教育の崩壊
―大学教育の醜態は,初等中等教育の崩壊に起因する(下)

九州大学大学院元教授 藤原 昇

 

3.大学教育の現実とその原因

(1)大学教育の醜態
 つい最近の出来事であるが,筆者がお世話になっている大学で,信じられない事件が起きた。これを事件と表現するには,若干の抵抗はあるが,真実を紹介してみたい。筆者は,これまでの国立大学でも同様であるが,最初の講義の前に「入門試験」を行い,学期の中途で突然の「中間試験」,そして期末の「定期試験」の3回の試験を行うのを主義としている。また,この3回の試験を受験しないと,「合格点」(>60点)は取れないことになっている。

 そこで,この入門と中間の2つの試験,あるいはこのどちらかを受験していない学生のために,別途試験を行った。この際,約120枚の試験問題(解答用紙)を準備した。そして,途中で用紙が足りないために,筆者がコピーをしている間に,幾人かの学生が姿を消した。そして,最終的には78枚の用紙が返ってこなかった,という事態が発生した。事態を好意的に解釈して,翌日でも解答用紙を持参する学生がいるかもしれない,と思って待ったが,それきりであった。読者諸氏は,これをどのように理解されるか。

 筆者は,すぐさま教務主任の教授のところに報告にいったが,その対応と解釈の仕方が,筆者の想像を超えており,目前の事態に目と耳を疑ってしまった。これが私立大学の現状なのだ,と納得し,非常勤の中途であったが,それ以後の講義は休講とした。学生が学生なら,教師も教師,これが私大の現実かもしれない。

 今,世間では,受験産業による学生の「偏差値」と「大学のランキング」が大々的に報じられているが,これも全く無意味ではない。筆者が,以前お世話になった国立大学の場合には,この数値によって,クラス分けされて受験するので,入学する学生の能力に,それほど大きな差異はない。

 しかし,私立大学の場合には,この大学入試センター試験を受験していない学生が多く,また中には故意にセンター試験を嫌って,私立大学を受験する学生も多いために,学生の能力間にかなり大きな相違が見られる。したがって,俗に言う「ピン」と「キリ」の学生の能力の差は歴然としている。それが,私立大学の場合,大きな問題として残っている。さらに,今後は,この傾向が強くなり,「キリ」の学生が集中する大学が多くなることは否定できない。もし,そのような時代が,本当に到来したならば,我が国の大学教育は,体をなさなくなるであろう。

 そういえば,筆者が以前お世話になった私大で,極端に厳しく,授業中の私語を禁止したことがあった。それは,想像を絶するものであったが,私語が「ゼロ」にはならなかった。そこで,「ありとあらゆる手段」で,クラスの約2/3(70人前後)の学生を選び出し,彼らには「期末試験」の「受験資格なし」ということを告げ,その時から,講義に出席できないという非常処置をとった。しかし,宣告を受けた学生達から,一言も「文句」がでなかったのには,びっくり仰天した。彼らは,「何の目的」で,筆者の講義を受けていたのであろうか。級友はいった。それは筆者の講義が,ちょうど2時限目(10時半頃)にあったからだという。時間が空いていたので,無造作に受講票を出しておいただけ,とのことであった。あわよくば単位でも取れれば,という態度らしい。

 私学では,受講生が多いのは,講義に「人気」があるからだ,と聞いていた筆者には,大きなショックであったが,じっくり考えてみて,妙に納得した。これが,今の学生の本質であることを知らされた。したがって,現在の学生は,自分が受講している講義の正確な科目名と担当教授の名前も知らない。驚くべき大学生だ,と思うのは筆者一人であろうか。

 これに関連して,同大学に勤務する友人教授はこう付け加えた。学生に余り厳しくすると,刺し殺される,という信じられない言葉が,彼の口からでた。しかし,後日,別の大学で起こったある出来事から推測して,これは真実だ,と分かった時,背筋がぞっとし,これは大学ではない,ということを確信した。

