人間としての生き方からみた危機管理学

千葉科学大学副学長・危機管理学部長 宮林 正恭

 

1.はじめに

 日本において「危機管理」に関心がもたれるようになったのは,それほど古いことではない。特に,1995年1月の阪神・淡路大震災は,わが国の危機管理体制に問題を提起し,その変更を迫り,その結果,体制整備が行われたという点でエポックメーキングな災害であった。そして最近の世情を見ても,国内・国外を問わず危機感を触発させるような事象が多発している。さらにそのような危機がひとたび発生すると,危機管理の失敗によるつけを当事者が負うだけではなく,まったく関係のない第三者や後世に犠牲をしいることも十分ありうることが大きな特徴となっている。このようなわれわれの生活を脅かす危機は,個人,家庭,企業,国,地球レベルに至るまでさまざまに存在する。こうした背景から,現代社会に生きるわれわれは,危機管理をはっきりと意識して実行しなければならない状況となっている。

2.危機管理の時代

 危機管理を意識して行うことが必要になった時代的背景を考えてみよう。
 第一は,いったん危機的事態が発生するとその影響が甚大なものになることがあげられる。その原因としてはいくつかあるが,主要なものとしては,人口の大都市集中,高出力原子力発電所の集中立地,高層ビルの都心への集積などに見られるごとく,さまざまなものが高密度・高集積化していることである。例えば,数百万キロワット規模の発電をしている柏崎発電所が停止した場合には,首都圏の相当部分が機能停止状態になるとか,パニックを起こしたりすることになる。しかし,近代社会の特徴である効率性を追求していくと,どうしても集中立地型の構造にならざるを得ない。

 第二は,新技術・新システムなどの導入利用の増大,国際化,インターネットに代表される情報社会の進展などにより,危機発生の予測困難性が拡大したことである。科学技術の進歩によってリスクが増大する方向に進んでいる。科学技術の高度化に伴い,リスクが十分見通せないままに実用化が始まる。しかし,それをしなければ競争に勝つことができない。また,科学技術の発展に伴い,人間の予想できないことがたくさん生じるようになった。

 第三は,価値観が多様化する中で,過去にはそれほど重視・価値視されなかったものが価値視されるようになったために,危機によって受ける損失が拡大したことである。例えば,今から60〜70年前であれば,環境に対する価値は高くなかったし,数百年前は人間ひとりの価値が非常に小さなものでしかなかった。このように人々が重要だと考える価値の内容が大きく変化し多様化してきた。

 第四に,現代社会は,高いリスクを負わなければ多くのリターンが得られないという社会構造になってしまったことがある。リスクと利益とが表裏一体の関係になっているのである。

 第五には,国際政治における力関係に大きな変化が起こりつつあることが指摘できる。現代の国際政治においては「パックスアメリカーナ」が基調をなしていることは間違いない。日本外交ではよく「国連中心主義」ということがいわれるが,実態としては国連が平和維持をしているというよりは,むしろ米国が主導していると表現した方がより適切だろう。中近東問題に関しても,米国のその政策は米国内のユダヤ勢力の強い影響もあってある種のバイアスがかかっているといえるが,それでも大きな流れとしては米国主導の均衡の中にある。このようなパクスアメリカーナの構図の中で,中国の台頭によりその構図が変化しつつある。それは特に,資源争奪戦の様相として顕在化している現状である。そうした要因が,陰に陽に世界平和にさまざまな影響を与えつつあるといえる。

 ところで,「日本は安全と水はタダ」とよくいわれるが,私は歴史的にみるとそうではなかったと思う。このような観念が出てきたのは日露戦争以後のことではないか。明治の元勲たちの最大の関心事項は,ある意味で「危機管理」であった。すなわち,欧米列強のアジア進出に対してどう対処するかという危機意識があった。また,民衆の蜂起への恐れからくる危機感もあった。

 また,昔,自然災害や外部からの侵入に対備したつくりの町や村が形成されてきた。例えば,山村では谷底に家を作る人はいなかった。神社を建てる場所は,自然災害に対しても安全なところを選ぶなどの知恵を持っていた。明治期に作られた鉄道の線路は,ほとんどが地盤の強固なところに敷かれていた。もちろん,土木技術が未発達のために結果的にそうなったともいえなくもないが,それでも土地の堅固さを考慮していたことは明らかだ。その意味で,日本人も昔の人たちは,もっと危機管理の意識をしっかりと持っていたように思う。ただ,戦後生まれの人たちは,ほとんどそのような危機管理の意識が欠如してしまい,「安全と水はタダ」という意識になってしまったのだと思う。

