人間性の育成をめぐる課題
―学校教育における特別活動の意義と重ねて―

東京農業大学教授   渡部  邦雄

1.現代教育の課題

(1)人間性と社会性

 多くの問題を抱える現代日本の教育ではあるが,子どもたちのパーソナリティーの変容の面から述べてみたい。

 教育全般について最も欠けている部分に,心の教育がある。人間性としての豊かな心が十分に磨かれないままに,子どもたちが育ってきている。家庭教育,学校教育,地域社会の教育など,すべてにわたって人間性を磨く場が無くなってしまったように感じる。豊かな人間性としての正義感,倫理観,規範意識,協調性,思いやりの心などが,正に欠落しているようである。

 次に指摘したいことは,社会性の欠如である。社会性とは,人が自分と他人,あるいは社会と関わる資質・能力を指す。別の言葉で言えば,人間関係形成能力(多面的コミュニケーション能力)や所属集団や社会の一員としての自覚と責任が含まれるものである。しかし昨今は,所属集団に対して寄与し,貢献する,社会の発展のために頑張るといった意欲が失われてしまった。このことは,「公私」の感覚において言えば,「公」の意識が弱くなり,逆に「私」が肥大化したということでもある。

 社会性には,社会的行動様式も含まれるので,それらを習得・体得しなければならないのに,そのような場や機会がなくなり,結果として,社会規範や社会的習慣(挨拶,マナー,ルールなど)が身に付かなくなってしまった。

(2)バランスのとれた指導の大切さ

 前述のような問題の背景として,戦後教育の展開の中で子ども中心の心理主義が横行したことを指摘しておきたい。すなわち,「子どもが盗みをした場合,教師や親は子どもを頭ごなしに叱ってはいけない。盗んだ行為そのものは憎むべきだが,それに至るまでの動機,経緯があるはずだから,それらをよく斟酌してその原因,背景を追求しなければならない」とする考え方である。

 盗んだ行為そのものの指導よりは,問題行動を起こすに至った子どもの心理や気持ちを重視する。盗みをしたことの裏には,彼/彼女が心の底で何かを訴えているのであるから,子どもの発するシグナルを大人や教師はしっかりと受け止め,理解してやらなければならないという考え方である。

 このこと自体を否定するものではないが,果たしてそれだけで良いのかと問いたい。古今東西,窃盗,万引き,放火,殺人など絶対にいけないこと(絶対悪)である。しかし,心理主義に傾斜しすぎたために,盗みは悪い行為との指導が不十分となってきた。親も教師もいけないことはいけないと言えなくなってしまっている。

 それに対して,悪は悪,善は善,いけないことはいけないとはっきりと指導すべきという考え方(道徳主義)を大切にしたい。それは,倫理観,正義感,社会規範を徹底して教えることである。子どもの心理を重視し過ぎると,盗みという絶対悪を本人が認識しないままに終わってしまうことになる。

 大切なのは,両者のバランスをとることだと思う。問答無用でだめはだめと一方的に否定することも一考を要する。いずれの場合も極端に振り子が振れることは教育上,よろしくない。このことは,「公私」の場合も同様である。戦後は,個人の権利や主義主張,自由ばかりが強調され,義務や責任が非常に軽んじられてきた。自分の責任を考えずに,他人のせいにしてしまう傾向が強い。集団や社会の一員として自分がどう行動すべきか,どう責任を取るのか,果たすべき役割は何かなどを考える者が少なくなってきた。

 また,教育相談・カウンセリングの場合においても,ロジャースなどの理論を誤解して適用し,受容がすべてとなっている例もみられた。クライエントの言い分だけを聞いているだけでよいのか。迷える子羊のクライエントの気持ちを十分に受け止めながらも,サジェッションしたり,サポートしたり,指示することが大切である。

