中央アジア・トルコ系民族の歴史と平和への展望

歴史家 金子 民雄

 

1.はじめに

 中央アジア地域の歴史というと,日本ではシルクロードを情緒的な側面からみつめる人が多いが,民族問題などを含めた歴史的現実を見ようとする人は意外と少ない。冷徹な歴史的現実の観点からいえば,むしろ中央アジアは昔から「戦争の舞台」であった。最近では,9.11テロ以降,テロ・ゲリラ問題を中心として,この地域は微妙な国際関係が展開し始めている。特に,民族・宗教の問題が相互に絡みあって問題をより一層複雑にしているようだ。

 ところで,この地域の問題を考える上で,最近いわれる「蒙古斑同族の連合」という発想は,なかなかユニークな視点であると思う。中央ユーラシア地域を考えてみると,南のインド・ネパールなどはモンゴロイドではないが,ヒマラヤの北の方は大半がモンゴロイドの国々となっている。ただ同じモンゴロイドでも,中国・新疆のウイグル族はトルコ系民族といわれており,その西方のタジキスタン(トルコ系とイラン系の混血),キルギス,カザフスタン,トルクメニスタン,ウズベキスタンなど,トルコへとつながる回廊のほとんどの国々は,みなトルコ系民族の国である。一説によれば,これらトルコ系民族の原郷はどうやらシベリア方面にあるとも言われているが,その東南方にはモンゴル系民族が広く分布して互いに隣り合わせている。

 現在の国境線を見ると,中央アジアはいくつもの国に細かく分けられており,それぞれ別の民族と思っている人もいるようであるが,実は民族という点から見るとみなトルコ系民族としての共通点を持っているのである。

2.中央アジアの近現代史

 そこでまず,中央アジアの歴史的いきさつを簡単に見ておくことにする。
中央アジア地域には,16世紀以降,ウズベク族の3汗国,すなわちブハラ藩王国・ヒワ汗国・コーカンド汗国などができたが,19世紀になるとそれらは帝政ロシアの支配下に入り「ロシア領トルキスタン」が形成された。そしてロシアは,タシュケントにトルキスタン総督府を置いてこの地域を支配するようになった。ところが帝政ロシア末期,1917年のロシア革命を機に,中央アジアの人々の中からも自分たちの国を作ろうと立ち上がる動きが現れた(トルキスタン人という同族意識をもつ汎チュルク主義運動)。

 ただここまでのロシアは,中央アジアの民族自治運動を抑えるために巧みな民族政策を取って支配してきた。すなわち,この地域の人々の中に知識階級を育てず,さらにはロシア軍にトルコ系民族を徴兵し兵士を育てなかった。それでも1%くらいは知識指導階級の人々がいたので,彼らが主導して自治運動を展開したのであった。しかし,自分たちの軍隊組織も社会的な基盤もなかったために,ロシア革命直後の1917年11月,ムスターファ・チョカエフによりコーカンド共和国の建国宣言が出されたが,ボリシェビキの赤軍にたちまち潰されてしまった。それでもなおのちには,バスマチ団による独立運動が展開された。

 第一次世界大戦中,トルコ(オスマン帝国)はドイツなどの三国同盟側に与していたために,多くのトルコ人がドイツに入って活動していたが,第一次世界大戦の終結(1918)により,オスマン帝国も崩壊した。大戦中からトルコの陸相・参謀総長として活躍していたエンベル・パシャ(Enver Pasha,1881-1922)は,そのころからコーカサス方面への領土拡大を夢見ていた。大戦によるトルコ帝国の崩壊後は,エンベルやジェマルはベルリン・モスクワを行き来しながら,中央アジアにまたがる新トルコ帝国の再建を夢見て(トルコ語を話し,回教を信じる人々の国)活動を展開した。エンベルは中央アジアに勢力を伸ばし,バスマチ団を率いて一時はタジキスタン全域にまで至ったが,1922年8月タジキスタンでボリシェビキの赤軍と戦い戦死した。その結果,トルコ民族独立国家建設の夢ははかなく消えていった。

