自由主義経済社会における国の役割
―リスクマネージメントの設計―

武蔵大学長   横倉  尚

1.国の産業政策と自由化の流れ

(1)キャッチアップの時代とその後

 近代日本は,明治維新の開国以来,欧米に追いつくことを目標として歩んできた。近代化後発国として戦前の日本は,基本的に国が産業振興に直接・間接的に関与してリードする体制であったが,その体制・仕組みは戦後のある時期まで継続した。その時期とは敗戦によるどん底からの戦後復興期,およびその後の高度経済成長期に至る時期であり,この時期までは日本全体が国としての目標が比較的明確であった。即ち,欧米先進国をモデルとしてそれにキャッチアップすることが,この時期の大きな目標であった。それはまた戦前からの路線の延長線上のものでもあった。

 このようなキャッチアップの時期は,参照すべきモデルがあり,また欧米での失敗例もあるので,それらを学びながら国が主導する形で国を発展させることは効果的かつ効率的であった。もちろん,民間企業の努力が土台にあり,それをリードするような形の国の関与であった。

 ほぼキャッチアップの時期が終わった1970年代になったときに,それ以降の新しいパラダイム,また産業に対する国の関与のしかたについて十分な検討のないままに以前のやり方で進んでいった。一方,80年代には日本的経営などが世界から注目される時期を迎えたこともあり,新しい時代に対応したしくみについて考え,変革していくことが遅れてしまった。そして,参照すべき手本を失いつつある中にも関わらず,戦後日本の成功モデルがそのまま続くと過信した部分もあって,その後の混乱がもたらされたと思う。

 すなわち経済発展のピーク後にバブル崩壊が襲ったが,そのときに国の産業への関わり方,民間の役割がそれ以前と変わらなければならなかったのに,変わることができないままバブル後遺症の対処に追われた。例えば,銀行業についていえば,国は銀行業にかなり直接的に関与しており,経営上の問題があっても最後には国が責任を持ってくれた。その結果,モラルハザードが招来されるほどまでに国と業界との癒着・甘えの構造が形成された。このバブル崩壊後の時期を指して「失われた十年」としばしばいわれてきた。

 その一方,80年代末までにソ連邦を始めとする社会主義体制の限界が現実問題からはっきりしてきたために,市場経済の優位性が世界的に認められるようになった。つまり,市場メカニズム,競争メカニズムが経済運営の基本であるとの共通認識が世界的に形成されていった。こうしたグローバルスタンダードにも,問題があることも事実であるが,かといってそれに代わりうるものが現在ないのも事実であろう。

(2)公益事業の改革と自由化

 このような市場経済を中心とするグローバル化時代になると,当然これまでのような国の役割について見直しが求められ,それに伴う制度的改革も進めていかなければならなくなった。つまり,さまざまな分野に対する国の関与・規制は有効か,適切かが問われるようになった。それまでの長い慣習,慣行として続いてきた国と産業との密接な関係であったから,簡単に変革することは難しい側面があるだろうが,時間をかけても変革していかなければならない。

  また,1980年代は,米国・レーガン政権や英国・サッチャー政権などアングロサクソンの国々で,規制改革や民営化を強力に進める中で,市場経済,自由主義経済を基本とする経済運営が成功を収めたという時代でもあり,そのことはその後の日本にとっても大きな手本・はずみとなったといえる。そうした背景が後押ししながら,80年代半ばの日本における三公社の制度改革・民営化が進められていったし,現在進行中の公団の民営化にまでつながるものとなった。

 日本では,さらに1990年代に入り電力・都市ガスなどエネルギー関連の制度改革が始まった。その背景には,エネルギー市場の変化や技術進歩が進む中で,公益事業とそれ以外の産業との違いを考えてみた場合に,大きな違いはないということが認識されるようになったことがある。規制緩和や自由化による不都合がある部分については国の関与が最小限必要ではあるが,電力や都市ガスについて地域独占体制を国が保障し,新規参入を規制し,料金を規制することは必要ないという方向が基本的な潮流になった。

