21世紀型循環文化の創成
―物理学からみた地球環境問題―

早稲田大学理工学総合研究センター教授/東京都立大学名誉教授 広瀬 立成

 

1.はじめに:消費文明から環境文化へ

 21世紀,「人類が直面する最大の課題は?」と問われれば,私は躊躇することなく環境問題だと答える。地球をとりまく環境は,急速に悪化しつつあり,このままでは早晩,人類の存続をおびやかす事態の到来が予測されるからだ。

 環境問題と一口にいっても,それは,森林の破壊,砂漠化,温暖化の進行,ゴミ・化学物質(放射性物質をふくむ)の蓄積,空気・水・土壌の汚染,オゾン層の破壊,酸性雨など,物質世界における危機とともに,その影響による生物系の崩壊という広範な課題を網羅している。

 世界で環境の危機が声高にさけばれていながら,いっこうに環境破壊がおさまらないのはなぜだろうか。いろいろな要因はあるだろうが,何といっても,20世紀,人類が科学技術を急速に発達させ,物質的欲望を追い求めてきたことを指摘しなければならない。前世紀における二度の世界大戦は,極度の物質的困窮をもたらした。そして人類は,国土の復興にむけて邁進した。たしかに,第二次世界大戦以後にはじまったこのような努力は,貧困を解消しつつ人間に幸せをもたらすかにみえた。

 だが,人間の欲望とは恐ろしいものだ。いったん身についた物質的快感は,さらに大きな欲望を生み出し,必然的にエネルギー消費を加速させた。人間は,ものを消費し,燃やし,使いつくし,買いかえて捨てることに,無上の喜びを抱くようになった。もし資源が無限にあり,地球が廃棄物を無限に収容できるなら,それもよかろう。悲しいかな,地球は有限の世界なのだ。そして,いまや地球は,人間の大規模な破壊によって極度に疲弊してしまったのだ。今世界の人々は,地球のこのような危機的状況に気がつきはじめたようだ。にもかかわらず,20世紀型の消費社会からの脱皮はいっこうに進む気配はない。それどころか,世界の国々では,経済成長を最重要課題にかかげつつ,消費の拡大に没頭している。

 ところで,今日の消費社会を支える科学技術は,基礎科学,とりわけ物理学の知見を基礎として発展してきた。高速の交通機関,情報器機,原子力発電などは,古典物理学や量子力学の成果なくして実現できなかった。ついでながら,現代社会の光の面だけでなく陰の面についてもふれるなら,近代兵器においてもまた物理学・化学などの知見が利用されている。現代社会は,良きにつけ悪きにつけ基礎科学の知識なしにはなりたたない。

 環境破壊に科学技術のあり方が大きな影響をあたえているとすれば,その基礎になっている物理学が,これからの地球・人類の行方について,まったく無関心であることは許されないだろう。これまで物理学は,物質世界を客観的に記述する学問として,物質,宇宙,生命などの謎を解きあかしてきた。人間が知性をもつ動物である以上,このような研究はこれからもつづくであろうし,知の世界を拡大するという純粋科学の活動に異議を唱えるつもりはない。

 むしろ,人間が消費の快楽から脱皮し,真の幸福と持続ある社会を実現するうえで,知的活動や芸術の振興は,きわめて本質的な役割をになうものと考える。いまや,消費文明から解放された新しい文化の創造をめざすために,物理学が明らかにしてきた自然の基本的な仕組みについての知見は,一部の科学者や技術者だけが独占するものではなく,広く人々に公開されるべきでなかろうか。

 本稿では,まず物理学の観点から,生命系としての地球の特徴を概観する。ついで,地球環境を物質の相互作用とその結果としての物質循環の視点からとらえてみる。このような議論をふまえ,20世紀科学技術のあやまちを指摘しつつ,21世紀に期待される環境文化のありかたと,そこへの移行の方策を考えてみたい。

2.宇宙に浮かぶオアシス,地球

 45億年前,わが太陽系が創造され,9つの大惑星が誕生した。数億年後,その惑星の一つ地球上に生命が発生した。地球誕生というできごとは,重力相互作用による物質の凝縮という物理過程の結果であり,また,原始地球の性質は初期の天文学的な条件によって決定された,ということができる。

