「知行合一」の実践による全人教育

群馬社会福祉大学長 鈴木 利定

 

1.はじめに

 少子高齢社会の進行とともに,それに対応した社会の仕組みへの移行が願われている昨今であるが,そのためのさまざまな諸改革が各分野で進められている。その中で,特に社会を構成する人間の教育は,すべての根幹に据えられるべきことではないかと思う。

 本学は,教育の立場を基本において福祉を見つめながら,ひとつひとつの知識と技術の習得はもちろんのこと,人間としての根源的なもの,人格教育,深い徳の涵養などを図るべく教育に当たっている。それは本学の建学理念として,儒教精神を置くからである。すなわち,「質実剛健,敬愛,至誠」の三則を庭訓とし,この慈教の根本思想である「忠恕」を加えて四則とし,大本の「仁」,並びにそれらを展開した「親義別序信」の五倫,「仁義礼智信」の五常を踏まえた「礼」の実践,統合した仁愛の精神を建学の理念とし,人格陶冶とその発揚とした知行合一の心身教育を実践している。即ち,具体的には,現代の教育に一番欠けていると思われる体験・実践に焦点を当てた教育を進めている。そこで,ここでは,それらの取り組みを中心として紹介してみたい。

2.「知行合一」の実践

(1)ボランティア活動
 陽明学の基本には,「知行合一」という考えがあるが,それは熟慮の末の良心の実践を為すことである。そのことを具体化した取り組みが,ボランティア活動を必修科目として単位認定し,毎週土曜日を「ボランティアの日」として定めたことである。それは教室では実感できない人の心の機微,仕事へのやりがいなどを現場で体験してもらうのである。

 まず,どこでどんなボランティアをするのかを自分で探させる。そして実際にボランティアをした後は,大学に戻ってグループワークを開き,そのボランティアの実践活動について反省・話し合いなどを行うとともに,全体集会の場などでグループごとの内容を発表する。また各学生にはレポートを提出させる。このようにボランティア活動を単なる実践だけにとどめるのではなく,フィールドワーク,ディスカッション,プレゼンテーションといった段階を経ながら,学生の問題発見能力や問題解決能力を鍛えようとしている。

 そうした実践活動を通して学生は,自分は何を課題として設け勉学に取り組めばいいのかがはっきりしてくる。他大学でも教えている非常勤講師の先生からは,「大きな大学の学生と比べると,ここの学生は勉学に取り組む意欲や姿勢に積極性が見られる」という声をよく聞く。私自身も,ボランティアなどの実践によって学生の心がこんなにも変わる(成長する)とは予想もしなかったことで,実際驚くほどの成果だと思う。実践によって知識が生きたものとなるような気がする。こうした経験を積み入学後1年も経つと,学生は自分がどのような方向に進んだらよいのかという自分の進路・生き方がかなり明確化されていく。

 本学のようなある意味で職業の方向の定まったような大学でも,学生はやはり知識の教育だけでは自分が将来どのような道に進んでいったらよいのか,なかなかわからないものである。しかし,実践を通して初めて自分の問題意識が明確化され,何を学べばよいのかがわかるようになる。特に福祉の場合は,人間の心の問題が密接にかかわっている仕事であるので,知識だけの教育には限界があり,それが実践・行動と一致してこそ相手に自分の思いも伝わっていく。

 例えば,障害者施設で脳梗塞によって言葉を失った人を介護することを考えてみよう。そのような場面ではどう接すればよいのかについて教科書で学び授業で話に聞いていても,いざ実際の場面に出くわしたときに学生は,何もできなくなってしまうことが多い。しかし,そのような体験を通して学生は,自分の限界をはっきりと知るようになり,どうすればよいのか自ら考えるようになる。

 ある男子学生は,このボランティア活動をきっかけにして毎朝3時起床で5時までに施設に行き,入居者の歯磨き・介助などの手伝いをするようになり,それを1年以上継続した。その結果,その施設のどこに何があるのかなど,施設の職員以上に詳しくなった。そこで一定時間内にある仕事をどれだけこなせるのか,職員と競争したところ,結局職員の方に負けてしまったという。それで本人は,「自分は大学に通うよりは,直接施設に就職して資格を取る道を選択した方が,そのような技術もたくさん学べてよかったのではないか」と漏らしたことがあった。[介護福祉士の資格は,国家試験を受けて取得する場合と,その専門課程をもつ所定機関(短期大学・大学など最低2年間の課程修了)を卒業して取得する場合とがある。]それに対して私は,「学校の有用性とは何か。福祉活動において介助の能率を上げることだけで果たしてよいのか。そのような技術面のみならず,むしろお年寄りが心地よく,満足できるような精神面のことも勉強しながら,真の福祉・介護を学ぶことの方が,かえって時間をかけたとしても長い目で見たときにはもっとよいのではないのか。それこそが真のプロなのではないだろうか。」と話した。いずれにしても,ボランティア活動の実践を通してそのような自覚をし,課題が浮かび上がったことが重要なのである。ここに実践の価値があると思う。