(3)実(ホンモノ)体験の欠如

 現代の子どもたちは,小さいころから人との触れ合うことや自分とは違う「異質の他者」の存在を十分に意識し,実感し,理解する機会が少なすぎる。自然体験,社会体験,感動体験,飢餓体験などの諸体験は人間をつくる上で不可欠のものである。そのような体験をたくさん味わわせることが大切だ。人と人とのつながり,例えば,集団,グループ,年長者,幼い子,高齢者,病人,弱者などの「異質の他者」との交流体験の場や機会をいろいろなところでたくさん与えてやることが必要である。

 例えば,子どもたちは兄弟けんかをする。以前は兄弟の数も多く年齢差もあった。兄と弟がけんかをしても兄は手加減をして弟を殴る。そうした兄の姿をみて弟はその体験を通して弱者への配慮を学ぶ。兄弟はつらいことがあっても互いに我慢し助け合う。嬉しいときにはともに喜び合う。このような触れ合いの場や機会が今日では家庭の日常生活から少なくなってしまった。

 また,今日のパソコンなどのゲームの流行は,子どもたちが現実の世界から逃避し,ゲームの世界に没入することを助長している。バーチャルな世界では,困難にぶつかっても直ぐにリセットボタンを押せばもう一度やり直せる。死んでも再び生き返ることが出来る世界である。このように現実と仮想の世界との境界が低くなるボーダーレスの世界に入ってきている。大人の認識と子どもたちの認識にも大きな溝ができてしまった。夢か現かというボーダーレスな世界を克服するためにも,疑似体験,間接体験ではなく,ホンモノの体験が不可欠である。

(4)親子の関係

 最近の親子の関係にも問題がある。親は子どもに対して真の意味でもっと目をかけ,愛情を注ぎ,子どもに関わってほしい。残念ながら無責任で放任している親が増加している。一方では一人っ子や二人きょうだいが多い少子社会にあっては,親が子どもに関わりすぎて子どもをつぶしてしまう傾向も見られる。

 鉢植えの植木に毎日,水や肥やしをやりすぎると枯れてしまうのと同じ理屈だ。親は子どもに対する暖かい愛情を示しながらも,時には突き放したり,厳しく叱ったりする厳しい愛情もなければならない。子どもに負担になるような関わり方はいけないが,他方ではもっと健やな成長を願う思いや愛情を持ち,距離を保つことも大切である。キタキツネの例もある。ある程度の子育てが終わった段階になって,子ギツネが母親のところにくっついてくると,親離れをしろとばかりに突き放してしまう。子ギツネは独立していかざるを得ない。これはいい意味での親からの旅立ち,別れであるが,それがあって自立が可能になる。

 このように関わり方の加減が重要であるが,それがなかなかうまく理解されていないように思う。親はいつでもどこでも目配り,気配りすべきだが,それはさりげなく分からないようにすべきである。子どもが気になる行動や言葉を発したときには注意したり言葉かけをするが,それ以外のときには知らん振りしたり,時には突き放したりする。また,学校から帰った子どもがしょんぼりしていたら,お母さんはしっかりと抱きしめてやったり,話を聞いてやったり,一緒に買い物に誘ったりして心の交流をする。その微妙な距離感が大切なのである。親子の関係がうまくいかないことが多いため,最近では親業,子育て講座を開かなくてはならなくなったほどである。

 人間関係の構築に必要なのは,相手の気持ちをおもんぱかり,時には共感し,推測することが大事である。それには多くの場数が必要だが,それができない環境になってしまった。自分の考えと異質なものに出会ったときに,どう対応したらいいのかわからない。叱られたことのない子どもは,そのような状況でキレてしまう。大学生に聞いてみても,親から厳しく叱られたことがないという学生がいるのには驚く。

 「ガラスの心」と言われるように,ひ弱な人間が多くなった。親は子どもが乳幼児の頃から,我慢すること,辛さに耐えること,悪いことはしないことなど極当たり前のことを徹底してしつけることを忘れてはならない。