 最近の宇宙探査機によって,かつて火星にも水があったことが明らかになり,生物が存在したのではないかということが話題になっている。しかし,45億年という太陽系の歴史のなかで,つねに(液体の)水が存在しえた惑星は地球をおいてほかにない。地球は宇宙に浮かぶオアシスなのだ。水が生命にとって欠くことのできないものであるならば,今日生命が存在できる星は地球だけということになる。

 なぜ地球だけに水が存在するのだろうか。それは,地球の位置,大きさ,太陽の光度など,多くの天文学的条件が微妙なバランスを取りながら,地上の平均温度がつねに数十度に保たれてきたからだ(地球の隣の火星や金星では,このバランスが崩れている)。

 初期の地球大気は,窒素や水蒸気とともに,炭酸ガスやアンモニアなど,今日の動物にとっては有害な,いわば“毒ガス”からなりたっていた。酸素がなかったために,はじめに現れた生命体は,酸素を必要としない生物,すなわち植物であった。植物は,太陽光線(のエネルギー)を利用して,炭酸ガスと水から成長に必要な物質(ブドウ糖)をつくる。この炭素同化作用において,吸収した炭酸ガスとほぼ同量の酸素が放出され,その結果,大気中に酸素が蓄積されていった。こうして,今から8億年前には,ほぼ現在に近い量の酸素(23%)が存在するようになった。生物は,酸素を取り入れることによって生命維持のためのエネルギーを効率よく生成し,進化が加速された。

 太陽から放射される強い紫外線は,生体の組織を破戒しその生存をおびやかす。しかし,酸素の生成とともに上空にはオゾン層が形成され,それまで地球を照射していた有害な紫外線が遮断されるようになった。こうして,生物は陸上にあがり,急速に繁栄するようになった。

 動物は植物を摂取して成長する。その際,植物が廃棄した酸素を吸収し炭酸ガスを放出するが,その炭酸ガスは植物に吸収され植物の成長をうながす。植物・動物とともに,生態系のもうひとつのメンバーが菌類。細菌は,死んだ動物を分解し,植物に栄養源を提供している。こうして,植物,動物,菌類は,たがいに相手の廃棄物を資源として共生しているのだ。このような状況から,植物=生産者,動物=消費者,菌類=分解者という対応がなされているが,近年,動物に栄養の運搬者という積極的な役割をあたえるという考えも提案されている(たとえば,サケは海の栄養を山の上に運び上げる1))。いずれにせよ三者は,吸収と廃棄という物質・エネルギーの循環を通して相互作用しており,たがいに相補的な役割をはたしていることがわかる。

 生態系が定常的な共存関係を維持するためには,生態系の活動の舞台としての土壌,海,川,大気という非生態系(物質系)もまた正常な状態でなければならない。地球上では,生物,物質をふくむすべてがたがいに相互作用しつつ,大きな循環システムを形成していることがわかる。それは40億年という歳月のなかで育まれた安定なシステムであり,そこには何ひとつとして無駄なものはない。

3.物質・エネルギーの循環:吸収と廃棄 

 ある循環システムが安定であるためには,かならず吸収と廃棄がバランスを保っていなければならない。なお,生命・技術・経済と環境とのかかわりについて,エントロピー学会編『「循環型社会」を問う』(藤原書店)2)に,多くの興味ある話題と見解が集められている。以下の議論で参考にさせていただいた。

 はじめに太陽と地球の循環システムをみてみよう。植物は太陽光線を受けとり,光合成において熱エネルギー(赤外線)を発生する。太陽光は質のよいエネルギーであり,赤外線は質の悪いエネルギーであるから,光合成は(物理学の言葉でいえば)「エントロピーの増大の法則」のあらわれ,ということができる。この場合,植物にとって太陽光線は生命維持に必要な資源であり,熱エネルギーは廃棄物である。動物がものを食べたり運動するときにも熱が発生するが,これも廃棄しなければならない。この廃棄物をうまく取り除かないと,生物は焼け死んでしまう。生命維持のためには,必要な栄養を取り入れるばかりでなく,物質と熱(エネルギー)の廃棄のルートが確保されていることが肝心だ。

