13世紀モンゴルの世界戦略と文化伝播

韓国産業技術大学校教授 申 鉉 徳

 

1.はじめに

 モンゴルは,歴史上もっとも広い帝国を支配した。当時の国境は,ユーラシア大陸の東側からヨーロッパ東部に至るものであった。このように,歴史上偉大な業績を残した民族であったが,現在は中国とロシアの間の一つの国家として存在している。

 ところで,英語圏の人たちの中には,「ダウン症」(mongolism)という意味にもモンゴルという言葉を使っている。ちょうど中国がモンゴルを蔑視して蒙古というのと同じである。しかしモンゴルは,歴史上最大の領土を支配したと同時に,文化や人類学などの面でも,多くの遺産を残している。モンゴルからさらに歴史をさかのぼって古くモンゴロイドまでたどれば,彼らが残した痕跡は,遠く離れたヨーロッパからイランなどのアラブ文化圏,エスキモーおよびインディアン,インディオに至るまで世界各地に残っていることを容易に知ることができる。

2.モンゴルの世界戦略

(1)「衝撃と畏怖」作戦
 2003年3月20日,全世界の人々は米軍主導の連合軍によるイラク攻撃を目撃した。作戦の名称は「衝撃と畏怖」(Shock and Awe)だった。米国が主導権を握った「衝撃と畏怖」作戦は,連合軍の大規模な兵力と高性能の武器でイラク軍を衝撃と恐怖の状態に陥れ,いっぺんに崩壊させてしまうという戦略だった。初期の段階において,この作戦は成功しているかのように見えた。攻撃が開始された後,連合軍は破竹の勢いでイラクを占領していった。5月1日,ジョージ・ブッシュ米大統領は空軍の戦闘服を身につけ戦闘機に乗り込み,空母エーブラハム・リンカーン号に降り立ち,艦上でイラク戦での勝利を宣言した。しかし,その後も戦闘は終わらず,今もなお繰り広げられている。

 ここで私たちが注目しなければならないのは「衝撃と畏怖」という作戦名である。この作戦の概念は,実は13 世紀世界最大の帝国を作り上げたモンゴル軍が選んだものでもあった。モンゴル軍は歩兵中心ではなく,主に騎兵で戦闘兵を編成,世界を制覇していった。モンゴル軍は中国と中央アジア,ロシアを占領し遠く離れたアラビア半島まで勢力を伸ばしイラクを占領した。イラクにとって今回のイラク戦は外部勢力による二度目の占領であった。

 当時モンゴル軍は,戦闘で2万人余にもおよぶ兵力を動員しイラク全域を襲ったとされる。しかし,これは単なる2万人余りの兵士ではなかった。彼らは一人あたり10頭の馬を引き連れ敵を攻撃した。馬は攻撃する兵士を保護し機動力を与えてくれる。現代でいうならば戦車のような役割をした。モンゴル軍は戦闘をする際,馬が疲れたら違う馬に乗り換えるという方法で進撃速度を一定化させた。敵が馬をよけてモンゴル軍を攻撃しようとするのは現代でいう装甲部隊の兵士を攻撃するぐらい難しい。兵士一人が戦車10 台を操作しているような衝撃を敵に与えた。そのため,敵はその衝撃に恐れおののき,モンゴル軍を攻撃する気すら起きなかったという。これが「衝撃」だった。

 また,馬はモンゴル軍に戦争で必要な兵士たちの食糧問題を解決してくれた。現代の戦争と比較してみよう。兵士一人が戦車10 台をあやつったとしたら,消費される燃料はどれくらいになるだろうか?また弾丸,兵士たちの食糧の調達,駐屯地の確保など,指揮官ならばこのような全ての問題を解決しなければならない。

