故アラファト議長と中東
――その逝去に寄せて

前吉備国際大学教授 安延 久夫

 

1.はじめに

 2004年11月,アラファトPLO(パレスチナ解放機構)議長兼パレスチナ自治政府議長兼ゲリラ団体ファタハ首領が死去した。同氏は良かれ悪しかれパレスチナ問題を半世紀をかけて舞台の隅から中心にまで引き上げた人である。
中東紛争は,イスラエルが1948年,国家設立を宣言して以来,世界の火薬庫として存在した。

 東西冷戦時代,米ソが中東地域で熾烈な指導権争いを演じたのは,この地域の両大国の勢力圏が判然としていなかったためである。
 
 英仏の後退と,新しい勢力として登場した米国,当時発言権を増していた非同盟諸国といわれた第三世界の国々。これを取り込もうとするソ連(当時)と,中東に指導権を打ち立てようとする米国が激突した。
 
 このような米ソの世界的戦略の下で,パレスチナ問題が世界政治の,あるいは中東地域,大国の政治的道具として利用されたのは無理もない。

2.戦後の中東紛争史

 1952年,エジプトの大統領に就任したガマル・アブデル・ナセルは,中東だけでなく第三世界の雄を志し,パレスチナ解放の旗手としての立場を確立しようとしてPLOの創設を図り,アハメッド・シュケイリを初代PLO議長に据えた。ナセルはシュケイリが強硬演説を行うだけで実行力がないことを知っていたからである。なまじ行動を起こされ,イスラエルの反撃を受けては,当時のナセルの地位を危うくすることを知っていた。ヤシル・アラファトが第2代PLO議長となったのは1964年である。ナセルはPLOを彼の目的に沿う遊撃隊に使用しようとしてアラファトの実行力とバランス感覚を買った。条件としてアラファトはナセルの被後見人となることであった。
 
 中東問題は,以後イスラエルとアラブ世界全体の問題として存続した。

 戦争でも平和でもない状態が,重要な部分で変化を見せ始めたのは,1991年10月30日に開かれたマドリードの中東和平国際会議であった。それまで中東紛争の核心と言われながら,いつも脇役の地位に追いやられていたパレスチナ人が主役の一人として舞台に躍り出たことである。

 これはアラブ強硬派が従来拒否してきた米国主導による中東和平構想に,イラクを除く全アラブ諸国が参加したという驚くべき事実であり,底辺にうごめく反米感情を別にすれば,アラブ世界に反米の声は耳を澄まさなければ聞こえないようになった。

 この現象は,米国以外に中東問題を解決できる国はないというアラブ世界の,口惜しいけれど受け入れざるを得ないという諦観が生じたためであろう。

 しかし,イスラエルとの共存を説く声は,すでにアラブ側から1965年に発せられていた。それはハビブ・ブルギバ故チュニジア大統領である。筆者が中東に駐在していた1965年,同大統領は,イスラエルとの平和共存を呼びかけ,アラブ世界に大反響を呼び起こした。パレスチナ解放の旗手を自任していたナセル・エジプト大統領は直ちに真意を問い訊した。ブルギバは,国連決議案,つまり到底イスラエルが呑めぬ和平案を条件としたことをナセルに告げた。ナセルはニヤリと笑ってブルギバ案を了承した。これでアラブ側が平和を欲していることを世界に広めたからである。

 73年のゴルダ・メイア(女性)政権はパレスチナ人の存在を否定,そんな人種は聞いたことがないとしてパレスチナ国家の承認に否定的でアラブ側の一見融和的態度とは対照的であった。この頃の中東問題は,戦闘力に勝っていたイスラエルの一方的外交に終始していたといってよい。

 この中で拘束力のない国連総会はパレスチナ国家建設を決議,77年6月1日までに,すべての占領地からイスラエル軍は撤退し,撤退後の領土はパレスチナ解放機構(PLO)に引き渡すとのパレスチナ国家建設をうたった決議案を採択し,ソ連(当時),中国,非同盟諸国など90カ国が賛成,米英西独など16カ国が反対,日本は棄権した。