 廃棄物としての熱エネルギーを取り除くために,非常に効率のよい物質は水である。水は液体から気体(水蒸気)になるときに大量の熱(蒸発熱)を奪う。わずか1グラムの水でも,それが蒸発するとき540カロリーもの熱を奪うが,それは,0度5グラムの水を100度まで温める熱に相当する

 熱は生命の維持ばかりでなく,人間の生産活動でも発生する。火力発電は,石油を燃やして高熱の水蒸気を作りそれでタービンを回し電力を発生させるが,そのまわりには大量の熱が放出される。それを取り除くためには大量の水が必要になる。そればかりか,太陽光線を受けて暖まった地面や海面などからもたえず水が蒸発して,地球が(金星のように)熱化することをくい止めているのだ。水の惑星,地球が,液体の水を保持していることの重要性がわかる。

 ところで,生命活動,太陽光線の照射,人間の生産活動などから放出される大量の熱が水の蒸発によって除去されるが,そのままでは,やがて水はすべて蒸発して地球は枯れあがってしまう。蒸発した水はかならずまた地上にもどってこなくてはならないのだ。ここでも地球は多くの幸運に守られ,その結果,定常的な水の循環が可能になっている。

 まず,上昇した水蒸気が地球から逃げだせないのは,地球の重力のおかげである。もし地球が月のように軽ければ,水蒸気は(重力が弱いために)宇宙空間に散逸してしまうし,逆に,地球がもう少し重ければ(重力が強いために)水は高く昇れないので,冷えて雨なることができない。大気の温度は100メートルで0.6度低くなる。いま地上の温度を30度とすると,0度になる高度は5キロメートル。ここで水蒸気は水あるいは雪になり,地上にもどってくるのである。

 もし,地球が10%ほど太陽に近ければ地球は金星(表面温度は約470度)のように熱化したはずであるし,10%ほど太陽から遠くにあれば,火星のように凍てついた星になっていた。宇宙開びゃく95億年たったとき,この規模の太陽が生成し,ちょうどこの位置に,この大きさの星が誕生した――それが地球だったのだ。そして,このような地球の天文学的な状況と水にそなわった特異な性質が,巧妙な循環関係を通して地上における生命の誕生を可能にしたのである。

 水循環の(あるいは直接の)廃熱に関して注目すべきことは,宇宙空間が,廃熱の場として無限の収容力をもっていることだ。つまり,宇宙は広大であり(したがって地上のかぎられた空間とはちがって)廃熱によって環境が悪化することはない。

 さてこの地球と宇宙空間にまたがる大きな循環ルートのなかには,さまざまな中規模,小規模の循環ルートがふくまれている。このとき重要なことは,熱は宇宙空間に運び出せても,水以外の物質は地球上で循環のルートを確保しなければならない,ということだ。産業活動から放出された炭酸ガスも,植物に吸収されたり雨によって海や土壌に吸収されていれば問題はないが,それを越えると循環のルートから外れたガスが大気中に停留し,それが宇宙空間への廃熱をさまたげることになる。また,水が化学物質で汚染されると,生命維持という水本来の役割がそこなわれ,逆に生命の危機をもたらす危険な存在になる。産業活動から必然的に発生する人工物質は,基本的に自然の循環ルートには乗らないことを忘れてはならない。

4.20世紀の過ち

 20世紀科学技術が爆発的に発展した背景には,人間が宇宙の中心であり,主人であり,したがって,人間はあらゆるものを意のままに支配し,自由に所有し,享受しうるという,自己中心的な世界観があった。自然や宇宙は,人間の物質的欲望を実現するための,自己の能力や可能性をテストする舞台となった。人間は,その舞台の上に用意された大道具・小道具を手当りしだいに利用し消費してきた。むしろそうすることが,人間の正しいあり方であり,自然の存在意義もそこにある,とさえ考えるようになった。こうして,大量生産・大量消費・大量廃棄という,これまでに人類が経験したことのない現象を生みだした。

 そこで人間は,二つのことを忘れていた(それは現在も忘れられている)。一つは,資源は無限にあるという錯覚。もう一つは,生産活動やふだんの生活において,廃棄のルートを真剣に考えなかったことだ。

