言語学の観点から見た韓国語学習のすすめ

名古屋大学大学院教授 飯田秀敏

 

1.はじめに

 2002年ワールドカップ日韓共同開催を契機として、韓国語学習熱が全国的な高まりを見せている。しかし、韓国語が、歴史・文化・経済等々あらゆる面で日本と最も関係の深い隣国の言葉であることを考えれば、まだまだ日本における韓国語の学習人口は少ないといわざるを得ない。さらに、韓国における日本語学習人口との対比で考えれば、大きく均衡を失った状況はほとんど改善されていない。情報の時代にこのような情報量の不均衡はゆゆしい問題である。それゆえこのようなアンバランスな状況を積極的に解消する努力が求められる。

 私は以前、名古屋大学教養部(当時)で英語教育を担当していたが、10年程前に言語教育学部門の韓国語教師に移動した。そのとき最初のクラス(韓国語)の学生はわずか17名であった。それから10年を経た今年、現在私のクラスに登録している学生数は、およそ250名である。この10年で約15倍に増えた計算になる。この背景には、今から15年前のソウルオリンピック開催(1988年)、昨年6月のワールドカップ日韓共同開催という世界的イベントが大きく影響したと思う。そうした影響もあって、全国的に韓国語のクラスへの登録申し込み数が2倍、3倍に増えているという。

 通常であれば、韓国語を教える教師としては、このような傾向は喜ばしいことであろうが、私個人としてはあまり嬉しくない。それはまだまだ関心のある人の数が足りないと感じているからである。それでもようやく正常な形の方向にやっと動き始めたといえる。

 「近くて遠い国」といわれて久しいように、日韓両国は歴史的、文化的、経済的に互いに密接な関係を持った隣国同士でありながら、未だ心理的には大きな距離があるといわざるを得ない。新時代に向けて、確固たる日韓関係を構築し、維持・発展を期するためにはこのような不均衡・距離感を是正するための努力が、さまざまな方面、さまざまなレベルにおいて精力的になされる必要がある。その一環として、韓国語学習は不可欠の要素ではないかと考えられる。
日韓両国間における情報ギャップ、不均衡状態は、また意識の違いをも生み出す。日本人の韓国人に対する思いと、韓国人が我々日本人に対して抱いている思いには大きなギャップが存在している。それは韓国の方々と知り合えば知り合うほど、ひしひしと感じるものである。

 韓国の方と交わった場合に、個人のレベルでは問題ないのであるが、少し広い見地から見ると、これだけ交流が活発化しているにもかかわらず、そのギャップは何も埋まっていないのではないかと思わざるを得ない。特に、ワールドカップのような大きなイベントに触発されて、一種のブームとしてムード的友好気運が高まっているというのでは、きわめて危いという感じがする。

 遠慮しながら付き合っている場合には、そこそこまでは付き合えるだろう。ところがある段階まで来ると急に駄目になることがある。例えば、ある有名人同士の韓国問題をめぐる論争があったときに、一体何がそうさせているのかと思って、両者の著書を読んだことがあった。その著書を読んでわかったことは、それぞれに自分の主張があり相手の主張がわかったような口ぶりで書いているのだが、実はほとんど分かっていないのである。

 しかし、それはむしろいい方かもしれない。もっと厄介なのは、「無関心」な人の場合である。そういう場合には、いくら表面的には良い付き合いをしているように見えても長続きはしない。特に、日本人の立場でいうと、集団としての日本人対韓国人という構図がある。それは国家間の構図といってもいいかもしれない。付き合いというのは、どのようなレベルにおいても対等であるという前提に立てるかどうかが重要である。世の中においては、人はさまざまであり立場も考え方も人それぞれであるので、現実的に出発時点において、すべてが対等関係であることはありえない。

 しかし、付き合うということはそういう違いを乗り越えて、対等であるという意識を持ったうえで付き合わないと上手くいかない。個人間はいうまでもなく、国家間でも同様だろう。それはまた、外国人との付き合いだけに限定される問題でもない。

 私自身は、学生と付き合いの時にも同様のことを痛感する。もちろん教師と学生という関係は対等ではない。また私のクラスの学生は韓国人がほとんどであるが、韓国人にとっては先生(教師)は親、あるいは親以上の存在かもしれない。それゆえ対等に先生に対してものを言うことは韓国の学生にとっては難しいことだろうと思う。しかし日韓関係を考えた場合に、そのような対等関係の意識を形成していくことは非常に大事なことだと思う。そのために韓国語の学習が一つの有効な手段ではないかと最近考えている。