 一方,75年12月,ジャーナリストらイスラエルのリベラル派が,パレスチナ住民に自決権と新国家建設の権利を認めるよう政府に圧力をかけるためイスラエル・パレスチナ平和評議会を設立,PLO承認運動を開始した。

 こうした国際環境の変化を注意深く観察していたのが,PLO議長ヤシル・アラファトであった。PLOはそれまでもシャティーラ・キャンプをはじめ,アラブ各国にまたがるパレスチナ避難民キャンプ内に学校,診療所,食糧供与などの施設を作り,福利厚生に力を注いだ。と同時にアラブ各国を巡回して資金の供与を仰いだ。パレスチナ人の解放は当時アラブの旗印であったから,醵金に反対することはパレスチナの大義にそむくことを意味し,誰もがこぞって醵金,筆者もヨルダンの首都アンマンの喫茶店でパレスチナ人の少年が客を回って歩く醵金箱に,外国人ということで50デイナールを入れざるを得なかった。

 アラファトPLO議長は,当時のソ連,西ドイツ,ノルウェー,英国,フランスを歴訪して各国トップと会談,PLOがパレスチナ人民の唯一の代表であることを印象付けた。

3.米国の中東和平政策

(1)マドリード和平会議
 湾岸戦争当時(1991),国際社会におけるソ連の急速な無力化は,中東地域だけでなく,世界各地の社会主義,あるいは紛争地域に本質的な変化をもたらし,大勢としては開かれた国を目指しての和平への動きが一つの流行になった。中東も決して例外ではない。中東でイスラエルをはじめアラブ当事国が,米国提唱の和平会議に参加したのは無理もなかった。
 
 それでは湾岸戦争終了後,米国はなぜ中東和平会議開催を急いだのであろう。

 まず四つのポイントがあったと思われる。

 第一は,社会主義の崩壊現象の中で欧州をはじめ世界新秩序の方向がいまだ不透明な時に,中東でパックス・アメリカーナによる秩序の先鞭をつける。

 第二は,湾岸戦争での軍事的大勝利が,アラブの反米感情に結びつかないようにするためには,イスラエル寄りでない中東和平を早急に実現し,アラブの友人としての地位を確立する。

 第三に,中東地域の安定によって西側先進国にエネルギー源である石油の安定フローを確保したい。

 第四に,たとえフセイン・イラク政権が中東で復権したとしても(その可能性はゼロに近い)強硬路線をとりにくい環境を作り上げておきたい。そうなれば,反米色が濃いイランの勢力拡大の防波堤にもなり得る。

 これが達成されれば,欧州その他の地域において,アメリカン・プレゼンスを必要とする認識を植えつけることにつながる。

 これが米国をしてマドリード和平会議を急がせた理由であろうと思われる。

 こうみてくると,現在のイラク戦争の米国の思惑と,そう変わりない。

 連日の自爆テロで米国兵,イラク人に多大の死傷者が出ているのは,湾岸戦争当時と違い,相手が国家ではなく,アル・カーイダを中心とする遊動テロ集団であるからである。資金源を絶ち,この集団をイラク国内で孤立化させる政策を米国が欠いているからである。

 パックス・アメリカーナがイラクで実現するか,あるいは挫折するかは,もう少し時間が必要であり,日本のメディアが「泥沼化,大義なき戦争」と叫び立てるのは,近視眼的であろうと思われる。

 由来,人類の歴史において,話し合いで決着がついたためしはない。細部にわたる国境確定は別にして支配か被支配かを決めたのは軍事力であり,古代ローマ帝国のジュリアス・シーザーは支配後,征服した部族や民族の文化をそのまま許容している。これがローマ大帝国を長年維持できた理由であろう。

 米国がイラク戦争後,シーア派やクルド族代表を集めての国民大会議を意図し,イラク人による国家建設を急いでいるのは,パクッス・アメリカーナによる和平を望んでいるからである。