 このような現実を考える時,それぞれの大学に相応しく,入学してきた学生の能力にあった教育内容で講義を行い,大学間に差はあっても,卒業後,様々な分野で活躍できる若者を輩出する,という仕組みを確立する方が,賢い方法かもしれない。したがって,「玉石混淆」あるいは「味噌も糞も一緒」という教育スタイルは,姿を消すであろうし,消えてもらわなければ,我が国の大学教育は「看板に偽りアリ」という事態にもなりかねない。

(2)最近の大学教育の現状
 筆者は,国立大学を定年退職して3年目,私立大学と短期大学で教鞭をとっている。いま,大学教育で大きな問題となっている授業中の「私語」「携帯電話」「お化粧」など,私学の実態を目の当たりにしている。これに関しては,問題の本質が何なのかを全く知らない人が多い。しかも,これらの対策に多くの大学が悩み,それなりの手段で対応しているが,彼らの方法は少し的はずれである。

 また過日,こんな話を聞いた。アメリカの友人のお嬢さん(大学4年生)が,東京の有名私立大学へ交換留学生として来日し,講義に出席して驚嘆したという。それは,大講義室で,マイクを片手に,百数十名の学生を相手に,単調な講義をする,という光景である。しかも,講義内容は低く,多くの学生は「私語」をしたり,「携帯電話」でメールをしたり,女子学生は「お化粧」したり,とアメリカでは考えられない光景に遭遇した。こんな大学に嫌気がさして,1年間の滞在予定を変更して,半年で帰国した。

 この話に,筆者は何も驚かず,これが日本の大学教育である,と言ったら友人は唖然としていた。この情景は,日本の大学の縮図である。このことはまた,私立大学だけの問題ではなく,国公立大学でも大同小異である。このような教育環境では,どんな学問も,学生の知識となって身に付くことはない。 

 加えて,最近では「学生による授業評価」という不思議な制度が導入されつつある。この目的は何なのか,理解に苦しむ。学生の意向のままに教師が動くのではなく,実力のある教師の教育指導方針で,学生はどのように教育されているのか,それをチェックすべきで,程度の低い学生の評価によって,教師が左右されるようになっては本末転倒である。文科省の考えている高等教育の意味を理解することはできない。

 また,ごく最近耳にしたのは,私大の工学部にも,分数計算ができない,プラスマイナスの計算も覚束ない学生が多い,ということである。しかし,これらの問題も,原因は義務教育にあり,小中学校の算数を完全にマスターしていないからである。このような大学生が増えるから,常識はずれの醜い大学教育の現場が出現する。義務教育を徹底しておれば,高校あるいは大学の講義に,これほどまでに,無駄な時間と労力を費やすこともなくなるはずである。

 正直なところ,今の大学生の中には,能力は中学生か高校1〜2年程度の者も数多くいる。確かに,彼らの能力は低く,例えば,自分の考えを文章にすることが出来ない,漢字が書けないなど,例を挙げれば枚挙に暇がない。このような,想像を絶する悲惨な大学の現実があることを,外部の人達は誰も知らないし,このような事実を表面化する大学人もいない。

 数年後には,高校卒業生が,希望すれば,何処かの大学には入学できる時代がやってくる,と言われている。もし,これが現実となれば,大学はいま以上に,程度の低い学生で充満し,すさまじいキャンパスとなることは必至である。

 少し前の新聞に,法科大学院の外部査定(評価)の問題が,論議されていた。その中で,学生の能力に応じて云々,という下りで,試験問題の解答に,2〜3行しか書けない学生がいるのは,問題が難しいからだ,という意見があった。もし,そうだとすれば,内容を下げる,すなわち程度をさげて対処することになり,向上するものは何もなくなってしまう。これでは,悲惨な大学教育が求められているような気がしてならない。

(3)大学教育崩壊の原因は初等教育にあり
 このように書くと,いかにも大学に全ての責任があるように思われるが,実は,その根源は小中学校の教育にある。漢字が書けない,分数計算が出来ないのは,中学校の国語と数学の教育が不十分なためであり,大学教育の所為ではない。また,今の大学生の中には,国語辞典や英和辞典を,満足に自分で引くことができない者もいる。これも中高時代に習得すべきもので,大学の教師が指導することではない,と筆者は思っている。

