豊かな感性を育む教育

北海道教育大学教授 村瀬 千樫

 

1.はじめに

 最初によりよく生きるという人間生活を考える上で,重要と思われる二つの観点を紹介したい。

 人間は呼吸という「風」を通して生きているが,「新しい風(呼吸)」を体に入れなければ生きていけない存在である。それは単に人間の体の面だけに限定されることではなく,頭や心も同様であり,常に「新しい風」を入れ新陳代謝をして生きているといえる。その意味で,「新しい風」という観点を日々の生活の中で大切に考えていきたい。学校でも,家庭でも,会社でも,常に新鮮な風・空気を入れることが大切である。つまり,昔から言われているように毎日毎日が始めての仕事のつもりで臨むという姿勢である。能の格言にもあるように「初心忘れるべからず」の後に続く「その時々の初心忘れるべからず」を大事にしたいと考える。

 ところで,私たちは意識していないが,一人の人間の呼吸に必要な空気(酸素)をまかなうのには樹木が15〜20本必要だといわれる。この事実はわれわれに,人は自分ひとりの力だけで生きているのではなく,たくさんの人々,もの,まわりの環境に支えられなければ決して生きていけない存在であり,他者とのかかわりを感謝しながら生きていくべきことを教えてくれていると思う。

 もう一つが「自己啓発」である。ある人は,旅をする,読書をする,人の話を聞く,この3つを自己啓発として挙げているが,そのような場を通して自分自身を高める行為が「自己啓発」である。

2.豊かな感性

 「感性」とは,一言で表現すれば,「ものの価値に気づく感覚・能力」といえる。例えば,画家は,壁に一つのしみを見つけその面白さに気づいてスケッチする。灰皿一つをとってもそこに置かれているタバコの方向やバランスに面白さを感じてスケッチをする。このように「さまざまな価値に気づく」ことが,「感性」の本質ではないかと思う。価値に気づく感覚を絶えず研ぎ澄ませていないと,大切なことを見過ごしてしまうといえる。

 私の父は生涯絵を描き続けていたが,病床にある父の目前に私がティッシュの箱のセットを置くと,「この配色は実にいいな」とつぶやいた。これが最後の言葉となった。そのとき「美術をやってきた人間の最後の言葉として父は幸せだ」とつくづく思ったものである。父が最後まで美しさを求める感性を失わずに逝ったことは,私の心の中に強い感動として残った。

 感性の教育には,科学性,道徳性,芸術性の3つが必要だといわれる。そして確かな学力の基礎には,感性・人間性がなければいけないと思う。平成元年に改訂され平成4年から始まった学習指導要領には,「関心こそ知を拓く」との哲学がベースにあり,それは現在の学習指導要領にもつながっている。学習指導要領の根底に流れている哲学は「関心」「意欲」の重要性であり,その方向性,すなわち感性を大事にする点は間違っていないと思う。学校教育の中においても,感性が最初に来るといえる。以前は,理性が感性より優位に考えられていたと思われるが・・・。しかし理性にしても,感性を働かせた上でないと本当の能力を発揮できない。「知のはじまりとは驚くことから」とも言われるゆえんである。

 哲学者の中村雄二郎氏(注1)は,「関心こそが知を拓く。知的活動を活発にすると,子どもたちは面白いと思うことを自然に探し出すようになる。それが好奇心に繋がり,新鮮な気持ちでものごとに出会うようになる。」と主張する。

 例えば,「雪が積もれば町が静かになる」といわれる。私はその事実を小さい頃から体験的に知っていたが,それを科学的に説明すれば,雪の結晶の隙間の中に音が吸収されて起こる現象である。雪が周囲の音の約80%を吸収するために静かになる。また遠くの音がよく聞こえるのも,音は気温の高い方から低い方向へと流れるためである。雪を踏むと足元からキュッキュッという音が聞こえる。気温が氷点下7度以下で粉雪でないとそうならない。このような日常生活の中にも驚き,気づきがたくさんある。心を動かすことが感性を育てることの原点にあると思う。