 このような和平への方向を支持していたのは,故アラファト議長であった。イスラム世界の中東において同氏ほど宗教を押し出さなかったパレスチナ指導者はいない。ゲリラ団体ファタハの首領,PLO議長としての同氏が訴えたのは郷土復帰運動,つまりパレスチナ国家の樹立であり,解放闘争であった。一方,イスラエルの前労働党政権(暗殺されたラビン前首相やペレス前首相)はランド・フォア・ピースを唱え,平和実現のためランド(占領地)を返還することを公約した。イスラエル側も純粋な領土問題として,初めて同じ土俵の上に立った時代である。まさにアラファト議長の永年意図したゴールが,かすかながら見え始めた時である。

 中東和平会議は,マドリード会議が初めてではない。1948年の第1回の中東戦争後も開かれたし,その後も米国やイスラエルが和平提案を行い,73年の10月戦争後,同年12月にジュネーブで和平会議が開かれたことがある。

 マドリード会議の特徴は,パレスチナ人代表が,ヨルダンとの合同代表団の形とはいえ,和平会議のメンバーとして登場し,ヨルダン代表団と同じ演説の時間を与えられたことであり,イスラエルとアラブ各国との個別交渉では,イスラエル側と交渉に当たることをイスラエルが初めて承認し,アラブ側が,これを黙認したことである。ここで初めてパレスチナは,従来のアラブの政治的道具の地位から独立した政治勢力として認められたことになった。アラファト議長は同会議に出席はしなかったが,パレスチナ代表団は逐一電話で指示を仰いでいた。

(2)アラブ,パレスチナの思い
 中東は,宗教が複雑に混在するので,解決が困難であるとよく言われる。しかし,それは一つの修辞であって,実質は力,あるいは民族あるいは部族の存在をかけての争いである。民族や部族あるいは国家の存在とは,それぞれが持つ文化の維持である。習慣,伝統といってもよい。これらが消滅の危機に瀕する時,猛烈な抵抗が生じる。あるいは何かにすがりつこうと懸命になる。

 イスラム原理主義の過激集団であるハマスのヨルダン支部事務局長は,かつて次のような言明をした。

 「われわれは正当な平和解決をアラブ・ナショナリズムに期待した。しかし,アラブ諸国の支持は不十分だった。われわれはソ連(当時)の社会主義に期待した。結果は見ての通りだ。われわれは欧米の民主主義に窮状を訴えた。西側は何もしてくれなかった。結局,われわれが頼るのはイスラム原理主義しかなかったのだ。」

 この言明に見る限り,イスラム原理主義の勃興は,彼等が政治的目標を達成するための道具に過ぎないことが判る。中東問題のカギは,宗教だといわれるが,これら過激派のイスラム原理主義は,別に宗教でなくても,他の有効な手段があれば,それでもよかったのである。パレスチナ問題に対する世界の無関心が,ハマス過激派を増大させ,テロ行為に走らせたとも言える。

 同列に論することはできないにしても,日本がおおらかに受容した仏教は,日本民族の存亡に影響がごくごく少なかったからであろう。仏教は,四足の獣を食することを禁じたが,日本民族は,もともと四足獣を食さず,貝や魚が主食であった。もし日本民族が四足獣を食していたならば,多神教の土台があったとはいえ,仏教の移入には反対したであろう。なぜなら,日本民族の食習慣や伝統の危機,ひいては存在の崩壊をもたらすからである。利害が一致すれば,あるいは自己のアイデンティティが守られれば争いは起こらない。今風に言えば主権独立国家の主張,ないし権利が守られれば平和は一応達成される。

 アラファト議長が追求してきたのは,まさに自民族の主張を要求できる国家であった。アラブ諸国は,これを自己政権の維持のためにも支持した。パレスチナ独立国家の誕生はアラブ世界で反対できない汐流となっていたからである。

 故サダト・エジプト大統領は,ソ連がまだ米国に匹敵する超大国として東側諸国に君臨し,アラブ強硬派を強力に支持していた時代に,ソ連依存の無意味さを見抜き,米国が中東和平の99%のカードを握っていると言明して米国依存を強め,当時のキッシンジャー米国務長官の中東外交を受け入れて,77年11月エルサレムに飛び,イスラエルのクネセット(国会)で演説して和平を締結した。その際パレスチナ問題解決への糸口をも作り,パレスチナ人の自治政府樹立と,その後の最終的ステータスに関する余地を残した。