 ある時,筆者は,期末試験で,当然漢字で書くべき箇所を「ひらがな」で書いた場合には減点する,という奇妙な忠告をしたこともあった。しかし,現在では,携帯電話に漢字変換機能がついたものもあり,教師は「打つ手」がなくなってしまった。やるせない焦燥感に駆られるが,時代の流れ,と諦めるしか,道はないのだろうか。

 したがって,いま巷で問題となっている大学教育の諸問題も,その原因は小中学校の義務教育の不備(不十分)にある,ということを明確にする必要があり,そのための根本的な対策を講ずることが先決である。これは,単に学校だけの問題ではなく,社会的課題なので,大学卒業者が就職する際には,日本人として最低限身につけて置かねばならない,基礎的なものを知る方法を徹底してほしい。今(少なくとも2004年の独立法人化前)の大学では,このような事態に対処する,という価値観を持った教師は少ないので,大学での解決は望むべくもない。

 筆者も退職後の人生を教育に賭けると決意し,上記のような諸問題と真剣に取り組んでいる。つい数カ月前であるが,この重大な問題について,何が原因なのか,ようやく理解することができた。講義を聞かない学生は,授業の内容が理解できない。彼らはふざけているのでも,教師を侮っているのでもない。小学校1年から高校3年までの12年間を,ずっとこの調子,すなわち十分に理解できいまま,進級し卒業してきた連中である。人間にとって,分からない話を,我慢して聞くほど苦痛なものはない。それで,彼らは「私語」や「携帯」や「化粧」で時間を過ごすのである。このような迷惑行為は,教室外ですべきだ,という意見があるが,学生には,授業には出る,という本能が備わっているために,教室にいなければ,精神的に不安なのだ。

 また,よく見かける光景で,早朝一時限目の講義でも,教室の前方で堂々と居眠りしている学生も不思議である。彼らも,講義室で眠る,というのが条件反射となっている。これらは,現代の学生が持っている特異遺伝子によるもので,根本的に解決するためには,教師自信が,大学教育に対する価値観を変えなければならない。

 このような状況から判断すると,冒頭で述べた「落第小学生」とはどんな生徒なのかは理解されるはずだ。小学生時代から,授業が分からないまま落第させられて,誰が,何時,何処で,彼らを再教育するのか。義務教育というシステムのなかで,そのような暴挙が許されるのか。クラス分けしてでも,理解できない生徒に,どのようにしたら解からせることができるのか,徹底的に討論し,具体策を示すべきである。「落ちこぼれ」生徒を教育することが,「真の教育」であるはずだ。

 また,筆者はこれまで,私大や短大で,彼らの答案は,中学生でも書けるような内容で,大学生らしい内容にしなければ駄目だ,という趣旨の説明を幾度となく行ってきた。ところが,最近になって,これらの学生は,中学生程度の能力しかない,ということに気づいた。つまり,現代の大学生で,「キリ」に属する学生の能力は,予想以上に低いというのが実態である。これまで,筆者は学生を大学生である,と思いこんで,それなりの講義をしてきたが,これが大きな間違いであった,ということに最近気づいた。このことはまた,上述したような,現在の小学生の教育実態から,講義が解らない大学生が大勢いる,ということを証明したことにもなる。

 したがって,今,ことさら大学生だけを「やり玉」にあげるのではなく,諸悪の根元は小学校教育にある,ということを,親子,そしてなによりも教師自身が認識し,対策に真剣に取り組まなければ,取り返しのつかない学校教育になってしまう。しかし,その具体策についての妙案は何もない。もし,実現可能ならば,アメリカのように,科目によっては学年をオーバーラップして,能力が同程度の学生を集めて授業する,という方法もある。これが最も効果的な現状打開策だと筆者は思っている。

 現在では,小学校入学以前から,学外(塾)で学ぶ生徒が多く,しかも学外での講義の内容が高いので,学童によっては,学校の授業が物足りない場合もある。最近では,学校が面白くない,という小学生もいるらしい。確かに,「玉石混淆」の教育は,良いことではないが,教育システムを変えれば,効果的な教育にすることはできる。いま巷では,大学生の講義受講態度だけが,大きな社会問題となっているが,実は,それ以前の義務教育のシステムや方法に,根本的な問題があることは先に述べた。この問題を,親や教師が再確認し,その解決に乗り出すことが先決である。