 しかしモンゴル軍にはこのような補給線の問題がまったくというほどなかった。10頭余りの馬を引き連れても,馬に食べさせる草を持ち運ぶ必要がなかった。モンゴルの馬は遊牧で育ったためにいくら厳しい環境でも自ら草を探して食べ,命を維持することができる。また,馬は自ら肥え馬乳を出した。この馬乳はモンゴル人にとってはなくてはならない一番重要な食糧資源である。馬乳からは,広く知られている馬乳酒(アイラグ)をつくることができる(注1)。馬乳酒さえあればモンゴルの人は食べ物の問題の大半を解決することができるという。現代のモンゴル人の主たる食物の一つが馬乳酒となっている。

 また,馬は戦闘で包囲された時は非常食の役割も果たした。火をたくことができない,音を出すことができないなどの非常の状況下では,モンゴル人たちは馬の首の静脈に細い竹の筒を差し込みその血をのんで遊撃戦を展開させた。そして最後には馬の肉で生命を維持するなど数多くの用途に使われた。

 モンゴル軍の恐怖作戦は「降伏か,死か」と簡単に要約される。モンゴル軍は降伏してきた敵に対しては誰一人殺さなかった。降伏した敵や市民はモンゴル軍の指揮下の兵士や民として受け入れた。降伏してモンゴル軍に支配されるか,あるいは死ぬかを選ばなくてはならなかった。モンゴル軍は味方の兵士が一人でも戦争で死んでしまったら,相手の敵に必ずその罪を聞いたという。罪の代価はその部族や軍隊の全滅を意味した。そこには許しはなかった。であるがゆえに,その恐怖はどれほど大きかっただろうか?敵は戦う前に降伏する。降伏すれば,命はもちろんのことその文化までも終戦とともに残すことができる。一般の兵士や民衆の立場からすると支配する勢力が変わっただけで彼らの生活には変化はまったくなかった。むしろもっと広い国家の民として新しく編入されたのだった。もっと広い地域を行ったり来たりしても通行税も必要なく略奪勢力の危険もなく自由に往来することができむしろ喜んだという記録も残っている。

(2)広大な帝国の統治方法
 このような帝国を広げこれらを統治するのに,モンゴル軍は優れた力量を発揮した。モンゴル軍はまず壮大な帝国を一つの運輸・交通網で結ぶのに成功した。即ち,モンゴル軍は駅伝制(ジャムチ)という制度を導入して地方から中央政府まで報告し指示を受けるというシステムをもうけた。アメリカ時事週刊誌「タイム」が数年前に,過去1000年の間で偉大な人物の一人としてチンギス・ハンを選定したが,その理由はまさにこのシステムを構築したことであった。

 モンゴル軍はまた秘密保持のために優れた保安システムも発展させた。彼らは駅伝制による情報報告システムの保安を維持するために伝令達は少数言語を話す人たちを使った。少数言語を使う人たちは,現代通信保安で重要な役割をする秘話装置の役割を果たした。早い情報伝達と保安システムはモンゴル軍の機動性と秘密保持を最大に保証した。

 また,モンゴル人は被支配者たちが持ちやすい異質文化に対する拒絶感をなくそうと努力した。前述したように,米国を中心とする連合軍が優れた武器と偵察情報などを持っていながら,現在イラクで苦戦しているのにはいろいろな理由があるが,補給線と通信システムを思い通りに握りきれず異質文化の恐怖感を拭い去ることができないためだと戦略家は指摘している。

 米軍は敵より優秀な武器と高性能な情報システムだけ信じて,自慢するがごとくにイラクを攻撃した。まず米軍は進撃しながら部隊別に記者達を同行させた。世界各国の記者達を同行させて戦争より広報に力を注いだ。この点がイラク人たちの自尊心をわけもなく踏みにじってしまった。戦争の初期にイラク人たちが退廃したのは,明らかに「衝撃と畏怖」作戦に対する恐れからくるものだった。しかし米軍は衝撃と恐怖に陥ったイラク人の恐れを解放することを怠った。その結果,イラク人たちは米軍の弱点を見抜いた。米軍はイラクの軍隊よりアメリカの国民をもっと怖がっているということに気づいたのである。イラク人たちは米軍の優秀な武器に立ち向かうよりはアメリカの国民の命を危険にさらす作戦を選んだ。そして米軍が自分達の通信システムだけを信じるようにさせ,イラク抵抗勢力はインターネットと人工衛星を使った独自的な通信システムを利用し始めた。チンギス・ハンが持っていたような一番優秀なシステムを米軍も持っていたが,相手にも使わしてしまうような愚かなことをしてしまった。これがまさに米軍が苦戦している理由である。