 ソ連との間で1971年に締結した友好協力条約を76年に一方的に破棄した後の同大統領の動きは,まさに驚天動地の反響をもたらした。

 当時PLOはサダト構想を拒否し冷笑した。アラブ世界はこぞって同大統領を裏切り者として非難,同大統領はイスラム原理主義者によって81年10月6日に暗殺された。

 しかし同大統領の勇気と決断が,それまで硬直していた中東情勢に風穴を明けたことは,その後の歴史の示す通りである。故サダト大統領の国内政策に,種々問題があったことは事実であるが,以後の中東世界では,82年9月モロッコのフェズで開かれたアラブ首脳会議がパレスチナ独立国家と引きかえに,イスラエルの生存権を承認するフェズ憲章を採択するなど従来固守してきたイスラエルに対する「ノー」政策から,アラブとして統一平和案を出すなどの柔軟性を見せるという重大な変化をもたらしたのである。しかも,マドリード和平会議では,パレスチナ人代表が自治政府樹立交渉を受諾しても,アラブの裏切り者という非難は,ほとんど聞かれなかった。あの東西冷戦という対立構造の中で,アラブ諸国の非難を覚悟の上で西側への傾斜という非同盟国として極めて大胆な試みに故サダト大統領が挑戦したことは銘記されてよい。反米,親ソで出発したナセル・エジプト大統領が,その束縛から逃れ得なかったのに比べ,1970年秋ナセル死去後,跡をついだ故サダト大統領には束縛される枷がなかった。

 故アラファト議長にあやまちがあったとすれば,ナセルの影響から完全に抜け出せなかったこと,ナセルを師と仰いだイラクのフセイン前大統領へのアラブ大衆の圧倒的支持に動かされたためであろう。

 湾岸戦争は米国の圧倒的な勝利に終わったが,この時ブッシュ大統領(現大統領の父親)はバグダッドまで攻め込まなかった。イラクの力を温存してイランに対抗させる思惑があったのである。

 湾岸戦争当時,フセイン前大統領は,イスラエルにミサイルを撃ち込み,イスラエルの報復攻撃を待った。実現すれば米軍相手の戦争をアラブ・イスラエル戦争にすり替えることができる。アラブの英雄になれると踏んだわけである。ところが,イスラエルの自重(米国の強い要請による)政策によってフセインの目算は失敗した。

 武力によってクウェートに進攻したイラクは侵略者となったが,反米感情の風土を持ったアラブ諸国は,フセインを“アラブの楯”として支持した。フセイン万歳の声がアラブの一部に拡がった。湾岸戦争で多国籍軍の一翼として米軍に参加したシリア,エジプト,あるいは沈黙を守った他のアラブ諸国と違って敢然と抵抗したイラクを支持した方がアラブの大義に沿い,パレスチナ自治政府への支持が増大すると見た故アラファト議長は,アラブ世界で唯一バグダッドを公然と支持した。しかし,大多数のアラブ諸国は,フセイン政権が湾岸諸国に影響力を拡大し,アラブの名の下に石油を専有することを憂慮した。だからイラクを支持した故アラファト議長への送金を減少ないしストップする国々が増え,同議長はみるみる資金難に陥った。アラブの大義,つまりパレスチナ独立国家の念願を前面に押し出してアラブ諸国支持を再び取り付けるのに4年有余を要したといわれている。

 アラブの汐流は全体としては確実にイスラエルとの平和共存に向かっており,故アラファト議長の指向とも一致する。この点からみると,2001年9月の同時多発テロは,パレスチナ・イスラエル問題の進捗にプラスの要素として働くことになった。

 2001年の同時多発テロが起きた時,日本のマスメディアは,従来にはなかった対決の型と論評した。

 少なくとも米国はこのテロが起きる前からアフガニスタンのタリバン政権の崩壊を狙っていたが,介入の正当化が難しく,苦慮していた。ウサマ・ビン・ラーデンとその麾下にあるテロ組織アル・カーイダのテロ行為は,米国にとっては介入を正当化する絶好の口実となった。