 一方,筆者は,現在のゆがんだ教育全般に関する「悪の根元」は,「大学入試」にあると信じて疑わない。それは,大学入試を簡単にして,大学の卒業を厳しくすることである。このことは,全ての大学人が分かっているにも拘わらず,実現できないのは何故か。とくに,国公立大学で,これを実現しないことには,話が前に進まない。それは,国の方針が定まらないからである。

 長い間お世話になった,大学の一教師として,このことを最大の改革テーマとして取り組んだが,徒労に帰した。それは,多くの大学人,とくに国立大学の教師達が,保身のために凄まじい防波堤を築いたからである。

 ご存じのように,米国では,以前から「入学はし易く卒業はむつかしい」,という大学教育を展開している。我が国でも,実現できないことはないはずである。「人生とは勇気ある冒険」という名言が,なかなか実現しないところが問題で,「リスク」を恐れている大学教師が余りにも多い。大学が「象牙の塔」から脱皮して,世に開かれた高等教育機関として,その実態をさらけ出せば,世人の多くは,その進行方向に目をやり,大きな声援をおくることは間違いない。

4.教育の原点:父母と教師

(1)人間対人間の真剣勝負
 この頃,連続して起こっている,小中学生による理解に苦しむ色々な事件の主な原因は,色々あると思われるが,根本は家庭と学校(教育)にある。人間が生きていく上で,最も大切なことは何か,について,教師は,どのように子供達に教えて行くのか,その模索から開始すべきである。

 これらの事件を,「死」の問題としてではなく,生きることの根本問題であるということを認識すべきである。時として,小学生を相手に「死」について討論する,という愚行が行われるが,これは少しピントはずれの感がある。「死」よりも先に「生きること」の意味を体験させることである。

 それは,それぞれの家庭で,家族全員が懸命に生きている,という実態をさらけ出すことから始まる。それには,まず父母が,自信をもって見せられる「背中」を持つことである。子供の教育は,まず家庭から始まるべきである。生後間もない頃から,託児所や保育園に預け,忙しく共働きをするような家庭から,正常な子供が育つ訳がない。専門家は,これで子供の脳の発達が異常になる,ということを科学的な実験によって証明している。

 筆者は,教育とは何か,という問いに対して,最近ようやく自分なりの考えを述べられるようになった。これまで,「教育」とは「教えること」である,と思っていたが,これが間違っていることに気づいた。教育とは,学生に「理解さ(解ら)せること」である。ただ単に,黒板に何かを書いて,それを説明して暗記させる。そして,学期末に「定期試験」を行い,適当に点数をつけて合格させる。これが,典型的な日本の教育(講義)スタイルである。これは,暗記力のテストであって,理解力や思考力を求める試験ではない。

 現在の大学生は,小学校1年から高校3年までの12年間,これと同じパターンの繰り返し授業(講義)を受けてきた。これでは,人間の思考力が向上するはずがない。学生が自分で考える,という授業が行われてこなかったからである。

 筆者は数カ月前思いがけない体験をした。講義中「私語」を止めない数名の学生がいて,毎回注意することを繰り返していた。期末試験が近づいたある日,講義終了後,これらの学生が,講義が全然解らないので補講してほしい,と申し出た。信じられない光景であった。昼食の時間に,彼らと向かい合った。講義の基礎の基礎も全く知らない連中であったが,根気よく説明を繰り返したところ,少しずつ理解し始め,あっという間に2時間半が過ぎた。この補講を数回繰り返して期末試験を実施したところ,全員が合格点を取ったのには驚いた。初めて「これが教育だ」と確信した。このことは,国公私立の区別なく,現代の大学生に共通する重要な問題である。

 また,先日,同大学の講義で,私語に夢中な,ある2人の学生に質問したところ,講義が全く理解されていないことに気づいた。そこで,筆者は開き直って,この2人に徹底的に質問をした。最初の講義に関することから,今,板書された事項について,ヒントを与えながら,気長に質問を繰り返した。そして,やっとのことで「正解」をしてくれた。この直後に,毎回行っている「ミニテスト」を実施したところ,25名全員が「5」(5〜0採点)をとった。全員が正解したのだ。筆者の長い教師生活で,初めて「全員満点」という奇跡を体験した。終生忘れることのできない,大学の講義となった。これぞ,筆者が求めていた「真の教育」だ,と実感した瞬間であった。

