現代に生きる木下尚江
―木下尚江の朝鮮観―

 

韓国・鮮文大学校教授   矢ケ崎   秀則

1.はじめに

 木下尚江という人物については,私は中学校の頃からおぼろげに知っていた。それは,故郷(長野県)出身の偉い人というレベルであった。また,高校の頃には,彼が明治時代の社会主義者として有名であったことを知った。私の彼に対するイメージはその程度で,それ以後,ずっと私の関心事ではなかった。それは,私が近代史に関わらなかったということもあるかもしれないが,それ以上に,社会主義に対するマイナス的評価のためであった。

 しかるに,ひょっとしたことから,私が韓国という外国で教鞭をとるようになってから,あらためて日本の近代思想史をとりあげ,そこで意外な彼の側面にふれ,深く共感を抱くようになったのである。私が,共感を覚える理由をいくつか列挙してみたい。

 1)故郷(長野県松本)において,禁酒運動を展開したこと。

 2)芸妓設置反対運動をしたこと。

 3)当時,主流とされるキリスト教会に違和感を感じたこと。なぜなら,主流とされるキリスト教会は,戦争に反対せず協力したから。

 4)日清戦争,日露戦争に一貫して反対したこと。

 5)神の国を現実に建設しようという情熱をもっていたこと。

 6)彼の社会主義は,幸徳らのマルクス主義的社会主義でなく,キリスト教社会主義であったこと,そして彼がキリスト教だけに安住するのでなく,生涯求道の道を歩んだこと。

 7)当時,支配的であった侮蔑的朝鮮観に対して,彼は,隣国を本当に理解し尊敬していたこと。

 このうち,最後の項目について,今日まで,学界でも誤解があったことから,若干の説明をしてみることにする。それは,当時社会主義者たちがつくっていた週刊「平民新聞」の記事にあった。タイトルは,「敬愛なる朝鮮」という,当時としては,極めて異色の記事であった。

 この論説のタイトルからして,当時の論壇に一つの衝撃を与えたことは違いない。なぜなら,当時,知識人をはじめ,国民のもっていた朝鮮に対するイメージは,未開で野蛮なる国であるとか,劣等なる民族であるとかの朝鮮蔑視観が一般的であったからである。そして,日本の侵略に反対していた社会主義者の論調においてさえも,朝鮮の状況に同情したり,あるいは外国勢力に対する激しい排外性を示した儒学者を苦笑したりすることはあっても,敬愛の対象とするものはなかった。

2.「敬愛なる朝鮮」(週刊「平民新聞」)

(1)記事の著者は幸徳秋水か?

 ところで,従来まで,この著作は,唯物論的社会主義者であり,後,無政府主義者となった幸徳秋水が書いたものだとされていた。旗田巍教授の『日本人の朝鮮観』には,それを幸徳の書いたものとして,それまでの日本人の朝鮮観とは異なる立派なものだと賞賛し次のように述べている。

 明治以降の日本人の朝鮮観は非常にゆがんだものであった。そのゆがみは,一口でいうと,日本の朝鮮侵略,植民地支配の肯定に根ざした。侵略が進行し,支配が強まるにつれて,ゆがみは大きくなった。学問がすすみ,朝鮮研究が高度になっても,ゆがみは,改められないばかりか,学問的よそおいをもって,大きな歪みが生み出されるにすぎなかった。歪みを正す道は,日本の朝鮮侵略に反対する立場においてのみ,可能であった。侵略反対は,日本国内の民主化運動と深い関係がある。自由民権左派の朝鮮観が,一面において,連帯意識をもちえたのは,国内の民主化の要求と朝鮮への干渉戦争に反対の立場をとったからであり,他面において,優越感,支配者意識をもったのは,民主化の要求が不徹底で,朝鮮侵略に正面から反対する立場をとりえなかったからである。民主化の運動と侵略反対――朝鮮との連帯とは不可分に結びついていた。