 国際間の交流は対等を旨として行われるのが理想である。現実問題として完全な対等はありえないであろうが、対等な関係を企図する強い信念が必要である。対等関係を基盤としない交流は、活動がいかに活発に見えても脆弱性を免れ得ない。対等意識を持つために最も効果的な方法は、互いに相手国の言葉を学習することである。この観点から韓国語の学習について、私の専門である言語学の立場から考え直してみたい。

2.言語学から見た外国語学習の意義

(1)外国語教育の目的
 一般に大学では永年外国語教育に力を入れてきたが、一体その理由は何か。外国語を学習する目的は多岐にわたるが、ここでは私の所属する名古屋大学の場合を取り上げ、主な教育理念をあげると次のようになろう。

@外国語運用能力の養成
 外国語を使う能力を養成し、他人とのコミュニケーションを図りながら意思疎通を行う能力である。

A異文化に関する知識を得ることにより国際感覚を涵養する
 国際人として身に付けるべき教養・ものの考え方・マナーなどを養成すること。
B異なる価値観に触れることにより、自己の価値観の相対化を図る
 言語とは、ある文化が最も構造的に体系化された形態の一つである。また文化とは、一つの価値観とも言えるから、その文化圏内の人々の持つ価値観がその言語の中に密接に反映されることになる。英語なら英語圏の価値観が内包されており、ドイツ語、中国語、韓国語には、それぞれの圏内の価値観がその言語の中に込められている。それゆえ一つの外国語を学ぶということは、自分の持っている価値観とは異なる価値観に接することを意味する。そして外国語を通して出会った別の価値観を知るようになる。そうすると自分の価値観だけが世の中で通用するのではないことを知る。これを「価値観の相対化」と呼ぶ。

 この過程を経ない場合には、自分の価値観のみとなるので、自分の価値観が主観となり、さらには絶対的真理と思い込んでしまう。それを是正する働きが、外国語を学ぶことにあるのである。平たく言えば、「自分はこう思うが、相手はそう思わないし、全く違った考えをしている。そのような人もいるのだ」という認識である。

 さらにいくつかの複数言語を学ぶことは、異なる価値観にたくさん触れることになる。この段階になると、価値観の相対化を超えて、「多様化」に至る。このためには少なくとも3つ以上の言語を学ぶことが必要である。本学法学部などでは、第三言語を学ぶようにとの指導も行っているが、これはこのような価値観の多様化の課題を念頭においてのプログラムなのである。

C自分の母国語に関する理解を深める
 外国語教師はよくこのことを指摘するが、一般にはあまり認識されていないことがらである。このような外国語学習の理念的目標は、日本における外国語学習(特に中学、高校における英語教育)においては十分に達成されているとはいえない。

(2)言語学研究の成果から学ぶ
 20世紀における言語学研究は、自然言語(human language)についてきわめて重要な発見を成し遂げた。しかし、その発見は外国語学習に十分に反映されているとは言えない。私のもともとの専攻は、言語学、特に英語学で、英語文法を研究する分野である。大学を出てから英語教師として18年間勤めたが、その間に学んだ重要なことをいくつか取り挙げてみたい。

 まず第一に、各言語に優劣はないということである。世界中のどのような言語であれ、その言語を使っている人の必要に応えられるよう十分に複雑に高度に発達している。いわば原始的な言語というものはないのである。

 世界中には、3000とも5000とも言われる言語が存在しているが、各々の言語を使っている人たちの数も違えば、生活水準、環境、宗教、基本的な価値観などあらゆる面で違っている。19世紀から20世紀の初めまでは、「文明社会の言語は、近代文明から遠い環境に暮らす人たちの言語に比べて優れている」という考え方が確実に存在していた。

 しかし20世紀の前半になって、それが間違いであることがわかった。それは構造主義言語学という学問が登場し、世界中の言語を研究・分析して、各言語の構造がどうなっているのかを明らかにしたためであった。その結論は、原始的な言語というのはないということであった。言語はそれを使う人たちの必要に合うように、その社会の言語の語彙ができているのである。もちろん「言葉は知っているが、何と表現すればいいのか分からない。いらいらする」ということは、どの言語の世界でもあることだが、以前は「未開社会の未開言語ならばそういうことがある」という考え方が支配的であった。しかしそのようなことはない。すべての言語はすべて同じではないが、それはレベルの差ではなく、必要の差ゆえにその必要に応じて言葉が形成されてきたのであった。

