュタイナー教育は,現在の深刻な青少年問題の一つである子どもたちのストレスを解消するのに,時間がかかるであろうが,役に立つ考え方であろう。日本には広島大学の広瀬俊雄教授などその筋の専門家がいるので,そのような方を招いて進めては」と話をした。その期日が近づいたころ外務省からの連絡を受けて驚いた。オーストリアからは教育局長が来られるというのに,日本側からはその筋の専門家がほとんどいないありさまであった。あわてて広瀬教授などに連絡を取ってみたものの,間に合わない状況であった。日本側のパネリストはシュタイナー教育についてほとんど知らない人ばかりであった。そのような人材の設定でいい交流ができるはずがない。このように日本では,あらゆることにおいてアメリカ一辺倒の傾向が強いために,それ以外のいいものに対して目が向けられることが少ない。

 また,現在の文科省には,教壇に立った経験のある方がほとんどおらず,大半が事務官僚ばかりである。現場も知らない人ばかりでは,真の教育行政はできないのではないかと憂えている。そうしないとせっかく長い伝統を通して培ってきたすばらしい教育が根だやしになってしまう。

(2)旧制高校の長所
 旧制高校が良かったといわれるが,そのどこがよかったのか。
旧制中学から旧制高校に入ると,まず全寮制なので寮に入って生活するようになる。自分が将来どのように生きていくべきかを考えると,これはなかなか深刻な問題である。そのため当時は,教科書は読まなくてもさまざまな文学書をあさって読んだ。それが私自身にとっても人間としての生き方の基調をなしている。しかし,若い当時はそんなことはわからない。朝8時過ぎに寮を出て学校に登校しようとすると,万年床の寝床にいる先輩が布団から顔を出して,「おい,バカ。学校に行くやつがあるか」という。それは,(人間の生き方などの問題は)学校で先生から教えてもらって勉強をするのではなく,まずは自分で考えろという言外の意味であった。自分自身がその気になれば,真剣に本も読み,人の話も聞くようになる。当時はそのような自主的な雰囲気があった。

 私も倉田百三の『愛と認識との出発』『出家とその弟子』などの本を読んだ。性欲も含めた自分の中からわきいずる種々の欲望をどう処理するかという問題は,青年にとって大きな課題である。若いときは純粋な愛情にあこがれるので,そうした自己の内面との間の矛盾に非常に悩むようになる。そうしたときに,そのような小説を読むと,どう越えていけばいいのかに対するヒントが与えられる。そうした身近な経験を通しながら生き方を学んでいったのである。これが当時の一般的な風潮であった。

 それに対して高尚なカントやヘーゲルの哲学は,自分の人生とは一見関係ないように見えるので最初は役に立たない。しかし,そうした個人の内面の段階を超えたときに,今度はそうした高尚な哲学がだんだんに心に入ってくるようになる。そうした段階を経るとしっかり身についていき,自分が共感を覚えるような哲学の本を探り当てていく。それによって自分の人生の基本的姿勢が決まっていくことになる。私自身は,ニーチェやキルケゴールを耽読した。彼らに対する専門家の評価とは別に,私は深い人間愛の哲学だと理解した。自分自身がこのような考え方で生きようという考えを持って社会に出て行く。学問をやるにしても,そのような人間性の教育が基本になければいけない。

 かつては,会社の社長など経営者の学歴を調べてみると,文系と理系が半々であった。しかし,最近はほとんど文系の人になってしまった。それは理系の方が専門バカになってしまい,人間的な側面の成長が足らず,会社のマネージメントなどが充分できないためではないが,その結果,文系の方に独占されるようになった。

 一方,中国では,政府首脳の中に理科系の方がけっこういる。電気工学出身が少なくない。次年度の需要を考えながら計画的に設備投資を考えるなど,電気工学は計画性のある学問であるために,その計画性が政治にも応用できるからなのであろう。また工学的素養が実務指導能力を著しく高めているということであろう。

 また,外国の方に「最近,日本人は子どもになったね」とよく言われる。その意味は,自分がこうだと考える哲学がないためである。人に言われたことの付け焼刃が多いので,突っ込まれるといっぺんで崩れてしまう。私は「人間には底がある。えらそうなことを言っても,後に突っ込まれると後悔するようになる。つまりきれいごとを言っていると苦境に立たされたときにはぼろが出て困ってしまう。どこまでいったらその人が壊れてしまうかが,人間を図るバロメータである。」と考えている。その意味での底の浅い方が増えているようだ。