 侵略反対,民主化要求は,日本の支配権力との対決であって,かっては著しく困難なことであった。しかし,その困難をおかして,侵略反対をさけび,朝鮮,その他のアジア被圧迫民族との連帯を唱えるものがあらわれた。日露戦争の前後に,日本の朝野が戦争熱に沸き立っていた時代に,幸徳秋水そのほかの社会主義者は,戦争反対を主張した。彼らは,「平民新聞」その他で,日露戦争が正義の戦争ではなく,侵略戦争であり,日本および朝鮮の民衆に何の幸福をもたらすものでないことを力説した。「敬愛なる朝鮮」において,幸徳秋水は,「政治家は曰く,我らは,朝鮮独立のために,かつて日清戦争を敢行し,また日露戦争を開始するに至れりと。かくて,われらは,政治上より朝鮮救済を実行せんと誇称しつつあり。しかれども,彼らのいうところの,政治的救済なるものが,果たして,朝鮮の独立を擁護する所以なるや否や,に至っては,吾人の容易に了解することあたわざるところ」といい,さらに,「試みに,これを朝鮮国民の立場より観察せよ。これ,ひとえに,日本,支那,ロシア諸国の権力的野心が朝鮮半島という空虚をつける競争にすぎざるにあらずや。今日の朝鮮は,畢竟『勝利即正義』という野獣的国際道徳の犠牲にほかならず」といって,朝鮮独立のためという戦争名義の虚偽をあばいた。―――

 また,更に次のようにも述べている。

 わが邦人は,つねに朝鮮国民を嘲罵して曰く,かれらは,すこしも,国家的観念なく,忠愛情操なしと。吾人をもって,これを見れば,朝鮮人に国家的愛情なきは当然なり。彼らの幸福と安寧とが,国家および主権者のために毀損せられきたりしこと,実に彼らの歴史なればなり。―――朝鮮国民の最重の厄物は,朝鮮政府にあらずや。曰く,皇帝,曰く,政府,これ朝鮮国民のためには,一個吸血の毒虫なるのみ。―――彼らは,先天的に遊惰の民にあらず。また狡猾の民にあらず。いな,彼らは,勤勉忍耐の美質特長を有せるなり。いかんせん,敵国侵略の歴史は,遂にこの民を退化して今日あるを致さしめぬ。――吾人は,朝鮮人の素質に多望を寄せる。彼らは,あくまでも現世的なり。かれらは,いかなる圧迫の下にも厭世的ならざるなり。―――他年一日,この半島の一角より,地に平和をもたらすべき一大予言者の音響をきくことなきを保せんや。―――亡国の屈辱をなめたるものにあらざれば侵略の罪悪を鞭つことあたわざるなり。

 ここには,朝鮮人に対する信頼の情があふれている。ここで,旗田教授は,幸徳秋水を「敬愛なる朝鮮」の作者としている。この見解は,日本人以外でもとりいれられた。例えば,朴春日氏も,「近代日本文学における朝鮮像」の中で,次のように述べた。

 幸徳秋水は,その一貫した反戦平和の主張を「敬愛する朝鮮」に結晶させた。―――いうまでもなく,「敬愛なる朝鮮」のもつ意味は大きい。それは,いくつかの問題を含んでいたが,単に露日戦争の本質をあばいたという一般的な反戦論としてだけでなく,明治初年以来,日本の反動イデオローグが,つちかってきた「朝鮮観」の正体をさらし,ひいては,あるべき正しい朝鮮と日本との関係を追及し,朝鮮人民との連帯を表明したという意味において,画期的な意味をもつものである。また,「一大予言者」の出現を期した秋水の洞察力は,今日的な意味で,きわめて感慨深いものがある。1)

(2)木下尚江の朝鮮観

 このように,これまでの研究者は「敬愛なる朝鮮」を幸徳秋水のものとみてきたのである。だが,私の研究したところによれば,幸徳の朝鮮観からは,どうしても上記のような思想が出てくるはずがないのである。2)実に,これは幸徳のものではなく,木下尚江によるものなのである。3)
 