 ただ,公益事業とそれ以外の産業との違いをしいて挙げてみれば,電力・ガス・通信事業など,すべて全国的あるいは地域圏的ネットワークを形成していることである。そこでこうした社会的インフラに相当するこれらのネットワークをどのように有効利用するかということが問われる。

 例えば,電力の場合,各電力会社が発電所で発電しそれを自社の送電ネットワークを通して消費地に送っている。消費地に近いところの清掃工場や大企業の工場などでも独自の自家発電を行なう能力があり,また実際発電しているので,発電部分についてはそのような電力会社以外の新規参入を許し電力を供給することも可能である。ただ,送電に際して,そうした企業が新たに送電線網を敷設するとなると,既存の電力会社の送電ネットワークとダブルようになりインフラの面では非効率でむだになる懸念がある。そこでこのようなネットワーク部分は,新規参入者を含めてみんなで公平に使用していけば有効利用できるはずであるという考え方が世界的にも定着しつつある。それはガスや通信にしても同様である。この点が現在の公益事業改革の主要課題となっている。

 インフラのネットワークを公平に利用するに際しては、ルールが必要であるし第三者による監視も必要である。例えば,送電ネットワークを考えた場合,電力会社も電気を販売しているので送電線の利用に際して自社にのみ有利な価格設定をするのは不公正であり,それでは新規参入が著しく困難になるおそれがある。そうならないように,内外の差別をなくし,ネットワーク利用条件を決め(ルール),それを遵守しているのかをチェックする(監視)。

(3)事前規制から事後規制

 国は基本的に「心配性」である。なぜなら,これまで日本人は何かことが起こると国の責任を追及することが通例となっている。そうなると国は,万に一つの可能性しかないような事柄でもそれがありうるとすれば,それらを織り込んで広範囲にわたった規制をするようになる。広範囲にわたる規制は,実は実効性に乏しいものなのである。国が全てにわたって何でもできるというのは,幻想に過ぎない。むしろ限られた範囲について国は国でしかできないことをやるべきであって,何でも法律で決めてやろうとしても無理なことである。

 広範囲の規制を誠実かつ確実に実施するには100%の監視が必要になり,その結果,それ相応の人手が必要になる。こうした体制はタテマエとしては,国がすべて責任を持っていることになり,その時は国民も安心するわけだが,実際に人手が不十分で監視の目が十分行き届かなければ,不都合が起こることにならざるをえない。国に対する過剰な期待がかえって不都合を起こすことにもなりかねないのである。

 このように従来の事前規制では,予め100%不都合がないように最初から細かなことまで法律で決めて当たることになる。しかし,それは実際には不可能なことである一方,過剰な規制に伴う弊害も大きいことからすれば,国の関与範囲を最小限に限定し,不都合が起こった時にしかるべき制裁をその事業主体等に課すという事後規制の方がむしろ有効な方法なのである。有効な制裁措置があれば,これが不都合な事態を事前に回避する抑止力となる。

 例えば,電気事業について言えば,国が電気事業全体をコントロールするのではなく,本当に必要な部分に限定して国が関与する。また関与するにしても,余り細かいところまでは関わらずに,ルールを決めてルールの遵守を自己責任の前提の下に課し,ルール違反が起こった時にのみチェックする。事後監視をして,不都合が起きた時にその改善を勧告する。

 このようなやり方が国の関与のあり方の最近の傾向であり,世界的な趨勢ともなっている。これは公益事業のみならず,他の産業分野においても同様の傾向がみられる。

2.国の果たすべき役割:リスクマネージメント

 これからの国の果たすべき役割とは,大きくいえばリスクマネージメントであると思う。第一に国の安全保障上の果たすべき役割は言うまでもなく大きい。第二に,われわれの生活に密接に関連したリスクという観点から見れば,電気・ガスなど公益事業は,広く企業や多くの国民が利用しているがゆえに,例えば停電が多いなどとなれば,国民生活に大きなダメージを与えることになる。このような基礎的サービスやモノが何らかの理由で利用できなくなるという危険がある。また,健康・安全・環境などの面で不都合が起こるリスク,老後保障などの将来にわたる個人が直面するリスクなどが挙げられる。今日の社会にあっては,このようにさまざまな不安やリスクが我々の周囲に存在する。それは社会の変化があまりにも激しいからだと思う。その不安やリスクは個人レベルから始まって,社会・国のレベル,世界レベルまで大きくなっており,それらをどういう形でマネージメントしていくかが,現代の大きな課題となっていると見るべきであり,こうしたリスクにどのように対処していくべきかという観点から見て国の役割は大きいものと考えられる。