2.特別活動の今日的意義

(1)「異質の他者」の存在と協働を学ぶ場

 現代は,少子化(きょうだい数の減少),ギャングエイジの欠如という状況におかれているからこそ,異年齢の人との集団生活,集団活動をしながら人間性を磨くためには,学校がとても良い場なのである。自分とは違うものの見方や考え方をする人がいること,能力にも違いがあること,さまざまな家庭があり,自分より駆け足が早い人,絵が上手な人などがいることなどを,集団活動を通して気付き,学ぶことが大切なのである。「人はみんな違って,みんないい」という言葉の通りである。そのようなことは親や教師が言うのではなく,毎日,同級生や年齢の違う上級生や下級生と一緒に行動する中から体験を通して学んでいくのである。

 前述した通り,体験には自然体験,社会体験,生活体験などがあるが,体験とは自分の持つ五感を総動員して,対象となるヒト,コト,モノに対して,自分がまるごと総力でぶつかることである。そこから返ってくる何かを臨場感をもって実感する中で,物の見方,考え方,感じ方などを身に付けていく。しかし,体験はあくまで個人的で主観的であるから,ただ体験をすればよいというわけではない。そこには,知性(知見),客観性も必要である。体験をたくさん繰り返し積むことで,体験が次第に客観化されていく。これは人間形成において非常に重要なプロセスである。

 体験例として野外キャンプで飯ごう炊飯をする場合を考えてみる。皆で協力しなければできない作業が多く,その活動過程の中で否応なしに多くのことを学ぶことになる。かまど作りをする者,まきを調達する者,水を用意する者,料理をする者など皆が得意な面を生かして役割分担をする。怠け者がいたりすれば,おいしい食事もできない。皆が協力することの大切さを実感しながら活動する中で,人にはそれぞれ能力に違いがあること,器用,不器用があること,考えにも違いがあること,責任を果たすことの大切さなどを実感できる。さらに自分の分担が早く終われば,終わっていない仲間を手助けするなど,作業過程で互いに助け合うことの大切さも学んでいく。

(2)人間としての生き方を学ぶ場

 学校教育の中で体験を学ぶ第一の場は,特別活動であろう。学習指導要領では,義務教育の内容は教科,道徳,特別活動,及び総合的な学習の時間から構成されている。特別活動は,集団活動を通して「為すことにより学ぶ」(learning by doing)という実践活動として有効に機能している。

 青少年の犯罪・事件が起こるたびに,識者が「人間関係を重んじた教育の推進」「相手の気持ちを理解できるような活動の取り入れ」「人と人との直接的な触れ合いの場や機会を増やす」などを指摘するが,実はそれこそが特別活動がねらうところなのである。以下に特別活動の意義の理解に関して数点述べる。

○ 身近な人とのコミュニケーションは本来的には直接に相手の目を見て話すことだが,最近はメールですます子どもが多くなっている。友人が約束の時間に来なかったことをメールでなじるのではなく,直接友人に会って顔を見て話せば,その表情から相手の心を読み取ることができ,自分の気持ちも相手に伝わる。通信媒体を通したコミュニケーションは真の対話とは程遠く,意思の疎通に欠ける。ゲームの場合も同様である。現実から離れた仮想の世界に生きるようになると,現実との区別がつかなくなり,小学生が同級生を刺すような事件が起こることになる。

 いじめ,問題行動,青少年犯罪などが起こると,関係者はそれに対する弥縫策に終始しがちである。メールがもとになって事件が起きたとなると,すぐにメールの使い方を教えようとする。そのこと自体は大切だが,根本的解決策にならない。それは,火災の場合の消火と防火にたとえることが出来る。メールの事件の対策は消火であるが,教育においてはそのこと以上に火を出さないという防火策を講ずることがより重要であろう。事件に追われ,もぐら叩きになっては根本解決には程遠い。

 そのため,望ましい人間関係や集団や社会の一員としての在り方・生き方を,実践を通して体得させる特別活動の推進が大切であり,効果的と言える。

○ 卒業生に自分の学校時代の楽しい思い出を挙げさせてみると,修学旅行,運動会,遠足,文化祭,合唱コンクール,水泳大会などの学校行事をあげる。それは教師から教科として教え込まれる活動ではなく,自分たちの自主的,実践的,自治的な集団活動が中心であり,より大きな集団による仲間たちとの楽しい体験活動だからである。子どもたちが意欲を持って取り組み,充実感,成就感,連帯感,自己存在感を味わう場や機会が多いからである。

