アメリカ「帝国」と平和への道程

東洋学園大学元教授 大塚 茂

 

*抄 録

 アメリカはグローバリゼーションという世界市場戦略を介し経済,政治,軍備面で一人勝ちの「帝国」を確立した。ローマの歴史家ポリュビオスの説く永遠のローマ帝国の基盤が,アメリカの体制にも,ブッシュ政権の単独行動主義という「有徳な一人支配」に代表される君主政,国際協調と富とを追う富裕層の代表する貴族政,反グローバリゼーションを掲げる「主体的大衆」が代表する民主政として存在し,この階層間にチェック・アンド・バランス機能が働き永遠の帝国の前提条件が整っている。21世紀のパックス・アメリカーナはテロとの戦いを通じ文明の衝突の危機をはらんでいるが,自由を夢とするアメリカは,衝突回避の道を探り平和の維持を果たすだろう。

1.グローバリゼーションを布石とした「帝国」の誕生

 アメリカを「帝国」(注)と見立てて検証しようとする議論がもてはやされている。ハーバード大学の入江昭教授は,「アメリカ帝国論の流行」という論説の書き出しで,「つい1,2年前までは,世界における国際関係の現状や将来は,すべてグローバリゼーションとの関連で語られる傾向にあった。ところが最近では,アメリカ帝国という概念が急速に普及してきた。」という趣旨のことを述べている。
(注)筆者が本論で取り上げる,アメリカを見立
てた「帝国」には括弧を付した。

 確かに, 教授のいうように,グローバリゼーションが技術革新とあいまって,古典派的の景気循環の洗礼をうけることなく,アメリカ経済は持続して成長するといういささか短絡的な「ニューエコノミー論」が以前まかりとおっていた。しかし教授は,90年代後半から持続して成長し続ける一人勝ちのアメリカ経済が,年間3,500億ドルもの莫大な国防費を投じて開発された近代的なデジタル兵器と,多国籍企業やヘッジファンドが操る無敵のグリーンバックと,そして「自由」を金科玉条とする民主主義という三色旗を掲げ,地球的規模でその権勢を伸ばし君臨したアメリカ「帝国」台頭という系譜のなかで,まずグローバリゼーション政策の推進があって,そのグローバリゼーションこそが「帝国」の基礎固めを果たしたアメリカの重要な外交,貿易政策の布石であったと考えられる。はじめにグローバリゼーションあり,「ところが」アメリカ帝国の概念が急速に普及したとする教授のアメリカ帝国論の書き出しは,グローバリゼーションとアメリカ帝国発端との重要な因果関係を見過ごしているように思えるのである。

 60年代半ばにおいて国際競争力に自信を失ったアメリカが,その後四半世紀をかけて,国防用研究開発のスピンオフだったインターネット通信とウインテル技術で立ち上げたパソコン革命を通じて世界市場を制覇し,市場開放,自由競争の同意語であるグローバリゼーションの旗印を掲げてアメリカ基準を世界基準に置き換えることに成功したとき,アメリカは「帝国」の座を固め,ワシントンへ通じるアッピア街道の主要な道程が築かれた。したがって,グローバリゼーションを抜きにしてアメリカ帝国論は語られぬし,アメリカに「帝国」の座を約束したのは世界市場の自由化を標準化したグローバリゼーションにほかならない。 

