金玉均の近代思想と甲申政変(上)―韓国近代思想の形成と清国の干渉―

韓国・鮮文大学校教授  李 起 勇

<目 次>
(上)
1. はじめに
2.金玉均の生涯と思想形成
3.金玉均の近代開化思想
4.清国の対韓西洋開国および属国化政策
(下)
5.従来の甲申政変に対する評価

6.甲申政変の展開と開化政綱の公布

7.甲申政変の歴史的意義

8.むすび

1.はじめに

 19世紀中葉の韓国は西勢東漸の波動の中で,国内では政治的,経済的,思想的危機が破局的に深まっていた時期であった。このような中で1876年2月,韓国は日本との間に江華島条約を締結した。この条約は日本が軍艦を派遣して,強引な砲艦外交で認めさせたものであり内容的にも不平等条約であったが,一応,近代的国際法(万国公法)に基づくものとして従来とは違う韓日関係を再構成することになった。それは間接的に,伝統的な中華的国際関係を否定する意味を持つことになるのである。このように開港期,西洋勢力の侵入に対する韓日の対応過程で,従来の国際秩序である事大交隣関係が改編される中,新しい時代を準備する近代思想として開化思想が形成される。

 本稿ではこの近代開化思想の中心人物であり,しかもその実践として1894年,韓国近代化を目指し,革新的な甲申政変を引き起こした金玉均(1851-1894)に注目するものである。特に今年はこの甲申政変よりちょうど,120年過ぎた同じ干支の甲申年に当たる。当時,韓国への列強の侵入という複雑多難な国際情勢下で,金玉均等の開化思想家達が必死に国の近代化と自主独立問題を憂えた点と今日の状況を照らし合わせてみよう。時代は違っても,同じく中国,ロシア,日本,アメリカという強大国に取りまかれ,さらに南北分断という複雑な状況下にある韓国が,統一を目指した主体的外交の展開と,国内の充実発展を課題としている点では類似していると言えよう。このような現在的立場で,当時,韓国属国化を推進した清国に対して強烈な自主独立を叫び,誰よりも,革新的に近代富強国家を目指した金玉均の思想と行動の歴史的意義を検討し,その功過から今日得られる教訓を省察したいと思うのである。

2.金玉均の生涯と思想形成

 金玉均は多難な時代であった1851年,忠南公州で名門安東金氏の出である,江陵府使金炳台の子として生まれた。彼は6歳の時,親戚の金炳基の養子となりソウルに出た。金炳基は刑曹参議にまでなった人物で,間もなく江原道江陵府使に任ぜられた。金玉均も江陵に行き,儒学の大家,李栗谷(1536-1584)の祠堂書院に学んでいる。型通りの儒学の勉強のほかに,彼は実学派(朱子学の空理空論に対して実用を重んずる)の思想家,朴趾源(1737-1805)や丁若庸(1762-1836)に親しんだ。1866年,彼が16歳の時,養父は江陵府使を解任になり一家はソウルに戻った。この丙寅年は米国商船シャーマン号事件とフランスとの間に丙寅洋擾が引き続き起きた外患の年であり,同時に,内政面に於いて大院君の無定見なる王権強化策と鎖国攘夷政策の余波で,従来よりも,より深刻なる封建政治の矛盾が露呈し,官僚の腐敗が極に達していた。

 このような歴史的状況の中で成長した彼に,この時代的環境が衝撃を与える一方,却って,封建的腐敗をなくさんとする決然たる意志を持たせるに至るのである。1)

 この頃,金玉均は漢医師劉大致(?-1884)と出会っている。劉大致は親友の呉慶錫が清国から持ち帰った新書の研究を通して国の危機状態を認識し,その新知識を青年たちに伝播した。彼は開化思想の形成期において,朴珪壽,呉慶錫と並ぶ中枢的な役割を果たした人物である。

 朴珪壽(1807-1876)は北学派実学者の巨匠,朴趾源の孫である。彼は1860年,熱河副使として,又1872年,当時正使として清国に行き国際情勢に対する見聞を広めた。特に清国の置かれた危機状況を察し,韓国も同じく危機である事を知り,燕京使節団の通訳として同行した呉慶錫等と共に世界の新書を購入して帰国し,救国のための新しい思想を樹立するのである。

 この呉慶錫(1831-1879)は1853年以来,通訳官として何回にもわたって北京,天津を往来して,同じく清国の危機を目撃し,西洋の富強の術を学ぶことを説いた魏源(1794-1856)の『海国図志』をはじめ,西洋の近代文物を紹介する多くの書籍を持ち帰り,劉大致等の友人に普及した人物である。彼等は共に実学の流れを継いでいる。