  では,なぜにこのような誤解が生じたのであろうか。それは,無署名の新聞記事のためその内容あるいは,文体等の実証をへることなく幸徳のものとしてしまったところに問題があった。しかしながら,幸徳秋水の朝鮮観を体系的に調べるならば,そこから,「敬愛なる朝鮮」なるタイトルはでるはずはないのである。また,「敬愛なる朝鮮」において,そこに貫かれている思想は,マルクス主義ではなく,キリスト教思想であることが明白である。

 木下は度重なる侵略に虐げられた朝鮮こそ,この地に平和をもたらす一大預言者が生ずる地になるといったのである。ここには,キリスト教思想の持ち主においてこそ,はじめて発想できる思想であって,唯物論的社会主義者からでる思想ではない。

 彼は,侮蔑的に朝鮮をみる日本人に対して,「朝鮮は,かつて,中国,インドの学芸,技術,道徳,宗教を日本にとりつぎたる最古の大恩人である」とし,それに対して,日本が報いたことは,古来より,侵略だけではないかと主張した。4)

 また,世間の人々がもっている朝鮮人は,遊惰,狡猾であって,奴隷になるよりほかに,能力がないという見解に対して,「彼らは,勤勉,忍耐の美質,特徴を有せるなり。」と反駁した。5)

 ところで,ここで,注目すべきは,木下が提案する朝鮮のとるべき唯一の道は「国家的観念の否認」であるという内容である。これをして,先にあげた,旗田教授は,彼の思想の誤りであり,これは空想に過ぎないと批判した。6)また,これをもって,彼が,朝鮮の独立運動を過小評価していると批判するものもいる。例えば,石坂浩一教授は,「朝鮮に独立する力がないとするのは,当時の日本人一般の考え方と同じで,朝鮮民族の運動に対する過小評価である」と指摘している。7)

 だが,彼の思想は,そのような矮小なものではない。これらの批判は,キリスト教の世界観に対する無知からくるのである。木下は,弱肉強食的な論理の支配する国際政治の枠組みの中にあって,どこかの国がそのような,範疇をぬけだして,より,高次の普遍的な超国家思想をうちたてなくてはならない。そして,その国は,かつてのユダヤの如くいつも,大国の蹂躪する境遇のなかで,その支配に長年苦悩した民族においてこそ,それをなしえるとしたのである。それが,朝鮮であると彼はみたのである。「亡国の屈辱をなめたものでなくては,侵略の罪悪をうつことはできないのである。」8)

 そして,この国こそ,地に平和をもたらす一大予言者がでる要件をそなえた国だと主張したのである。

 ところで,ここからもわかるように,木下は,国家というものについて,次のように考えた。目的のために手段を選ばないというのは道理にもとると皆認めながら,「人類相愛の平和」という目的が「国家」と仮称されている手段のために,攪乱されているのはおかしいというのである。「国家」は,目的にむけての段階にすぎないのであって,軍備の拡張が他国を滅ぼす場合もあるが,自国が滅ぼされる場合もあるのである。国家は,それなりの職分はあるが,だからといって,「国家」を人類最上の権威だと考えてはならない。9)人類の最上権威は,「天父の至愛」というのが,彼の思想であったのである。従って,先の,国家の否認というものも,このような背景の中から,理解されねばならない。

 この意味で,彼は,当時の一般の価値観とは,全く違う視点のなかから,朝鮮に期待し,尊敬したのである。それ故,朝鮮の識者が注目すべきは,国家の虚栄を獲得しようとするのではなく,列国をして,その虚栄をすてさせるべく,平和の福音を宣伝することにあるというものであった。朝鮮人は侵略と階級制度に苦しめられてきたので,真に超国家と人類同胞の理想へと前進する素質があるというのが,木下の考えるところであった。