 『帝国―グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』の著者,アントニオ・ネグリ(Antonio Negri)とマイケル・ハート(Michael Hardt)によれば,本来グローバリゼーションの概念は,一つには,異質なグローバルの力が神の手で世界市場に調和をもたらす資本主義の行き着く本質であり,他方,グローバルの力を超越した単一権力と,自己中心的な合理性によって作り出される秩序という二面性があり,単一の超国家的形態を備えた政治的権力の法的定義の源泉であるとされている。かれらの見識によれば,アダム・スミスの唱えた神の手とは,政府の干渉を排した自由競争がもたらす市場の調和そのものであり,リカルドの説く比較優位を前提とした自由貿易による国際市場秩序の自然調和であり,自由貿易を推進する原動力となった現代のグローバリゼーションは,適者生存という自己中心的な経済的パラダイムの前提に立つ資本主義を先導したとする。この結果自由貿易のグローバルなルール,すなわちグローバリゼーションは,資本,技術,軍備のすべてにわたる比較優位が一極化し,超国家を台頭させた,政治的必然性の一面をも持ち合わせているということになる。ネグリとハートの,このような明快な−しかし,ややマルクス的資本主義批判の視点に立った−グローバリゼーションの実像は,「世界における国際関係の現状や将来は,すべてグローバリゼーションとの関連で語られる」ほどに現代の国際秩序に重大な影響を及ぼし,この秩序のなかでアメリカの経済的,軍事的権勢は頂点を極め,アメリカを単一の超国家的形態を備えた「帝国」に祭り上げたのである。

2.アメリカの「帝国」的プロフィールとネオコン思想

 一般に近代的な意味合いにおける帝国とは,グローバルな版図を構えた単一権力形態の政治秩序と一人勝ちの経済的生産力の合成であると解される。アメリカが「帝国」として投影され論じられている主要な理由にも,デジタル兵器を駆使した,その圧倒的な軍事力やソフト技術分野におけるグローバルな経済的覇権の合成が背景にある。アメリカは超国家的形態を備えた「帝国」であるとの論評をもっともらしく普及させたのは,「悪の枢軸」や「圧制の拠点」を名指しして,そこに力ずくでも自由を取り戻させようと迫るアメリカの単独行動主義であろう。

 ソ連が崩壊すると,文字通り世界覇権のヒエラルキーの頂点に立ち,自由を高々に謳いパックス・アメリカーナの再建を担って,手はじめに圧制とテロの拠点制圧のためアフガン介入を敢行し,矢継ぎ早に,国連決議を待たずして,大量殺戮兵器を隠し持つフセイン政権打倒とテロの温床の根を断つことを大義名分としたイラク戦争の開戦に踏み切った。その一方で,国際刑事裁判所議定書の署名撤回を始め,経済成長への負の投資を迫る京都議定書の署名をしぶり,WTO脱退をほのめかすなど,国際社会における協調路線へ独り逆行しようとする。このような政治,経済,軍事面における超大国の単独行動主義は,「グローバルの力を超越した単一権力と,自己中心的な合理性」によって,アメリカ中心の世界秩序を構築しようとする,アメリカの「帝国」としての権力行使の敢然とした意思表示であると受け取られてきた。

 戦後アメリカは,その最強の軍事力と圧倒的な経済力とによってパックス・アメリカーナなる世界秩序を形成し,ソ連との冷戦に対決し自由民主主義のリーダーの座を固めた。しかし,すでに述べたように,60年代以降,EECや日本の台頭により,その経済競争力の低下が問われ,パックス・アメリカーナの末路近しと危惧された時代を迎える。したたかなアメリカは,60年代には,EECとの対決を視野に1962年通商拡大法を制定し関税障壁の撤去を図り,80年代には利己的で容赦なき日本叩き政策を打ち出して,ソ連より脅威だとした日本経済の台頭を抑えこむことに成功を収める。

 さらに,アメリカはIT革命の波に乗って,グローバリゼーションという名のもとに自由化,規制緩和を世界各国に迫り,さらにプロパテント政策を推進して世界のソフト市場の独占を達成した。この勢いはとどまることを知らず,21世紀初頭に迎えたIT産業のバブルを乗り切り,そのまま高い成長率と生産性を維持しながら単一の超国家的形態を整えた「帝国」を形成した。