 1872年,金玉均は22歳で科挙の試験に首席で合格した。彼は宮廷に入り,その輝かしい学力と詩文の才で一躍,国の内外に注目を集め名門の人達と交際を結んだ。その中でも国王哲宗の女婿,朴泳孝(1861-1939)とは特に親交を結んだ。また李東仁という僧侶とも知り合っている。李東仁はソウル近郊の北漢山にある奉元寺の僧で,仏教にも詳しかった劉大致のもとに出入りしていた。李東仁は1879年,金玉均,朴泳孝らの依頼で日本に密航した。彼は花房日本公使の通訳をしていた本願寺の僧と知り合い,日本公使館に出入りして日本語を学び,当時,釜山にあった東本願寺別院に行き,そこから日本に渡った。まず京都の東本願寺に入り,そこに生活しながら維新日本の実情を探り,また書物を買い求めて金玉均,朴泳孝のもとに送った。彼はまた東京の本願寺別院に行き,本願寺の僧で慶応義塾に学ぶ者の紹介で福沢諭吉に面会し,金玉均のことも福沢に語ったのである。2)

 金玉均のこの青年期10年間に,彼自身は勿論のこと,国の内外にも大きい変化が起きた。即ち1882年,清国が韓国に対して宗主権を再確認,さらには強化の意図を持つ中,李鴻章(1823-1901)の仲介で韓国は米国との修交を締結する。

 こういう状況下で,朴珪壽は彼がソウルに赴任した1869年より死去する1876年まで,劉大致と共に朴珪壽のソウルの私邸に金玉均ら英俊の青年達を集めては,燕岩文集(朴趾源の著作)を講義したり,呉慶錫が持たらす世界各国の地理,歴史書などを与え,世界情勢を説き,韓国の危うさを説きながら新思想を鼓吹した。開化派の代表的人物の一人であった朴泳孝は,その回顧談のなかで開化思想の由来を次のように語っている。「この新思想は私の親戚にあたる朴珪壽宅の舎廊(書斎兼客間)で出現した。金玉均,洪英植(1855-1884),徐光範(1859-1897),また私の伯兄(朴泳教)らが,薺洞にある朴珪壽宅の舎廊に集まっていた」と。3)即ち,朴珪壽を通じて継承された実学思想の北学論は,開化思想形成の過程からみればその原型をなすものであり,この朴珪壽の舎廊を中心に後の甲申政変を推進した開化派の中核が形成された。

 朴珪壽の死後は劉大致,呉慶錫によって新思想への感化と新世界への見聞が伝えられ,金玉均も彼等との交流を通し世界に対する見聞を広め,韓国近代化への抱負を持つようになる。ここで形成された開化思想を中心に,その思想的同志がしだいに開化派という政治勢力に成長していく過程をみることができる。

 これらはいうまでもなく,1876年2月の江華島条約以前の時期のことである。即ち,開化思想および開化派形成が日本で一般的に流布されているように,それが日本との接触を通じて,しかも福沢諭吉の指導によって初めて形成され,さらには開化派が日本政府の対韓侵略政策に迎合した,「親日派」だとする見解は是正されるべきである。4)金玉均が初めて日本へ行ったのは1881年12月,31歳の時であった。紳士遊覧団が日本に渡るのに合わせ,彼の同志徐光範と共に日本に渡った。彼はまず,釜山の東本願寺別院で京都の本願寺を紹介してもらい長崎を経由して行った。翌1882年2月,京都本願寺で李東仁に会い,そこで福沢諭吉との連絡がつき,3月6日に東京・三田にある慶應義塾に到着して福沢諭吉と初対面した。福沢は既に,李東仁から金玉均の話を聞いていたのですぐに彼を迎え入れたのである。慶應義塾にはこれより先,花房義質(1842-1917)公使の斡旋で渡日した兪吉濬(1856-1914),柳完秀(1856-1938),尹致昊(1865-1945)等の留学生が在学しており,金玉均の通訳は兪吉濬が受け持った。福沢は金玉均を自分の別邸に泊るようにした。彼は別邸に住んだ5カ月間,東京の名士たちを訪ね歩いた。彼の面会した人物には井上馨(1835-1915),渋沢栄一(1840-1931),後藤象二郎(1838-1897)がおり,さらには大隅重信(1838-1922),伊藤博文(1841-1909)にも面会した。この間,彼は日本の力も借りて韓国の近代改革を成し遂げようという考えを持つようになるが,帰国しようとした1882年,壬午軍乱が発生した。