 運動会において,問題生徒が応援団長として団員を率い,いい意味でのリーダーシップを発揮してその責任を果たした結果,自己存在感を抱き,自尊感情が育まれ,人間として成長し立ち直った例もある。さらに応援団はもちろん所属の一般生徒全員が一体となって素晴らしい応援を展開したことが,成就感はもとより仲間意識,所属意識,連帯感を一層強くし,凝集性の高い集団に成長した例がある。

○ 特別活動は人間関係を育成する実践の場であり,望ましい集団活動を通して人と人とが触れ合い,集団の一員としての行動規範を学ぶ場である。しかし,それが形骸化しているところに問題がある。

 例えば,生徒指導を進める上で,問題行動を直していくのに,一番良い機会が特別活動であると実感する者は多い。生徒指導担当の先生の言葉を借りれば,問題生徒が立ち直っていくのは,特別活動を通してだと言う。つまり特別活動はそのような子どもたちを一方的に否定せず,活躍の場を与え,自尊感情を育て,その存在を認めるような場や機会が多く,活動を契機に自分を見つめなおすからだと言われている。かつて荒れた中学校が立ち直った例をみると,その大半は特別活動を中心に学校経営に当たり,問題行動をなくしている。生徒に責任をもたせて学校行事に当たらせたり,奉仕活動などをさせたりしている。生徒を近くの幼稚園に行かせて園児と一緒に遊ばせると,純粋な園児が生徒に「お兄ちゃん」と寄ってきて,学ランを着て突っ張っていた生徒も三角に釣りあがった目がだんだん丸くやわらかになっていく。一朝一夕ではうまくことは運ばないが,そのような体験の積み重ねによって,数年の歳月を要しても結果的には学校を立て直すことにつながる。教科の勉強ばかりの取組みでは立て直すことはまず難しい。

○ 道徳の授業で,副読本などを通して学ぶことはあくまでも知識的理解に過ぎない。ホンモノとして身に付くのは難しい。たとえて見れば,泳ぎを学ぶのに,ビデオ視聴によりバタ足,息継ぎなどをいくら学習し,理屈は分かっていても実際にプールで泳ぐことはできない。先ず重要なことは,プールに入ることだ。鼻に水が入ったり,むせかえったり,時には溺れそうになったりしながら,五感を通して体で実感して,泳ぎを学んでいくのである。従来型の心の教育・道徳教育だけでは不十分であろう。道徳教育はややもすると理屈に走り「べき論」になりがちである。道徳教育は当然必要であるが,その体得のためには,実践が必要であり,その中心的な場,機会に特別活動がある。その経験を通して,協力すること,助け合うこと,自己存在感を持ち,自己を生かすこと,役割分担を責任をもって果たすことなどを学んでいく。結果として道徳的実践力が体得されるのである。

(3)子どもの活力を生む学校行事

 学校教育における特別活動の現状は,集団活動や体験活動の重要性を認め,それを一層推進しようとする動きがあるが,一方では学校週五日制の実施によって授業時間数の確保が困難なことから,特別活動,中でも学校行事を削減する動きが見られる。私はこれは誤りだと考えている。現在,子どものパーソナリティーの変容が激しくなり,問題行動を起こす生徒が多数いる中で,彼らの人間性を陶冶する場として特別活動が有効であるのに,なぜそれを削減するのか疑問である。片や保護者は目先の学力の面に目が向きがちであり,国語,数学,英語の時間を増やすことを望み,土曜日も授業をやってほしいと要望する。教師側にしても,理念としては学校行事の教育的意義は認識しながらも,保護者の声を無視することもできずそれになびいていく。その結果,遠足や運動会は二年に一回となり,修学旅行は廃止という例が見聞されるようになるのだ。