(2)知識と実践
 このような実践活動をしながらもそれを整理・反省してフィードバックし,それを知的面から再び理解しなおすことで,それが身に付いて人格となるところに,高等教育の価値がある。仁,慈愛などの抽象的で難しい言葉を最初に講義して教えることも大切であるが,基本はあくまでも,まず実践することによって体・心で感じることが先行しなければいけない。その経験を土台としてはじめて「仁」「慈愛」などの概念を理解することができるのである。

 例えば,福祉施設での介護実習やボランティア活動の現場の中で,お年寄りのオムツを取り替えるときに,そのお年寄りが一体心の中で何を要求し,介護者に何を願っているのかを察知して要望を聞き入れてやることが,プロとしての仕事であり,「仁愛」「敬愛」の真の姿なのであると説明すると,彼らはすーと理解することができる。相手を敬うこととは,まさにそのような行為であると心でとらえることができ彼ら自身が心底納得するのである。

 従来,学校教育の道徳教育においては理屈を学ぶこと(先知後行)が多かったように思うが,その点でこのようなボランティア活動などの実践(知行合一)を通してこそ理解が深まるといえる。道徳律などが個人の人格としてしっかり身につくためには,どうしても生活的なレベルでの実践活動が必要である。それを学校というところで実践を通して体認させる作業が,今の教育においては一番緊要な課題になっているのではなかろうか。

 また,最近の社会問題の一つになっているフリーターやニート対策にしても,このような取り組みは職業へのアプローチを促すいい機会になると思う。しかも,集団活動により共通の話題が生まれるので,学生相互間の往復交流ができるようになる。この往復交流によって,次の活動への動機付けが活性化されていく。それゆえ,学生は,「高校とは違った意味でいい友達,気の合う友達ができる」といっている。このような活動・実践によって将来の職業選択の道などが見えるようになる。

 ただ,そのような場を準備するわれわれは,たくさんの材料を提供しなければならない。例えば,施設の祭りには学生のみならず大学の職員も後片付けを手伝い,障害者のスポーツ大会では職員も総出で準備から後片付け,障害者のサポートなどをする。しかし,その結果,相手(障害者や被介護者)とともにわれわれも喜ぶことができる。これこそが「共存共栄」「共生」の真の意味である。一方通行ではなく,往復交流をすることによって,人は自分の課題を見出し,自分が何をすべきか気づくことができる。支援,援助は,一方通行の行為では「迷惑」であり意味をなさない。

 ここに哲学の必要性が出てくる。福祉の根幹には「人間論」が据えられなければならない。真にいい仕事をしようとすれば,やはり実践の上に哲学を持つことが大切である。私の人間論の核心は,「論語」の哲学である。論語は,自分を修める方法,人をいかに治めるべきか,逆境に陥ったときにいかに乗り切るかなどについて,具体的生き方を実践的に述べている。それゆえ,私は何か困難に陥った時などには必ず論語を読む。すると必ずその解決策が示されてくる経験を多くしてきた。

(3)清掃活動の意義
 福祉においては,自分がもしそのような境遇に陥ったときに,先ず人に何をしてもらいたいのかを考えて,目の前の活動に取り組むべきである。そして,人間として自分をよりよく見てもらうためにまずすべきことは,基本的生活習慣である「あいさつ」「掃除」の実践である。それらは生活レベルにおいて一番重要でありながら,今の大学生に一番欠けている側面である。そこで本学では,学生全員に学内の清掃を毎日の日課として義務付けた。もちろん,業者に清掃を任せればきれいに仕上がるし容易なので,われわれ経営サイドとしては楽なのだが,しかし学生の精神的な教育を考えてあえてこのような取り組みをしている。

 「清掃」こそが日常生活を科学し,さらに実践する上で最適な学習の場となり得るとの教育理念のもとに,「環境美化活動」として取り入れたのである。授業で習得した科学的知識に基づく実験的研究や共同作業における人間的事象を実践的に研究し,そしてものごとの本質を思慮する態度を培う。清掃とは物理的に環境を美しくするものであるが,ひとりひとりの「人間性の美化」という精神的な営みこそが最終的目標なのである。

 また,福祉や保育施設,養護学校,図書館などに就職すれば,そこにおいては清潔と整斉は重要なことである。掃除をすることによって,その施設に対して愛情がわいてくるし,それこそが人間の心ではないのか。なぜなら,清掃は,ある意味で「文化」であるので,清掃する姿はその人柄を表し,ある能力が必要な作業である。即ち,仕事が学問である。

 そこで本学では,学生と町内の人たちと一緒になって近隣の清掃活動を行っている。その中では,町内のお年寄りなど世代の違う人々との共同作業をすることによって,いろいろと学ぶことも多いようだ。また近所の方々からも,「若い子が掃除してくれるので,町の活力にもつながる」との評価も得ている。世代間交流をむしろわれわれ自身が隔離しているような気がする。