 ワールドウオッチ研究所『地球白書,<2004-05>』(家の光協会)3)によれば,1850年から1970年(高度成長がはじまるころ)の120年間に,地球の人口は3倍以上になり,エネルギー消費量は12倍に増大した。つまりこの間に一人当りのエネルギー消費量は4倍になった。もし,物質的豊かさ・生活の利便性がエネルギー消費量に比例するとすれば,それはこの120年間に4倍に向上したことになる。1970年から2002年までの32年間には,さらに人口が68%,化石燃料の使用料も73%増えている。

 資源の枯渇は消費量の増加によるばかりではなく,人口の増加によってさらに加速される。地球人口はあと50年ほどで1.5倍,すなわち90億人になると予測されているが,増加する30億人の人口は,そのほとんどが開発途上国である。もしこれらの国々が先進国なみの生活を望んだとしたら,数個の地球が必要になるだろう。

 中国とインドはあわせて世界人口の1/3以上を占めているが,両国のエネルギー消費量は世界の13%にすぎない。しかし,拡大しつづける両国のエネルギー需要は,世界の石炭使用の増加分の2/3余りを占める。

 今日,中国の経済規模は,1980年の4倍以上になり,電力の需要は5倍以上になった。1980年にはほとんど問題にならなかった自動車が,2002年には,約1000万台に急増し,2003年には年間400万台が増加した。2015年には,15000万台になるという予測もある2)。インドでも,月収220ドル以上の高所得者が,この5年で6倍にふえた。世界的にみても,乗用車の台数は毎年1100万台のペースでふえている。

 このような経済成長は,化石燃料,金属,木材などの一次資源の増産に支えられている。世界の石油生産量は,現在の需要動向から計算しても,2020年以前にはピークを迎えるとの予測が多い。明らかにそれは,自然の循環ルートを大きく破戒するものであり,持続可能な社会とはほど遠いものといわねばならない。だが,高水準の消費による物質的豊かさを数十年にもわたり享受してきた先進諸国(ヨーロッパ,アメリカ,日本,オーストラリア)が,みずからの改革の必要性には目をつぶり,アジアの消費拡大を憂慮するのは的外れというものだ。先進諸国こそが,経済成長にともなう環境悪化に大きな責任を負っているはずなのだ。

 20世紀の物質文明は,科学技術であれ,経済政策であれ,すべて<資源は無限にある>という前提にたって進められてきた。それは<個人の自由>という名のもとに,何の批判もなく受けいれられてきたが,そのような文明に限界が見えはじめたのだ。

 第二の問題点,廃棄のルートへの取り組みはどうだろう。すでにのべたように,地球の持続性は,生産活動や生活の場で安定な循環ルートが保証されてはじめてなりたつ。ところが,20世紀の消費文明は,物質の供給に専心するあまり,廃棄のルートにはほとんど注意を払わなかった。

 この現代文明の欠陥がもたらす影響は,資源を採取する段階からはじまる。たとえば,精錬にまわす銅鉱石を1トン生産するために,110トンの廃石(岩石,不良鉱石,抽出残渣など)が発生する。金属が希少であればあるほど,廃棄物が増えるという一般的な傾向がある。結婚指輪一個分の金を生産するために,およそ3トンの有害な廃石が発生する3)。

 いま関心が集まっている原子力発電。ウラニウム(ウラン)元素は,ウラン鉱石中にわずか1%しかふくまれていない。採掘現場では,掘り出したウラン鉱石の99%は屑石として捨てられる。残った1%の天然ウランのなかで,核分裂をおこす(発電に使うことのできる)ウラン(ウラン235)は0.7%だけであり,そのために濃縮がおこなわれる。ここでも,99.3%の非核分裂性ウランが,いずれ廃棄物になる。つまり,発電に必要なウラン235を得るために,1万倍もの大量の廃棄物が発生することになる。