 子どもたちが楽しみにしていた学校行事の削減,廃止は,学校生活を単調にし,多数の友達との触れ合いの機会や多様な体験活動を奪ってしまう。学校が子どもにとって楽しい学びの場,遊びの場となり,友達との交流を通して充実感,所属感,連帯感を抱ける場,行きたくなる場所,思い出作りの場となるようにすべきであろう。

3.教員養成の課題

 教師の人間性が問われることが多くなってきた。教員採用試験が近年狭き門になり,ペーパー試験をクリアーしてきた受験生にはいわゆる「優等生」が多い。そのためか学力の劣る子,悩んでいる子,自己表現が上手くない子など問題を抱える子どもの心理を十分理解できない教師が少なくない。子どもの心情を傷つける不適切な発言をするなど,教師の人間性が疑われることが問題になっている。

 教育職員養成審議会では,大学の教員養成課程においては,豊かな人間性を備えた教師を目指すためには教養教育が必要であると提言している。  
教養とは多面的,多角的にものを見る力,自主的,総合的に,思考し,判断する力や豊かな人間性であろう。それを養うためにはどうしても教養教育が必要である。その一例として中国・清華大学の教授は,「今一番大事なことは教養教育だ。学生には古今東西の名著を80冊読ませている。」と語っている。

 戦後の大学教育では十数年前に一般教育(教養課程)の扱いを各大学に任せた頃から一般教養が軽視されてきている。現在大半の大学では,一年次から専門科目を履修させており,一般教養が軽視されているように感じる。しかし教員養成課程では逆に教養教育の必要性が叫ばれている。現職教員には,6年次研修や10年次研修が実施されているが,そうした場面で私は幅広い教養(リベラルアーツ:学芸)が大事だと訴えている。教師には自分の担当科目のみの勉強ではなく,歴史,文化,伝統などの理解,心身の健康の維持,豊かな人間性など幅広い教養が必要なのである。

 もう一つ重要なことは,「感性」(価値あるものを感じ取るエモーショナルな感情であり,それを表出する能力)を磨いてほしいということである。路傍から「小さな秋見つけた」感性やら「夕焼けの美しさに感動する」感性,多様な芸術に感動する感性などである。その育成のために,日頃から多様な体験をしておくことである。例えば,山登りをしてご来光を拝む。これはテレビやビデオとは違い,自らの五感がフル動員され,臨場感溢れる中でホンモノに触れ実感するという体験を通して感性が養われるのだ。感性から触発される関心・意欲などの情意面や気付き,発見などの知的好奇心が基盤となって知性が刺激され,広まり深まる。感性に支えられた知性とも言える。さらには知的理解が深まることで,感じ方が広がり,深まる。このように感性と知性は相互に作用し合い,一体的なものなのである。「感知合一」といっても良い。教育にとっては,感性が人間形成にとって大きな作用をするので,教師自身も感性豊かになってほしいと願っている。

 また,教師には見えないカリキュラム(hidden curriculum)あり,これこそが物を言うといわれている。吉田松陰はわずか29歳で刑死したが,彼の松下村塾の門下生の中から明治維新を起こした多くの志士,伊藤博文,山県有朋,久坂玄瑞,品川弥二郎,高杉晋作などを輩出した。吉田松陰の真摯な生き方が,あまり年の違わない門下生の心を動かす見えないカリキュラムとなり,彼らを感化したのである。

 教師の在り方のヒントがここにあるような気がする。日頃子どもたちと接するときには,教師自らが一生懸命生きること,欠陥だらけは承知しつつも少しでも努力する姿を示すことが大切であり,そこに子どもたちに伝わる何かがあるのだ。 

 また,賀茂真淵と本居宣長の伊勢松阪の旅宿新上屋での出会いのごとく,人間一回の出会いでも素晴らしい人物に会うことによって,人の生き方が大きく変わることもある。

 教師は目前の子どもたちと毎回毎回真剣に向かい合い,その出会いを大切にしてほしいと思う。その時蒔いた種は,いつかどこかで開花し実っていくに違いない。(談)
(2004年9月17日)