3.危機と危機管理

 自分自身に不都合なことが発生し,それに伴って自分自身に被害・危害が及ぶことを感じるときに初めて「危機」と認識するので,危機とは認識論の問題だといえる。「危機」という日本語の本来的意味は,極端に危険な状態・状況を指していると思うが,その厳しさの程度の感じ方は人の主観によって温度差が出てくる。ただ,最近ではマスコミを始め一般に危機という言葉を比較的軽く使用しているように思われるので,私は幅広い意味でこの言葉を理解したい。だからと言って,すぐに解決したり,諦めがついてしまうような程度のものは,危機と呼ぶにはふさわしくない。危機発生の結果,個人にしても,組織にしても,大決断,転進,方向転換を選択することになる程度のものを危機と呼ぶのである。

 「危機管理」とは,「積極的な営みを続けながら,危機すなわち非常に危険な状態になる可能性を低く保つとともに,危機に備えて必要な措置をとり,また,いったん危機に遭遇したときは,それによる害をできる限り少なくするとともに,その危険度を低くするように対応する一連の体系的行動」であると考えている。

 危機的な状況に遭遇した場合には,それを避ける,逃げるというのが一般的理解であるが,私は,危機管理とはある意味で人間の生き方そのものであり,社会のあり方の問題であると考えるので,そのような極めて消極的な発想をしたくない。人間でも組織でもチャレンジ的に生きようとすれば,それに伴ってリスクが発生する。そこでそのリスクをテイクしながら,もしも悪い効果が起こった場合には,それ(被害)を最小限に抑える準備をしようとする。起こった場合には,最適な方法を取って対処する。さらには同じような状況が二度と起こらないように予防する。この一連の体系的システム的行動を危機管理と呼ぶのである。その意味で,何かことが起こったときの対処法というレベルの話ではないのである。

 もともと「危機管理」という術語は,英語のcrisis managementを訳したものである。しかし,言葉は生まれたあと一人歩きをして別の意味を持ったり,意味が膨らんだりするものである。この言葉も同様で,日本語の「危機管理」となってからは,日本語としての危機と管理の一般概念をもとに意味が拡張されていき,risk managementをも包含するようになったと思う。

 米国でcrisis managementという言葉が社会にアピールしたのは,「キューバ危機」(1962)がきっかけであったという。当時は,軍事・安全保障の用語として使用されていた。しかし,その後国際政治の分野のみならず,経済や経営などの分野においてもこの言葉が使われるようになって,より一般化していった。ちなみに,「広辞苑」(岩波書店)に採録されたのは1991年のことであった。

 経済・経営の分野では,risk managementという言葉を多用する傾向があり,その中に危機管理の意味を含めている。それは,危機管理あるいはcrisis managementには,ことが発生した後の対処という意味に力点があるので適当ではないとして,すべての危機管理をrisk managementと呼ぶようになったという。このように人によって使い方に若干の差があるようである。ただ,もともと英語では,crisis managementは発生後の対処,risk managementは事前予防の概念であったが,現在では米国でもその辺は相互乗り入れした形になっているようだ。

4.危機認識とトップの役割

(1)危機に対応したトップのあり方
 危機管理は,危機の性格や環境条件によって重点を置くべきポイントが異なってくる。また,対応に当たる者のとるべき行動も,その立場によって当然違ってくるし,危機の事象の展開は千差万別である。したがって危機への対応は,全体の展開を見ながら弾力性をもって創造的に行う必要がある。過去の経験や準備したことも十分役立つであろうが,必ずしも予想したとおりの状況展開になるわけではないので,柔軟な姿勢が求められる。

 まず重要なことは,危機に対応する責任が誰にあるかということである。危機管理計画を策定する場合に,一番最初にこの点が示されなければならない。本来,組織設定や人事を行っている者が最大の責任を負うのであり,組織のトップが危機管理の先頭に立つべきである。ところが,わが国ではその点が風土・文化の影響もあって,曖昧にされることが少なくなく,時には経営のトップが傷つくことを恐れて危機管理の先頭に立たないケースも見られる。

 前節でも述べたように,危機は認識論の問題であるので,ある事態が危機であるとの判断がまず危機管理の出発点となる。平常時の意思決定は一般に会議を開いて行われることが多いが,緊急事態の場合はそれでは間に合わない。したがって,何人かと相談することはあるにしろ,基本的には一人の人間が判断し決定することになる。決定の役割はトップにある。トップが誰かに任せるということもあり得るが,その判断の結果は当然トップが負うべきである。この責任をトップが強く認識していないと悲劇を招くことになりかねない。