 さらに危険なことには,核分裂反応によってきわめて有害な物質“放射性物質”が発生する。これは高レベル放射性廃棄物であり,放射性毒性は数万年つづく。放射性廃棄物は,標準的な原子炉において1年間におよそ1トンとなるが,広島の原爆が放出した放射性物質の1000倍に相当する。これこそ,消費社会が生みだした廃棄物のなかで,自然の循環ルートからもっとも逸脱した人工物質ということになる。

 生産活動のあらゆる場で,人工物質が廃棄され,それが日常生活の中に予期せぬ公害を発生させることになった。そして,多かれ少なかれ,だれもが不可避的に被害者になるという事態を招いている。化学物質(フロンガス)の排出によるオゾンホールの発生(紫外線の増加),家庭ごみ・産業廃棄物の大量投棄による空気・水・土壌の汚染,炭酸ガスの大量発生による温暖化など,どれ一つをとっても正常な循環ルート逸脱するものであり,人類の未来に深刻な影響をあたえるものだ。

 『地球白書』3)によれば,2002年には,世界でおよそ4〜5兆枚のポリ袋が生産された。アメリカ国民は,毎年1000億枚のポリ袋を使い捨てにしている。ケニアでは,フェンスや樹木,さらには野鳥の首にまで巻付いている。北京では,側溝や下水路のポリ袋を処理するのに膨大な資金を使っている。最近,日本の海に潜ってみると,本州近海はもちろん,遠くの島々の海にもプラスチック製品が漂っている。

 今日では,ほとんどの製品には,廃棄のための費用や手続きについての規制はない。ふだんだれもが使っているペットボトルやポリ袋は,各地域で焼却や埋めたて処理されるが,その費用は住民の税金でまかなわれている。しかもそれらは,原油や天然ガスからから作られた頑固な高分子物質であり,焼却すればさまざまな化学物質をまき散らし大気を汚染する。かといって,埋め立てても分解することはなく半永久的に残って土壌や水を汚染する。

 これらの製品の使い捨てを抑制する動きは世界各地で展開されているが,多くは消費者だけに責任がおしつけられている。生産者,消費者,行政の三者が連係しつつ,発生抑制を強力に進めないかぎり環境へのストレスは軽減できない。

5.消費文明からの脱出:環境文化の創造を

 20世紀の消費文明が,さまざまな欠陥を露呈しはじめている。では,それにかわる21世紀の人類が追求すべき新しい生き方とはなんだろうか。それは一言でいえば,自然の循環ルートを大切にする「環境文化」を創成することである。

 これまで物理学は,宇宙に存在するあらゆるものが相互作用していること,その結果,物質,エネルギー,情報が循環していることを明らかにしてきた。相互作用は,過去・現在・未来という時間の流れにそって,地球とそれをとりまく空間という舞台の上で,森羅万象が演ずるドラマの原動力である。

 地球は太陽の光を受けながら,46億年という長い時間のなかで生命をはぐくみ,植物,動物,菌類という種族を形成した。それらはたがいに切り離すことができないほど強固な相互作用の輪を作って,安定なシステムを作ってきた。その安定な生態系には,種が絶滅することのない「調整機構」ができあがっている。たとえば,大陸の乾燥地帯では,よくバッタなどの昆虫が大発生することがあるが,しかし,それは一時的な現象であり,食物の欠乏とか天敵の増加によって調整され,いつかもとの安定状態にもどる。

 しかし,人間はこのような安定なシステムから脱出した。新石器時代あたりから,技術を発達させた人間は,猛獣や天敵から身を守り,牧畜・農業技術,食料の貯蔵法,医術などを発達させつつ,安定な医・食・住を実現させていった。新石器時代の初期,地球人口は500万人程度と推定されている。しかし,その後の人口は急激に増加して,現在までの1万年間に1200倍になっている。これまでの陸上動物の歴史には,このような個体数の急激な増加は人類をおいてほかに例がない。循環ルートから逸脱した行為の行きつく先が,20世紀に花開いた消費文明である。こうして人間は,自然にそなわった制御要因を一つずつ排除し,自然の調整機構とは関係なく生活をいとなむようになった。