 それは国王高宗(1852-1919)の父,興宣大院君(1820-1898)が後楯したクーデタで,韓国政府は開化政策の一環として日本式軍事教練を実施したが,日本人教官の指導する新式別技軍の給料がよいのに比べ,旧式軍隊には給料が欠配がちになり,その旧式軍の不満が爆発したものであった。国王が日本ともっと国交を広め,改革を行うとしている矢先に起った反日反開化蜂起であった。日本人教官の堀本礼造大尉は殺され,日本公使館は焼打ちにあい,花房公使は日本に逃げ帰った。日本の世論は湧き,軍艦4隻と約1千の軍隊が派遣され,全権大使井上馨と全権公使花房義質がソウルに戻り談判が始まった。この時金玉均も帰国した。

 これに対して清国側も北洋艦隊を送り,また陸兵3千を送りこんだ。清国側は責任は大院君にありとして彼を天津に護送し,訊問を行い,幽閉した。これを機会に清国は韓国に対する干渉を強め,韓国政府の外交顧問にはフランス留学の経験があり国際法に明るい馬建常を,さらに税関にはドイツ人メルレンドルフ(1847-1901)を送りこんだ。この緊迫時に威力を発揮した北洋艦隊の提督丁汝昌はイギリス式の海軍を学んだ人物である。李鴻章の推進した洋務運動の生んだ人才が韓国に進出したのである。またこの時の派遣軍の中心人物は北洋陸軍の袁世凱(1859-1916)であった。

 こうした清国の行動には,韓国国民は反感を持ち,また日本の文明開化に大きい刺激を受けていた金玉均の憤激はなおさらであった。大院君にクーデターの背後責任を理由に清国が宗主権を主張して,特に,李鴻章がほとんど自分の一存で大院君を罪人扱いにして連れ去ったことは,許しがたいと思われたのである。

 日本政府は軍乱後,韓国政府に損害賠償を要求して条約を締結した。5)この善後処理のため日本に修信使が送られることになり,正使には朴泳孝が選ばれ金玉均も同行した。さらに徐光範,徐載弼(1866-1951)など開化派に属する人物が随員の中にいた。

 金玉均は2度目の渡日であったが,この時,彼は政界の革新のための資金調達問題で日本政府要人と何回にもわたって接触した。結局,国王の国債委任状があれば借款に応じるという日本政府の返答を得て,彼が33歳の翌1883年6月に帰国した。

 金玉均は国王から与えられた300万円の国債借り入れの委任状を持って,再び徐載弼等,慶応義塾に入る50余名の留学生を引率して3度目の渡日をした。しかし,日本政府の対応が一変したために,仕方なく翌1884年(甲申)3月,帰国した。6)1884年6月,清仏関係の緊張が高まり日本の対韓政策が再び積極化し始めた。金玉均はこれら国際情勢の変化を好機ととらえ,それまでの清国による対韓属国化に終止符を打ち,一切の封建制度を革新した近代独立国家を目指して,1884年12月4日,彼が34歳の時に開化派の同志と共に甲申政変を引き起こした。しかし,政変は12月6日の清国軍の武力介入により「3日天下」で終わってしまった。金玉均,朴泳孝等,9名は日本商船,千歳丸に乗って亡命した。日本に亡命した後の金玉均の生活は悲惨であった。日本政府は自国の利益関係で彼を冷遇した。7)亡命後の1886年,彼が36歳の時,韓国の保守派が送った刺客,池運永の問題で日本政府の強制執行により李允果と共に小笠原島に追放された。8)1894年,彼が44歳になり,それまでの波乱万丈の亡命生活が10年過ぎた時,清国李鴻章の誘引で清国行きを決心した。当時往来が頻繁であった洪鍾宇(保守派刺客)と共に3月25日,日本の神戸を発ち,27日上海に到着した。一行はアメリカ租界地にある東和洋行に宿泊したが,2日目に,金玉均はその旅館で洪鍾宇の狙撃によって暗殺された。3月29日,金玉均の屍身は西京丸で日本に向かうはずであったが,守柩した青年が未備な点があるとし日本領事館を訪問する束の間,居留地の警察の手により清国官憲に引渡された。

 数日後,金玉均の屍身は刺客洪鍾宇と共に清国軍艦,威遠号に乗せられソウル漢江辺の楊花津に到着した。金玉均の屍身はそこで「謀叛大逆 不道罪人 玉均」という罪目と共にさらしものにされた。韓国近代化に大きい足跡を殘した思想家の44歳を一期にした最後の姿であった。

3.金玉均の近代開化思想

 先に述べた如く,金玉均の近代開化思想は朴珪壽の舎廊房で目芽えた。甲申政変を引き起こした彼が,他の青年達と共に具体的にここで何を学び,どういう思想を持つようになったのかを検討してみたい。

