心の壁をいかに取り除くか

桜美林大学名誉教授  安 宇 植

1.表層的な異文化理解

(1)南北と日本との三角関係
 韓日の文化交流を現象面で見ると,相互の文化理解がここ5〜6年の間に相当変化したように思う。少なくとも90年代の金泳三政権までは,反日感情が前面に出ていた時代であった。当時の韓国内の出版物をみても,日本人の欠点をあげつらうような種類の本が多かった。その象徴的事件が旧朝鮮総督府の建物の撤去であった。この時代は,相互理解とは逆の方向に進んでいたように思う。ところが,金大中政権以降日本と共に生きるという方向に変化してきた。

 最近では,ヨン様現象,韓国の映画や音楽への関心の高まりといった現象が見られ,さらに交流が活発化している。そのきっかけは日韓ワールドカップであった。しかし,このような変化の底辺には,韓国のみならず日本においてもジェネレーション・ギャップがあることを指摘したい。金泳三政権時代に反日を叫んだ世代と今の文化交流を積極的に進める世代とは,10〜20歳の差がある。このギャップを考慮せずに相互関係が良くなったと表層的現象面からのみ判断することは性急過ぎるように思う。オールド・ジェネレーションの中では反日感情が払拭されたわけではない。

 その一方で北朝鮮を包容しようという「太陽政策」に与する人たちもたくさんいる。盧武鉉政権時代になるとそのような人たちが政権の中枢まで入り込むようになった。この世代は北朝鮮に対する許容量(寛容度)が大きくなるに比例して,日本に対しては反日的傾向が強まる。それは北朝鮮と日本の関係がよくないためである。現政権の中では,日朝関係がこじれたままでいれば,日本よりは同胞,同一民族である北に傾いていく。このように南北と日本との三角関係は,常にどちらかに偏らざるを得ない。そこでそれを安定させてゆかない限り,北東アジアの共同体の形成は難しいと思う。

(2)ステレオタイプな見方
 日本との関係では,韓国の若い世代は古い過去のことを忘れたりして関係はよくなっている。私自身いまでも韓日の大学生交流に関わっているが,そのとき彼らと話してみて韓日に共通していえることは,「文化交流は上っ面だけではないか」,「深いところまで根をおろしたのか」との疑問である。

 韓国から日本にたくさんの留学生が来るようになり,その人たちが韓国の大学に戻り日本文化を教える教官になっている。また韓国の大学で私も日本文化に関して講義をする機会があった。そうしたときに感じることは,韓国で日本を教えるテキストの中身が,いかに日本を間違って記述しているかということであった。テキストを書いた教授の日本での体験がもとになっている場合,誤解や知識の不足などのために客観的にみると事実として正しくないことが少なくない。同じ日本でも暑いところと寒いところでは,そこで取れる産物が違うので,食べ物,考え方,言葉も当然違ってくる。そのような視点を持たなくては異文化理解は不可能である。それをステレオタイプな見方だけで日本を見ていることが多い。

 ある韓国の大学教授が日本での留学体験記を韓国で出版しその日本語訳を出版した時,翻訳を任されたことがあった。その中で2箇所だけ私の判断で削除した部分があったが,そのことをめぐって韓国のある新聞社から親日派呼ばわりされた。その一つは,「日本人は毎晩みなテレビでポルノまがいの番組を見ている」という箇所であった。考えても分かることだが,日本人の中にはそのような人もいるかもしれないが,大半の人々はそんなことをしているわけではない。そのような偏見を書くことは学者として恥ずかしいことだと思いかえって学者の良心からその教授のためを思ってしたことであった。ところが,韓国の新聞は「日本人の醜い部分を隠そうとした」として私を親日派とレッテル貼りしたのであった。

 まず自分に照らしてから相手を理解するのでなければ,本当の意味での文化交流はできない。その場合は,自分の欠点を認めることにもつながるので非常に辛い思いをすることになる。それなしにどうして真の文化交流ができるというのか。日本の場合も,同様である。

2.歴史問題をどう見るか

 歴史問題についてはみな自己主張のいい放しである。これまでお互いに問題点を率直に話し合い,その研究成果をぶつけ合う作業をしてこなかった。韓国で日本文化の開放が叫ばれるようになってから,ようやく韓日の学者が集まり教科書問題等を中心に話し合いを始めるようになった。研究者同士でひざを交えて研究をし合っていかなければいけない。それだからといって,こぶしを振り上げてけんかをする必要はない。ゆっくり時間をかけてやっていくしかない。それぞれに言い分があるので,それを尊重しながらどこかで折り合いをつけていく。今後は北朝鮮も含めて進めていくことが必要であろう。