 さらに一つの試みとして,本学ではAO入試にこの「清掃」を取り入れた。5〜6人のチームを作り,一定時間(90分程度)を決め「何をどうするか,手順はみなさんで相談して下さい」と指示して,構内の清掃をさせる。チームで清掃に取り組むときには,誰かがリーダーとなり,またある人は補佐役を担うなど,それぞれの役割分担が自然とできてくる。清掃という目的を果たすために,各人がそれぞれの役割分担を持って運営がしっかりと行えるのか,つぶさに観察することで,一人一人の特性や能力が見えてくるのである。例えば,その過程において机や椅子の並べ方といった決まりやルールなどが必要になると,メンバー同士で話し合うなどして進めなければならない。その後,それに関するプレゼンテーションをさせ話し合いをさせる。それによって計画性,統率力,実行力,気配りなどの能力が見えてくる。そうすれば改めて,面接をする必要はない。

 ただ現代の受験生を見ると,プレゼンテーションの能力には目を見張るものがある。下調べをして準備をし,言葉で語ることはまことに立派である。しかし,先ほど述べたように実践面が不足しているために,それらが観念的になっているのである。また,高校の教育との違いは,こうした清掃の意味,意義についてもきちっと説明することによって,実践と知的理解をうまく調和させる点にある。

 そのための場として,私が発案して各学年とも毎週1コマの「教養基礎演習」(単位認定科目)という授業を設けた。その演習の中では,さまざまな実践活動の意義や取り組み,今後への展望などについて個々の学生に意見発表をさせたり,責任など人間として基礎的なことがらを話題として話し合っている。これは私自身を含め,教員全体で授業を担当している。

 これからの時代は,学生に教育の実質的実りをつけていかなければならないので,授業の工夫が大いに必要である。大学生だから知っているだろうという安易な考えは捨てなければならない。特に,本学の場合は,高齢者や障害者を相手にする実習であるから,生活上のマナーや人との付き合い方,基礎的な礼儀作法をきちんと教えておかないと大変なことになりかねない。

3.これからの課題

 これからの福祉において一番大切なことは,相手をどう理解し,相手が何を望んでいるのかを早くキャッチしすぐ行動に移せるかである。例えば,ある人数の学生が施設に行き実践活動を行った場合に,中にはぼやっとして立って障害者の方を見ているだけの学生もいる。事前に授業などで教えていたとしても,現場に立つとそうなってしまう。彼に「何か手立てをしたらどうか」というと,何か行動を起こすのだが,またぼっとして立っている。だからといって,指導すべきわれわれが何から何まで指示するわけにもいかない。

 そこでこのような現状において,施設の方々とわれわれが目的意識を共有して取り組むことができれば,学生の教育は大きな成果を上げることができる。現実には,施設は施設,学校は学校でそれぞれの思いで取り組んでいるためにばらばらである。それを大きな目的に一致化させて取り組むことがこれからの実習現場における最大の課題である。そのためにわれわれは,ボランティア実習活動の後に,施設の職員の方たちとしっかりと話し合いを行い,問題点を出して今後に向けて改善していこうと思っている。しかし,まだまだの状況である。学生に接して思うことは,今の若者は素直でいい子が多いことであり,そこに希望がある。それゆえわれわれ教育者が,どう育てるかがより重要な課題となるのである。

 最後に,福祉を考える上での家族の意義について述べてみたい。

 核家族になると,祖父母は家族から離れた存在になってしまうために,彼らの貴重な伝統的・体験的な生活的知恵を受け継ぐことができない。われわれ人類はそれらを歴史的遺産として残していかなければならない。昔の人たちがすばらしいものを残してくれたおかげで,今のわれわれがあることを自覚すれば,昔の人=高齢者の人たちと一緒に生活し共存していかなければならない。

 動物は生まれてほどなく自立することができるのに,人間は生まれて十数年経って初めて成人になる。その十数年間,人間は何をするのかというと,人間として必要な知恵を体得する時間なのである。親子だけの核家族では,その教材が遮断されてしまう。その結果,伝統に基づく道徳律が切りそがれてしまう。歴史を刻んでいるようなものである。そのような世代をつらなる歴史的な遺産の価値を知るようになれば,高齢者を敬う心は自然と生まれるはずである。それがないがゆえに,介護虐待が起きる。さらには子どもを生まなくなり,子育てを怠るようになる。その意味でも三世代家族の重要性を訴えたい。

 今の介護保険制度の中では,自分の親の面倒を見ても介護保険の対象にはならない。他人が面倒を見ることによって初めて介護保険が適用される仕組みになっている。そこには「親孝行しなさい」という視点が欠如しており,これでは家庭のきずなが崩れていってしまわざるを得ない。こうした制度面に対しても,家族が社会の基礎であるとの儒教思想(仁愛)が有効であることから,それを今の社会にも生かして制度の改善につなげていく必要があると思う。
(2004年11月25日)