 金玉均はまず,朴珪壽(朴趾源の孫)の指導の下に,実学思想の北学論の巨匠朴趾源の文集から朝鮮時代の伝統儒学の固執的姿勢の是正を学んだといえる。

 18世紀における朝鮮儒学界の支配的な考え方として,清国は女真族の支配王朝であるから「夷」であり,したがって清朝最盛期の康・乾隆時代の文物制度,またそこに伝来してきたヨーロッパの科学文明さえ拒否するのが一般的風潮であった。北学論はこれに反対し,次のように主張した。

 「しかるにそのいうことは,今の中国を支配するのは夷狄であるから,学ぶのが恥しいと。……いやしくもその法が良く,その制がりっぱであれば,たとえ夷狄であってもこれを師として学ばなければならぬ。」と。9)つまり北学論は外国文化に対する偏狭な態度に反対する思想である。一方,開化思想を極力,排斥した譲位論である「衛正斥邪」論は,反侵略と反開化が表裏一体であった。従って開化思想の成立は北学論で主張した如く,世界を「華」と「夷」に区別する華夷思想の名分論の克服から出発した。即ち,開化派によって発刊された 『漢城旬報』の創刊号では,「地球図解」とともに「地球論」を展開し,「吾願東洲諸君子,無庸互相是非,惟期實事求是」10)と主張した。このように開化思想の核心には実学の華夷にとらわれない「実事求是」の精神が堅固に内在しているのである。

 後に,金玉均が『漢城旬報』に寄稿した『治道略論』でも次のように主張した。

 「今日の急務は必ず人才を登用し,財政を節約し,奢侈をおさえ,解禁を開いて隣国と交流することであって,どのひとつが欠けてもいけない。しかして区々たる意見よりは実事求是することである……。今日世界の大勢は変動して,万国の交通は大洋を輪船が往来し,電線が網の目のように地球をおおうている。金,銀,石炭,鉄および工作機械の開発が,日常の人民生活に便利を与えていることは,数うるに暇がないくらいである。そのための各国政策の要点を求めれば,一に衛生であり,二に農桑であり,三に道路である。」11)このように金玉均の開化思想は,実学思想を継承しながらより高い次元の近代思想として成長した。

 金玉均と劉大致および呉慶錫との思想的なつながりは,呉慶錫が清国から持来した新書と見聞を劉大致に伝え,それを研究した劉大致を通じてであった。呉世昌(1864-1953)はその父呉慶錫に関する回顧談で,そのいきさつを次のように語っている。

 「中国に滞在中,世界各国の角遂する状況を見聞し,大いに感ずるところあり。後列国の歴史や各国興亡史を研究して,自国政治の腐敗や世界大勢に失脚せることを覚り,何時かは将来,必ず悲劇の起るべきを覚り,大いに慨嘆する所ありたり。是を以て其の帰国に際して各種の新書を持参したるものなり。…… 父呉慶錫が中国より新思想を懐いて帰国するや,平常もっとも親交ある友人中に大致劉鴻基なる同志あり。この大致は学識,人格,共に高邁卓越し,且つ教養深遠なる人物なり。呉慶錫は中国より持来せる各種新書を同人に与え,研究を勤めたり。

 爾来二人は思想的同志として結合し,相会すれば自国の形勢,実に風前の燈火の如き危殆に瀕するを長歎し,何時かは一代革新を起こさざる可からざるを相議しつつありたり。或時,劉大致は呉慶錫に問ふて曰く,我方の改革を如何にせば成就するを得べきか。呉答えて曰く,先ず同志を北村の両班(貴族)子弟に求め,革新の気運を起すにありと。」12)清国から呉慶錫が持来した新書には,魏源の『海国図志』,『中西見聞録』等が含まれており,これらの新書はいずれも,当時,朱子学者たちによって,「尊華攘夷」の正学に反する左書として排斥されたものであった。13)つまり劉大致,呉慶錫らは彼等が到達した中人(両班と庶民の中間)身分層の新思想を,思想の域にとどまらず,なんらかの形で政治に反映させ,列強の侵入に対応する救国の道として,北村の両班子弟たちのなかに開化勢力を扶植させることを計画したのであった。14)呉世昌の回顧談は,劉大致と金玉均との関係についてさらにつぎのように語っている。

 「劉大致は呉慶錫より稍年少なりしが,呉逝いて以来北村方面に交際を弘め,老少を問はず人物を物色し,同志を集めつつありたり。折から偶然青年金玉均と相会し,世間話をなしつつある際この青年の非凡なるを知り,思想,人格,学才,断然衆を抜き,将来必ず大事を計るに足る人物なるべきを洞察し,呉より獲たる世界の各国の地理歴史本や新書史を金玉均に読むべく悉く支を提供せり。且つ熱心に天下の大勢を説き,韓国改造の急なる旨を力説せり。呉慶錫が中国において感得したる新思想は之を劉大致に伝へて,茲に金玉均の思想を産むに至りしものなり。呉は韓国改造の預言者にして,劉は其の指導者なり。金玉均はその担当者となれり。