 これからしっかりとした個性のある人がたくさん育ってきて,彼らが世の中のリーダーシップを発揮してほしい。例えば,米国は雑多な民族の集まりであるために,それを一つにまとめていくのは非常に難しいことだ。そのために町には顔役というような存在がいる。彼らが一つの党派性に固執せずに見識を持ってリーダーシップを発揮しながら,その近くの住民たちをリードしている。それがレベルの高い政治へとつながっているように思う。

 日本では万事平等という考え方が徹底しているために,なかなかそういうわけにはいかない。それを克服していくためには,自分の人生哲学,政治哲学をしっかりとわきまえた人が市民をリードしていく社会を作っていく必要がある。そのようなリーダーが出てそのような理念を訴えていけば,町の人たちもそれに相応した考え方をもつ人になっていくに違いない。このように街の顔役となるようなリーダー役の人を日本においても相当数養成していけば,日本も早くしっかりとしていくであろう。

 そこで私が首都大学東京の学長を引き受けるにあたって,石原都知事に要請したことは,エリート養成あるいは人格の涵養という観点から,大学においても寮生活をさせる必要があるということであった。オタク族のような人の中から犯罪を犯す人がでてくる傾向があることを考えたときに,現実と仮想との区別がつかずに自己中心的なとんでもないことを発想してそれを実行することになりかねないわけであるから,寮生活はその解決のための有効な手段となりうるのではないかと考えている。

3.教育改革への提言

(1)ゆがんだ日本の教育
 あるとき旧文部省からの要請を受けて「理科教育および産業教育審議会」(注:2001年1月より中央教育審議会に統合)に加わったことがあった。急な会合のために初回は参加できず,第2回目から参加した。そのとき,「小学校1年生から電卓を使わせることになった」と,前回の審議で決まったとの報告があった。それを聞いて私は,最初の会合に出席しなかったので後になってとやかくいうこともどうかと思ったものの,そのことがきわめて由々しきことだと考えたので,その示をのべて「小学校1年生から電卓を使ったら日本の子どもはみなだめになってしまう。」とあえて発言した。しかし,それに対して誰も賛同する人がいなかった。そこでさらに「少なくとも,この意見に対して少数だが反対意見があったことを議事録に入れてほしい。そしてなるべく早く効果判定をしてほしい。もしマイナス効果となればすぐにでもやめてほしい。」と訴えた。蛇足だが「そろばんならまだいいかもしれない」と付け加えた。結果的には,そろばんは使っていいということになったようだ。

 その他文科省の審議会にはいろいろ参加したが,三浦朱門さんが主査をしたときに議事録の取り方を正常にしてくれた。かつては議事録と会議の内容とは必ずしも一致しなかったが,そのときから改められて今は一致するような議事録となった。

 最近,東北大学の川島隆太教授が脳科学の立場から,計算と脳の働きの関係を実験・検証している。その結果によると,電卓を使った場合は脳の血流量が増えないが,暗算しているときはいちばん血流量が増えるということがわかった。ソロバンは中間で,かなり血流量が増えるが,暗算ほどではない。であるから,電卓を使うにしても少なくとも中学生以降からがいいのではないかと考えていることは裏付けられた。

 それに関連してNHKでインドの算数教育のドキュメンタリ番組を放映したことがあった。ある女性教師が,子どもたちにメモもさせずに,例えば「1000円を持って出かけ,一本70円のバナナを5本買うとお釣りはいくらか。さらにおつりの中から60円のみかんを7個買うとお釣りはいくらか」などと質問する。このように頭だけで考えさせることが非常に頭の働きを高めるにはいい方法のようだ。メモを取った分だけ頭の働きは少なくなる。もちろん実社会に出れば計算機を使ってもいいのだが,子どものときは能力を高めることがより重要なことなので,計算機など文明の利器はなるべく使わない方が頭はよくなる。