 「帝国」を率いるブッシュ大統領が単独行動主義を推進する思想的背景に,新保守主義(ネオ・コン)の影響があることは衆目の一致するところである。ジート・ヒーア(Jeet Heer)がボストン・グローブ紙(Boston Globe)に寄せた論説によれば,ネオコンの思想的指導者として,いまは故人となった,哲学者で,シカゴ大学で教鞭をとったレオ・シュトラウス(Leo Strauss))教授が挙げられる。かれはドイツ系ユダヤ人で,第二次世界戦争中ナチの迫害を受け,身をもってリベラル派は権力に対抗するのにあまりにも弱体であるとの体験を経た。シュトラウスの政治観は,エリートによる真理の追究より,大衆の物質的生活向上を最重要課題に掲げる政治のあり方を批判するかたわら,三権分立を確立し,行政府の強い権限を保障したアメリカ憲法を支持するものであった。シュトラウス派の保守主義者は,国内では近代リベラリズムの倫理的相対主義を排し,外交面では,ソ連とのデタントを否定した。そして,ホワイトハウスを根城としてブッシュ政権を支えるシュトラウス派のエリート集団は,悪の枢軸国家やテロに立ち向かう強いアメリカの外交政策を積極的に展開し,なんの躊躇もなく強大な「帝国」権力に基づく単独行動主義というリバイアサンを野に放ったのである。

 このようなネオコン思想の体現は,『利己的な遺伝子』(邦語訳,紀伊国屋書店,1991)の著者リチャード・ドーキンス(Richard Dawkins)のいうように「盲信はすべてを正当化する」というテーゼに則るかのように展開されていった。ドーキンスによれば,悪の枢軸国家やテロに立ち向かう強いアメリカを信仰する人々は,単独行動主義のような,もっぱら利己的な合理性を追求した行動に駆り立てられても,それを容易に正当化することができるのだということになる。ドーキンスはいう「信仰は精神疾患の一つとしての基準を満たしているように見え,…どんな対象であれ信仰は人々を強く帰依させ,極端な場合はそのためにそれ以上の正当化の必要なしに人を殺し,自らも死ぬ覚悟をさせてしまうのだ。」と。ドーキンス流にいえば,独裁者フセインを倒し,その後にアメリカ型民主主義を根付かせようとする固い信念のもとに,国連安全保障理事会の決議という最小限の政治的良心や妥協に基づく協調行動に目を背け,他国の主権を侵してまでも単独行動をとらせたアメリカの軍事外交政策は,宗教的な盲信ととらえられてもしかたがない側面があることは否めない。

3.永遠なローマ帝国とアメリカ

 ネグリとハートが引用する,ローマ帝国の歴史家ポリュビオス(Polybios)は,ローマ帝国の永遠を信じ,ローマは,有徳な一人支配(君主制),貴族政,民主政をバランスよくあわせもったからローマの平和を築き世界支配をなしとげたと主張した。ポリュビオスは,政治形態が,都市国家から君主制へ,専制から貴族政へ,寡頭制から民主制へ発展する過程の究極において,無政府制へ政体は転換して循環するとする,当時の「帝国の歴史は循環的に発展するとする」とした循環論的歴史観に反論して,ローマ帝国を構成した君主政,貴族政,民主政の理想的な権力構造が集積されて永遠のローマ帝国の基盤が構築されたと,その著書『歴史』の中に書き残した。

 アメリカを「帝国」として君臨させた主役のブッシュ大統領や妄信的ともいえるネオコンのエリート集団による単独行動主義は,強いアメリカ「帝国」の政策なき外交戦略と指弾されて内外で不評をかっている。単独行動主義は強大な大統領の権限と圧倒的な軍事力,経済力を兼ね備えた「有徳な一人支配」の体制が,「帝国」の権威と権力を率直に表明したものであり,グローバルな平和維持の主導権をにぎろうとしている意思表示である。この一人支配の体制は,ポリュビオスの描いた「君主政」にたとえることができるかもしれない。

 一方,アメリカ国内には,大統領選に敗北したものの,民主党のケリー上院議員をはじめ,ブッシュ政権の築いた「有徳な一人支配」体制,とりわけ,その外交戦略を強く批判し,ブッシュ政権の単独行動主義を追放せよと訴える国際協調派に率いられる反対勢力がある。