 劉大致が金玉均と相知りは金玉均二十歳前後の頃なりしなり。金玉均は劉大致より新思想を亨けてより,一面には世間の交遊を広く求め,又壮年科挙に応じて文科に登第し,官場に上り,新たに官途に就くや,同志を求むるに汲汲と努力せり。」15)このように金玉均は,劉大致および呉慶錫らによる思想的感化と外国新書の提供によって,彼の開化思想はいっそう豊かな内容をもつようになり,開化派の同志糾合のために奔走するにいたった。

 さらに金玉均は,劉大致から仏教経典に関する一定の感化をもうけ,それは同志を獲得するうえにおいて有利な条件の一つとなった。

 例えば,甲申政変に共に参与した朴泳孝は,回顧談の中で次のように述懐している。「金玉均とわたしのとのつきあいは仏教討論からであった。金玉均は仏教のことを好んで語り,わたしはそれがおもしろくて金玉均と親しくなった。わたしの伯兄(朴泳教)の勧めもあって金玉均と交わるようになったが,そのとき金玉均は27歳,わたしは17歳であった。」16)即ち,劉大致を介してソウル近郊奉元寺の開化僧,李東仁との交りも,開化思想への共鳴と同時に仏教がとりもつ因縁もあったのである。

 先に述べたように,李東仁は金玉均に日本に関する知識を伝え,さらに日本への活動の道を拓いた人物である。日本は韓国にもっとも近い国であり,欧米諸国の事情を知る上でも,維新以来,短期的に近代的発展をなしとげた経験を知るためにも,金玉均等の開化派が日本に関心をいだいたのは,その思想的性格からして当然の帰結であった。17)李東仁は朝鮮時代の身分制度からみれば賤民に属し,彼が金玉均等の両班の弟子達と同志的に結合し,尊敬を受けたこと自体が,すでに封建的身分制度をこえるものであった。

 李東仁は初め,劉大致と親しみ,劉の紹介によって金玉均らと接触するようになった。李東仁が本願寺釜山別院を通じて近代化されつつある日本に注目し,研究し始めたのは,既に1878年からであった。このようにして劉大致は,新世界をみる眼を二つもっていたことになる。その一つは呉慶錫を媒介とする清国を通じて,他の一つは李東仁を媒介とする日本を通じてである。

 李東仁は釜山で入手した,『万国史記』や世界各国の都市および軍隊の模様を写した写真,万華鏡などを金玉均等にみせ,当時,左書と目されていた『万国史記』などを,同志たちの間で輪読した。18)李東仁は前述した如く,金玉均,朴泳孝の斡旋で1879年日本へ渡ったが,1880年6月に修信使として訪日した金弘集と出会う。この出会いが李東仁を当時の政界に進出させる契機となった。金弘集(1842-1896)は,李東仁の流暢な日本語,高い識見,日本と世界の大勢に対する深い洞察,韓国の将来に対する達見に接して,「一たびは打ち驚き,一たびは打ち喜び,彼の手を執ってなかんばかりに彼の篤志を称し,我国またかかる快男子あるかと絶叫した。」という。19)日本から帰国した李東仁は,持参した新書とその報告で金玉均等の開化派にさらに大きい影響を与えた。後日,金玉均の指導を受けて士官学校生徒として日本に留学し,甲申政変に参加した徐載弼は,その回顧談の中で次のように語っている。

 「その持来した書籍が多くあったが,歴史あり,地理あり,物理,化学のようなものもあって,これをみるために三,四カ月その寺(奉元寺)に通ったが,当時このような本はひっかかれば,邪学といって重罰に処せられるため,一カ所で長い間読んでいられないので,その次は東大門外の……永導寺とかいう寺で読書し,また奉元寺に移り,このようにくりかえすこと一年余り,それらの本をすべて読了した。それらの本は日本語で書かれているけれども,漢字を拾い読みすれば意味はほぼ通じた。このようにして本を読了したところ世界の大勢がほぼわかるようになった。そこでわが国でも他国のように人民の権利をうちたててみようという考えがわいてきた。これがわれわれをして開化派として登場させる根本になった。換言すれば,李東仁という僧侶がわれわれを導いてくれ,われわれはそれらの本を読んでその思想を身につけたから,奉元寺がわが開化派の温床ということになる。」20)このように,金玉均の近代開化思想は1876年の江華島条約を基点にして,それ以前の時期は,朴珪壽を通した実学思想の継承と呉慶錫,劉大致を通した清国からの見聞により,それ以後の時期は,李東仁等を通した日本よりの見聞により世界に対する認識を深め,新しい歴史的条件を反映させながら近代改革思想としての展開を見せたと言える。そして,主体的政治勢力の開化派として対外実践活動をするようになるのである。

