グローカル・ユニバーシティをめざして
―早稲田スピリットとアジアとの共生―

早稲田大学学事顧問,前総長 奥島 孝康

 

1.グローカル・ユニバーシティ

(1)グローバリズムとローカリズム
 現代およびこれからの世界の特徴の一つは,インターネット世界の急激な発展にみられる如く,グローバリズムである。その世界は英語を一種の「共通言語」として動いている。かつて,ヨーロッパ中世の知的世界は,ラテン語が共通語であった。その時代の大学は,ラテン語を中心として国や民族の枠を超えて存在していた。ところが,近代に至り国民国家を中心とする時代に入ると,各国の言語を中心として展開を見るようになった。現代から将来の世界,特に大学界においては,かつてのヨーロッパ中世世界におけるラテン語の位置に英語が登場し,日本においても英語で大学の講義をするなど,その影響を免れ得ない状況がある。早稲田大学でも,これに対応して英語を共通語とする「国際教養学部」を創設し(2004年4月開設),英語での授業を行うこととした(注1)。

 このように一般には,グローバリズムのみに目を向けがちであるが,その一方で「ローカリズム」がまた重要な視点だと考えている。ここでいうローカリズムとは,人間に喩えれば個性のようなものである。各地域,民族,個人などのアイデンティティを強化していかなければ,グローバリズムの強力な潮流の中では自分を見失ってしまいかねない。この二つのバランスをどうとっていくかがこれからのポイントの一つであろう。

 特に,学問の世界においては世界に通用しなければ意味がない。つまり,普遍性という特徴を強くもつ。学問は主として大学の研究者によってなされることを考えると,各大学はどこでも同じようなことができるわけではない。それゆえそれぞれの大学の志,個性などが重要になってくるはずであり,大学にいかに学問的特色をもたせるかが重要だと考えてこれまで大学改革に取り組んできた。私は,「グローカル・ユニバーシティ」(注2)というスローガンにその意味を込めた。

(2)「第二の建学」
 早稲田大学は,最近まで東京大学と同じように何でもやろうと考えて取り組んできた。しかし,東京大学に投じられる膨大な国家予算と早稲田大学の予算を比較すればはっきりするように,その差は歴然としており,同じことをやろうとすれば必然的に二番煎じ,二番手,三番手とならざるを得ない。もちろん学問はすべてお金で成果が決まるわけではないが,特に理工系の研究の場合は,その影響が大きい。これまでの総花的なやり方では限界があるので,120年の歴史を有する早稲田大学のアイデンティティを考慮して,めりはりをつけ特化していくことを考えた。そうして資源を最適配分すれば,早稲田大学でも大きな力を発揮することが可能となるのではないか。

 この120年の早稲田の歴史を振り返ってみれば,その中には輝かしい部分がいくつもある。しかしそうしたよき部分を忘れてしまっており,先ずはそれを取り返し,さらに磨きをかけて早稲田の特色をはっきりさせて将来に活かしていく。そこで今,2007年の創立125周年を一区切りとし「第二の建学」と称して早稲田の再生に取り組んでいる。

 大隈重信は「人生125歳説」を唱え,それを象徴して大隈講堂は125尺の高さに作られている。このことを根拠として,早稲田の1世紀は125年であると考え,「第二の建学」を迎えるに当たり,現在建設中の建物は,125尺の倍である250尺の高さにしようとしている。

 ここで掲げる目標は,何でもかんでもあるというものではなく,早稲田にしかないものをもう一度再建していこうと考えた。そこで,まず3つの目標を掲げた。第1が,「アジア太平洋との共生」,第2が「高度情報ネットワークの構築」,第3が「全学の生涯学習機関化」である。アジア太平洋との共生については,後述するところに譲り,まず「高度情報ネットワークの構築」について説明しよう。

 多くの大学はそれぞれ足りないところがあるのが普通で,その足らない部分は他との連帯(コンソーシアム)をしながら仲間を組んで補っていく。早稲田大学は国内の他の大学ばかりではなく,海外の400余りの大学とも協定を結び,それによって交換学生による留学が可能となるだけではなく,研究コンソーシアムが促進され,大きな成果が期待されている。また早稲田には,昔から政治家,マスコミ人,文学者をたくさん輩出してきたので,そうした人の情報ネットワークをうまく活用しながら,21世紀におけるこれまでとは違った形の情報に対して学問的にリードできるような大学にしたい。