 また,最近では徒競走をする場合でも,順位をつけない走り方をするようにと指導している学校があるという。そこで私が教育課程審議会の席上で,そのようなことは問題だと発言した。それに対して高等学校教育の大御所といわれる人が,「自分は体が強くなかったので,小学校時代には,かけっこがあるたびにビリから2,3番であったために,いつも屈辱感を味わっていた。そのような精神的な貧しさを子どもたちに自覚させることは非常に問題だからだ。」と発言した。それに対して「実は私は,いつもかけっこはビリで,しかも同級生はみな手を叩いて『もしもしかめよ』とからかわれた。しかし,私はそのような経験をしたために,他の分野で劣る同級生に対してからかうことをしようとは思わなかった。だからときには能力が乏しいときにはつらいこともあるということを学ぶことによって,弱者に対する思いやりを持つことができるようになる。それを逆にやめさせてしまうのは,却って問題だ。その一方で,学業成績やテストでは同級生と1点をめぐる血みどろの争いをやっている。これは真に矛盾である。そうすることで逆にゆがんだ人間を作ることにつながる。」と反論した。

 私が小学生のころのある同級生は,太陽系の惑星の名前と順番を覚えて得意になって友達に披露していた。それをきっかけに彼は天文に対する関心を深めその分野で詳しくなってしまった。一人一人の得意分野をほめてやることで,その人の個性を伸ばすことがより重要な教育の課題である。かけっこで順番をつけることをやめるというようなことはすぐにでもやめてほしいと思う。このようにゆがめられた教育のやり方がはびこっているようだ。偏差値など一つのものさしで人間を測るのではなく,それぞれの得意分野を見つけて伸ばしてあげることが重要なのである。

(2)入試制度をどう改善するか
 東大客員教授をしていた立花隆氏が,地方大学を訪ねたときに新入生に対して補修講義として高等学校の物理を補修で教えているのを見てびっくりしたと言う。その背景には,高等学校の進学指導において,「物理はなかなか点数が取りにくいので,点数を取りやすい生物や地学などを受験せよ」といい,さらに物理の内申書が悪くならないように点数を甘くつけることがある。そのために大学に入っても高等学校の物理がわからない学生が少なくない。それで今の学生たちは大学の物理も暗記科目として勉強しているので,高等学校の物理はわからないのに大学の物理がわかるという不思議なことがおこるのである。昔は考えて勉強したので,本当に理解した学生が育ちやすい。そういうところから本当の学者・科学者が出てくる。

 その意味では東大を始めとする大学でいい入試問題を出すように変えていかなければならない。そうすれば受験生はしっかりと勉強するようになる。暗記一辺倒の勉強で対応するような試験問題ではダメだと思う。

 教育はタイミングを考えることが重要である。ある意味で人間が成長する時期は色気がつくときでもある。ところが,そのような時期が大学入試などの時期にあたるために,そのような気持ちを抑えて暗記中心の学習に没頭することになる。人間は考える葦であるといわれるので,そのような受験勉強のときでもふといろいろと考えにふけることがある。しかし,これでは勉強が遅れてしまうと気がつくと,考えることを断ち切って再び暗記に戻ってしまう。その結果,知識は頭にたくさん入ってくるのだが,考えない頭になっていく。

 その点を考慮すると,中高一貫教育にすれば受験が一回減るわけで,そうすると旧制度と同じような仕組みに近づいてくる。また,子どもたちの体の発達が昔と比べて早熟化しているので,場合によっては就学年を一年早めるということもありうるだろう。

 ただ,人間はその若い時はある時期暗記することも大切だ。芸道では狂言師の野村萬斎さんも「日本の芸道では,まず古典的なものを押しつける。型にはめる。その後から自我が吹き出してくる。」といっている。それを芸道の言葉で「守・破・離」という。これは教育においても通ずることである。最初のうちはある程度のことは暗記させなければならない。基本をきちっと教えてから応用に入る。それが将来に大きく花開く土台となる。

 米国の大学の中には,夏休みに受験志願者を集めて一緒に生活しながら,その大学にあった人物を選考しようと努力しているところもあるという。教育において重要なことは,卒業証書を与えることではなく,一人一人の持てる能力を発揮できるようにしてあげることである。