 スピノザやマルクスに傾倒したネグリとハートは,近代的帝国の理想型とは,脱中心的なネットワーク状の支配機構であり,換言すれば,従来の国家概念を超越する,民主政を理想とする統治体であり,スピノザのいう「主体的群集」「社会の総体」によって組織されるコミュニケーションのネットワークを原動力とする自由な経済行動である,とする。そして,かれらの指摘するように,シアトルやジェノバで展開されたデモの群集は, この理想型を具体化する「主体的群衆」の役割を演じるアクターとして,「帝国」の領域内に自由な単一的世界市場を形成しようとするブッシュ政権のグローバリゼーション政策を批判する「もう一つの反対勢力」が胎動している。

 これら二つの反対勢力を,ポリュビオスの永遠のローマ帝国の構図の中で描かれたような,君主政と並存した,貴族政,民主政という三位一体の構成要素としてとらえ,現代のアメリカ「帝国」の持続する繁栄に寄与している,とする仮説に一応の説得力がないだろうか。

 すなわち,上述したように,有徳な一人支配とみなされるブッシュ政権の単独行動主義がローマ型帝国を構成した君主政と位置づけるならば,ケーリー上院議員に率いられるような,この君主政に反対する国際協調派の良識や良心は,アメリカ本土における持続的繁栄を優先し「安定を願う富める層」によって代表される貴族政としてとらえることができるだろう。

 また,はじめてシアトルで反グローバリゼーションを大合唱したデモの群集は,適者生存の自由主義を排し,公平な平和の配当を要求するいわば「主体的群衆」であり,君主政と貴族政のみで取り仕切ろうとする近代民主主義をチェックし,権力者や富裕層階級から分断された「忘れられようとする民の声」の重みを訴える群集によって代表される民主政とみなすことができるだろう。

 ブッシュ大統領が再選された昨年の暮に,メディアは,単独行動か国際協調かの選択を問い,再選がアメリカ体制の分断をもたらすだろうと悲観的な報道を伝えた。けれども,その多民族国家形成の歴史の系譜の中で独立戦争や南北戦争,そして民権法制定などによって投影された対立や分断のすき間をたくみに埋めてきたアメリカ民主主義体制は,報道されたような分断の危機を乗り越えたものと考えられる。そこには自由と繁栄,宗教的倫理観の復権というイデオロギーが掲げられ,権力と富,そして主体的大衆という階層間に「チェック・アンド・バランス」の相互作用が有効に働き,「帝国」の理想的ガバナンスが果たされた,と思えるのである。

4.文明の衝突−平和への脅威

 ポリュビオスが描いたローマ帝国の恒久的繁栄のシナリオは,そのリベラルな辺境植民地政策でもろくも崩壊したのかも知れない。あるいは,中央の軍事的ガバナンスが,台頭した周辺国の軍事,経済力の優位に屈して,潰え去ったのかも知れない。ローマ帝国は滅んだが,時代を超え名を変えて帝国は連綿と続いている。李鐘元・立教大学教授の指摘するように「人類の歴史のほとんどは帝国の歴史であった。」そして,人類の歴史は,本来強者を頂点とする利己的支配体系のハイラルキー的系譜であった。強者は,その版図の拡大を図り,そのエネルギーは,軍事力,経済力,政治力そして科学進歩などの顔をもった文明によるものであった。まさに帝国盛衰の歴史は,文明盛衰の歴史でもあった。

 『文明の衝突』の著者サミュエル・ハンチントン(Samuel Huntington)は,その著書のなかで詳細に,文明の類型,盛衰の歴史を分析,叙述している。西洋の文明が,中世の暗黒時代をくぐりぬけ武力や科学の優位性の基礎の上に世界的規模における社会的ヘゲモニーを樹立する。その過程において,そもそも東に起源を置くキリスト教を狂信的に西から東へと伝道し,非キリスト教社会の多元的な異種文明へ干渉した。このキリスト教の原理主義的な教義を振りかざした異種文明への干渉は,現代にまで受け継がれている。すなわち再選を果たしたブッシュ陣営が唱える,政治経済的「自由」と宗教道徳的「規範」というダイコトミーを飲み込んだ選挙戦略によって「帝国」本土における政権安定の基盤が確保されるや,これを足場として, 外に向かっては,フランス,ドイツとの関係修復策を模索しながら,「圧制の拠点」を自由の名によって制圧するという外交姿勢に姿を変えた干渉が行われていると受け取られている。 