 次に,「生涯学習」に関して述べてみたい。早稲田120年の歴史の中で,これまでの地位を築いた大きな特色は「大衆性」であった。この特徴は,早稲田の「体臭」でもある。言葉を換えれば,「野生味」ともいえる。その「大衆性」はいかにして形成されたのか。それは,戦前における「早稲田大学講義録」が大きな役割を果たした(注3)。この講義録を通して早稲田の学生になった人が約270万人といわれている。創立以来今日までの早稲田大学の卒業生は,50万人足らずであることを考えると,その数がいかに大きな数かがわかる。これによって大学にいけない人々が早稲田大学の校外生になることができた。結果として,このような多くの人々が高等教育を受ける機会を得たということによって,早稲田大学の大衆性という特色を強めた。

 この早稲田大学の大衆性は,今日流にいえばまさに「生涯学習」であり,その意味で早稲田は昔から生涯学習社会を先頭に立っていたので,これからもそれをリードしていきたいと思う。具体的には,エクステンションセンターで,現在,約3万人の社会人が受講している。また,これからの社会人は本格的に自分の能力を再開発していく必要があるので,そのために専門職大学院をいくつか新設してきた。これからの社会においては,すべての人がキャリア・アップしていく必要が高まっている。それは大学院教育でやるべきである。一度社会に出てから再びキャリア・アップするために,早稲田出身の人に便益を与えようと,象徴的意味合いで入学金免除制度を設けた。また学部への社会人入学も大幅に増やしている。

2.建学の精神

(1)建学の母・小野梓先生
 早稲田大学の建学の父が大隈重信(1838-1922)であるとすれば,建学の母は小野梓(注4)であり,「民の学問」「学の独立」という旗を掲げたのは小野梓の見識であった。そこで,早稲田建学の精神の一端を紹介する意味で,小野梓について少しく見てみたい。

 小野梓(1852-86)は,土佐・宿毛(現・高知県宿毛市)の出身であるが,その地は宇和島藩(現愛媛県)に近いかなりの僻地であった。幕末の宇和島藩には,長顎公といわれる名君,伊達宗城(1817-92)がいた。彼は高野長英や大村益次郎を招いて藩士に蘭学や西洋兵学を学ばせ,日本初の軍艦建造を行うなど進取的な雰囲気があった。そのような宇和島藩の熱気が宿毛にも大きく伝わり,そこで大きく花咲いた。明治時代に最初にできた政党・自由党の主要メンバーは,みな宿毛から出た。例えば,竹内綱,林有造,大江卓などである。中江兆民,板垣退助も土佐藩出身。中村市からは大逆事件を起こした幸徳秋水が出た。明治時代の自由民権の中心はほとんどが土佐出身で,みな自由党に所属していた。ところが,同じ宿毛から出た小野梓1人は立憲改進党であった。

 小野梓は,英米を中心に留学して,英国流の経験主義に心を寄せ,着実で穏健な立憲民主主義を理想と考えた。その点で大隈重信と一致した。大隈重信は鍋島藩(佐賀県)出身であるが,彼は当時としては日本人の中では世界に明るい人であった。幕末にはほとんど貢献しなかった大隈が,明治政府で急に頭角を現したのは,そこには彼の身につけた学問が時代の要請にマッチしていたためだといえる。大隈は明治政府に登用されたかと思うと,瞬く間に出世して明治14年には筆頭参議(総理大臣格)になった。

 大隈重信と小野梓の考え方がぴったり合った。大隈は,なすべきことはみな小野に頼んでやったほどであった。実は,立憲改進党も小野がつくったのであった。また,早稲田大学も大隈をかついで小野がつくったのであった。このような関係であったことから,小野が亡くなったときに大隈は,「わが輩は,両腕を取られたよりも悲しく思ったもんである」と慨嘆したほどであった。