 にもかかわらず,人間は自然の一部であり,動物の一種であることにかわりはなく,他の生物,とりわけ植物に依存して生きるしか道はない。食料としての植物はもとより,呼吸のための酸素,高空でつくられたオゾン(紫外線の遮蔽)など,人間は他の生物から無限の恩恵をうけている。そればかりではない。無生物としての,土,水,鉱物などもまた,生物の循環ルートと一体となり,生物の存続に重要な役割をはたしている。地球上の生物−無生物のつながりが,人間の存続に不可欠であることは,地球を飛び出して人間だけで宇宙生活ができるかどうかを想像してみれば明らかだ。それが絶対に不可能であり,人間の基本的な生存条件は,自然から与えられていることがわかる。

 自然は,その循環ルートが安定なときには,かぎりない恵みを生物にあたえるが,一度それが切断されると容赦のない淘汰圧をかけてくる。このことは,いまから2億4700万年前にはじまった中生代において,2億年にわたって繁栄した恐竜が,6500万年前の白亜紀の終わりに突如絶滅したことをみればよくわかる。そのとき,巨大隕石の衝突あるいは火山活動などによって地球環境が急変したが,それは生物にきびしい淘汰を強いることになった。恐竜たちは,その淘汰圧に耐えることができず絶滅した。

 このような文脈で考えてみれば,いま人類がかかえる最大の矛盾が自然破壊であることはだれもが納得できるだろう。

 人類は,自然の循環ルートをはなれ,環境の淘汰を押しのけることに成功したかにみえる。ところが,こうした人類の行為が,また新しい地球環境(破戒された環境)をつくりだし,あるいは人口爆発をおこし,それらが新たな淘汰圧となって人類にはねかえってきている。そのような自然の警告に対して,手をこまねいているだけでは,早晩人類は絶滅の危機に追いこまれるにちがいない。恐竜の絶滅がそうであるように。

 われわれはいま,消費文明の発達そのものが自然破壊に直結していることを真摯に反省しつつ,一刻も早く20世紀型消費社会から抜け出し,環境文化の創造にむけて努力すべきである。20世紀における人類の足跡を振り返るとき,21世紀に期待する環境文化の性格がみえてくる。自然エネルギーの利用,交通機関・電気製品のエネルギー効率の向上,リサイクルの推進など具体的な対策も進んでいるが,ここでは,その文化的背景に焦点をあていくつのかの問題点を指摘することにしよう。

(1)トータルな世界観を:万物は相互作用する 
 西洋で発達した個別学問は,自然科学であれ,社会科学であれ,現象を分析的に研究するという基本的な性格をもつ。とりわけ自然科学は,鋭敏なキリが木材に細く深くつき進むように,自然のごく狭い領域に光をあてつつ,深奥の世界を明るみにだしてきた。言葉をかえれば,科学は,分析的な思考,一元的な価値観,客観的な評価を基礎として発展してきた。だが,人間がそのようにして手にいれた科学的な情報は,自然のかぎられた現象についてはきわめて客観的で厳密なものであるが,それはあくまで,自然のごく一部分の見取り図であり,自然の全体像を描きだしてはいない。キリの穴をいくらあけてみたところで,木そのものが理解できないのと同じように。

 ドイツの物理学者W.ハイゼンベルクは,自然科学的な認識のありかたについて,つぎのような反省を語っている。「科学の研究の対象は,もはや自然それ自体ではなく,人間の尋問に委ねられた自然である」と。科学者が実験を通じてえた知見は,横暴な取調官が,拷問によって自然からむりやり引きだした自白なのだ。トータルな世界観は自然を拷問するのではなく,自然と協調することによってつちかわれる。

 環境文化をはぐくむ上で,自然科学,社会科学,人文科学の対話は欠かせない。これらの基礎科学はこれまで,ほとんど対話することなく,時には反目しつつみずからの正当性を主張してきた。大学においても,これらの三つの分野は,それぞれの学部をつくり,周囲に堅固な城壁をめぐらして相手の侵入をこばんでいる。子供たちは早ければ中学あたりから,文系と理系のレッテルをはられ目指す大学にむかって,受験街道をばく進する。大学入試に成功するために,横道へそれることは禁物なのだ。