 また,正確な情報を収集することは,不確実な危機認識を減らすのに不可欠であるが,短期間にそのような情報が得られるのはまれである。そのため,判断に際しては勘や洞察力,決断力が大切であり,危機か否かを直感的に判断しなくてはならないことも多い。いかに多くの知識と経験があっても,勘が働かない人,決断が出来ない人は危機対応能力が劣るといわざるを得ない。

 そのため,組織のトップの能力や見識は,危機に際しての姿勢や行動にはっきりと現われる。危機発生時に,好ましくない事態が起こるケースの多くは,危機管理についての認識と知識が十分ない場合,トップが自分自身傷つくことを恐れて前面に立たない場合,周囲が組織の長を傷つけまいとして肩代わりする場合,力で強引に押し切ってしまう場合などである。

(2)人事の重要性
 危機が発生した時に,その危機認定は,その後の対応を平常時体制から非常時体制へと切り換える重要な行為である。認定が遅れると混乱を助長することにもなりかねないので,その要因について見てみる。

 まずは,ことを荒立てたくないという個人の気質や組織のカルチャー(風土・文化),以後の行動の自由を確保したいというトップの思い,内々に処理したいという願望やそれが可能であろうとの希望的観測,対応のための準備不足への批判の恐れなどの心理的要因がある。「○○隠し」といわれる状況は,おおかたこうしたものである。

 また,過去の不始末・怠慢・見通しの悪さなどが露顕することを恐れる心情,対応すると苦労が絶えず精神的に大変であるということで生ずる逃避あるいは問題先送りの心理などもある。トップや当事者が,失敗が顕在化して自らのキャリアに汚点となることを避けたいという思いも認識の後送りを生む要因になる。

 かつて武田信玄は「人が城の石垣」と言った。組織,企業の場合,たとえいくら立派なハード,制度の枠組み,マニュアル,組織などを備えたとしても,それだけで危機管理の成功に直結するわけではない。最終的には,人の問題に帰着する。そういうと,「人の問題だから教育すればよい」と結論付ける人がいるが,この論理はリーダーとしては非常に無責任な考え方だと思う。人が城の石垣なのであるから,人をうまく組み合わせていってこそ堅固な石垣になる。つまり,経験や勘を働かせて適確な対応ができること,そのような人材をうまく使いこなすことにかかっており,そのような人のシステムをつくらなければならない。それをするのがトップやリーダーの役割なのである。

 結局,危機管理は,トップなどの中核的経営者と危機管理従事スタッフの人間性と能力に負うことになる。これはすなわち,人事問題である。多くの危機管理の失敗は,的確な人材配置が行われなかったことに起因することが多い。

 日本の企業の人事部で,人事にそのような責任があると考えているところはほとんどない。危機管理の観点から人的なシステムを組んでいくという明確な戦略は持ち合わせていない。本来,人事とは,人の能力アップとともに,組織の持続的発展のための人的組み合わせを考えることである。しかし,多くの企業では組織全体の危機管理という意識が欠如しており,それにふさわしい人的組織をつくろうとしていない。そうした戦略のもとに人事をしようとすれば,当然組織を変えなければならなくなることもおこる。組織と人事とは表裏一体のものである。

 今日,さまざまな大企業や官公庁の汚職や不祥事が発生しているが,それらに共通することの一つは,トップに意識して危機管理を行う姿勢がみられないということである。もう一つは,人事のあり方が,上述の戦略のもとに進められているのではなく,別の論理によって動いているということだ。その意味で,一番重要なことは,このような認識をトップが持つかどうかにかかっている。

 トップの仕事とは,突き詰めれば危機管理に尽きるといえる。興味があり,その果実が期待できれば旗だけ掲げれば,みなは積極的に前進する。先頭を走って功ばかりめざしているようでは,立派な指揮官とはいえない。新しい未知の分野に進む場合には,予想外のできごともあり,リスクが伴うのは必然である。そのリスクの可能性を想定しながら,指揮することが重要である。リスクの想定,危機管理の意識がないままに進んだ場合には,もし何らかの予期せぬ出来事が起きればただパニックを起こすだけである。しかし,危機管理の意識もって臨めば,初動体制が若干遅れるか否かの程度で対処の道が開けていく。

(3)学校における危機管理
 近年,学校における侵入者による事件が発生するようになり,それに関してさまざまな議論がなされている。その多くは,侵入者をいかにして防ぎ,子どもたちの安全をいかに守るかという点に焦点が当てられているようだ。それらも重要な点であることはいうまでもないが,私自身は,もっと本質的な問題に目を向けなければならないと考えている。つまり,学校全体において一体どんな危機があり,危機管理システムをどう構築すべきかを考えておく必要がある。どのような危機が想定されるのかを解析し認識して,それぞれの危機に対してどう対応するかという内容を考えておくことである。