 ウズベキスタン,タジキスタン,トルクメニスタンなどの中央アジア3カ国は,旧ソ連邦の中の共和国であったが,ソ連邦崩壊とともに独立共和国となった地域であり,石油,天然ガスなど地下資源の宝庫である。
同地域へは各主要諸国が影響力の拡大を狙っており,米英,ロシア,中国などの指導権争いが次第に顕在化している。

 NATO(北大西洋条約機構)の東方拡大に成功した米国にとっては,さらなるフロンティア精神を発揮したいところである。

 アフガニスタンは,米軍事力の行使でタリバン政権を崩壊させた。米国の後押しで誕生したカルザイ政権は,親米政権というより,親米にならざるを得ない状態で,米国の経済援助なくしては存続できない。

 パキスタンのムシャラフ政権は,周辺諸国との微妙な関係に配慮を欠かせないながら,米国の影響力が増大している。インドは反米でもないし,反英でもない。中国との国境紛争で二度も敗戦しているインドは米英との友好保持,ロシアとの関係も現状維持路線を指向している。米国はインドの外交路線におおむね同調している。

 つまりNATOの東方拡大の延長線上に,これらの諸国があり,米国の勢力は地球を半回りして中国に達する。

(3)米国のフロンティア精神とダブル・スタンダード
 この米国のフロンティア精神に対して挑戦状を叩きつけたのが,アル・カーイダのテロ作戦であった。

 しかし,無辜の旅客を犠牲にして平和な貿易センターを破壊する行為は,目的のためには手段を選ばず式の冷酷な暴挙であり,これがイスラム原理主義過激派の本質であるならば,米国の怒りの感情を共有することに異存はない。

 ビン・ラーデンの対米挑戦状の背景としては,米国のフロンティア精神を遡る必要がある。なぜなら,フランティア精神には多大な侵略的要素が含まれていると思われるからである。

 1620年メイフラワー号がマサチューセッツの海岸に到着した時,先住民のアメリカ・インディアンは漁撈法や農業の手順を親切に教えた。コロンブスは,スペインの女王にサンサルバドル島の住民の性格を礼儀正しく平和を愛好する民族と書き送っている。

 しかし,1789年以降,白人とインディアンとの間に締結された370の条約のうち,守られた条約は一つもない。白人にとって条約とは初めから騙すための形式であった。白人にとっては,未開の蛮地を文明の沃土に変えて行く不撓不屈の精神こそフロンティア精神だった。白人移民は幌馬車隊をつらねて太平洋岸のカリフォルニアまで突き進んだ。その前には太平洋が拡がり,抬頭し始めた日本との太平洋争奪戦が勃発,米国は太平洋のほぼ全域と日本を支配化においた。

 日本は太平洋の主導権争いに敗れ,米国のフロンティア精神はとどまるところを知らない現状である。次の大戦は,行きつくところ米中衝突となろう。米国にフロンティア精神がなくなれば,それは米国の終焉を意味する。このフロンティア精神が米国文明の表向きの理念だとすれば,内部の理念はマニフェスト・デスティニー(天意)である。つまり白人が自らの進んだ社会制度を大陸に広めたのは,神の定めた明白な宿命だという理論である。インディアンの土地を奪い殺戮する行為を神の定めた明白な宿命とする理論は,民主主義と自由と人権をスローガンとして今後もさまざまな形を取って進むであろう。アフガニスタンにおける軍事行動はテロ懲罰という恰好の理由を得て,マニフェスト・デスティニー発揮の場所となった。1776年に東部13州で英国からの独立を宣言した米国は,以後200年の間に星の数を50にまで拡大した。星条旗は侵略の象徴である。メキシコと戦端を開いた後,1848年の講和では,カリフォルニア,ニューメキシコの両地方を割譲させた。米国は,この戦争でアラモ砦を忘れるなの合言葉で闘った。

 1898年米国は,スペインと戦端を開くため自国の軍艦メイン号をキューバのハバナ港で自爆させて250人の犠牲者を出し,国民を開戦に駆り立てた。これがメイン号を忘れるなである。太平洋戦争では,「真珠湾を忘れるな」である。人権,民主主義の正義が侵略国家日本を打倒したとの極東裁判史観と,1945年8月14日付のニューヨーク・タイムズ紙の社説は,建前とそのうしろにかくれた米国の本音をよく現している。