 ハンチントンによれば,このような干渉が,西洋文明こそが個人の自由,民主政治,法治主義,人権,文化的自由の基礎をなす優れたものとして,おごった信条のもとに推し進められ,そこから発する文明の衝突が「世界秩序と安全保障への不安定への最大の危機をもたらす原因となり,多文化社会の紛争の種」になったのである。インターネットによるグローバル・コミュニケーション氾濫時代におこるべき,このような文明の衝突は,過去の歴史におけるような,閉ざされた局地的な摩擦にとどまることはなく,インターネットという地球規模のオンライン情報伝送ネットワークを通じて,より多くの異文化社会を取り込んだ衝突に発展し,一方的な主張や宣伝がホームページの上でよりリアルな映像を伴って直接視覚に訴えながら,ときに誇張されて,即時に広域に伝播される。

 『利己的な遺伝子』の著者リチャード・ドーキンス(Richard Dawkins)は,文化と遺伝子との係わり合いにおいて興味ある観察をしている。遺伝子は自己複製を重ねる自己複製子であり生存機械であるが,同時にその遺伝子も1世代で半減し,果てはほとんど消滅する。されど自己複製に執念を燃やす遺伝子は,複製され,また消滅しながら,ダーウインの説く自然淘汰や突然変異を介して新しいものに変化する過程のなかで,人間が創造した文化,人間が共有する文化は,その伝達や,模倣を通じて,遺伝子の変化に重要な影響力をもっている,というのである。このような変化を遂げる遺伝子をドーキンスは「ミーム」(meme)と名づけている。すなわちミームが文化というプールのなかで,「広い意味で模倣と呼びうる過程を媒介として,脳から脳へと渡り歩き」ながら変貌するのである。さらにドーキンスのミームは,文化という垣根越しに互いに競争しあう「利己的」で「残忍」な遺伝子であるととらえられている。この説に同調するならば,将来の国際間の紛争は,異なった自己複製子の衝突であり,文化を内包する文明の利己的で残忍な衝突が限りなく続くものと危惧されるのである。

5.アメリカ「帝国」の抱える課題

 西洋の帝国主義,見方を変えれば「火薬とコンパスによる軍事力で強要されたグローバリゼーション」の潮流は,主として,失業や腐敗などの,西洋の没落の内因を除くため,アフリカ,アジア,アメリカ大陸の軍事的,経済的弱小国,未開地域を植民地化し経済的収奪を進めながら,西洋文明をもって多元的異種文明に干渉し,その優位を誇示する方向へと奔流した。アフリカからダイアモンドを収奪して巨利を得たセシル・ローズの「このままではイギリスは失業者で氾濫してしまう。」という悲鳴に同調し,植民地拡大の利己的倫理は容易に肯定され,武力による帝国主義のグローバル化と西洋文明の優位が世界に定着してゆく。

 「古典的グローバリゼーション」と翻訳できるであろう「帝国主義」の植民地収奪の圧制に対抗して独立,建国の大義を掲げたアメリカ合衆国は,その経済力の発展と軍事力増強のため,ヨーロッパ移民やアフリカ奴隷,さらにアジアやヒスパニック系の移民を受け入れて,多元的文明を抱えた大国へとのし上った。20世紀において二度のわたる世界大戦と東西冷戦の勝利者として,パックス・アメリカーナの主導者となり,さらに今日的帝国に擬せられる覇権国家の地位に君臨した。「火薬とコンパスによる軍事力」に支えられた「古典的グローバリゼーション」に,かって反旗を翻して立ったアメリカは, 皮肉にも,IT分野におけるソフト技術革新や多国籍資本を駆使した経済力をバックとし,「近代的グローバリゼーション」を布石とした「帝国」として君臨したのだ。