 そこで私は,授業において「今日一日の中で驚いたことや心を動かしたことは何かを紙に書きなさい」と指示し,それに対してコメントを書いて本人に返している。驚く気持ち(感性)がないと知も始まらないと言いながら・・・。レイチェル・カーソンが「センス・オブ・ワンダー」(注2)と言っているように,神秘さや不思議さに目を見張る感性をすべての子どもたちにつけたいという気持ちは,私も同感である。

 ノーベル賞を受賞した田中耕一氏は「まずは好奇心だ」,江崎玲於奈氏も「まずはsurpriseだ」と言った。またアリストテレスは,「人は生まれながらにして知ることを欲している。」,そしてルソーは,「人は生まれるやいなや学び始める。」と言った。人間の最も根源的欲求は「知りたい」という欲求であり,この点を忘れてはいけないと思う。

 ギリシア語では,ソフィア(知)をフィロ(愛する)ことがフィロソフィア(哲学)である。この言葉が明治初期に日本にもたらされたときに,「賢くあることを願う学問だ」と定義した。そして「教師は哲学者でなければいけない」とも言われた。またソクラテスは,「魂の世話」と言った。豊かな感性は,知から,そして哲学から始まるといえる。

 「聖(ひじり)」とは,神の声が聞こえる人という意味である。そのラテン語の語源は,心と心,モノとモノとをしっかりと結びつけるという意味であるといわれる。人間は「真剣」になって自分のことに努めると自ずと聖なるものが憑依する,神が後押しする。これが真剣の意味である。そうすると自分の持つ力以上の力が発揮できるのである。

3.家庭教育のあり方

(1)習慣づけ
「学習とは精神の習慣である。」(波多野完治)といわれる。小学校の先生方に「最近の子どもたちに一番欠けているものは何か」と問うて見ると,「耐える力」だという。最近の子どもたちは,教室などで長く座っていられない。それゆえ「調べ学習」が一番だめになったという。例えば,「家でこれこれについて調べておいで」といっても調べてこられなくなった。習慣の中にはいやいやながらしなければ身につかないものもある。

 「動機の機能的自立」という言葉がある。最初はいやいやながらも教師に言われてやっていると,やっていく中で次第に動機が機能的に自立していき,自分がやらなければいけないと自覚するようになるという意味である。そのような習慣をつけること(水路付け)も大切なことである。

 大人が子どもたちに身につけさせなければいけない基本的なことは,少なくとも次の2つであるといわれる。まず,人間性である。人が生きていくとはこのようなことだ,生きていくことの素晴らしさを教えること。もう一つは有能性である。これからの時代をつくっていく,自分の持つよさや可能性を最大限発揮して今の時代を生きていく。これらの二つをわれわれの文化の中で育み築いていくのである。

 それでは文化とは何かといえば,一貫性と変異性,言葉を換えて表現すれば,伝統と創造である。その文化を,家庭,学校の中で築いていく。例えば,教育大学であれば教育大学の伝統的文化があり,各小・中学校にはそれぞれその小・中学校の伝統的文化がある。それらは一貫性(伝統)であるが,そこにおいて変えるべきことは変えていかなければならない(創造)。学校教育でいわれている「生きる力」も究極的には,人間性と有能性とを身につけていくことだろうと思う。

(2)豊かな環境
 小・中・高校の先生に「最近の学校教育で最も変わった点は何か」と質問したことがあった。一番多かった回答は,「親の態度」で,それから「子どもの言葉遣い」「親の子どもに対する見方」などであった。それらに特徴的なことは,自分の家族や子どもしか目になく,公・共同体意識の欠如である。また,学校参観に参加しないなど,親が学校とのコミュニケーションを必要としなくなった。さらには,いらだちの相談,親の都合に合わないと子どもをかわいがらないなどといった親自身の相談も多くなったと聞いている。