 社説の見出しは,「太平洋の覇権をわが手に」というもので,「われわれは初めてペリー以来の願望を果たした。もはや太平洋に邪魔者はいない。これでアジア大陸の市場と覇権は米国のものになった」と書いている。

 民主主義と自由と人権というレトリックは素晴らしい響きを持つ。要するに,米国の正義というのは同国の利害,国益の拡大にほかならない。ウサマ・ビン・ラーデンの対米挑戦状の意味が判らぬでもない。

 地球上には約190の独立国があり,共通する正義もあり,相反する正義もある。つまり正義とは,それぞれの国の国益である。だから絶対的正義というものはない。人権や自由や民主主義は,一見反対しようがない理想であるが,それが誰にでも平等な正義であるかというと現実にはあり得ない。現実にはダブル・スタンダードの正義がまかり通る。これに対する不満,怨念が同時多発テロを引き起こした原因という感覚を否定することはできない。

(4)変化する米国の政策
 ただ米国の民主主義,自由の概念には,懐の深さがあることが救いである。

 アフガニスタン人に関する米国の世論調査では,好感度52%,反感が40%,1993年の世界貿易センター爆破事件ではアラブへの好感度39%,反感32%,不明29%に比べて,9・11の同時多発テロ事件では,アラブ人に対する好感度54%,反感37%となっている。これを学歴別にみると,大学卒の好感度62%,反感34%,非大卒者は,好感度と反感が同数の44%と均整がとれている。ブッシュ大統領がアラブ世界における反米感情を宥和する発言をしたことも,この数字と無関係ではない。米国におけるイスラム教徒の数が900万人から1000万人に増え,ユダヤ系国民を凌駕した現状も加味すべきであろう。イスラム教徒に対するいやがらせや脅迫事件もないことはないが,少なくともアメリカ人の大多数が幌馬車隊による円陣隊形(インディアンの襲撃に対して馬車による円陣を作って防いだ)の中に国内にいるアラブ人を入れてやろうという心境の変化の現われと受け止めることができる。

 公民権運動以来,米国は文化一元主義から文化多元主義へ成熟する過程で,それまで排斥していた種々の民族集団を円陣内に受け入れるよう努力した。少なくとも米国の知識層は,ファシズム,共産主義,イスラム原理主義を米国内の文化一元主義,国内のキリスト教原理主義と同一と見做し,これらに対する批判を深め始めたという新しい傾向がある。米国がまだまだポテンシャリティーを持つ国という点に,まだ望みを持ち得ると思うのは,間違いであろうか。

 9・11テロの直後パレスチナ自治政府管内のパレスチナ人が,同時多発テロの成功に狂喜する姿があったことは事実であり,フセイン・イラク大統領(当時)は当然の報いとしてアル・カーイダのテロを賞賛した。しかし,パレスチナ自治政府議長のアラファト氏は,恐ろしい行為だと非難,ムバラク・エジプト大統領はテロは何の解決ももたらさないとその愚かさを非難した。アラブ21カ国と1機構から成るアラブ連盟もこのテロを非難する声明を出した。以来アラブ世界は,アフガニスタンにおける米軍の軍事力行使にほとんど非難の声をあげていない。今回のイラク戦争においては,米軍の不法行為に対する非難はあるが,全体的にはイラクの穏健化を志向している。

 アラブの戦略眼は,冷徹である。熱し易く冷め易い面と同時に,幾多の異民族の通路となった中東では,どちらに同調した方が民族益あるいは部族益に叶うかという感覚が研ぎ澄まされる。中東紛争解決のためには,米国に依存せざるを得ないという嗅覚が,反米感情と同時に存在する。ウサマ・ビン・ラーデンのイスラム原理主義は,究極のところアラブの国益や部族益にプラスにならないと見極めたのではないか。実利主義,現実主義がまかり通るケースがアラブ世界では間々見受けられる。ウサマ・ビン・ラーデンの“聖戦”(ジハード)は,あまりに純粋すぎたのではないか。