 覇権国家の繁栄は,国際競争力,生産性の比較優位や経済成長の持続的発展と,それに支えられる軍事費の確保と政治的駆け引きの知恵にかかっていることはいうまでもない。『大国の興亡』の著者ポール・ケネディ(Paul Kennedy)は,利害対立の絡み合う複雑な国際社会において,いまや一人支配の地位に見合った責任を引き受けたアメリカの直面する危機は,「帝国の広がりすぎ」と指摘している。現在のアメリカ「帝国」のかかえる重大な課題は,アメリカのGDP世界シェアに不釣合いな程に,国際平和と安全をコミットする領域の「広がりすぎ」にあるように考えられる。

 現在のアメリカ経済は50兆円を超えるような財政赤字と貿易赤字の双子の赤字を抱え,「帝国」の国際競争力の低下とその世界の景況に及ぼす不安材料が取りざたされている。IT関連ソフトやバイオなど比較優位の分野における技術革新の将来には,オープンソースの普及という挑戦や薬害などに対する巨額の損害賠償を請求する団体訴訟という阻害要因が立ちはだかっている。さらに,ITバブルを乗り越えて再生したアメリカ経済発展の将来には,生産性の伸びに伴う国内雇用の停滞というトレードオフ的な悲観要因もある。そして,このような経済力の持続的発展に対する不安材料に加えて,アメリカ「帝国」は,その広がりすぎた版図における安全保障を担保する軍事費が重過ぎる財政負担の要因になり,短期的には「帝国」を支える財政の赤字解消の先行き見通しを暗いものにしている。

 それより以上に,広がりすぎた「帝国」の版図を抱えるアメリカの最大の危機は,さきに触れたように,イスラエルやイラク,イランにおけるイスラム文明との衝突であり,ハンチントンのいうように,「世界秩序と安全保障への不安定への最大の危機をもたらす原因」である「異文明との衝突」である。ネオコンの少数エリートの良識が支配するアメリカ外交政策は,9・11事件を契機として,過激化したテロ撲滅をねらった平和強制のための単独行動主義を容認する。アメリカを分断するとまで憂慮されたイラク介入で一段と表面化した異文明との衝突は容易に回避されないだろうし,フランス,ドイツの主導する古い大陸との,国連運営上のきしみは,イラク総選挙結果の当座の成功によって若干緩和の兆しが見えてきたというものの,戦後のイラク民主化の道筋は,国連安全保障理事会主導の国際協調の路線においても,当分の間その全容が見えてこない。

 一方,アメリカを敵としジハードも辞さずと真っ向から対決するイスラム文明圏においては,「神々の復活」を信じて疑わないイスラム原理主義に帰依し,現世における耐え難い貧困から解放されるように彼岸のアラーの救いを求めるイスラムの職なき若者たちが巷に満ち溢れている。このような来世に福音を求める貧しき若者たちは,「アメリカの容赦なきテロ撲滅戦争は,その名を借りた,イスラム文明に対する西洋文明の不当な干渉であり挑戦であって命をはって,その挑戦と対決する。」という信念を引っさげて立ち上がることにためらいはない。この一元的な盲信と決死の行動は,イラク総選挙の成功やパレスチナでの民主主義の始動の兆しを例に引いて, ブッシュ大統領が2005年の一般教書で報告した中東の民主化進展に寄せる楽観的な情勢判断にかかわらず,イスラム社会における救いなき貧困の深刻化とともにアラブ全土に広がっていく様相をみせている。

 さきに述べたように,再選を果たしたブッシュ政権は, 保守的キリスト教の信仰とナショナリズムの団結を訴えて国内的にはアメリカ分断の危機を乗り切り,2期目の国内政治基盤安定の道程は見えてきたようである。そしてライス国務長官の選任や,ラムズフェルド長官の留任で,圧制からの解放とテロの封じ込めをねらう外交路線は一応踏襲され,「自由」を掲げて21世紀のパックス・アメリカーナを率いるアメリカの「帝国」としての体制強化の前提条件はひとまず整ったように見える。しかし,イスラム文明への干渉と受けとられるようなイラク介入の戦後処理や,主要なテロ支援国家とイランなどを名指しした今後の中東戦略の具体化は,第2次ブッシュ政権の引き継いだ外交政策の重要な懸案として残された。