 経済,モノの場合は,見ればどちらが優れているかはっきりしてしまう。しかし歴史問題は,研究・検討し合うしかない。事実に照らし客観的にみて,どの見解が最も説得力があるかである。そしてお互いが謙虚になって,より説得力のある見解を受け入れる。そのとき自分の傷,痛みをこらえて受け入れるという姿勢が大事である。サッカーの試合でも,ドイツがいくら強豪だといっても負ければそれを認めている。認めなければ前進はない。

 一例を挙げてみよう。朝鮮王朝時代の国王は,日本の徳川幕府と国交を結んだ。その後,朝鮮通信使が12回日本にきたが,よく調べてみると徳川幕府の上に天皇がいることが分かった。朝鮮の国王は本来天皇と国交を結ばなければ平等とは言えない。しかし,徳川幕府が実権を握っているためにそれは許されなかった。実学派の人たちは過去を反省する中で,将来天皇の問題が韓日間のトラブルの原因になると予見した。実際,19世紀の明治維新になると,日本は今度天皇が実権を握った。ところが朝鮮側はそれまで徳川幕府と国交関係があったことから天皇と新しい国交関係を結ぶことに反対した。それが征韓論の根底にある遠因の一つであった。

 この問題の本質は何かというと,朝鮮側が日本研究を怠っていたという点である。外交面を含めてもっと日本研究をしっかりやっていれば,適切な対応ができたはずであった。ところが,当時中国が西欧に半植民地化される中で,朝鮮だけは儒教の国として中華思想を守る「とりで」とならなければならないとの自負を持った(小中華思想)。日本に対しては野蛮な国だと見下した。そうなると平等の関係でものがみえなくなってしまう。その結果,日本側も外交のやり方においてきたない面があり,日本にうまくしてやられてしまった。

 思想はその成立初期においては合理性・融通性があって,他の存在も認めるが,その思想が一旦確立期に入るとそれ一本になって他を許さないという傾向が見られる。北朝鮮も同様であり,金日成時代はそれでもまだ融通性があったが,今ではそのようなことは全く許されず,金正日オンリーとなっている。日本でも,明治維新期から大正・昭和になるにしたがって視野が狭くなっていく。一つの思想や文化が根をおろし始めるとどこでもそのような現象が起こる。

3.南北統一の障害物

(1)韓国における対北感情
 いま北朝鮮にシンパシーを持つ若い世代の特徴は,まず直接朝鮮戦争を体験していないということである。また彼らは,北朝鮮が悲惨な経済状態にあることを知っているために,(北に対して無意識のうちに)優越感をもっている。それゆえ同じ民族として包容してやろうという気持ちが生じてくる。もし,北朝鮮が経済力などで韓国よりも上の場合は,そうはならないだろう。人間の感情とはそのようなものである。それに北朝鮮の政治問題については,その現実・実情をあまり知らないという側面もある。

 私の知り合いで韓国のある大きな企業を営む資産家がいる。彼は自ら「進歩派」と称して,北朝鮮に対しては非常なシンパシーを示して援助活動をさかんにやっている。彼に「もし,北が攻めてきてあなたの財産を収奪しようとしたら全部渡すのか」と聞いても,即座に「はい」とは答えられない。ここからも明らかなように,彼らの北に対する思いには当然限界があることがわかる。

 韓国は,資本主義・民主主義社会としてかなり定着してきた。そのような安定した体制があるからこそ,北朝鮮を包容しようという余裕が生まれる。しかし,北朝鮮は独裁体制で体質が全く違う。「同胞だから,単一民族だ」といって統一を叫ぶ人が多いが,それは情念を中心とした考え方であって,現実の政治面からすると簡単には越えられない壁がかなりある。韓国の片思いがかなり強いようにも思う。その上,韓国の中には,今でも朝鮮戦争で傷を負った人々や北に拉致された人の家族などがいる。そのような傷を持った人たちは,簡単に北を受け入れることはむずかしい。また,歴代の韓国の政治が非常に保守的であったために,その一種のアンチテーゼとしての北に対するシンパシーともいえる。現象面での北へのシンパシーがどこまでほんものなのか,不透明な部分がある。北が南よりも強大になっていったときに,それでも持続できる南北共同なのかわからない。そこには目に見えない壁があることを指摘したい。

(2)北朝鮮に対する姿勢の問題点
 いま韓国内には北朝鮮にシンパシーを示している人たちとともに,中国に行って脱北者を支援している人たちもいる。その両者は思想的には対立関係にある。後者は,北の現体制に対して否定的であるが,前者は体制を否定しているわけではない。北朝鮮を支援する場合,交流を活発化しても北朝鮮はそれに応じて体制を変えるわけではないので当然限界がある。また北朝鮮にとって,脱北者を支援する人たちは当然敵対関係となる。

 近い将来の民族統一を考える前に,まず北朝鮮に対する対応で南の中での統一が図られないといけない。北朝鮮に対する二つの相反する行動を行っているような状況の中で,南北の統一はむずかしいだろう。むしろ南の中でまず完全な統一をなしてこそ,南北統一に向かうことが可能になると思う。