 イラク人の立場からすれば異質宗教(キリスト教)が自分の地に足をつけることに恐れを感じている。彼らの生を支配してきた倫理が一日で崩壊してしまうことに対する恐れが死に対する恐怖よりもっと大きい。それでイラク抵抗勢力は自爆テロなどの極端な方法までも動員させているのである。

3.世界に残るモンゴル文化の痕跡

 モンゴルは,世界支配にあたって独特な文化政策を行った。現地の文化を尊重しながらも,モンゴルの優秀な文化を彼らに伝授するのに苦心した。強要するのではなく,多民族が受容するように対したと記録に残っている。モンゴルは,自分たちの人口が少ないことを考慮し,自分たちの文化を強要することは他民族の反発を買うと考えて,服従する者には自分の文化を維持させるようにしたのだ。世界最大帝国を建設できたのもこの政策の故だったのだが,一方で短い時間に没落したのも結局はこの政策のせいであったとモンゴル・アカデミーのチン・チェルン・ソドナム氏は指摘する。

 しかしモンゴルが残した当時の先進文化の痕跡は,東洋・西洋を問わず,いまだに世界のいたるところで見い出される。

 1984年世界が当時,ユーゴスラビアのサラエボで開かれた冬季オリンピック大会に見入っていた時,全世界の人々はサラエボが伝えるモンゴルの声を聞いてもう一度ヨーロッパに対するモンゴルのインパクトを認識することとなった。冬季オリンピックで「サラエボ〜」という公式テーマソング(注2)を使ったが,サラエボ冬季オリンピック委員会はこの歌がモンゴルのホーミー(注3)に由来すると注釈した。モンゴル人は,ホーミーとはモンゴルの伝統音楽で,体全体を使って出す魂の声のような神秘的な音楽だと説明した。

 また,私はヨーロッパのオーストリアの西部ザルツブルクを旅行しながらモンゴルが伝えたという「チゲ」(しょいこ)と「オンドル」(床暖房)をみて驚いた。チゲとオンドルは,韓国人が考え出した生活道具と生活方式である。しかし,これをヨーロッパに伝えたのはモンゴルだという。ザルツブルクの南方の山を登り降りする現地人は,チゲを使って彼らの生活必需品を運搬していた。床暖房は,現在ヨーロッパの高級住宅で使われており,特にドイツでは「フースボーデン・ハイツンク」(Fussbodenheizung)(床暖房)として最近高級住宅で使用されている。

 中国は「元」を自分たちの歴史だと強く主張している。しかし元の時代は明らかに異民族であるモンゴル族が中国を支配していた時期だったということは,世界の歴史学者たちの共通の認識となっている。しかし中国はモンゴルの支配時期を自国の歴史だと主張してその意見を認めない。その理由として中国人は,中国にはモンゴル(元)だけでなく清朝もあり,それらすべては中国に溶け込んで同化し漢族化したので中国の歴史だというのである。さらに中国は中華民国だとして自分たちが世界で一番だという。

 しかし実は,そうではない。歴史には確かに元という国があってその子孫たちがいまだにモンゴル国という独立国家を維持していることに,中国はひどくプライドを傷つけられているようである。それで彼らを「蒙古」と名づけ,モンゴル人を蔑視しているが,歴史的な事実を隠し通すことはできない。
中国内蒙古には,フフホト(呼和浩特)という都市があるが,その都市には王昭君の墓と銅像がある。中国がかつて漢の時代にモンゴルに朝貢を贈ったのだが,その中に絶世の美人(中国四大美人)である王昭君がいたという。このことが中国人の胸を痛ませているようである(注4)。