 当時,ソ連は,レーニン(1870-1924)が指導しており,混乱期には民族独立をちらつかせうまくトルコ系民族を利用していたが,体制が確立する過程で却って彼らを弾圧・排除するようになった。つまり,この地域にトルコ系民族がひとまとまりになって大きな国家を作られてはソビエトの脅威になることを恐れ,その対策として小さな民(部)族の単位に領域を区分して統治することを考えた。1924年に「民族・共和国境界画定」がなされて中央アジアに5つの共和国が成立し,民族独立の動きは一応終止符が打たれることとなった。

 1924年にレーニンが死亡し,その後スターリン(1879-1953)がソビエトの権力を握った。スターリンはコーカサス出身のグルジア人であるから,この地域の民族のことを熟知しており,それを反映した政策をとって統治を始めた。

 第一次大戦後,トルコでは,ムスタファ・ケマル(Mustafa Kemal,1881-1938)が1920年に大国民議会を招集し,ギリシアとの戦争に勝ち,エンベル亡きあと23年10月には共和国を宣言して初代大統領に就任した。彼は,政教分離やトルコ語のローマ字化,婦人の解放など近代化・世俗化政策を推し進めた。特に,トルコ文字(アラビア系の文字)からアルファベット(ラテン文字)を使ったトルコ語表記の政策(1928)は周囲に大きな影響を与えた。もしそのような流れが,中央アジア諸国にまで波及し,中央アジアのトルコ系民族がみな同様な政策を取っていったとすると,これらがパン・トルキズムの大同団結する恐れがあるため,ソ連は同じアルファベットを使うならロシア文字を使って表記するように指導した。それによってソ連内のトルコ系民族とその周辺国家(特にトルコ)との間に(言語自体は同じトルコ系言語でありながら)文字の上でも国境線が引かれることとなり,民族統一は分断されてしまったのである。

 このような体制によってつくられた中央アジアの政治状況は,ソ連崩壊の1991年まで60年近く続いた。

3.中国内の民族問題

(1)ウイグル族
 世間では余り知られていないが,新疆のトルコ系ウイグル族は,第二次世界大戦が終わる直前の1944年,イリ(グルジャ)での反乱をきっかけとして「東トルキスタン共和国」を宣言した。この事実は,現在の中華人民共和国では一切歴史に記載されていない(但し,当時は中華民国)。44年8月にイリで蜂起が勃発したのを皮切りに,11月には東トルキスタン共和国臨時政府が成立した。中華民国の省政府軍が反乱軍に対し劣勢となったために,国民党はソ連の仲介を得て反乱勢力と和解交渉を始めた。その結果,46年に両者間に新しい新疆省政府が形成された。しかし対立は続き,47年新疆省政府が崩壊した後も,反乱軍は同地域を支配して抗戦した。その後,49年に,人民解放軍が進撃するのを契機として,毛沢東は話し合いの名目で反乱軍の主要な指導者を招請した。彼らを乗せた飛行機が北京に向かう途中,飛行機は消息を絶ち,それによってこの国は幻の独立共和国となったのである。

 中国側の東トルキスタン(西域)を含めた中央アジアの歴史を見てみると,民族間の暴動がだいたい60年周期で起きている。この地域の民族紛争は,ひと度対立すると相手の民族を大虐殺して終息することが多い。皆殺しというのは,日本的発想からは想像もできないことであるが,彼らは婦女子・子どもをも含めてほとんど皆殺しにしてしまう。もし殺さずに助けて生かしておいた場合には,生き残った人によって今度は自分たちが殺されると恐れるからなのである。そのような虐殺後30年(一世代)ほど経過すると,再び子どもが生まれて成人し民族の衰勢を回復する。さらに30年経過すると,完全に元に戻る。それで60年周期の暴動が起こると考えられる。

 1930年代初めに,新疆のウイグル族の大虐殺があった。その60年後,1990年4月に,カシュガル南方でウイグル人民衆による示威行動と官憲との衝突事件が発生した。実はそのとき,私はユネスコの人たちを連れて新疆地域に出かける予定だった。ところが私たちが出発する直前(4月)になって,同地域で暴動が起きた。こういうときこそ現地に訪ねてみる必要があると強く感じた私は,様子を見て行くことを強行した。幸い中国政府軍が暴動を鎮圧して沈静化したので,なんとか現地を訪ねることができた。その後,静かになってはいるものの,現在でも水面下では小さい紛争やその蠢動が絶えず起きているようだ。