 小野梓は,早稲田大学を創設した時に,「一身の独立があってこそ,学の独立がある。学の独立があってこそ,国の独立が全うされる」との大演説を行った。このとき大隈は,自分が一つの党派をつくっていると見られるのを避けて出席していない。これが早稲田大学の基本精神になった。早稲田大学が,野性的,野党的,個性的と評されるのには,「一身の独立」が強くうたわれていたという背景があったためなのである。一人ひとりの人間が独立していなければいけないと言うことが基本であった。個が強ければ国もしっかりするというのが小野の持論であった。これが「学の独立」である。

 一般には,この「学の独立」を外国語で教授するのでは本当の教育ではないから邦語で教授することと解することが多いが,実はその本当の意味はそうではない。小野梓の基本的な考え方は何か。幸徳秋水(1871-1911)が死刑になり処刑されたわずか8日後に,徳富蘆花(1868-1927)は第一高等学校(現東京大学)の講演で次のように語ったという。「謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。」学問はそれまでの内容を否定して新しい研究をするものである。「学の独立」は,極端な表現で言えば,「謀叛のすすめ」となる。そこから早稲田の「野党精神」「批判精神」が出てくる。このように早稲田を方向付けたのは,ひとえに小野梓の精神であったので,「早稲田建学の母」と呼ばれている。

 小野梓が14年かかってまとめた『国憲汎論』は,明治期における自由民権思想のある種のバイブルであった。小野が中心となり1882年に東京専門学校(現早稲田大学)を創立するに際して,当時の東京帝国大学初期生の中から小野梓を慕って,高田早苗・天野為之・坪内逍遥・市島謙吉など7人が集い早稲田大学の創立にたずさわった。その後,この7人が小野梓の志をしっかりと守って早稲田大学をつくり上げていった。小野梓がもっと長生きしていれば,もっと違った方向に向かっていたかもしれない。

 早稲田大学の精神の一つに私は,「アヴァンギャルド(avantgarde)」(前衛)を挙げている。それは時代の前衛に立って真っ先に倒れるというような意気込みで取り組む精神である。それが逆にいつのまにか「アリエールギャルド(arrieregarde)」(後衛)になってしまった。周りの動きを見ながら,そのあとで手堅くやろうという精神になり下がってしまっていた。

 私が法学部長のころ,カリキュラム改革(自由化)が大学界で進められようとしていた。早稲田大学でもそれを実施しようと,法学部では早速準備を進めた。ところが,それを実行に移そうとしたところ大学当局から「他の大学の動きを見てからやろう」と慰留され,1年待つこととなった。そこで1年後に実施しようとしたらまたまた1年待つよう慰留されたが,そういうわけにもいかないとして法学部だけは改革を実施した。

 私は新しい実践をして失敗してもいいじゃないかとさえ思う。進取の精神,学の独立で,常に新しいものに向かって進んでいくのが,早稲田の精神であるから,それでもって矢玉に当たって万が一死んだとしても本望ではないか。よそがやるのを見てからやり始めるといった精神になってしまうと,何事も二番手,三番手になってしまい,その結果早稲田の精神が失われてしまうことをおそれる。

(2)「教育立国日本」に向けて
 日本国自体も,同様の状況にあると思う。ここで早稲田ならずとも「第二の建国」のときを迎えて発奮していく必要がある。他国のやるのを見ながら,また米国が開発する科学・技術を真似てそれでもって世界に売りさばいていくというような段階を超えて,今度は自分たちが考えつくり出したものを世界に発信していく。ベンチャー企業をもっと振興させて世界に向かって発信し競争していくようなところにようやくきたが,まだまだ不十分だと感じる。

 新しい科学技術は,大体において大学から生み出されることが多い。日本の大学の約8割は私立大学が担っている。それを予算の面で見ると,2割以下の国公立大学に2兆3000億円程が投下されているのに,私立大学にはわずか3200億円しか投入されていない。国は高等教育に対して非常に安上がりに済ませていると言える。それに対してわれわれ私学としては疑義を呈している。

 これからの社会は,自由で公正な競争社会でなければいけないし,それは世界に通じるグローバルなものでなければならない。各大学が行っている研究・教育は,国立・私立で差別されてはいけないと思う。むしろ世界的な視野から判断していかなければならない。われわれは,それをイコール・フッティングといっているが,私学に対してもっと平等に経常費補助の投資をしてほしいと考えている。