 この二つの体験は,教育とは,徹底した指導,すなわち「いかに理解させるか」である,ことを如実に物語っている。このような教育(講義)実験を,筆者は至る所で行っているが,その成果は確実にあらわれる,という自信を持てるようにまでなった。教師が体当たりでぶつかれば,どんな学生でも必ず反応してくる,ということを確信した。すなわち,教育とは,人間対人間の真剣勝負である。

(2)実体験に基礎を置く教育
 このような現実を踏まえて,小学校1年生から,教育の重要性をどのように理解させるのか,具体的な方策について,誰も名案を出すことはできない。また,そのための努力もなされていないのが我が国の実態である。これを解決するためには,まず教師がしっかりしなければならない。そのためには,どうしても,優秀な教師が必要である。では,優秀な教師とは,それは寝食を忘れて,教壇に立ち,いかなる難題にも,体を張って立ち向かう,という心身共に健全な人間である。それは,必ずしも大学の教育学部あるいは教員養成大学に学んだ人ではなく,彼らのこれまでの人生で,最も大きな影響を受けた師の実像を描ける人物である。教師・教育の夢が語れる人材が必要なのだ。教育に必要なものは,理論ではなく記憶に残る実体験である。

 40年前のあの日,農業高校の校長と面接した時,筆者の手をとって,こんな色白の手で農業高校の教師ができるのか,と問われた。教育は「手」ではなく「ハート」です,と切り返した若き日の自分が今はなつかしい。

 教師の力量とは何だろうか。教師を採用する側の態度が,その国の教育を左右する,と今でも筆者は思っている。その国の盛衰は,一にかかって教育にある,と自認している筆者にとって,今の小学校教育は余りにも無様である。教育が荒廃している,と言われて久しいが,その回復の兆しも見えないまま,路頭に迷っている我が国の教育の実態を,目の当たりにして,絶望の断崖に立たされている心境である。

 2005年正月の新聞でまた,「理数科離れを防ぐ!」ための教育について云々,という記事があった。この記事を見ながら,以前「ボランティア」学習について云々,という報道を思いだした。我が国の文科省は,どうして,このような発想しかできないのだろうか。人生に関する全ての事項を,教科目として設定しなければ教育ができない,と思っているところに重大な誤解がある。

 上記した2点の問題は,カリキュラムに,関連科目があるか無いかではなく,生徒自らが,自然とこれらに気づくように教育することによって解決されるもので,科目を定めて強制的に行わなければ,実現できないことではない。さらに調査すれば,理数科系だけでなく,それ以外の科目でも,学生に興味のない科目が「わんさと」あるはずだ。科目に設定しなくとも,生徒自ら,進んでこの科目を勉強したい,と思うような授業を行うのが学校で,全てを科目にして,生徒に強要しても,彼らは,決してその科目に興味を持つことはない。

 また,「ボランティア」などは,教科目として設定することこそ,想像を絶する事態である。これほど実体験が必要な事柄はない。学校に在籍しているうちに,自ずと「ボランティア」的仕事がしてみたい,と思うようになる,そんな学校を創造して行くべきである。
生徒が興味をもち,勉強するようになるのは,授業科目にあるからではなく,学校にいる間に,いつの間にか,自分で学んでみたい,あるいは,あそこで仕事がしてみたい,という風に,いつの間にか彼らの心が動かされるような学園にいる時である。そのような学校を創り上げることが先決である。この国の教育行政とその指導体制に,どうすることも出来ない甚大な欠陥があることを,改めて知らされた。

(3)不登校の真の原因
 また,新春早々,「不登校学生・高校中退者」に関するフォーラムに参加して,大きな発見をした。実体験に基づいた講師の基調講演も興味深いものであったが,それにも増して,筆者が驚いたのは,フォーラムにパネラーとして登場した不登校経験のある現役高校生の態度と発言内容であった。彼らは,フォーラム用に選抜された優秀な学生であったかも知れないが,それにしても,お見事であった。彼らが学んでいるこの学園は特殊で,今流行の「不登校学生・高校中退者」を教育するための特別の高校で,全日制の他に,定時制,通信制,など,様々なスタイルで,高校教育を行っている。現在,このスタイルで教育を行っている高等学校が,全国津々浦々に創設され,人気を博している。