 しかしだからといって,リスクマネージメントのすべてを国が担うわけにはいかない。むしろ国が直接関与することで不適切なことも少なくないので,基本的に関与すべき部分は限られてくる。即ち,国がなすべきことは,リスクに関する適切なマネージメントをどのような制度や仕組みによって進めるかという社会的な枠組みづくりであり,その制度や仕組みを設計して,全体の役割分担を立てることである。その中には民間・個々人がやるべきことが多々あるから,それらの個々人が背負うべきリスクの範囲がどこまでであり,国の負うべきリスクの範囲はどこなのかという社会全体のリスクマネージメントの設計・プランをつくる中で,国しかできないリスクマネージメントは国が責任を持つという基本を示すことが望まれる。
 
  現在,社会問題になっていることがらの大半はこうしたリスクマネージメントの観点からとらえることができる。例えば,国の安全保障,エネルギーや食糧の安定供給,地震・台風などの自然災害のリスクなどに対してどのように対応していくのかについてのプランを作り,国しかできないことについて国が担っていくという基本的なスタンスを明確にしていくことが求められている状況がある。公がやることの中で,地域レベルのものであれば,地方自治体が担うことになる。リスクマネージメントの原則は,個々の自己責任に帰するであろうから,その意味では,国民の意識改革も必要である。

3.公益事業としての大学に対する国のかかわり

(1)教育の質の保障制度

 公益事業も大方においては普通の産業と変わらないが,公益事業固有の特徴もあると先に述べたが,大学も公共性を持つ存在であり,広い意味で公益事業に含まれると考えられる。大学の場合,特に教育についていえば,その質を判断することが難しいという点にこの事業固有の特徴が認められる。これまで大学に入った学生がどのようなサービスや付加価値が与えられるかについては,大学側と受験生側とでは情報量において大きな差があった(情報の非対称性)。つまり,受験生側は,大学でどのようなことが学べてどのような成果が得られ,最終的にどのような付加価値が得られるかについて,自分で判断する材料が十分提供されてこなかった。

 自動車などのモノを買う場合は,自分の手で見たり,触ったり,そのモノに対する情報も比較的容易に得られるので,自分でしっかり判断して買うことができる。ところが,大学は通常は一回しか行かないし,高い授業料を払って4年間という時間を投資するわけであるから,どのような教育・付加価値・サービスを大学が提供しているかについての情報が絶対に必要であるにもかかわらず,それが得られない状況にあった。しかも,それを判断する17-18歳の年齢の学生自身が発展途上人であるから,仮にそのような情報があったとしても,的確な判断をすることが難しいであろう。このように教育の質はなかなか従来の仕組みの中では買い手である学生には判断しにくい側面があった。この点が,他の産業との大きな違いである。

 このような現状の中で,個々の当事者だけに判断責任を任せていくのには無理があるように思う。そこで大学は,従来以上に情報公開を推進していくとともに,第三者による教育の質の評価が必要になってこざるをえない。つまり,教育の質を第三者が保証する仕組みが求められてくる。そうしないと受験生側は,虚偽の宣伝や広告に惑わされることにもなりかねない。

 評価するに際しては,国(文科省)が一律に評価すると弊害もあるので,国以外の第三者による評価が重要である。日本でも評価機関による大学評価が今年4月から法律によって義務化された(学校教育法第69条の三)。そのような評価機関としては,(独立行政法人)大学評価・学位授与機構,(財)大学基準協会などがあるが,今後その他の評価機関が複数設置されていくことであろう。