 そして,こればかりではない。彼は,「義戦論者に問う」という文で,朝鮮で,日本帝国主義に対する抵抗運動をした崔益元が,日韓議定書に勇敢に反対し,抵抗した事を紹介しながら,これでも,日本が朝鮮にしたことが,その独立のための義戦であるなどと美化すことができるのかと主張した。10)この文からも,彼が朝鮮の独立を過小評価したとの批判があたらないことは,自明である。

 ところで,思想的な面から,「敬愛なる朝鮮」が,幸徳のものではないことを論じてきたが,文体および,句読点のうちかたという観点からも証明できる。この研究は,木下研究家である後神俊文氏の功績に負うところがおおい。一例をあげると,「敬愛なる朝鮮」のなかに,「彼らは,政治上より,朝鮮救済を実行せんと誇称しつつあり,然れ共彼らが謂うところの―――」「王室は富めり,貴族は富めり,然れ共人民は貧し,―――」という文章があるが,この中で,「然れ共」という接続詞がもちいられているが,幸徳秋水の文体では,これは,必ず,「然れども」というように,漢字の「共」ではなく,ひらがなの「ども」が用いられているのに対し,木下の文章は,すべてが,漢字の「共」をもちいているのである。11)さらに,この点について,後神俊文氏は,詳細に文体研究をしながら実証している。谷口智彦氏は,後神氏の資料をもとに,次の観点から,これが,幸徳のものでないことを実証した。

  「敬愛なる朝鮮」の筆者を幸徳秋水ではなく,木下尚江であると特定するには,「敬愛なる朝鮮」が少なくとも,次の三つの命題を満足させていなければならない。即ち,

 (1)これが,幸徳秋水の表記法と異なること

 (2)木下尚江の表記法と矛盾しないこと

 (3)週刊「平民新聞」に関係した他の人物の表記法とも異なること
これらの三点を実証して,雑誌「朝鮮研究」に「幸徳秋水は,『敬愛なる朝鮮』を書かなかった」と断定した。12)

 以上少し,詳細になったが,正確な木下尚江の朝鮮観を知る上で,重要であったので,記述した。

3.最後に

 今日,木下尚江に関する研究は,やや下火である印象をもたざるをえない。しかしながら,21世紀を迎え時代の転換期にあたって,彼の思想は,多くの教訓をあたえてくれる。日本が,経済大国としての自信から,それが優越感となって,近隣のアジア諸国を軽視ないし蔑視することになるならば,日本の将来は再び暗いものとなってしまうであろう。21世紀を迎え,アジアの日本,世界の日本となる上で,日本が見落としてはならないものを彼は教えてくれているように思われる。


1)朴春日,『近代日本文学における朝鮮像』,p68-69,未来社,1985.8(増補)
2)石坂浩一,「朝鮮認識における幸徳秋水」,p145(「史苑」46巻102号)
3)この点,『日本平和論大系』第三巻 解説で,後神俊文氏も次のように指摘している。
 「平民新聞」や「直言」に掲載され,幸徳の文章とまちがえられ,幸徳の名声をあげてきた,「敬愛なる朝鮮」や,「労働運動の復活期」のような,無署名の論文があることを指摘しておきたい。
同p432,日本図書センター,1993.11
4)『日本平和論大系』2,「敬愛なる朝鮮」,p257,日本図書センター
5)同上「敬愛なる朝鮮」,p256
6)旗田巍,『日本人の朝鮮観』,p44
7)前掲石坂浩一,「近代日本の社会主義と朝鮮」,p89
8)前掲,「敬愛なる朝鮮」,p259
9)木下尚江,「国家最上権を排す」,(「毎日新聞」1903.9.2)
10)木下尚江,「義戦論者に問う」,(「直言」二巻7号 1905年3月19日付)全集p62
11)『木下尚江全集』第17巻 解説 山田貞光,p295-296
12)谷口智彦,『朝鮮研究』,168号,p44-49,1997.7