 ところで,日本では,過去の入試問題を再び出題するとマスコミなどから非難される。過去の入学試験を勉強した受験生がよい成績をとるからである。そこで私は,以前大学院の選考主任をやっていたときに,暗記で対応するような試験問題が作成されたので,つき返して考えさせるような問題に変えてもらったことがあった。そうしたら東北大学の学部を出た学生(受験生)がみな落ちてしまった。それは,普通学生たちは過去問を勉強して受験に臨むので,過去の問題とは違った問題を出したためにそうなってしまったのであった。却って他の大学出身者の方が受かっていた。そうしたら周囲の教官からさんざん非難された。しかし,いったいどちらの考え方が問題なのか。その結果,実力の伴わない学生がたくさん出てくることになる。

 一方,米国の大学では,いい問題は何年かおきに必ず出題されるが,受験生は過去の問題を知らないで受験する。どうしてそうなっているかと不思議に思っていた。あるとき,知り合いの教授に聞いたところによると,米国人は競争心がすこぶる強いために,同学年間の横の競争だけではなく,後輩との間でも競争心をもつからだという。つまり,自分のときの入学試験の平均値と後輩のときのそれとも比較して競争するらしい。そのために試験問題を決して外部(後輩)に教えないので,同じ問題を出しても大丈夫なのである。このような方法も参考になるものの一つであるが,日本でも受験方法をよりよいものに根本的に変えていく発想が必要な気がする。

 またあるとき,来日された英国ケンブリッジ大学の二人の先生から会いたいとの連絡があり面会したことがあった。大学院の入学試験問題についての話をしたが,受験の専門家を育成したいということであった。そこでつぎのような私の実践を話した。入学試験で幹事役を担当したとき,試験会場ごとの答案用紙を何人かの先生に採点させる。それらを比べてみると,中には飛び跳ねた点数をつける先生が出てくる。入学後にその学生の成績などを見ればその点数のつけ方が適切であったかわかる。人を見る目のない教官は採点者からはずした方がいい。いい学生を選抜しようとすれば,学生を見る目をもった教官に任せた方がいい。そうやって何年か数人ずつ交代でやらせると,それぞれの教官が人を見る目があるかどうかがわかってくる。このような私の考え方を説明した。それに対して彼らは,同感だとうなずいていた。

 日本では,平均値をとるようなやり方が一番公平だといって人を選んでいる。これが日本の平等主義の悪いところであり,世界の趨勢とはかけ離れているようだ。世界では,受験生の中からより才能のある人を選ぼうと必死になって工夫している。それに対して日本では平均的な人を採ろうとしているので,世界から取り残されてしまう。才能のある人間を選んで,その人たちを集中的に伸ばしていくことが重要であろう。今までの日本の教育は21世紀には通用しないのではないかと憂慮している。これから将来は,いい人材の登用に成功した国が栄え,失敗した国が落ちぶれていく。

4.発明・発見と人間教育

 敗戦によってぺちゃんこになった日本が戦後発展していくためには,新しい工業・産業を興す必要があると考えて多くの人が努力してきた。その中で日本発の工業開発の歴史を見てみると,表1のようになる。
 「味の素」(グルタミン酸調味料)は非常にまれな開発である。
写真電送は外国でやっていたものを日本で改良したものである。当時(1928),京都で行われた昭和天皇の即位式のニュース(写真)を東京にどのようにして電送するかを考えた。ドイツで買った機械を改良して有線写真電送を完成させ,現在のファックスのもとになるものを作った(丹羽保次郎・東京電機大学初代学長)。

 電話通信の分野では,米国コロンビア大学のピューピン教授が開発した装荷ケーブル方式が当時の主流であった。これは電話ケーブルの途中に装荷コイルを挿入するものであった。しかしさまざまな欠点があったのでそれを克服すべく,逆に装荷コイルを電話線に入れない新しい通信方式を開発したのが松前重義先生(東海大学設立者)であった。入れることは進歩で,はずすことは進歩でないというのはちょっとおかしいのではないか。はずすこともまた進歩と考えていいと思う。このように日本ではなかなか日本人の発明成果を認めようとしない。