 また,それとともに最近の傾向としては,国際規格であるISO14000,ISO9000の認証を取得したり,民間の格付け機関から財務状況の格付け評価を獲得する大学も現れている。このような動きは,他の産業の規制緩和に伴う変化と同じ流れになっているといえる。

(2)武蔵大学の取り組み
 本学は1922年創設の旧制武蔵高等学校(日本初の七年制学校)を嚆矢とする。その旧制高等学校には,3つの理想があったが,それらはいま見ても遜色ない理想を掲げていた。そこで本学としては,その理想を現代に再び生かしてゆこうと考えている。

 第一は,「自ら調べ,自ら考える力ある人物の育成」である。同様のことは最近の中教審答申にも述べられているが,今日の社会において国と国民,社会と個人の関係で最も足りないことは何かというと「自立性」である。先に述べた国の役割という論点に関連づけて言えば,しっかりとした個人(自立した個人)が前提になってこそ,規制緩和・自由化が可能になるのであって,人に頼る,何でも国や人に任せるような体質があると,何でも国がカバーするような状況になり規制の多い窮屈な社会になってしまう。今日,社会的規制を緩和して国の関与を最小限化することが望まれているとすれば,その前提条件として国民や企業は自立することが求められる。さらにつけ加えて言えば,今の時代はどの分野においてもさまざまな困難があるので,活力がなければ国の未来はない。自立し活力ある人物の養成が期待される。本学では,そのような理想像を掲げて80年前から取り組んできたという伝統とそれなりの実績がある。

  具体的には,本学は比較的規模が小さい(学生数4300人)という特徴を生かして,4年間にわたりそれぞれの学年で,少人数のゼミ・演習を必修科目として実施している。それは自分で調べ,自らの考えをまとめてみんなの前で発表し,議論するという訓練である。これをさらに今日の学生の状況や社会のニーズを考慮して,その成果を高めようとしている。

 第二は,「世界に雄飛するに耐える人物の育成」である。グローバル化時代においては,世界的・国際的センスがないと何ごともやっていけない。具体的なスキルの一つとしては語学力の養成であるが,本学ではまた国際交流にも力を入れている。現在,韓国・中国・欧米などの10大学と姉妹提携を結び交換留学している。外国からは約20人が長期留学生として来ているが,短期・長期留学および海外研修などを含めると大学全体では約5%の学生が国際交流に参加している。感受性が高く吸収力のある大学生の時期の海外経験は,彼らの成長のためにとても重要なので,しっかりと整備したいと思っている。

 第三番目は「東西文化の融合」であるが,これは創立時の大正時代の状況が反映されたものともいえる。むしろ,今日の世界にあってこそ,異文化に接して,その異同を認識するとともにいいところを相互に吸収することは大切なことである。これは第二番目と重なる点でもある。

(3)大学の個性化

 おおよそ二人に一人が大学進学するユニバーサル・アクセスの時代になると,学力が全体として低下するのは避けられない現実といえる。こうした現在の状況を踏まえれば,700もある日本の大学すべてが同じような大学である必要はないわけで,そこが昔と大きく違うところである。これからの課題は,大学によってその特色を鮮明にすることであり,それぞれの役割を明確にして社会に対して教育上の責任を果たしていくことが求められる。「自分の大学はこのような付加価値を付けて学生を教育し卒業させていく」と明確な特色を示していくことである。

 学生の学力にばらつきが大きい今日では,各大学が学生のレベルなり目標に応じてどれだけの付加価値を付けて卒業させられるかにポイントが置かれることになる。それがむしろ社会的にも望まれることであり,有効なことではないか。こうしたスタンスなり考えを大学が共通認識としてもつことが今日求められているように思われる。最悪なことは学生が大学に入ってから失望することである。しかし,幸い本学は,卒業した段階での学生の大学生活に対する満足度が比較的高く,後輩に勧めたいという意見も多い。このような特徴を生かしながら,今後も学生の教育の当たりたいと考えている。
(2004年9月15日)