 このように子どもたちも親たちも,それぞれ時代とともに大きく変化してきた。その中で大人のできることは,子どもたちに向けて最良の環境を整えることであると思う。それが子どもたちのよさや可能性を最大限に発揮できる条件になる。その方向性としては,「自己実現に向かって」ということになる。そのための物質的,心的環境を整えることが,大事なことである。

 その中でも,家庭教育は一番の原点である。それゆえ教育相談においては,子どもに分かってもらう以上に親によく理解してもらうことが先決であり,そこに力を注いでほしいと思う。その根底には信頼関係がなければならないし,それが土台となって「きずな」が深まっていく。親と教師との信頼関係が築かれていれば,子どもとの信頼関係は絶対できるといえる。もちろん,子どもとの信頼関係がなければ親とのそれも築けないという双方向的関係にもあるが・・・。

 私はかつて荒れた学校にいた頃,「メモ魔」と呼ばれたことがあった。そのとき私は,特に子どもたちのよい点を見つけ出してはメモをし,それを親にも知らせた。そうすると親は子どもの良い点も(悪い点も)見てくれている教師だと安心して信頼関係を深めることができる。そうした子どもたちの良い点は,ある意味で親も知らない良さでもある。学校での良さを家庭に知らせることで,相互の信頼関係を深められると思う。

 ある大学の専門家の研究によると,キレて荒れていた850人の子どもたちの成育歴を調べたところ,親の夫婦仲が悪い,嫁姑関係が悪いといった家庭内の緊張関係が多いことがわかった。そして教育の原点中の原点は,家庭の夫婦にあることがわかった。このことは850人全ての生育歴に見られたという。

 子どもたちにとって本当にほっとできる場が一体どこにあるのか。家庭,学校,地域…になければならない。ところで,地域においてほっとできるところを「やしろ(社)」と伝統的に呼んできたが,その語源は「いやし(癒)ろ」から来ているといわれる。その社には鎮守の杜があり,そこでお祭りが開かれていた。お祭りは神が降りてくる場であり,その場を通して地域の連帯感が形成されていた。ここから日本の文化がつくられてきたともいえる。日本人としての原点をどこにおくのか。健康な家族で,家庭の文化が引き継がれているところに日本人の原点を見出すのである。

(3)日本の文化
 ここで,言葉(日本語)の面から日本の文化について考えてみたい。
人間は自然に手を加えて理想を実現しようとしてきたが,その一番最初の文化が「弓」だともいわれている。そして古代の日本は,稲作文化であった。そこでは稲の花が咲き,穂が実っていく。これが日本文化の土台を形成した。一年の最初に春が来る。つぼみが張っていくことから春が来たといわれる。しかしその前の季節,冬も大事である。冬の間に自然の命・魂が地面の中で次第に殖(冬)えて満ちていき,春を迎えるとつぼみが裂けて花が咲く。「咲く」「先」「岬」「酒」などの言葉は,語源をたどればみな「これ以上ない」から来ているということである。エネルギーが充満して膨らみ,裂けて最後に花が咲く。ここから「さくら」も出て来た。このようなことを日本人は歴史的に大事に考えてきたことがわかる。

「むすひ(結)」という言葉があるが,「むす」は「生まれる,蒸す」という意味であり,「ひ」は「太陽,火の持つ力」である。これが「おむすび」に転化した。「おむすび」には,霊がこもっており,そこからエネルギーをもらうのである。「むすひこ(息子)」,「むすひめ(娘)」が結ばれれば結婚となる。日本の「結び」の観念は,太陽のすぐれた力の信仰が火となり,それがむすひとなって霊力を生むところからきている。これが日本文化の原点であるとある本に書かれていた。

また正月行事にしても,「松」は神が降りてくるのを「待つ」,先祖の霊を「待つ」という意味から来ている。先祖の霊が松飾を目指して降りてきて,その家の中に入る。そして鏡餅に鎮座する。その鏡餅が力を生むために,「鏡割り」をして皆で力を分ける。注連縄は,悪霊からの魔よけを意味するものである。