 徐載弼が金玉均を回顧する中で「金は朝鮮もいつも世界各国と一緒に,平等と自由の一員になるかということを切実に感じ,自強なる現代的国家をつくるために努力した。したがって西欧式新知識,及び新技術を採用して政府と一般社会の因習を打破し,新しい国家像を具現することを構想した。」21)と語り,又「韓国は東洋のフランスにならねばならないと主張した」22)という内容をみても,金玉均は清国との宗属関係を清算し,西洋諸国と新興国日本をモデルとした自主独立的な近代国家を実現することが,彼の基本思想であり目標であったのである。

4.清国の対韓西洋開国及び属国化政策

 韓国の開港問題に対して清国は丙寅洋擾以来,仏・米両国と交渉したことがあり,特に1875年8月の雲揚号事件が起きた直後,北京の保定府で清日間で進行した,いわゆる所属邦土の論議において,韓国の開港問題は不可避的に決断されねばならないという認識を持っていた。23)しかし日本が韓国の開港を主導すると,警戒心を持った清国は韓国に対する積極的な態度を取るようになった。即ち,韓国は宗属国であるがその政治・外交には一切干渉しないという従来の形式的な宗主国の立場から一歩進み,韓国の安定保障に対する責任は清国にあるという方向に変化した。それは清国が韓国と日本の江華島条約締結に刺激を受け,韓国の外交問題に関して干渉,又は勧導の必要性を自覚し始めたとみることが出来る。24)清国の李鴻章は江華島条約締結以後,主に日本勢力の韓国進出に関心を集中させた。韓日間の問題に対して日本を制御するという政策を打出したが,まだ駐日公使何如璋(1838-1891)の報告に基づき彼と同じく韓国の仮想敵国をロシアとみて,対露警戒心強化の見解を持っていた。しかし,1879年4月4日,日本が廃藩置県を断行し琉球を併合すると日本に対する警戒心を高め,ロシアと共に日本をも仮想敵国と見る戦略を立てるようになる。そして李鴻章は1879年,韓国に対する日本の圧迫を憂慮しながら韓国政府領府事,李裕元に次のような手紙を送った。

 「今の状況下では以毒功毒で敵を制圧する計策を持って,西洋列国と順次条約を締結し日本を牽制しなければなりません。日本が詐欺と暴力で鯨の如くおそい,蠶の如く食することのみを考えている事は,琉球を亡ぼした一つの事実をみてもわかります。……昨年ロシアがトルコへ侵入して事態が非常に危険であった時,イギリス,オーストリア等の列国が抗議したためにロシアは軍隊を撤収しました。」25)即ち,李鴻章は韓国が米英仏独等,西洋諸国と積極的に条約を締結して日本を牽制すれば,ロシアも防ぐことが出来ると説得した。彼は日本が廃藩置県の断行で,清国と両属関係にあった琉球を完全に統合したことに対し警戒心を高め,「以夷制夷策」で西洋勢力を活用して清国の生命線である韓国を死守せんとしたのである。

 日本をより警戒する李鴻章の認識変化に対して,何如璋は従前通り韓国の患は日本にあるのではなくロシアにあるとする対ロシア警戒論を堅持しながら,李鴻章とは見解差をみせた。さらに李鴻章は通商の必要性についても次のように説明した。

 「韓国の力だけで日本を制圧するのは無理であるが,西洋諸国と通商するならば日本の牽制が充分に可能であります。西洋の一般慣例として,理由なく一国が滅亡するのを容認しません。大体,各国間に通商関係が成立すれば自然に公法が適用されます。又,欧州のベルギー,デンマークは共に小国ですが,各国間と通商関係を維持しているので特定国が勝手に侵略できません。これは強者と弱者が互いに牽制しながら共存する明白なる証拠であります。」26)このように,李鴻章は「通商」と「公法」とを連関して把えた。彼は西洋の万国公法体制下の勢力均衡を把握し,それをさらに伝統的な中国の外交術である「以夷制夷」の概念で捉えたのである。それで西洋と通商をすれば自然と公法が適用されて日本を牽制することができると説明したのである。即ち,ロシア・日本の韓国侵入をアメリカ・イギリス・フランス等の西洋勢力をもって牽制しようとした。この時,彼は日本を含め西洋各国を全て‘夷’と認識している。 