 高等教育に対する予算配分の割合をみても,それははっきりしている。例えば,OECD諸国の中で高等教育予算のGDP比を見てみると(OECD資料1997,注5),日本の0.5%に対して,米国1.4%,フランス・ドイツ1.0%,英国0.8%である。これでは欧米諸国と対抗することはできない。高等教育に対するパイをもっと大きくすることが重要な課題である。小さなパイの中で奪い合っているようでは話にならない。

 日本には資源はなく,あるのは人材だけである。この人間を一騎当千にするのは教育の力であり,それをなすには日本を教育列島にしなければならない。これで勝負しなければ,世界と競っていくことができない。徹底した教育を行うことによって,世界競争に向かうことが可能となる。それが私の唱える「教育立国」である。

3.アジア太平洋との共生

 日本はアジア・太平洋地域の欧米へ向けた出島あるいは入口(表玄関)であると考えている。日本に来ればアジアのことが分かり,アジアの優秀な人材が集まりそこで切磋琢磨して発展させていく。そうしたことに政府はもっと予算を出してほしいと思う。

 アジア太平洋というのは,また早稲田のアイデンティティでもあった。かつて明治時代に福沢諭吉は,その真意は別にして「脱亜入欧」を唱え,慶應義塾大学はその方向に進んだ。それに対して,早稲田大学は「脱欧入亜」であった。戦前においては,アジアの留学生は圧倒的に早稲田大学に来ていた。中国や韓国に行ってみると,早稲田大学に対する評判が非常にいいのを肌で感じる。それは戦前,アジア,特に中国,韓国からの多くの留学生が早稲田大学に来ていたからである。例えば,日露戦争終了後に,早稲田大学では清国留学制度を設け,清からの留学生を1年に1000人単位で受け入れていた。大隈重信を始めとする早稲田初期の人たちがみなアジア志向であった。

 また,小野梓は「東洋・小野梓」,つまり,「東洋」と号するほどに,アジアを非常に重視し,南北格差の問題を当時から考えていた。大隈はむしろ東西文明の融合を考えていた。小野梓の恩師は宿毛の酒井南嶺で,この人はいつも「日本人・酒井南嶺」と名乗った。小野は,「酒井南嶺先生が“日本人”なら私は“アジア人”だ」として,「東洋・小野梓」と名乗った。

 大隈重信は,もともとアジアの人々と仲が良かったので,早稲田はアジア志向として進んでいった。例えば,孫文は早稲田大学に綿々たる手紙を寄せている。早稲田の人がみな「泥臭い」といわれる所以は,「脱欧入亜」のためである。そのような精神をしっかり立て直そうと思って,私は大学改革に取り組み始めた。私が総長に就任したころ(1994年)には,アジア太平洋の研究者は数名しかいなかったが,現在は30数名を数えるまでになった。そのための専門職大学院(アジア太平洋研究科)も設置した。このたび文科省が実施した「21世紀COE」ではアジア関係で2件採択された。アジアという分野で2件採択されたところは少ないと思う。この基盤の上でアジア太平洋地域におけるヒューマンネットワークを作っていこうと考えている。

 日本の学生と話してみると,彼らは日本がアジアの一国であることは知っているが,自分たちがアジア人だとは思っていない。観念的にはアジア人だと思っているかもしれないが,潜在意識の部分では欧米人に属すると思っている人の方が多い。大学の研究者も同様だ。私がかつて70年代にフランスに留学した時に,そのことを悟った。つまり遠い西欧の人といっしょにやるよりは,まず頼りになる隣国のアジアの人々と協力しながらアジアをもっと発展させていくことに努力しなければいけないとかつて考えていたが,それを総長になったとき,実現しようと努力した。

 大学は国境のない世界である。例えてみれば,キャンパスはオリンピックのフィールドのようなものである。オリンピックとなると戦争も休戦してギリシア世界の国々はすべて参加したように,世界に多くの紛争・対立があろうとも,大学の中にはそうしたものを持ち込んではいけない。しかし,世界平和の先頭に立って取り組む大学が日本にはまだまだ見られない。そこでアジア太平洋地域を中心としながら世界平和のメッカを作ろうと考えた。わが大学院アジア太平洋研究科の国際関係専攻は,「平和」をキーワードにしてつくったものである。