 一番分かりやすい例としては、ボキャブラリー(語彙)である。例えば、コンピュータ関係の用語は、遊牧民には必要ないゆえに、彼らの語彙にはコンピュータ関連用語はない。また遊牧民は、ラクダと密接な関わりをもった生活であるので、ラクダに関する語彙が実に豊富である。私たちの日本語には「ラクダ」という言葉しかないが、遊牧民の言語にはそれに関連したことばが何百もあるという。

 日本語の中に限定した場合も、同様のことが言える。例えば、漁村の人たちは、魚の名前をたくさん知っているし、農村の人は農業に関する用語が豊富である。しかし都市生活者にはとても、そのような語彙についてゆけない。極端な話では、最近の子どもたちは、米、稲の区別さえできないという。

 このように必要に応じて言葉というものは、区分され構造づけがなされていくものである。必要が違えば、言語も異なる。必要は環境が違えば同じではないから言語はそれぞれ違ってくる。こういうことを構造主義言語学がはっきりと示してくれた。

(3)言語学者チョムスキー
 次に1950年代以降になって、ノーム・チョムスキー(Noam Chomsky,1928-)という米国人の天才的言語学者が現れた。彼は天才中の天才である。若干25歳の時に、未だに価値の失われていない大論文(生成変形文法理論)を書き上げた。この論文は、その後20年間くらいある理由で未発表であったが、彼はそれを土台にして1957年に100頁ほどの小冊子を著した。当時彼は28歳の無名の若者であったからほとんど知られなかった。しか徐々にそれが読まれていき、これはすごい理論だということが分かってきた。1960年代以降、今日にいたるまでチョムスキー言語学が、言語学の分野を風靡することになる。

 彼はある意味で自分の考え方をも批判できる人物であった。彼ほど理論を変えた人はいない。ある理論を発表すると、それに対してたくさんの人がこうでもないああでもないと議論をする。ときには厳しい批判もやってくる。そしてそうした批判を昇華させながら、それをもとに次の理論的発展につなげていく。このようなことができる人物であった。

 人の批判を素直に認めてしまい、その上でそれもひっくるめて自分の元の理論の上に新しくかぶせていく。こういうことをやれる人は、他の分野の世界にはあるのかもしれないが、私は聞いたことがない。そういう意味で未だに60年代から既に40年以上にわたってこの学問分野においてトップに君臨してきた。彼が言ったことをいくつか紹介しよう。

 一つは、言語能力はおそらく人間だけの能力であることを説得力をもって述べたこと。最近「犬語翻訳機」というものが商品化されたが、犬も泣き声によって仲間内、あるいは飼い主との間で一種のコミュニケーションを行っていることは間違いない。他の動物、例えばイルカはかなり複雑な言語をもっていると言われている。また高等生物だけに限らず、蜂のダンスは実に素晴らしいコミュニケーションといえよう。人間以外の他の動物に「言語能力」がないというのはある意味では間違いである。ただし、それは「言語」というものの定義による。人間が持っているような言語(「自然言語」)の特質がある程度あきらかになってきている。

 人間の持っている言語の特徴は、「刺激から独立している」ということである。他の動物の言語は、危険が迫った、警戒するなどのように、直接的には外界からの刺激に反応して出てくるものである。例えば、お腹が空いたら食べ物を要求する、相手が自分の縄張りに入ってきたら威嚇するなどである。しかし、人間の言葉はそういう場合もあるが、そういうものだけではない。ただ、最近の若い人たちは動物と同じように、刺激に対応する言葉遣いが多くなってきているようだ。

 まず人間の言語は、過去のことが表現できる。この場合、直接的な刺激ではなく、過ぎ去った記憶の中にある刺激に反応する。さらに未来のことを語る場合は、刺激でも何でもない「創造」である。未来のことを想像して言語化する。極端な例としては、人間は嘘をつくこともできる。まるででたらめなことを言っているのであるから、直接な刺激に対して反応しているわけではない。これは人間の言葉にとっては当たり前のことであるが、重要な指摘である。

 ところが、どうも他の動物の言葉にはそのような要素がない。つまり、イヌやネコは過去について「昨日はよかった」とか、「明日、どうしよう」などと語ることは想像できない。また犬にだまされた人がいるだろうか。