 日本における磁性材料の研究レベルが高くなったのは,ユーイングが来日して東大の物理に赴任してその研究をしたことが端緒であった。彼は,当時のような発展途上国の日本では,物理学においても世の中に使える研究をやるべきだとの考えを持っていた。その流れの本多光太郎先生の弟子の武井武先生がフェライト磁性材料をつくった。その以前からフェライトは知られていたのであるが,それが磁性材料としていいということは分からなかった。このような研究は,特に戦後の復興に大きな貢献を果たした。戦後の開発を見ると,工業の応用分野の発明は増えているが,基礎研究部門は逆に減っている。

 このような発明家の中には成績のいい方は非常に少ない。例えば本多光太郎先生(1870-1954)を取り上げてみよう。本多先生は愛知県の生まれで,小学校のころの成績は「白痴」につぐ「魯鈍」でビリであった。しかし勉強して東京に行き大学に入りたいといった。現在「愛知用水」といわれているものは,当時,本多先生の父上が財産を投じて作ったもので,そのころは「本多用水」と呼ばれていた。その結果,お金も余裕がなかったので子どもを東京の大学にやることは難しい状況であった。本多先生はそれでも上京して勉強したいとの思いが強く何度か家出をするほどに努力をしたが,ようやく脱出に成功した。そして岡崎駅前の木の下で持ち出した握り飯を食べているときに兄につかまったが,兄が同情して資金的にも援助してくれることになり上京することができた。東京では田中館愛橘先生(1856-1952)の下で昼夜問わずに猛烈に研究をするようになった。

 本多先生の弟子である川口寅之輔先生(明治大学名誉教授)は,「本多先生の勉強(研究)のやり方は,道端を歩いてがま口を拾うが如し」と喩えた。道端でがま口を拾うためには,研究室にいては拾えないから,町に出て歩かなければならない。むやみに歩いていてもがま口は見つからない。がま口を拾おうと思ったら,例えば,駅の出札口などの近くに行く必要がある。また,時間帯も考える必要がある。すなわち,朝白々した頃に行けば,夜中に落ちていたがま口が見つかる可能性が高い。それと同様に,先生は朝,昼,夜と実験を続けたが,むちゃくちゃに実験をやっているようで,実際には何か見ている視点があったのである。その後,本多先生は東京から仙台に移られ,東北大学の基礎を作られた。

 このような本多先生の学風のもとは,英国グラスゴー大学のケルビン卿(ウィリアム・トムソン)(注1)にあった。当時のグラスゴーは鉱山町(石炭)で,町の大半の人が鉱夫として働いていた。炭鉱から石炭など鉱石を運び出すのだが,翌朝になると炭鉱の底に水がたまる。その水を細い坑道を通って桶でくみ上げなければならず,それはかなりの肉体労働であった。それをうまくやるために最初は,坑道の出口のところに車輪を設置してなわをつけ,それを牛馬に廻させて桶をトロッコにのせて引き上げる方法を考え出した。その後蒸気の力を利用して,シリンダーのピストンを動かすことによってくみ上げる方法へと発展した。その原型を開発したのはフランスから帰化したパパン(Denis Papin,1647-1712?)という人であった。さらにその後,ニューコメン(Thomas Newcomen,1664-1729),ジェームズ・ワット(James Watt,1736-1819)へと受け継がれてさらに発展していった。これら3人はみな学者ではなく,町の科学者である。それゆえ彼らには理論がない。経験を元に設計をして生み出した。

 その頃,22歳のウィリアム・トムソンがグラスゴー大学の物理学教授として赴任した。現在でもそうである大学があるが,英国の大学では学科の教授は一人であったので,トムソンが40,50歳のレクチャラーたちを指導して物理学教育と研究をリードした。英国では伝統的に天才的な人間に任せて研究を進める風土がある。

 トムソンは,蒸気機関の理論解析をやり設計できるようにして経験的なものを科学としたのである。また彼は熱力学の法則を作った。彼は産業界で仕事をしつつも基礎研究の部門においてもノーベル賞に相当するような大きな業績を上げた。これが英国およびグラスゴー大学の伝統であった。

 その大学から22歳のユーイング(James Alfred Ewing,1855-1935)(注2)を日本の東大に呼んで物理学教授として迎えた。その研究室からは,高橋秀俊(1915-85),後藤英一(1931-2005),霜田光一(1921- )など立派な先生方が輩出された。ユーイングは日本に赴任したときに,地震の研究をすることを提案した。周囲では反対したが,「日本は地震が多く,それで多くの国民が困っているのに,大学で地震の研究をしないのはおかしい」と言って地震の研究を進め,さらに自ら地震計も作った。本当の学問のあり方をユーイングは,日本に教えてくれたと思う。