 さらに,大学におけるボランティア関連のネットワーク化のために,「平山郁夫記念ボランティアセンター」を設置したが,これは平山郁夫氏の国際平和活動を承継しつつ,日本の学生が連携できるようにとセンター機能を備えた機関である。平山郁夫氏から寄付を受けた絵画を活用して得た収益を活動に充て,中国・アフガニスタン・カンボジアなどの学校建設費に活かそうとしている。

4.最後に

 これまで述べた早稲田の精神は,「早稲田大学教旨」(1913年制定)の中に反映されている。

 早稲田大学は学問の独立を全うし学問の活用を効し
 模範国民を造就するを以て建学の本旨と為す
 早稲田大学は学問の独立を本旨と為すを以て
 之が自由討究を主とし
 常に独創の研鑚に力め以て
 世界の学問に裨補せん事を期す
 早稲田大学は学問の活用を本旨と為すを以て
 学理を学理として研究すると共に
 之を実際に応用するの道を講じ以て
 時世の進運に資せん事を期す
 早稲田大学は模範国民の造就を本旨と為すを以て
 個性を尊重し,身家を発達し,国家社会を利済し
 併せて広く世界に活動す可き人格を養成せん事を期す

 このような早稲田スピリットを持ってやってきた本学も今年122年の歴史を数え,2007年には早稲田暦の2世紀を迎える。これを機に,早稲田らしい伝統,理念を体現した教育分野を強化することで,本学の未来を拓き,日本の未来を拓き,さらには人類の課題に挑戦できるような人材を育成したいと思う。
(2004年3月5日)

注1「2004 GUIDEBOOK THE WASEDA」には国際教養学部について次のように説明している。
 新学部のコンセプト
  どんな時代や社会になっても必ず求められる能力がある。それは幅広い教養に裏付けられた問題解決能力である。この「自ら問題を発見し,解決していく能力」こそが国際教養学部がめざすリベラルアーツである。環境破壊・南北問題・エネルギー危機など,全地球的な課題について学際的に考察していく中で,これらの難題に対して積極的に立ち向かおうとする志,人類のために貢献しようとする情熱,確かな倫理観を養うことが大切である。
  地球規模の問題に立ち向かうためには,世界の文化を多元的に理解することが必要である。そのために地域研究を重視し,地域の文化や社会を学ぶために必要な言語を習得する外国語教育を実施(1年間の海外学習を必修とする)。あわせて,言語が用いられる地域文化を複合的に理解する。
  教養教育を重視し,高度専門教育は大学院で展開することを基本とするため,多様な大学院への進学を意識して教育システムを採用している。

注2 グローカル・ユニバーシティ
 グローカルとは,globalとlocalの合成語で,早稲田大学では「グローバルな視野に立ち,ローカルな魂と行動力を持つ地球市民の育成」を目指す(早稲田大学HPより引用)。詳しくは,奥島孝康著『グローカル・ユニバーシティ―早稲田大学の改革U』(早稲田大学出版部,2002)参照。

注3 早稲田大学講義録
 1886年には既に「講義録」を発行し,校外生制度(通信教育)が発足した。これは1957年まで続き,この間延べ270万人が購読した。ここから津田左右吉,田中穂積などを輩出しており,現在の社会人教育の先駆けともなるものである。(「2004 GUIDEBOOK THE WASEDA」より引用)

注4 おの・あずさ(1852-86)
 土佐・宿毛生まれ。1871-74年に米国・英国に留学し経済・法律などを学ぶ。帰国後,司法省官僚となり法制の調査・研究に従事。また大隈重信と共に立憲改進党の結成,東京専門学校(現早稲田大学)の設立に中心的人物として尽力。良書の普及のために東洋館書店(現冨山房)をつくった。主な著書に『国憲汎論』等がある。

注5 高等教育への公財政支出
 2004年1月に発表された「教育指標の国際比較」(文部科学省,平成16年度版)によると,高等教育への公財政支出の対GDP比は,日本0.5%,米国0.9%,英国0.7%,フランス1.0%,ドイツ1.0%(いずれも2000年)となっており,他のOECD諸国と比べても我が国の数値は最も低い。