 そういう意味での言語能力は、たぶん人間だけに備わっている能力である。備わっているだけではなくて、遺伝的に備わっている、つまり先天的な能力であるとも言われている。ただし、このことが脳外科学的に確かめられているわけではない。しかし、人間には言語を習得する能力があらかじめからあると仮定しないと説明できない。普通の環境に育った場合、誰でもその環境で話されている言葉を短期間のうちに覚えてしまう。子供は6〜7歳児になると、我々とほとんど同じ文法能力を持っている。だれも意識的に言葉を教えなくても、そのような能力を獲得する。まわりでは、ちょっと言葉遣いの変なお母さんが教えていたとしても、それでもきちんとしたものの言い方を習得することができるようになる。これは人間には生まれながらにそのような能力があると仮定しないと説明がつかない。

 また、前述のことに関連して、その能力は誰にも同程度に備わっているということである。人間の言語能力には個人差はない。これも観察によってそう解釈をせざるを得ない事実である。

3.韓国語の学習・教育

(1)外国語を使うこと
 前述したように、「外国語学習の目的は、それを使う能力を養成すること」である。ところが外国語を習っても、それを使えない日本人もいる。それはなぜか。その答えは、外国語の学習が受験教育になっているからである。語学教育の弊害の大きな原因がそこにあるということは紛れもない事実である。

 学生は試験をやると俄然勉強する。例えば、「韓国語の勉強は非常に面白いから、試験で良い点を取って単位を取るといった低レベルの目標だけのためにやるのはやめなさい」と私はよく学生に言うのだが、そううまくはいかない。しかし仕方なく、学生に学力をつけさせようと勉強を奨励するために試験をやる。学力をつけるための手段として試験をやる。ところがそれが目標にすり替わってしまうことがよくある。

 語学学習の本来の目標は、その言語を使うことである。言葉というものは使わなければ意味がない。試験でいい点を取ったところで本質的にどんな意味があるだろうか。どのような言語であっても、習ったら使う、使う面白さを知る、これらが基本的な目標となっている。しかしそれは「言うに易く行うに難し」である。

 例えば、ロシア語を習って使おうとしても、一体誰と使うことができるのか。ところが韓国語は習ったらすぐ使おうと思えば使える環境にある。韓国に行けば実際に韓国語をすぐ使うことができる。しかし多くの学生は、「もうちょっと出来るようになってから韓国に行く」と考えている。そういう気持ちでいる限りは、いつまでも行かないから、とにかく今私が教えてあげた範囲内で言葉を使って韓国に行ってみなさいと勧めている。

 私は「3点セット」と言って、「カムサハムニダ」(ありがとうございます)、「ミヤナムニダ」(すみません)、「アンニョンハシムニカ」(こんにちは)、この三つが出来たらとにかく韓国に行けと勧めている。これは大事なことで、カムサハムニダときちんと言えば素晴らしい反応が返ってくる。ある意味で韓国人は、語学学習の初級段階では非常に優秀な先生で素晴らしいと思う。「カ、ム、サ、ハ、ム、ニ、ダ」、こういう日本人の言い方(つぶ読み)で言っても、「カムサハムニダ」とすらすら言っても「お上手ですね。」と誉めてくれる。誉めてもらったら人間嬉しくなる。だからもっと勉強しようと思うようになる。使わなければ意味がないということをまず頭に入れてほしい。

 それではどの段階で学んだ言葉が使えるかというと、学んだ今の段階から使えるのである。いや、今の段階で使おうとしなければだめである。上手だとか下手だとか考えるレベルはもうちょっと先だ。とにかく徐々に使いながら覚えていく。そして段々上手くなっていき、いろいろな表現が使えるようになる。その喜びを楽しんでいただきたいと思う。それさえ出来れば、第一の目標はクリアしたといえる。

 語学には、読む、話す、聞く、書くという4技能があるが、その中でペーパーテストにのりにくいのは「話す能力」である。読む、聞く、書くという能力は、ペーパーテストで測定・訓練することが出来るが、話す能力は出来ないので、どうしても疎かになってしまう。しかし、生活の中では話す能力が先行するので、是非そこから始めて欲しい。しかも韓国旅行は、国内旅行感覚で行ける範囲なので、やらない手はない。

(2)異文化理解
 「異文化に関する知識を得ること」については、日本の英語教育はある程度成功しているといえる。これは高く評価しないといけないが、その弊害があったことも事実である。このことを別の表現で言えば、「国際感覚を涵養する」ということになるが、結果的に、「国際感覚」ではなくて「西洋化」という形で矮小化にしかつながらず、小さくまとまってしまった。西洋的なものの考え方をするということが国際人であるというばかげたことになってしまった。これについては英語の教師はかなり責任を感じなければいけない課題だと思う。英語の教師だけではなく、教育関係者もみんな責任を感じなければいけないだろう。