 ところで,「モンゴル」という単語は,モンゴル国家とモンゴル民族を称する言葉である。この言葉の意味は,中国人が主張する「中華」と同じく,モンゴルは「世界の中心」という意味だとモンゴル国外務省は説明する。こうしてみると二つの民族は全く同じ思想をおいて対立しているということができる。今は中国がモンゴルより国力があるが,12世紀の中国は「衝撃と畏怖」作戦を展開するモンゴル軍の相手にならなかった。
当時のモンゴルは約100万人,中国は約5000万人の人口であった。現在の中国の首都北京は,当時モンゴル(元)が定めた都であった。もしモンゴルが中国を統治しなかったら,現在のような大規模国家の中国はつくられなかったというのは定説となっている。

 ロシアも中国と同じくモンゴルの影響を大きく受けた。現在のモスクワは,モンゴルがこの地方を占領して統治する間に都市として成長して今日のロシアの首都になった。もっと重要な事実は,共産主義の中心国家であったロシアが選んだ共産革命理論の中で,共同所有・共同生産・共同分配の原則はモンゴル族が生活習慣として長い間守り続けてきたものであった。1917年,ソ連共産革命を成功させたレーニンがこの原則を共産主義に取り入れたのだった。彼はモンゴル人の子孫だったために,モンゴル人が生活習慣として守ってきた3原則が社会を平等にさせると信じていた。

 レーニンの父方の祖母は,モンゴルの一種族の出身で,母方の祖母は生粋のモンゴル族であった。モンゴルの首都ウランバートルには,レーニンの銅像がいまだに残っている。1990年にソ連が崩壊して民主化された時,スターリンなどの銅像はモンゴルの歴史を後退させたという非難とともに倒されてしまったが,レーニンはモンゴルの子孫ということで今もなおウランバートルのスヘバートル広場の一角に残されている。

 1960年代の米国ハリウッドでつくられた映画で,アンソニー・クイン(Anthony Quinn)が主演した「バレン」(原題The Savage Innocents,1960)(注5)をご存知の方も少なくないと思う。ある宣教師がエスキモーの地域に宣教しに行ったときに,大切なお客様が来たのでエスキモー人イヌク(Inuk)は自分の妻を貸そうとしたが,宣教師はそれを拒んだ。それに対してイヌクは怒り宣教師を殺してしまった。実は,この妻を他人に貸すという行為は,人口の少ない彼らの部族の中では近親相姦で人種的に劣った子どもが多くなる確率を減らすため,すなわち良い種をもらう行為としての伝統であった。この行為も歴史をたどれば,モンゴルから渡っていったものだと知られている。モンゴルにも「種」をもらう行為が近年までも残っていたという。自分の妻を他人の男と寝させる人がこの世のどこにいるであろうか。しかし,種族と家門の保存・保持のためにもっといい種をもらうためにはこの方法以外になかったためにできた風習であった。

 ここで考えなければならないことは,その風習と姦通とどう違うのかという点である。モンゴルでは,チンギス・ハンの時代に確立された大サヤ(一種の法規集)によって「姦通は死刑である」と定め,厳しく治められていた。どんな場合にも姦通は許されなかった。配偶者がいる男女間の個人的な愛は許さなかったが,これは現在と違いがない。良い種(血統)を得るための行為は氏族会議で決められた人同士の間では許され,そこで生まれた子どもはその男性の子どもとして認められた。これは悲しい話ではあるが,個人より種族を優先するという自己犠牲精神が強いことを物語っており,またこれはモンゴロイドが持っている美徳でもある。

 韓国の文化の中にも,モンゴルの痕跡が大変多く残っている。伝統婚礼で使われるチョクトゥリ(結婚の時に女性の頭につける冠の一種)とヨンジコンジ(女性の化粧)などの化粧法,服を作るときに使うインドゥ(裁縫のこて)などは,言語も物自体もモンゴルから伝わった。