 その次に取り組んだのが磁性材料の研究であった。周囲の人たちはもっと理論面の研究をやりたいと言ったようだが,彼は「日本はまだまだ後進国であるから,もっと実生活に密接な分野から研究を始めるのがいい」と言い,磁性材料の研究に取り掛かった。『長岡半太郎伝』(朝日新聞社,1976)によると,「当時,世界の物理の中心は日本に移った」と書かれるほどに,大きな成果をあげたのであった。その研究の原点は,役に立つ学問であった。役に立つ学問をやると,それまでやっていたこととは違った観点からアプローチするようになり,そこからは新たな発見が生まれてくる。ケルビンのやった仕事は,まさにそれであった。新しい学問,地球物理学,地震学,磁性材料,協力現象などが始まったのである。

 当時ドーバー海峡に電線を敷設した英国人がいた。その人は英仏間で電信送信の実験を行ったが,ケルビン卿は英国からフランス側に送るのに,二つの偏微分方程式を立ててどういう状態で電流電圧が電線を伝わるかを理論解析した。それゆえ現在でも通信工学の最初の勉強はケルビンの電信方程式の説明となっている。ケルビン卿はそこにとどまらずに,ケーブル内を流れる電流波型の理論を解析して大西洋横断の電信用海底ケーブルの敷設を企図した。実際そのための予算を英国政府に申請した。英国政府はそれを受理して予算をつけてくれたのだが,最初の取り組みは失敗に終わった。当時の被覆材料は海水を通すために塩分がしみて銅線に緑青ができて折れてしまう。7回予算をもらってチャレンジしたがすべて失敗し,8回目にようやく成功した。一本の銅線を敷設するのでそれを大型船で運ばなければならず,当時世界でも最大級の船を建造することになった。その結果,グラスゴーは造船の町としても発展することができた。大学でやったことを地元にきちっと還元すれば,地域の発展にも結びつくことの証といえる。ケルビンは産学協同をやりながら,いつも新しい学問を育て大きな成果をあげたのである。そのような人の伝統を受けて日本の近代科学が始まったのである。

 教育によって一人,二人の力が大きく発展する可能性を持っている。それゆえ教育はお金をかけて大量に人を動かすという性質のものではない。先述したように一つ一つの発明発見の最初の出発点は一人一人の力であった。長岡半太郎(1865-1950)は,小学校のときに落第しているが,そのような方が世界で最初に土星型原子模型を発見した。しかし,日本では彼の理論はしっかりしていないと非難しおとしめるような人が少なくなかった。それゆえ日本の中でいい仕事をやれた人間には,少しぐらい失敗してもどんどんやらせるような度量が必要である。そのような社会にしていけば,これからでも日本は国運が上向くのではないかと考えている。

 そのためには,ある時期個性を育てることをしなければならない。それで私は東北大学総長を辞める少し前に,500万円の私財を寄付して物理学史を書いてもらうことにした。その歴史を知ってみれば,どれほどの業績を上げてきたのかがわかるので学生たちの自信につながる。発明・発見というのは,ほんのちょっとしたところから大きなものへと展開して行くものだ。そうした歴史を紹介すれば若者にとっても元気が出ることであろう。学生のころ成績が悪くても大きなことを成し遂げた先人たちの業績を知ることで,今成績が悪い学生にも発奮するきっかけになる。それゆえ物理学史を知ることは意味のあることと信じる。入試制度など制度の改革も重要であるが,それとともに学生の意欲を高めることもより重要だ。

5.最後に

 岩手県立大学創設に当たり同学長に就任するに際して,岩手県知事からは「看護と福祉の学部は作ってほしい。あとの二つは任せる」といわれた。岩手の場合は,工業が起こりにくい土地柄であり,資金も少なく若者は県外に出て行く傾向が強い。そのようなところで役に立つ学問は何かと考えたときに,計算機を使う学問ではないかと考えた。計算機を作る技術者の養成ではなく,それを使う技術者の養成を考えた。最近それを中国の大連の大学が早速まねをして,ソフトウェア情報学部定員の約100倍の15000人の大学をつくることになった。中国は新しい動きに非常に敏感であるので,日本はあっという間に追い抜かれてしまいかねない。