「お年玉」は,「その年の神の玉を分ける」,「賀」は,「魂を揺り動かすもの」という意味である。それ故,年賀状は魂を揺り動かさなければいけない。日本のもつ文化とは,いろいろと調べてみると本当に奥深いものがある。それゆえそれらを次世代に伝えていきたいと思う。

 これらの観念は,宗教として教えるのではなく,家庭の中に自然と浸透させていくべきことではないかと思う。そういう環境の中で,人間の力以上に偉大な力があるということを感じ取ることができる。さらには世の中において人間は自分の力だけで生きているのではなく,それ以上の存在,力があり,それに依っていることを実感する。

(4)心のスイッチと美しさ
 昨年小学6年生に対して「美を求める心」という授業を行った。雑草のような花と花屋にあるような花をさりげなく置いておき,子どもたちに「これらの花に気づいたかどうか。また,本当に花自身が美しいのか?」と問いかけてみた。はじめは花が美しいと言っていたが,実は花が美しいのではなくて,人の心が「美しい」と思うゆえに美が生まれるということに子どもたちが気づいてくれた。対象物それ自体が美しいというのではなく,それを見る私(人間主体)の心が美しいと思うゆえに美しく感ずる。思う心,求める心がないと美は見えない。また,雑草のような花と華麗な花とではどちらが目についたか。前者も後者も心がないとこれらの花の美は見えない。しかし,道端の草木は皆の心がいかなければ踏みつけられるだけであるといえる。人生においても同様で,華々しい花のように咲く時期もあるが,道端の草花のような目立たない時期もきっとある。特に,雑草のような花の美しさを忘れてはいけないと思うと話した。

 夕焼けにしても,夕焼けそれ自体が美しいのではなくてそれを感じ入る私の心が美しいと思うのである。その心がないと美は決して見ることができない。人間同士の関係も同様である。そのような価値に気づく感覚,すなわち感性を忘れてはいけないと考える。

 私は授業の始めに「心のスイッチ,入っているか」と聞く。そして遅刻は許さない方針で臨んでいる。なぜか。それは心の準備ができないからである。心のスイッチが入っていないと,授業中にも別のことを考えることになってしまう。例えば,末期ガンの人が入院している病院で,その病室に看護婦さんが来て「どうですか」と言葉をかけても,心は部屋に入ってきていないという話を新聞で読んだことがある。心のスイッチが入っていないと病人はすぐ気づくのである。

 美を求める心もスイッチが入っていないと気づかないことが多い。自然は沈黙している。その自然の美しさに気がつくのは人の心(感性)である。人間に一番大切なことは,「ゆとり」と「緑」だともいわれる。「自然」という言葉には,真実ありのままという意味もある。われわれ人間も自然の一部なのだということをつくづく感じる。

 生きていくことは,体験を大事にすることでもある。文化の高い国の条件は,どのくらい思いやりをもって話せる人がいるかだといわれる。文化の高い人の言葉は,温かさ,知的さ,品性があるといわれている。そしてわれわれ大人が子どもたちや若い人たちに残すこと,伝えるべきことは,本当に健やかに生きることのできる環境であり,文化である。なぜなら,「環境が人をつくる」からである。「環境調節遺伝子」によって,新しい環境になると前の遺伝子がoffとなり新しい遺伝子がonとなって人間は新しい環境に適応していくのだという。

(5)認識の原点
「みる」「きく」「話す」が,私たち人間の認識の原点にある。「みる」は「きく」の3倍の力を持っているといわれる。子どもたちに接する時,あるいは教える時に,何か見せるものがあると効果が全然違ってくる。「見る」は「ただ見えている」という意味であるが,「観る」は,「目に見えないものをみる,全身全霊でみる」という意味であり,そこには,「みる」「きく」全部の行為が入っているといわれる。「鑑賞」とは,問題意識をもってみることであり,学校教育においては「正しく理解する」の意味に使われている。