4.最後に

 モンゴル人は,世界を占領するに際しては「衝撃と畏怖」作戦を使うが,占領した後には被征服人たちの文化を許容するなど「和解」を統治理念とした。被征服民族に対して絶対に自分たちの文化を強要しなかった。被支配民族が高い水準の文化を持っていると感じたら,自らモンゴル文化を受容するようにしたと記録に残っている。そして広い土地を支配するための運輸・交通システムを世界の最初に構築した。

 今日の世界の構図の基本は,モンゴルが作り上げ,今はほとんど消滅された共産主義の基本思想もモンゴルの生活習慣だった。このように偉大なモンゴルは,その先祖をたどれば今日「モンゴロイド」という名前で呼ばれながら,全世界に広がりその地で高い理想と夢をもちながら明日のための跳躍を夢見ているのである。

(2004年9月21日〜24日,韓国・ソウルで開催された蒙古斑同族世界平和会議において発表された論文である。)

*注1 馬乳酒(アイラグ)
 馬乳酒はモンゴルの遊牧民をイメージづける飲み物で,アルコール分が低く(1〜3%程度),酒という感覚では飲まれていない。アイラグとは酸っぱい液体という意味で,どの家畜からもその乳を蒸留して造ることができるが,一般には馬の乳から造った酒をアイラグと呼んでいる。馬の乳は攪拌するだけで発酵し酒として飲めるようになる。

*注2 
 1984年のサラエボ冬季オリンピックの公式テーマソングは,Ajde Slusaj Slusajで,国民的歌手であり作曲家でもあるヤドランカ・ストイコヴィッチ(Jadranka Stojkovic)が歌った。

*注3 ホーミー
 モンゴル人の伝統的な芸能の一つ。唇と舌を使って喉から絞り出すようにして声を出し,一人で二つの声を発声する珍しい旋律である。ホーミーは,滝や水の音色を真似たものだとも言われている。

*注4 王昭君
 楊貴妃と並んで中国の四大美女の一人。「薄幸の佳人」として描かれ,前漢末(紀元前1世紀),宮女王昭君は,自ら進んで匈奴族(現在のモンゴルに繋がる)の王単于に嫁いだとされる。このおかげで漢と匈奴族が60年も友好的に付き合うことができたという。遊牧民と農耕民との掛け橋となり数奇な運命をたどった。中国では京劇でも演じられるほか,日本では小説も出されている(藤水名子著『王昭君』)。王昭君陵墓は,フフホトの南9キロの大黒河の辺にあり,墓の高さが33m,敷地は5ヘクタールある。

*注5 
 「バレン」のあらすじは,次のとおりである。
 カナダの北極に住むエスキモー人イヌク(アンソニー・クイン)は,妻のアジャクをめとった。イヌクは,狐の毛皮を集めて白人に鉄砲と換えてもらった。しかしアジャクはそれを嫌って彼に鉄砲を捨てさせた。エスキモーの最大のもてなしは,妻を客に提供することであった。白人部落から宣教師がやってきた時,イヌクは妻を彼に貸そうとした。そして宣教師がそれを拒んだので,かっとなったイヌクは宣教師を殺してしまった。北方に旅に出たイヌクと妻は間もなくそんなことは忘れてしまった。旅が続く中,ある日飛行機でカナダの警官が宣教師殺しの罪でイヌクを捕らえにきた。飛行機が着陸の時故障し,警官たちは氷上を歩いてイヌクを連行することになった。困難な旅が続き,警官の一人は氷海に落ちて死に,もう一人は傷ついた。イヌクは彼を助け,傷の手当てをしてやった。旅をして生活をする中で,警官はイヌクが宣教師を殺したのは,エスキモーの習慣を宣教師が無視た故であることを知った。イヌクは少しも悪いことをしたとは考えていなかった。これを知った警官は苦しんだ。自分が彼を連行すれば,彼は死刑になるのである。イヌクを救出する方法は一つしかなかった。警官はわざわざイヌクを侮辱した。怒ったイヌクは氷原のかなたに一人で去って行き,警官は一人文明人の住む村の方に歩を進めた。