李鴻章は,旧来の韓国との宗属関係の万国公法的改変を企図しながらも,その宗属関係の枠組みを巧妙に利用して清国の東方軍事戦略の強化を図る中,韓国の開国自強策を推進しようとしたのである。

 これに対し,領府事,李裕元は李鴻章に次のような韓国政府の開国を拒否する意志を伝える返書を送付した。

 「西洋の公法では,概して理由なく他国を侵略したり滅亡させることが出来ないために,ロシアのような強国も貴国から軍隊を撤収したわけで,万一,我が国が罪なく他国の侵略を受ける場合でも,列国が共同で糾弾し擁護してくれるでしょうか。……トルコを滅亡の危機から救った点では公法を信じられますが,滅亡した琉球国を再建するには公法が効力を発揮出来ないのでしょうか。ベルギーとデンマークは列国の間にはさまった非常に小さい国であるにもかかわらず,強者と弱者の互いの牽制で亡びずにいますが,琉球国は数百年の長い歴史を持っていたにもかかわらず,亡びました。これはこの地域が遠く離れ列国と隔離していためなのですか。」27)ここで注目する点は,日本の琉球処分に関しての公法の無力さに対する不信と共に,清国が韓国に対西洋開国を説得する手段として利用した琉球処分について,その矛盾点を的確に指摘して反発した事実である。28)このように韓国政府は李鴻章の勧告を拒絶した。しかしこれは,時代の流れを把握出来ず,対西洋開国の意識自体を持たなかった,この時期韓国官僚の問題点の表れともいえる。

 その後,韓国官界が対西洋開国に関する意識を変え,決定するに至るのは1880年,第2次修信使として日本を訪問して戻った金弘集が『朝鮮策略』を持ち帰ってからである。『朝鮮策略』は駐日清国公使,何如璋が参賛官,黄遵憲(1848-1905)に執筆させたもので同書の内容は,韓国の基本的な対外戦略を示し,開国と均勢と自強の必要性を説いている。即ち,当時の世界情勢から判断して,韓国の安全保障にとって最も威脅となる国をロシアとみて,その対策として「親中国・結日本・連米国・以図自強」29)というものであった。

 ここで,「親中国」という意味は清国との宗属関係をもっと充実させねばならないと解釈出来,「結日本」とはロシアの威脅に対処するために日本との修好条規を遵守し強化すべきと解釈出来る。何如璋は日本による侵略は当時の日本の財政状態悪化のため,不可能であると判断したが,李鴻章は経済事情が悪い点が返って領土拡張を誘発する余地があると対照的な見解を持った。30)又「連米国」という意味はアメリカと連携して通商条約を締結すべしということであるが,ここでも李鴻章と何如璋は見解を異にする。李鴻章は全ての西洋勢力を等しく‘夷’と見なしたが,『朝鮮策略』では韓国が侵略性の強いロシア牽制のため通交しなければならない国として,米・英・仏・伊を列挙し,ロシアとその他の西洋諸国とを差別化したのである。その中でも特にアメリカを民主・共和・礼儀の国として高く評価した。

 李鴻章と何如璋は韓国の当面課題として,対西洋開国と自強の必要性では見解が一致したがその方法論において違いをみせた。即ち,李鴻章は中国の伝統的な外交術である「以夷制夷策」でもって従来の伝統的な宗属関係の枠の中で,韓国を維持しながら開国自強策を推進しようとした。これに対し,何如璋は近代外交術である「勢力均衡策」で韓国の対西洋開国を先導しながら,従来の韓国との形式的な宗属関係を,近代国際法の中でのより実質的な属国関係に再形成しようとした。

 従って,韓国が西洋諸国と開国し条約締結する時,清国がこれに関与し韓国が清国の属国であることを明白にする必要があると力説したのである。31)何如章は李鴻章以上に韓国に対しての宗属関係強化を目指したといえる。

 このように李鴻章と何如璋は西洋各国に対する認識と方法論上の違いはあったが,清国の生命線である韓国の危機打開のための鎖国攘夷策の放棄,及び,自強のための対西洋開国を推進させながらも,属国的支配関係をより強化させるという点では一致していた。