 ブッシュ大統領の前出一般教書においては,公的年金対策など国政の緊急課題に重点志向し,テロ対策を頂点とする中東外交政策にも,それなりの自信と余裕を示した。しかしテロの脅威を取り除くことはアメリカ「帝国」の平和と安全にとって最重要案件ではあることは変わりない。第2次ブッシュ政権が,ハンチントンの指摘するような「近い将来の最大の世界平和への脅威」となる文明の衝突を避けるために,一般教書のなかで「アメリカは政治のあり方を他国に押し付ける権利も意図もない。」と力説する。このような中東融和政策をほのめかした一般教書には, 欧州の同盟国と連携する道筋を模索しつつ,平和維持の強制力に欠ける国連を国際協調の場として認知し,その動向にも多分に気を配りながら,そして圧制の拠点と名指しした国家に対しても,自由を掲げるアメリカ民主主義への道筋を指し示しながら,文明の衝突を上手に回避しようとする「帝国」の良識と寛容が取り戻されようとしている筋書きがうかがわれる。

6.アメリカ「帝国」と平和のシナリオ

 いま,世界の平和が何らかの求心力を求めて維持されていかねばならないという期待と願望は根強い。多くの帝国論の先達たちも,多元的な平和の維持,腐敗を追放する強力な理性的権力,その権力を支える合意形成のグローバル化,そして,さらに重要なことは,多元的文明との共生という崇高な目標を達成することによって,平和で安全な国際社会を招来させるというシナリオを描いている。このようなシナリオは,すでに明文をもって第二次世界大戦の戦勝国によって国連憲章として法文化され,平和の創造と平和維持の強制が安全保障理事会に課せられた重要な使命として規定されていた。

 国連憲章に謳われた平和構想においては国連が戦後の国際平和を維持する求心力であるとされ,「国連の平和」時代が到来するものと想定された。国連憲章の主要シナリオライターはアメリカであり,平和維持の主役が安全保障理事会であり,安全保障理事会の表決には,戦後の戦勝5カ国の同意投票を取り付けることが平和強制の求心力となった。このような戦勝国の主導した国際平和構想の実施には,当事国間のイデオロギーの相克,むきだしの大国覇権主義が障害になって,とりわけ東西冷戦時代においては国連に求心力を求めた平和の維持,強制行動が実際上制約され, 国際平和維持への求心力として期待された国連はゆがめられた国際的平和推進母体の虚像となった。

 冷戦終結以後も,この国連安全保障理事会のゆがめられた意思決定手続は,今回のイラク戦争開戦に際しても醜く露呈された。イラク戦争におけるアメリカの単独行動が,「帝国」のおごり,石油利権の収奪として批判されるべきか,ロシア,中国の覇権主義,フランス,ドイツの反戦姿勢が,テロの温床を温存し,圧制に苦しむ大衆を内政不干渉として見放すような代償を払って,「帝国」の横暴をけん制するチェック機能を果たしているのか,これらはすべて後世における歴史の審判を受けるべき問題ではあるが,国連を求心力としての平和創造の時代の到来は今出しの感はぬぐえない。

 世界の平和が何らかの求心力を求めて有効に維持されていかねばならないという要請は,「国際の平和及び安全の維持」を国連創設目的の冒頭に掲げ,そのため有効な集団的措置をとり, 国連が世界平和の求心力の母体となると条約に宣言するばかりでは達成できない。平和の強制まで信託された集団的措置は,ときに臨機応変な武力行使を伴った,確固たる求心力が働かなければ有効に機能しない。 

 国連に有効な平和,安全維持と強制力の発動を期待できないとした場合,アメリカがパックス・アメリカーナを支える「帝国」と権威と力を自覚して,民主主義体制を先導し,圧制に苦しむ人民を解放し自由社会を再構築するというイデオロギー実現のため単独行動に踏み切ることも,そこに国際平和維持の求心力が求められ, 世界の平和と安全が現実に担保されるというぎりぎりの要請と期待にかなったものではないだろうか。