 筆者は,この学校を時々訪問しているが,学生の態度が,通常の高校の生徒と,大きく違うことに気づいた。例えば,校内のムードが,いかにも家庭的で,温かい感じを受ける。教師と学生が一体となって,教育実践に取り組んでいる。これが真の教育の場である。
通常の高校は,いわゆる「十把一絡げ」式で,1クラス40人前後,一律に授業をする,という古来のスタイルそのままで,理解できようが出来まいが,同じスピードで進行する,という我が国の典型的な教育体系である。これでは,理解できない学生は,落ちこぼれるしか道はない。これが,今の日本の教育の最大の欠点で,「教育の二極化」が進む最大の原因である。この状態が,小学校から高校まで続き,最後まで不消化のまま,大学まで進学してくるのが問題の大学生である。

 それでは,真の教育とは何か,という問いにどう答えていくのか,まだ解決策はないが,既に述べたように,「全ての学生に理解させ」ることだ,と筆者は考えている。そのためには,学生の能力(学習習熟度)によって,「マンツーマン」に近い方法で対処するしかない。しかし,これは非常に難しい問題で,最終的には,学生の「個」を大事にするという発想が必要となり,しかも,そのように学生に接すれば,学生は,何でも教師と相談するようになり,人間と人間の心の触れ合いが芽生えるようになる。

 当日,彼らが,どうして「不登校生・高校中退者」になったのか,それぞれの体験を正直に語ってくれた。また,それをどのように克服し,現在の自分があるのか,など色々な話をした。克服の過程における心の動きにも感動した。何よりも,彼らの発表態度と表現の豊かさに驚かされ,彼らは決して「落ちこぼれ」学生ではないことを再確認した。

 筆者が最も驚いたのは,彼らが「不登校生」あるいは「高校中退生」になった時,またはその直前,教師がほとんど注意しなかったことである。なぜ,教師は,この問題に真剣に取り組まないのか。なぜ,逃げるのか。先に述べたように,現在の教師の質が問われる所以が分かった。「不登校・高校中退」生徒の問題については,とくに教師の資質が最大の要因で,まず,これから解決することが必要である。

 いずれにしても,教育の原点は,父母と教師の二人三脚あるいは三人四脚である。このバランスが崩れた時,生徒の側に,異常な思考と行動が見られるようになる。心の教育は,決して学校だけに起因するものではなく,学校と家庭が一丸となって邁進する時,初めて実現するものである。

5.最後に:教育の近未来

 我が国の教育は,小学校から大学まで,完全に崩壊してしまった。これが回復不能なのか,それとも復元できるのか,その打開策はまだ見つからない。しかし,国家の繁栄と滅亡は,その国の教育程度の如何にかかっている。一昨年に勃発したイラク戦争で,アメリカは,終戦後の復興は,日本がお手本だ,と公言したが,現実は全く逆で,今も内戦状態は続いている。なぜか。それは,国民の教育の差である。人間にとって,最も大事なことは,勉強すること,すなわち教育を受けることである。名誉や金や地位は,人生にとって,それほど重要ではない。なぜならば,これらは,生きて行く過程で,いとも簡単に消滅することがあるからだ。しかし,身につけた知識や資格は,どんな事態が起こっても,終生失われることはない。それ故に,教育は重要なのだ。そのためにも,国の教育行政と指導体制の充実は,極めて重要で,それに対する政策は,決して誤ってはならない。

 21世紀は,人類のみならず地球全体が曲がり角にさしかかっている状態である。舵取りを誤らないためにも,子供達の教育の方向性をしっかりと見つめる必要がある。彼らの将来は,彼らの発想と思考によってどのようにでも改変できる。彼らに,色々な面で正しい知識を吸収させることが大切で,そのためにも,我が国の教育を,根本から見直し,理想的な教育環境と教育指導体制を樹立することが早急に求められる。
(2004年12月29日受稿,2005年2月23日受理)