 1880年,10月2日,金弘集は国王,高宗に『朝鮮策略』を献上しながら日本で得た情報を報告し,開国自強策の推進を勧めた。これが政策転換の契機になり国王及び閔氏政権下の韓国は,清国及び日本から得たロシア脅威論を現実問題として受け入れ,『朝鮮策略』の方針で外交を推進した。1881年,天津に「領選使」金允植(1835-1922)を派遣して清国の外交ルートによってアメリカとの国交交渉を展開させた。金允植は金玉均と同じく朴珪壽の門下生で開化思想家であったが,対外論と開化の方法論に於いて,金玉均と大きい違いをみせた人物である。この時,彼は朝米修好通商条約の起草作業に関与するが,彼の姿勢は,清国との事大関係を利用しながらアメリカとの開国を進めようとした。即ち,「天下が全て知ってる如く朝鮮が清国の属邦であることを認めたとしても自主権までは奪われない。却って,西洋諸国が清国との関係をみて韓国を軽くあしらうことが出来ないであろう。それで中国とは事大の義理を全う出来,各国とは交際の害がなく平等の権利も失なわずに両得を期することが出来る。」32)と主張したのであるが,これは李鴻章の宗属関係の維持,又は強化の中で韓国の対西洋開国を推進する方策と一致しているといえる。それで,李鴻章が韓国保全のために同条約草案の中で,韓国はかなり以前より清国の属邦であったという内容の属国規定一条の挿入を主張したとき,金允植は各国に対する自主を守ることが出来て非常によいと答え,肯定的に受け入れた。こうした金允植,及び韓国政府の清国を利用しようとする対外戦略が,逆に清国自らの対韓属国化戦略に基づく韓国への介入を容易にしたのである。

 こうして1882年5月,清国,特に李鴻章の仲介により韓国はアメリカとの間に朝米修好通商条約を締結した。これで韓国が日本以外の西洋社会に初めて門を開くことになったのであるが,清国の韓国への干渉はさらに露骨化する。

 即ち,清国は韓国に対して従来のような形式的な宗属関係に満足せずに,韓国の軍事・財政・外交を掌握して自主権を破棄させる,近代帝国主義的な属国化を目論んだのである。その具体的な表れが壬午軍乱後の1882年8月に,清国が自国商民の貿易上の特権を排他的に独占する目的で,韓国との間に締結した「朝清商民水陸貿易章程」である。この条約文には属国規定が明記され,西洋との通商条約よりもっと苛酷な内容の不平等条約であった。これが,金玉均が独立的な近代国家を標榜して,甲申政変を引き起こした直接的な動機でもある。以後,この章程体制は1894年日清戦争時,韓国の要求で破棄されるまで12年間続いた属国体制であった。(2004年6月15日受稿,7月23日受理)



1)李 根,『韓国史』最近世編,震檀学会,乙酉文化社,1966,p533

2)李光麟,『開化党研究』,一潮閣,1973,p14

3)『東光』(雑誌),1931年3月所載。『李光洙全集』第17巻,三中堂刊,p401

4)姜在彦,『朝鮮近代史研究』日本評論者,1970,p56-57

5)閔泰 ,『金玉均伝記』,乙酉文化社,乙酉文庫10,1971,p61

6)金玉均,「甲申政変」『韓国の近代思想』,p41-43

7)前掲書,『金玉均伝記』,p80

8)上掲書,p84-91

9)『燕岩集』巻之七,『北学議』序

10)『漢城旬報』創刊号,1883年旧暦10月1日(ソウル大学校出版部影印本)

11)金玉均,「治道略論」『漢城旬報』1884年閏5月11日付

12)古均紀念会編賛『金玉均伝』(上),p48

13)金道泰,『徐載弼博士自叙伝』乙酉文庫99,乙酉文化社,p85

14)前掲書,『朝鮮近代史研究』,p55

15)前掲書,『金玉均伝』(上),p49-50

16)『東光』(雑誌)1931年3月所載,『李光 全集』第17巻,三中堂刊,p401

17)前掲書,『朝鮮近代史研究』p58

18)前掲書,『徐載弼博士自叙伝』,p85-86

19)朝鮮開教監督部編,『朝鮮開教五十年誌』,p137-138

20)前掲書,『徐載弼博士自叙伝』,p64-65

21)閔泰 ,「徐載弼の手記」,『甲申政変と金玉均』,国際文化社,1947

22)前掲書,「徐載弼の手記」

23)権錫奉,「李鴻章の対朝鮮列国立約勧導策について」,『歴史学報』21,1963,p103

24)上掲書,p104

25)『高宗実録』高宗16年7月9日,国史編纂委員会,探求堂,1970

26)上掲書,『高宗実録』高宗16年7月9日

27)上掲書,『高宗実録』高宗16年7月9日


28)北原スマ子,「朝鮮の対西洋開国決定とロシアの認識」,『朝鮮史研究会論文集』33,朝鮮史研究会,1995,p50

29)黄遵憲 原著,『朝鮮策略』,『日本外交文書』第13巻,1980年,趙一文訳注,建国大学校出版部,1997

30)原田環,「朝鮮策略をめぐって」,季刊『三千里』17号,三千里社,1977,p205

31)上掲書,「朝鮮策略をめぐって」,p204

32)『陰晴史』,高宗18年辛巳12年28日條,国史編纂委員会,1958