 アメリカの唱える自由とか平和というイデオロギーさえもドーキンス流に短絡的にとらえれば,もっぱら自己複製子に支配された「ミ−ム」の利己的な動機で追求されるものであり,そこには石油利権あり,テロから一人勝ちの自国権益,一人だけのユートピアを守ろうとする利己的な動機が潜在することは否めないかもしれない。また,その利己的動機を警戒しながら,EUやロシア,中国は既得権としての自らの覇権を防衛するため利己的な最適な外交手段に打って出るだろう。

 李教授は,「本当に米国がグローバル化された国際社会を推進しようとするのであれば,軍事よりは政治,経済,文化などとの面で,もっと各国と協力していく」必要があると主張する。この良識を批判する論拠はまったく見出しがたいのではあるが,グローバル化された国際社会の平和と安全を担保するためには,その理念と秩序を実現する求心力と実行力を必要とするだろう。この求心力は国際社会が納得するイデオロギーであり,この実行力は治安維持警察に必要な即戦力すなわち時宜を得た平和強制力であり,適者生存という競争社会のマクロ的予想軌道を修正し貧困を追放できる政治力,経済力であると思う。そういうイデオロギーと力を,アメリカが「帝国」という権勢と力をバックとした,そして必要とするならば国際的コンセンサスの場としての国連を押し立てて,21世紀のパックス・アメリカーナの構図が描けないだろうか。

 この構図においては,アメリカが「帝国」という自己の鏡像に責任をもって,自由をモットーとした平和と安全の維持を実効あらしめるためパックス・アメリカーナの基盤強化を図ろうとするならば, その建国の歴史と異文化国家の運営から学んだ体験を生かして,文明の衝突を避ける知恵がもとめられるのではないか。そして第二次世界大戦の戦勝国や,EUの経済大国が,「国連という衣」に「覇権主義という鎧」を隠してアメリカの単独行動主義を批判するばかりではなく,その「帝国」の責任と行動力を適正に評価して国際社会の平和維持を目指すグローバルな協力体制に熱意を示さなければならないだろう。

 アメリカが「帝国」として君臨し続けるか,あるいはEUや中国が明日の「帝国」の座を引き継ぐかのいかんを問わず,人類の歴史において強者が弱者を従える利己的なハイラルキー構造としてとらえられる帝国の系譜は連綿と引き継がれるであろう。

 ドーキンスはいう。「純粋で,私欲のない利他主義は,自然界には安住の地のない,そして世界の全史を通じてかつて存在したためしのないものである。」,しかしながら「私たち人間には,私たちを産み出した利己的遺伝子に反抗し,さらにもし必要なら私たちを教化した利己的ミームにも反抗する力がある。」と。  

 私たちはいずれの帝国が支配する国際社会と秩序のなかにおいても,人類の平和と安全の恒久的維持を図るために,利己的遺伝子に反抗し,もし必要ならば,私たちを教化した利己的ミームにも反抗する力が発揮できることを信じよう。
(2005年2月22日受稿,3月16日受理)

 

[参考文献]

1)入江昭,「米国帝国論の流行」,朝日新聞「思潮21」,2002-12-2
2)アントニオ・ネグリ,マイケル・ハート,『帝国−グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』,水島一憲他訳,以文社,2003
3)Richard Dawkins,Selfish Gene,Oxford University Press,1989,pp198,201,330
4)Samuel Huntington,The Clash of the Civilization and World Order,Simon & Schuster,1996,p321
5)李鐘元,「新『帝国』に戸惑う世界」,朝日新聞,2003-2-24
6)Jeet Heer,“An Author of Neo-conservatism”,Boston Globe,2003-5-13 
7)Paul Kennedy,The Rise and Fall of the Great Powers,Fontana Press,1989,p.p.665-666
8)エンカルタ総合大百科,「ポリュビオス」2003