(3)価値観の多様化
 学習する外国語には、独、仏、露、中、スペイン語、イタリア語、韓国語、ポルトガル語、アイヌ語など多くの言語がある。これらの言語学習は、多様化を目的としてやっている。

 英語以外の言語としてフランス語、ドイツ語をやる場合に、英語とドイツ語は兄弟言語で、さしずめ大阪弁と東京弁ほどの開きもないにちがいない。また英語とフランス語はどうかと言うと、せいぜいいとこの関係であろう。系統的に言うと、基本的には同じ仲間の言語なのである。そういうものを第三の外国語として選んでもあまり効果はない。

 明らかに言えることは、「英語ができなかったから、フランス語やドイツ語で名誉挽回、自信回復」などと言ったところで、たぶん駄目であろう。英語ができない人がフランス語をやっても、ドイツ語をやってもやはりできないであろう。逆に英語ができる人はフランス語、ドイツ語を当然のようにできる傾向がある。

 言語能力というのは誰でも等しく持っているのだが、系統の違う言語の場合は、心気一転取り組むことができる。英語についていえば、大学に入るまでに少なくとも6年間は勉強してきているが、入った時点でだいぶ差がついている。これは言語能力の差ではなく、試験の点数が違うだけの話である。それは全然心配することではないのに、出来ないと思い込んでいる学生が少なくない。

 ところがそういう人がいくらドイツ語を勉強しても、同じ繰り返しになってしまうことが多い。ところが時として、韓国語をやると、非常に出来ることがある。これはそんなにまれなことではない。そこが韓国語学習の狙い目なのである。

 例えば、新学期の授業ガイダンスをやったときに、「○○を取りましょう」と宣伝にいく。そのときに、「英語で自信がもってない人は来なさい」と言うと、本気でそういう人が来て困ることもあるが、無視できない割合でそういう人たちを救うことができる。

 みなさんの中にも外国語を勉強してみて、「自分には語学能力がないのではないか」とあきらめている方がいるかもしれない。しかし、そうあきらめる必要はない。チョムスキーという天才的言語学者は、「言語能力は先天的に備わった能力である」と言った。それに対して、「これは第一言語(母国語)について言えることであって、外国語の場合は別だ」という考え方もあるが、私は同じだと思っている。それは環境や第一言語が違うのだけのことであって、どんな外国語を習うのかによって難しくなったり易しくなったりすることはあるだろうが、条件が同じならみんな同じように習えるはずである。自分ができないと思ったら絶対できない。どうせ外国語であるから難しいに決まっている。やればできるという心構えは忘れないでほしい。

 まず目標を近い所に置いて、地道に落ち着いて、自分に自信を持って楽しみながら前に進めるのがよい。試験のための勉強、あるいは何かのための勉強というのでは、途端にできなくなってくる。それは焦りが生ずるからである。言葉の学習では自分が進歩していく仕方が実感できるものである。その自分が進歩するのを楽しんでほしい。それが言語学の発見してきたことと学習との関係である。

4.最後に:対等意識を育てる外国語学習

 最後に、語学がどうして対等意識を醸成するのに役に立つのか述べてみたい。
韓国人であれば、小さな子どもまで含めて、みな韓国語が話せる。それを大人が汗かきかき勉強する。苦労するということが非常に大事なことなのである。情報の伝達だけの目的を達するのであれば、通訳を介せば済む問題である。通訳がいれば別に言葉を習う必要もない。しかしこうした考えでいるかぎり、対等意識はできあがってこない。こちらから韓国に行く時には、前述の3点セットくらいは下手でもいいから覚えていく。これは基本的マナーである。それこそが対等意識の第一歩であり、その延長が対等意識につながると私は考えている。

 自分にとってどういう得になるか、自分がどういうことをきり抜けられるのかというような低次元の目標を定めるのではなくて、人との付き合いのために、コミュニケーションのために韓国語を学習するわけであるから、言葉は習って使う、できる範囲で使ってみる、努力をする、それが対等意識をもつことにつながる。それは国際人としての基本的マナーであり、その延長上に必ず自由に韓国語が使えるということが訪れてくる。たとえ、外国語なまりであっても、非常に立派な韓国語を使える人になると私は信じている。

(2003年7月6日、愛知県において開催された「日韓文化交流フォーラム」での講演内容をまとめたものである。)