 公立大学の一つの意味は,その地方に役に立つ大学であるということだ。それは今度学長を任された首都大学東京においても同様である。中には「東大と同じような総合大学にしろ」と意見する人もいる。しかし,東大は国の大学であり,日本の平均値で学生を養成するが,公立大学はそれに足りないものを補うためにできた大学であるので,東京地方で必要でありながらも国では養成してくれない学生を養成するところに重点があると考えている。ここから新しい学問が生まれてくることは,前に述べた通りである。

 石原都知事に首都大学東京の学長を頼むと言われたときに,あわせてどのような大学にしたいか聞かれた。それで私は,「今後もアジア・アフリカは人口が増えていく。そのためには増大する人口を守り育てる都市,町をいかに作っていくかが重要な課題になる。その意味では,東京の経験はそれらの都市に参考になるので,アジア・アフリカの国々にガイダンスすることが技術的な中心になるのではないか。」と答えた。

 さらに,相手の気持ちを慮ってポリシーを決めていくことも大切だと話した。例えば,新渡戸稲造(1862-1933)が国際連盟を提唱するまでの国際関係は,軍事を基本とするものであった。紛争・葛藤がおきると相談することをあまりせずにすぐに戦闘行為に走っていた。新渡戸は国際連盟事務次長に就任し,初めて話し合いで国際間の問題を解決しようということを提唱した。国際連盟は道半ばで挫折してしまったが,戦後の国際連合へと引き継がれた。このように日本が世界に対して第三の文明をアピールするときではないかと思う。その基盤に,今度の首都大学東京も使わしてもらいたいと言ったのである。このようなことは日本全体も考える必要のあることであろうと思う。

 ところで,以前米国電気電子学会(IEEE)が,私に最高栄誉メダル(IEEE Medal of Honor)授与者としてノミネートしてくれた。米国では授与前にそれを発表する慣わしがあるが,その発表後に日本から私を非難するサインやメールがたくさん届いたという。それで同学会側では,日本に調査員を派遣して実態を調べようとした。まず私を信じて「西澤を推す人を紹介してくれ」と言ってきたが,そうせず「任意抽出して調べてほしい」と言ったら,怒ってしまったのか,帰国しメダル受賞を取り消してしまった。しかしその数年後に,別の「エジソンメダル」が受賞された(2000年)。さらにIEEEから私の名を冠した永久に続くメダルを創設したい(IEEE Jun-ichi Nishizawa Medal)との申し出があり,実際に創設された。

 このように日本では足を引っ張る傾向が強い。外国から評価されてから認めるようなことでは本当に情けない。そのためにも若い人を大きく育てる風土を作っていくことが重要である。こうしたことの根幹には教育問題がある。才能を伸ばすことが教育の中心である。そのためにはちゃんとやれば認められるという公正な社会にしていくことが教育における重要課題である。日本はいまここで教育の建て直しをやらなかったら,今後永久に世界の歴史から消えてしまうことになりかねないと懸念しているところである。(2005年11月12日発表)

注1 Lord Kelvin; William Thompson(1824-1907)
アイルランド生まれ。物理学者。1845年ケンブリッジ大学卒,46年グラスゴー大学教授。イギリスの大学で最初の物理学実験室を作った。66年ナイトの爵位を得,以後Lord Kelvinと呼ばれる。90年王立協会会長となる。絶対温度(ケルビン温度)の提唱,熱力学の第二の法則の発見など熱力学の基礎的研究を行った。また,流体力学,象限電位計・鏡検流計等の考案,大西洋海線電設の敷設,ジャイロ・コンパスの発明など電気工学の確立に貢献した。伊藤博文に乞われてユーイング博士を日本に派遣,大きな成果を挙げた。

注2  James Alfred Ewing(1855-1935)
スコットランド生まれ。エジンバラ大学卒。機械工学者。1878年東京帝国大学理科大学の機械工学教師として来日。大学の構内に地震観測所を設け,地震学の基礎を築いた。磁性材料の研究も行った。88年帰国,ケンブリッジ大学などで教え,エジンバラ大学副総長も務めた。卿の称号を受けた。