 次には,統一に先立ち北をして一種のモラトリアム状態を作り出す必要がある。なぜなら北は資本主義を知らず,一つの体制の中でがんじがらめになっているので,世界の現状を知らせなければならない。そうしないと統一後に南の人たちが北を軽蔑することになりかねない。一方北の人たちは,遅れているということでコンプレックスを持つことになる。

 統一とは,いくつもの段階を経てこそ実現可能なことであって,単純に国境線を廃止したからといって実現できるような簡単なことではない。見えない心の壁があるので,それをまず壊していくことである。例えば,韓国に帰順した脱北者たちに対しても韓国内では差別があり,つらい思いをさせているという事実もある。このようなことは,将来もありうることであって,それを捨象して統一を叫ぶのは片手落ちだと思う。精神的な面でいつでも北の人を受け入れる体制を作るというが,具体的にこうなったときはこうしようということまで考えていかないと,本物の準備にはならない。

 ここに在日の役割が出てくると思う。それは北朝鮮の体質を変えることに寄与することが可能だからである。在日同胞の家族が北朝鮮にたくさん帰っている現状があるが,彼らの生活がよくならなければ在日の人たちにとっても不幸なことである。いまだに家族訪問するために北朝鮮に行く人はお金を持って行く。それがなくなる方向に向かうようにしていかなければいけない。ところが,在日の組織は南北に分かれていて一つの方向に向かっていない。これを変えていかなければいけない。最近では若い世代の中で大きな変化が現れており,これを足がかりに在日の組織を一つにすることも可能であろう。

 ある在日の人は,「北朝鮮はいまや中国の‘属国’だ」と表現した。北朝鮮の中には自由市場がたくさん作られているが,そこから中国の商品をすべて引き上げたら市場が成り立たなくなってしまうという意味である。このような現状であるが,それをよい方向に持っていくにはどうすればよいのか。

 例えば,北朝鮮に工業団地を作る計画があるが,それを韓国の利権だけで進めては,かえって北と南の経済格差が広がるばかりで問題である。北朝鮮の経済レベルを上げていくことも同時に進めていくことが大切である。企業が進出すれば,設備投資・技術が投下されるのでレベルアップされる。しかし,資本がすべて南から行く場合,北の人を食わせるためにいくのではなく,自分たちの利益のためにいくことになる。金剛山観光などの現代グループの事業にしてもそのようなことのためにみな失敗し,結果として,北朝鮮に投資したことで「現代」はがたがたになってしまった。このように企業の論理には限界がある。

 また,一般的に韓国・朝鮮人は理性よりは感情が優先する民族的性向が強いために,血の気が多くて,「今こそ統一」などと浪花節調・心情的に叫ぶことがあるが,それだけで統一が実現するわけではない。統一と政治の世界はリアリティーの世界である。例えば,朝鮮総連の人たちは,金丸訪朝後,日本から多額の賠償金がもらえるからいまにも統一が実現するようなことを言っていた。しかし,彼らは現実面のことをほとんど考えないで心情的にそう叫んだのであった。韓国人にも同様の側面があるが,現実を考えながら一歩一歩見えない壁を壊していくことからはじめていくことが大切であろう。

(3)東アジア共同体への課題
 ヨーロッパと東アジアの共同体構想を比較した場合に,まず大きな違いは,人口のキャパシティーの違いである。東アジアでは,中国がずば抜けて大きな人口を擁する国である上,少数民族問題を抱えている。いくら中国の経済力が大きくなったといっても,中国の水準はそれほど高くはない。そこでとりあえずは,韓国と日本がしっかりと連帯関係をもって共同体関係を築いていかない限り,韓国自体も生きていけないだろう。いま韓国内では,しきりに中国への関心が高まりそちらになびいているようだが,よりレベルアップした共同体関係にしていくためには,まず韓日関係が重要だと考える。韓日のこれまでの交流,技術・資本提携などを活発化させて一つの共同体をコアとして作れば,中国の動向如何でもうまく対抗できるであろう。そうすれば北朝鮮は中国について回ってくる。

 また,ドイツは統一してよかったと言っているが,実際には旧西ドイツの人たちは旧東ドイツの人たちを軽蔑しているという現実がある。そのもとには経済格差の現実がある。このようなことが朝鮮半島の南と北の関係でも起こらないとは決して言い切れない。それを考えないで統一を情緒的に叫ぶのは早計である。

 つまり精神面での壁をなくす作業を前提条件として進めた上で,統一がなされることが望ましい。統一というのは,相互の平等関係を前提にしてなされなければならない。EU諸国にしても,このような「平等の中の統一」という形で実現することで,可能になっていったと思う。上下関係のある中(不平等関係,経済格差)での統一では限界であるから,今あるさまざまな穴を埋める努力をしつつ統一に近づけていくことが重要である。
(2004年6月25日)