 アラブ世界はいま反米のうねりはあるにしても,パックス・アメリカーナを待ち望んでいる。パレスチナ自治政府とイスラエルの和平交渉は,米英のお膳立てを待っている。この平和へのロードマップ(行程表)が進捗し,完全和平とまでは行かないまでも,双方の合意で話し合いが始まればパレスチナ問題は一息つける。

 アラブは注意深く見守ることができる。同時に,米国はイラク戦争で新しい戦略を立てる必要に迫られよう。正念場であると同時に,地球を取り巻く米国の靭帯は中国を除いて完成する。米国にとってはイラクとパレスチナを幌馬車隊の中に含有できるかどうかの正念場になりそうである。

 そのためには,ダブル・スタンダードの民主主義,自由,人権ではなく,双方に平等なものでなくては,アラブ側が納得しないであろう。具体的にはブッシュ大統領が,どれだけイスラエルの主張を抑え得るかである。

 ブッシュ大統領が歴代米大統領の中ではじめてパレスチナ独立国家容認を打ち出したことは多とすべきであろう。この点については,ウサマ・ビン・ラーデンはパレスチナ側に偉大な貢献をしたことになる。1970年代に,故サダト・エジプト大統領が将来への予見としてパレスチナ独立国家を平和の最終形態として呼びかけたことを,ブッシュ大統領は約30年後に踏襲したわけである。パレスチナ国家は歴代イスラエル内閣が,もっとも先送りしたい事柄なのである。

4.最後に

 カリスマ的な存在だった故アラファトPLO議長は,イスラエルからは和平への障害者,テロリストとの指弾を受けたが,その後継者となったアッバス議長は,「アラファト氏は,われわれの指針であり続ける」と言明した。同議長は,2005年1月の自治政府議長選立候補し,当選は確実とみられるが,和平交渉再開を求める穏健派として,米国とイスラエルの受けもよい。しかし,イスラエルに融和的であるために,パレスチナ人強硬派,つまりイスラム原理主義過激派から裏切り者として暗殺される恐れがある。パレスチナ側の団結はもろくも崩れ去ることになる。

 イスラエルにとっては,有利な交渉を開始するチャンスであるが,イラク問題でアラブ世界の支持を得るためには公平なパレスチナ和平が不可欠であり,米国のイブン・ハンデッド・ポリシーが,今ほど求められるときはない。

 イスラエルが勝者の和平提案にあくまで固執するのを抑止できるのは米国だけであり,これがイラク情勢にはね返るのは論を俟たない。中東全体にパックス・アメリカーナが実現するかどうか,もう少し時間が必要であり,イラク戦争勃発以来,自爆テロによる米軍の死者は04年12月で1300人にのぼった。しかし,死傷者の数にこだわることは全体像を見ない論評であろう。

 イスラエルで04年12月17日,強硬派シャロン首相の率いるリクード党に対アラブ交渉派の労働党が大連立に合意したことは明るい材料である。ペレス労働党党首は,過去2度首相を務めたことがあり,1994年には中東和平へ向けての貢献により,故アラファト議長とノーベル平和賞を共同受賞した。今回の大連立でペレス党首は,シャロン・イスラエル政権の副首相としてアッバスPLO議長との交渉に当たる可能性は高い。

 この際,テロリスト,ゲリラ,あるいは独立解放の指導者は,それぞれの立場から呼称が変えられることを念頭においた方がよい。

 もっとも重要なことは,中東でパックス・アメリカーナが成功した場合,北朝鮮,中国への米国の圧力は強大なものとなり,米国の同盟国としての日本は,かなりフリー・ハンドを持ち得るであろう。

 逆の場合,つまり米国が目的を達成せずに中東から撤退を余儀なくされた場合,米国の世論は孤立主義に向かう公算が強く,日本はひとり北朝鮮,中国と対峙する恐れが出てくる。中東での米国の成否は,直接日本の運命に関わってくると思われる。大きな力には,大きな責任が伴うことを米国は自認する必要がある。
(2004年12月25日受稿,05年1月20日受理)