「星のみかた」「仏像のみかた」と言う場合は,「鑑賞」ということになる。それ故,目をつぶった方がよくみえるということになる。例えば,星をみて「あれは千年前の光が今届いているな」と感じる見方であるということができる。

 また,「話」の内容は,大体7%しか通じないと言われる。話の伝達においては,非言語表現(表情,話し方,イントネーションなど)が60%以上を占める。それゆえ話を伝えるとは,言語以外の部分を含めて表現していくことである。例えば,眉一つでも豊かな表現能力を持っている。そうしたさまざまな表現を通して人と人との信頼関係が形成されていく。言葉はもちろん重要であるが,言葉だけでなくさまざまな形で表現しなければ相手に通じないこともある。豊かな感性を育むとは,そのような繊細な心も育てていくものといえる。いずれにしても,原点は「気づくこと」(感性)ではないかと思う。

4.最後に

「一期一会」という言葉がある。その言葉の「一」は,1回,2回という回数それ自体を表すのではないところに深い意味が込められているといわれる。それは初めて会った人との出会いの中に回数では言えない素晴らしさがあるという意味であると考える。

 また,未来に生きる人間の条件として,次のような話がある。それは生き抜いていくことの困難な北極圏で捨てられない老人の条件には,「先見性(占いができる,天候の予測ができるなど)」「専門性(編物ができるなど)」「人間性(人を喜ばせる,笑わせることなど)」の3つがあるという。これらの能力を備えた老人は,決して捨てられなかったというのである。現在でも通じることであると思う。 

 われわれ大人は,子どもたちの未来の人生を築くためにも,感性と知性のバランスある人間を是非育てていかなければならないと考える。それと同時に一人一人「生きていてよかった」と感じられる子どもたちをも育てていきたいと願っている。(2004年1月21日発表)

注1 中村雄二郎(なかむら・ゆうじろう)1925年東京生まれ。東京大学文学部卒。哲学者。明治大学名誉教授。主な著書に『パスカルとその時代』(東京大学出版会)『感性の覚醒』『共通感覚論』『哲学の現在』『魔女ランダ考』『術語集T,U』『臨床の知とは何か』『あくの哲学ノート』『述語的世界と制度』(以上岩波書店)『日本文化における悪と罪』(新潮社)『中村雄二郎著作集』(岩波書店)などがある。

注2 Rachel Louise Carson(1907-1964) 作家,生物学者,生態学者。米国・ペンシルベニア生まれ。1929年ペンシルベニア女子大学卒。32年ジョン・ホプキンス大学修士課程修了(動物学)。その後,連邦漁業局勤務となり,海を題材にした放送番組の台本を書いたり,政府広報物の編集長を務めた。その中で『われらをめぐる海』という作品がベストセラーとなり,作家としての道に進むきっかけとなった。主な作品には,『潮風の下で』(1941)『われらをめぐる海』(1951)『海辺』(1955)『沈黙の春』(1962)『センス・オブ・ワンダー』(1965)など。姪の子どもロジャーと森や海を舞台に自然体験をもとにしたことをエッセー風にまとめた『センス・オブ・ワンダー』は,彼女の死後出版された。その中で,「子どもたちの世界は,いつも生き生きとして新鮮で美しく,驚きと感激にみちあふれています。残念なことに,わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や,美しいもの,畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ,あるときはまったく失ってしまいます。もしもわたしが,すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら,世界中の子どもに,生涯消えることのない<センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目をみはる感性>を授けてほしいとたのむでしょう。」「地球の美しさと神秘を感じとれる人は,科学者であろうとなかろうと,人生に飽きて疲れたり,孤独にさいなまれることはないでしょう」と語っている。(レイチェルカーソン日本協会HPより一部引用)