 一方,大学もまた広い視野からの教育と研究をないがしろにしつつある。最近では,大学が法人化し,実用的な勉強が重視され,その反動で,教養課程が衰退してきた。幅広い基礎学問の知識こそ,トータルな世界観を育成する重要な基盤となるのに,そしてそこに21世紀における重要な鍵が隠されているというのに,今日の大学はそこから目を背け実用主義はしり,経済発展という20世紀の過ちを追いつづけている。

(2)次世代への責任:環境文化の伝承を
 環境文化を育てるためには,空間的・時間的な広がりのなかで考えることが必要だ。
空間的な発想とは,地球環境の保護には,世界の人々の協調が決定的に重要であることを意味する。自国では環境の規制を強くしておきながら,規制のゆるい他国へごみを運びだすとか,森林を伐採して他国の環境を破戒するというのは,倫理的な観点からも許されるべきことではない。

 これまでの政治・経済は,同世代間の合意を基礎として進められてきた。しかし,環境が過去・現在・未来へと連続してつながっていくことを考えれば,地球全体についての空間的な考察とともに,時間的な見地からの検討も欠かすことができない。それは単に地球環境の客観的な検討だけではなく,将来,子孫にどのような環境を残すべきかという,いわば倫理的な問題ともからんでくる4)。

 「持続ある地球」というよく目にする言葉。もしこれが,将来の子孫に対する現代人の責任表明ならば,現代世代にあたえられ,現代世代が享受した環境を,できるかぎりゆがめないで次世代に受け渡す,というのが正しいあり方だろう。

 未来世代の知性に期待して,かれらが何かうまい方法を考えるのだから心配することはない,という考えがあるかもしれない。だがこのような楽観論は,これまでは通用したかもしれないが,これかの世代には期待できない。

 たとえば,大都市の地震災害を考えてみよう。大都市はいってみれば消費社会のシンボルであり,その建設には多大の資源とエネルギーを必要とする。現在の都市構造はきわめて災害に弱く,一度巨大地震がおこれば,人命救助などもふくめ,その修復は建設以上に大規模なものになるだろう。これまでは何とか切り抜けることができたのは,修復の要する資源が何とか調達できたからだ(もちろんそのたびに環境はおおきく破壊されたが)。だが,これからはそうはいかない。もはや,修復に必要な資源がないのだ。

 高層ビル,何重にもはりめぐらされた地下鉄・地下道,高い人口密度などによる巨大都市。その上,資源の枯渇が加速されることを考えると,今後の大型災害は,都市を滅亡させ,ひいては国の存亡を左右しかねない大事件になるだろう。

 次世代への責任を真剣に考えるなら,環境破壊は,現代世代が加害者であり未来世代は被害者になること,したがってそれは犯罪行為である,というくらいの覚悟が必要ではないだろうか4)。地球が30億年もかけてためこんできた太陽エネルギーを,数百年の世代が使いこんでしまう。汚染された大気,水,土壌,そして大量のごみと核廃棄物がのこされる。このような環境を押しつけ未来世代を苦しめるというのは,現代世代の犯罪行為ではないだろうか。一言つけ加えるならば,理由はどうであれ,戦争は最大の環境破壊であり,その意味で現代世代と未来世代をとわず,人類に対するもっとも大きな犯罪行為である。 

(3)真の幸せとは:ウエルビーイングな生活を
 大量消費文明は,いまこの時点で利益があがり,それによって快楽が得られればよい,という発想が根底にある。世代をこえた未来の利益をめざして経済活動がおこなわれているわけではないのだ。しかし,資源の窮乏や環境への規制が強くなれば,今後20世紀の高度成長時代のような経済発展を期待することはできなくなる。こうして,消費社会の刹那主義と社会の閉塞状態は,人々の,とくに若者の生きる意欲をそこねる。

 一体,人々は消費文明から真の幸せを得ているのだろうか。大量消費にともなう過度の労働に費やされる長い時間とストレス,趣味に打ちこんだり家族や友人と過ごす時間の削減,購入にともなう借り入れと返済への不安,自動車・テレビ・デジカメなど足早なグレードアップへの出費――現代の人々はこのような消費社会の加害者であり犠牲者ではないだろうか。人間世界でも循環ルートが破戒されてしまったのだ。若年層のむごい犯罪,仕事を拒否する若者の増加,自殺者の増加などは,暗く閉息した社会をあらわす象徴的な現象といえるだろう。