 基本的に,危機を伴うリスクをゼロにすることは不可能である。ゼロにしようとする努力とそれに伴う弊害を考えずに,対策のみを講ずるのは賢明な考え方とは思えない。リスクを取らなければ,豊かな結果を得ることができない現実がある。この点を考慮せずに,ゼロリスクのみを目指して単純に対応しようとしている現状に「危機感」を覚える。

 例えば,外部からの侵入者の問題でいえば,侵入対策のみに終始するのではなく,そのような侵入者は異常者であることが多いことを考慮して,その問題への対策を講ずることも必要であろう。極端な安全対策を考えると,部外者は一切学校に入れない,閉鎖社会にするということになってしまう。そうなると学校という存在の教育効果が阻害されることになるのではないか。学校とは,開かれた場所であってこそその意義が発揮できるように思う。また,米国では学校内部の子どもが鉄砲を撃って事件を起こしているので,上述のような部外者の侵入対策では限界がある。

 学校の危機には,そのほかにも,教育の質の問題,社会との関係などもあるので,それらを含めたトータルな危機管理を考えていかなければならないだろう。危機管理には100点の解答はなく,最大・最善の策を講じることしかない。リスクをゼロにはできない。このような点を前提条件としてものごとを考え,対処していかなければならない。これは人間の意識構造の問題であるので,それをどう転換していくかにかかっている。

5.「危機管理学部」の目指すところ

 危機管理学とは,社会科学,自然科学,人文科学の複合領域だと考えている。前者二つの複合領域はよくあると思うが,人文科学(ヒューマニティー)を含めた複合領域は珍しい。危機管理の根幹には,人間の生き方の問題に直結する部分があるので,ヒューマニティーの領域がどうしてもかかわらざるを得ない。そのため人間の生き方,人間心理などが重要な要素を構成するが,現実には社会科学や人間行動,そして科学・技術とのかかわりとして表われてくる。しかし,現実には,まだ危機管理学としてそれらが完成された体系をなしているわけではない。そこで,そのような全体としての体系を構築していこうと考えている。

 特に,現代にあっては,科学・技術は危機管理のための手段を多数提供してくれるが,一方では危機の源であることも多い。それゆえ,科学・技術それ自体,および科学・技術に携わる者には,危機管理の特別な責任があると思われる。科学・技術はイノベーション(大変革)を起こす源であり,未知の領域を切り開くものであるが,未知の領域は常にリスクと背中合わせである。従って,科学者・技術者は潜在的なリスクを見出して必要な警告を発し,対応を求める責任を負っていると思う。これは危機管理における科学・技術者のモラルの問題であると考える。

 学生には,これまでの危機および危機管理に関する学問の成果を教えながら,まだ未知の危機管理領域をいっしょになって開拓していこうと思っている。
 危機にあっては人間性そのものが問われ,それが顕われてくる。危機における判断は,瞬発的な行動であり,かつストレスもかかる。それができる人間は,人間として「まとも」でなければならない。ストレスがダメと言っては,このような仕事はできない。ある意味では,ストレスによって人間は成長するのであるから,ストレスを前向きにとらえなければならず,その耐性が必要だ。

 そのような観点から,学生に対しては,そのようなストレスに対する耐性を身につけさせるとともに,危機管理とは何か,どう対処することができるかを学ぶことを基本におき,その上で専門領域を勉強させていこうと考えている。そのためにはまず基礎学力が大切だと考えている。

 今後は,実地の危機管理を身につけるための体験実習も促進したいと思っている。学生は社会に出て行って,そこでさまざまな経験を積んでいくことが大切である。具体的には,初年次から教養ゼミを必修化して人間的な部分をも磨くこととしているが,今後はインターンシップなどをできるだけ早い段階から導入することを考えている。

6.最後に

 冒頭で,現代は意識して危機管理を行われなければならない時代になったと述べた。それは現代社会が個人のレベルから国家・世界のレベルに至るまで,非常に流動的な時代になりストレスのかかる時代になったということを意味している。それゆえ,今日教育が一番意識しなければならないことは,精神的・肉体的タフネスの問題ではないかと思う。危機および危機管理のあり方や最適手法を明らかにし,そのようなストレスを軽減する解決策を追求していくことも危機管理学の大きな役割だとすれば,ここにも危機管理を学ぶ意義を見出すことができる。そして人はみな,好むと好まざるとにかかわらず生きていくためには危機管理をしなければならないのである。
           (2005年4月28日)