(2)9.11テロ以降の変化
 2001年の9.11テロ以降,中央アジア地域の政治情勢は大きく変化した。タリム盆地の南西端にホータン(和田)という絨毯で有名な町がある。絨毯は高級品であるので,中国国内ではそう売れるものではない。そこでこの町の絨毯業者たちは,カラコルムの峠を越えてパキスタンに運び出し,それを「サマルカンド絨毯」としてヨーロッパ方面に輸出して儲けていた。ところが,9.11テロ以降,カラコルム越えの交易を中国政府が禁止したため,ホータンの絨毯業者は壊滅的打撃を受けた。商売上のことだけを考えれば,国境を閉じる必要性は全くないのであるが,オープンにしておくとパキスタン側からゲリラが中国内へ侵入してくることを恐れたのであった。ゲリラが中国内に入りウイグル族の独立派と結びついた場合には,大変なことになる。中国政府は,そのことに大変な神経を使っている。中国が現在,本土からの交通網の整備(鉄道,道路)を始めとする西部大開発を急いで進めているのは,それを通して軍隊の移動もすみやかにするためなのである。それゆえ,新疆周辺の国境管理をかなり厳しく行っている。

 私は9.11のNYの事件のあった翌々日,インドからカシミール,西チベットを旅したが,このときは至る所が静まりかえっていた。ところがその翌年,パキスタン,アフガニスタン国境地帯に入ってみると,その反動が大きく,すでにバーミアンの石仏すら破壊されてしまっていた。

 また,最近のアフガニスタン,イラン,イラクの国際問題は,直接・間接にすぐ中央アジア諸国に影響が及ぶので,それに対しても中国はかなり神経を使っている。民族だけではなく,イスラム教によって連帯しているからだ。

 カザフスタン,ウズベキスタン,キルギスには,現在,アフガンゲリラ対策を主たる目的として米軍が駐留している。ところが,少し前にウズベキスタンが駐留米軍の撤退を要求し始めた。それは米軍がいることによって,かえってテロを新たに呼び寄せる可能性があり,それを恐れてのことであった。

 2001年6月に,ロシア,中国,中央アジア4カ国(カザフスタン,ウズベキスタン,キルギス,タジキスタン)によって上海協力機構(SCO)という国際組織が創設された。この組織の第一の目的は,テロリズム,分離主義,過激主義,ゲリラなどへの対処であり,国家の枠を越えてテロ組織や過激派活動が展開するのを連携しながら共同で対応することを狙いとしている。例えば,新疆のウイグル族で暴動が起こるとすると,それはキルギス,カザフスタンなどにもすぐ波及する恐れがあるので,そのようなことがないように協力して取り組むことにしたのである。その後,インド,イラン,パキスタンが準加盟国として正式に批准されており,今後,この組織がこの地域で威力を発揮することになるだろう。

 1990年代の半ば頃だったろうか,日本で,財界・マスコミ人を含めて外務省幹部が主導して中央アジアのキルギス,カザフスタンを視察訪問したことがあった。それは,中央アジア諸国に対する日本の援助(ODAなど)の有効性を問うための視察とのことであった。そのとき私にアドバイスを求められたので「中央アジア各国はトルコ系民族であり,日本に対して親近感を持っているので,是非援助をしてやって欲しい」と話した。その後,日本から援助をするようになり今日の関係へとつながっている。ただ,中国はそうした日本外交の動きを座視することが出来ないかも知れない。このように中央アジア地域は,国家間の影響にも極めて微妙な情勢となっている。

(3)少数民族
 今春(2005年),中国での反日デモがさかんに報道されたが,中国の内部から見ると別の見方ができる。一般には,漢族の人たちが中心となって反日デモをしていたが,中国内の少数民族の動きについてはあまり日本では報道されないのでよく知られていない。しかし,実際そのような人々の本音の部分に耳を傾けてみると,彼らは漢族の反日の動きに完全に同調しているわけではないようだ。つまり,反日デモで日本に対して投石する漢族の後ろで,彼らは漢族に対して石を投げたい思いをもっているというのだ。内蒙古のモンゴル族,満族,チベット族,ウイグル族,雲南地方の少数民族などの漢族に対する恨みは日本人の想像を絶するものがある。これは現地での私の体験による。