 厚生労働省は,1982年から5年ごとにサラリーマンの健康調査を実施している。2002年には,「ふだんの仕事で体が疲れる」と答えた人は過去最高の72%,また「仕事で強い不安,悩み,ストレスがある」人は,62%になった。サラリーマンの2/3は,幸せな人生を送ってはいないようだ。同省が小学5年生から中学3年生までの1150人の生徒に,大切に思うことの3つまで聞いたところ,「友達がたくさんいる」(65%),「健康」(60%),「将来に夢をもっている」(42%)で,「お金がたくさんある」は14%に過ぎなかった(小数点以下四捨五入)。子供達は,人間的絆の消失,将来への不安など,まさしく消費社会の欠陥を正しく指摘している。

 このような調査は,人々が消費水準を高めるのではなく,健康で生きがいのある質の高い生活を求めていることを示している。質の高い生活は,欧米ではウエルビーイング(wellbeing)な生活とよばれるが,これは,「安寧,幸福,福祉」が実現される生活を意味する。たしかに,毎日の運動と正しい食生活をいとなむ人は,際限なく気ままに消費する人より,高い生活の質を達成できるのではないだろうか。また,人と人,人と自然のきずなを強化することはウエルビーイングな生活の必要条件である。それは,消費を経済の原動力ではなく,生活の質を改善するための手段として位置づけることからはじまる。

 ウエルビーイング指数という指標がある3)。これは,平均寿命,就学率,森林消失面積,炭素排出量など,幅広い87の指標で人間と環境のウエルビーイングの度合いをはかるもの。世界180カ国の調査によると,世界人口のおよそ2/3は,ウエルビーイングの低い国に住んでいる。5段階の最高ランキングに入る国は,ノルウェー,デンマーク,フィンランドの3カ国だけである。

 最近筆者は,すこし時間の余裕ができて,歴史,芸術・芸能,宗教など,さまざまな人類の知的遺産に接する機会を楽しむことができるようになった。今まであまり気にとめなかったが,注意していると,東京では日本・世界の絵画や歴史はもとより,歌舞伎・能,伝統工芸にも接する機会が多くあることがわかった。さらには,少し足をのばし,海,山,川などの自然にふれる機会もふえた。ダイビング,乗馬,カヤックなど,つい最近はじめたばかりのスポーツで,気のあう友達と自然のさまざまな姿を愛で,その後,冷たいビールで咽をうるおし語らうことの幸せをかみしめている。しかし,働き盛りのサラリーマンの多くは,週末といえどもこのような時間的余裕をもつことは難しかろうと想像する。週末は,一週間の過労の疲れを除くための,そして来るべき一週間の仕事のための休養日なのだから。このような体験をしてみると,人間の幸せは,知・情・意のバランスの上に築かれているものであることを痛感する。

 極度に発達した知性を駆使して,科学技術を発達させた人類。そのことによって,自然に襲いかかり,自然を破戒しつづけてきた人類。その人類がもう一度自然の支配者から協力者へとみずからを変革することができるのか,そしてそのことによって,みずからの生存を永続させることができるのかもまた,人類の知性にゆだねられているのだ。
オーストラリアの哲学者,J.パスモアは,「自然に対する専制君主としての人間」から「自然に協力する人間」への転換を主張したが,このような発想は「一木一草に仏性あり」といわれるように日本の伝統的な思想でもあった。日本人は明治維新以来,欧米文化の導入を性急に進めてきたが,もう一度われわれの心底に眠っているトータルな世界観をよびさまし,そこに科学の光をあてつつ,その重要性を世界に発信していくべきではないだろうか。(2005年6月2日)

[参考文献]
1)勝木渥,『物理学に基づく環境の基礎理論』,海鳴社,1999
2)エントロピー学会,『「循環型社会」を問う』,藤原書店,2001
3)ワールドウオッチ研究所,『地球白書<2004-05>』,家の光協会
4)加藤尚武,『環境倫理学のすすめ』,丸善ライブラリー,1991
  加藤尚武,『環境と倫理』,有斐閣アルマ,1998