 その意味でも,漢族の周辺のいろいろな民族が,モンゴロイドという共通項もその一つであるが,平和のために手を取り合って協力することが出来るようになれば,真の意味で中国国内の民族問題も解決に向かうことになるだろう。

(4)援蒋ルート
 現在,中国政府は国際河川メコン川の戦略的価値を認識し,メコン川の開発に積極的に乗り出している。中国には,メコン川を通じてラオス・タイ経由でさまざまな物資が入り込んでいるが,このルートの辺りは,かつて「援蒋ルート」と呼ばれたものであった。

 先の大戦中,日本の侵略を受けていた中華民国の蒋介石を援助するために,まずシルクロード経由での援助ルートが考えられたが,北方が日本軍に抑えられていたので,南方からのルートとして,このビルマ経由のルートが開発されたのである。これは雲南省の昆明からビルマに至る道筋である。

 このルートは,古く歴史を振り返れば,前漢の張騫の時代にまでさかのぼる。張騫が西域の大夏に出かけたとき,その地域では産出しない竹杖と蜀の絹布を持っている商人を見かけた。そこで彼に「どこから手に入れたか」と尋ねると,「インド方面からだ」との返事であった。それで張騫は,西安から雲南を経由してビルマからインドに至る道の存在(蜀とインドをつなぐルート)を感知し,そしてそのルート開拓の策を武帝に進言した。しかし,実際には,当時この地域の渓谷が深すぎてキャラバン隊が渡れず,メインルートとはならなかったようだ。

 その後1983-4年ごろ,雲南省からビルマに至る古道で石碑が発見された。その石碑に記された文章の内容によって,このルートの歴史的意義が再確認されたのであった。たしか1990年頃,雲南省とラオス・ビルマ(ミャンマー)の国境がオープンになったとき,私も現地を訪れる機会を得た。そのとき,ガイドがなんと古い「援蒋ルート」の道を案内してくれた。このルートを使って,現在,中国政府はミャンマーの軍事政権を援助しているという。しかし当時の中国政府は,このルートの重要性にはあまり気づいていなかったようだ。

 1989年に天安門事件が起こり,弾圧された民主派の人たちが逮捕され,大半の人たちは国外に逃げることが出来なかった。実は,彼らのうち幾人かはこのルートを通してビルマ(現ミャンマー),タイへと国外に逃げられたのである。私はこのとき北タイにいた。このルートを最初北京政府はよく知らなかったようだが,やがてこの地域の戦略上の重要性を強く認識し,現在ではこの地域の戦略的価値を考えて積極的に介入し始め,東南アジア諸国を中国の支配圏に組み込もうとしている。

4.平和への道

 現在,中央アジア全体を正確に理解しようとすれば,従来の中国研究だけの視点では難しくなっている。例えば,上海協力機構ができ,トルコまで含む地域が一つの域圏になると,トルコ系民族の文化圏に関することも知らなくてはついていけない。そうなると中国研究だけでは手におえないだろう。

 1991年12月にソ連が崩壊した直後,モスクワから中央アジア地域を訪ねたことがあった。そこは1917年のロシア革命以上の大混乱状態であった。長年中央アジアに住み慣れたロシア人たちは,その後のロシアに帰ろうにも帰ることができない。ちょうど日本にいる在日の人たちと同じ立場だ。彼らに聞くと中央アジア地域に住むロシア人の2世,3世たちは,他の民族の人たちから一種のいじめ,差別を受けるようになったという。これらの国々でも文字はそれまでと同じくロシア文字(キリル文字)を使っていたが,政府で使う言葉自体がそれぞれトルコ系の言語に代わったために,彼らは言葉の面でも疎外された立場に陥ってしまったのである。第一意味が通じないのだ。

 これからの世界は,このように民族と宗教が大きな問題になってくるであろう。それを解決する道をどこに求めるか。数年前の米国によるイラク戦争の件にしても,米国の論理でことを推し進めたために,いまだに真の解決には至らず,最近のロンドンのテロ事件に見られる如く,泥沼状態に陥っている。しかし,中東地方の伝承文学である「アラビアンナイト」を読んでみれば,その解決の道が象徴的に描かれていることを発見する。伝統の智恵を学ぶことによってのみその民族の魂を知ることが出来,そこから真の世界平和の道を探ることが,いま求められているような気がする。(2005年7月29日)