道徳・倫理教育の現代的課題

道都大学経営学部長 小野 健知

 

1.はじめに

 現在、日本全体が不景気の只中にあるが、北海道も例外ではない。そのような経済の停滞状況をいかにして打破することが可能か。私はそれを経済的側面からではなく、道徳教育という観点から後方支援できないものかと考えている。

 北海道ではかつて明治時代に屯田兵というものがあったが、いまここにおいて「こころの屯田兵」という形で蘇らせたいと思っている。何もないところから土地を開墾して道路をつくり、北海道を切り開き発展させてきた130年程前の私たちの先輩の魂をもう一度、今度は教育の観点から私たち自身の手で蘇らせたいという意味である。

 そのためにまず私たちは先輩から何を学ぶべきか。第一は、意識の転換、発想の転換ということを、特に若い人たちに是非とも学び取ってほしい。屯田兵とは、それ以前の徳川時代(江戸時代)の因習をかなぐり捨てて内地(本州)から北海道に渡ってきた人たちである。彼らはまさに意識・価値観の転換をして北海道に渡ってきた。現在においても、そのように新しい発想を持って北海道を切り拓いていかなければいけない時期なのではないか。

 第二に、北海道は自然に恵まれた土地で、風光明媚な上、おいしい食べ物にも恵まれている。しかし、そこに私たちは「こころ」を付け加えていく必要があるのではないか。自然環境と食べ物の良さだけではなく、内地の人たちに「北海道の人と付き合うと本当にこころが温まる思いがする。また北海道にいってみたい」といわしめるような、こころとこころの触れ合いができる人材の育成である。

 第三は、共存共栄の道。寒さや雪という条件をネガティブなものとして受け止めるのではなく、またそれを克服するだけでもなく、却ってそうした寒さや積雪の条件を活用して、自分たちの生活の糧にしていくような逞しい精神力である。昔は寒さや雪をただしのぐだけであったのが、その後、服を厚着し、窓を二重窓にし、暖房設備を充実させ地域暖房をして克服しようとしてきた。このように今までは寒さを敵対視して臨んできてが、これから共存共栄の道を探る新しい考え方、雪や氷を売りものにした景観やスポーツおよびその施設等のライフスタイルをもっていく。
そのような発想と意識の転換を重視し、その基点に道徳教育をおきつつ、先輩たちの智恵に学び、北海道の発展を考えてゆきたいと思う。

2.道徳・倫理とは何か

(1)明治期のフロンティア・スピリット
 北海道に開拓使がやってきたのは今から約130年前であるが、それは米国のフロンティア・スピリットそのものを北海道に植え付けたようなものであった。スピリットというのは、「精神」、「こころ」、「魂」といった意味であるが、それを敷衍してみれば、その意味するところは環境問題にも行き着く。米国の開拓者たちは、フロンティア・スピリットを持って町を開拓した。開拓の力になるものは馬でも牛でも戦力として使いながら、役に立つものは何でも利用して国を発展させていった。それがプラグマティズムの基本となった。役に立ってこそ始めて価値があると考える。ドイツ観念論(理想主義)を生まれ返らせて、実際の生活に役立つ「もの」や「こと」に重点(価値)をおいた考えに転換し、実践化してきた。そのたくましさを見・聞きして育った人たちが、米国人の原型であった。そのような街づくりをした環境の中で生まれ育った人たちが、やがてアメリカ人気質(何にも恐れることなく直進していく気質)をもったアメリカ人として形成されたのである。それゆえ、フロンティア・スピリットというのは、単に精神的な次元に留まることなく、更に一歩進んでそのようなものを基体として形成された組織や制度(システム)、環境などありとあらゆるものの総体を指していると考える。それはちょうどドイツ語の「ガイスト(Geist)」の意味するところと同じだと思う。

 明治時代の人々、特に北海道の開拓にきた屯田兵の人々は、そのようなフロンティア・スピリットを体ごと受け止めた。それが北海道開拓の原動力になったと考えている。“Boys, be ambitious.”にある「たくましい」の意味は、こころも体も、何にもめげずに前進・開拓していくことのできる気力を含む。それは北海道という風土の中で自然にかもし出されて、北海道の人々の血となり、肉となって、今日まで受け継がれてきたものにほかならない。

(2)戦後の精神と平和ボケ日本
 その後時代が下り、今から約50年前に日本は、米国人からまた新しい精神を学び取った。これがアメリカンドリームであった。すなわち「豊かになることはいいことだ」という哲学である。具体的には、米国人のようにプールのある大きな家をもちたい、自動車を乗り回したいなどといった考えで、その豊かさへの憧れが戦後日本復興の基本的精神となった。それが、私たちをがむしゃらに働かせて日本の経済発展を導いていった原風景である。その中心となって働いたのは、現在60〜70代の人々である。

 内地の人たちは、沖縄や北海道の人に対して「かわいそうだ」とよく言う。例えば、「沖縄の悲劇は大変であった」、「もし北海道が他国によって占領されたらどうするのか」などと。しかしそういう考えがあっても、他人事のようで、「日米安保がある」とか「国連がやってくれる」などと言ったりして、自分たちの体を張って血を流してでも自分の国を守るとか、同胞を守るという考えは毛頭ない。一般論、観念論で話をするのみで、全く平和ボケとなってしまった。これが日本人全体の特徴であるといえる。その背景には、これまでの道徳教育の欠陥があったと指摘できる。

 米国は、もし仮に北海道が他国によって攻められるようなことが起これば、日本防衛に行動を起こすであろう。それが米国人の正義である。このように損得を抜きにして世界のために行動する「正義」という観念、行動力は、今日本人が改めて見直すべき徳目の一つであると思う。それは観念的な道徳をもう少し実践力にまで踏み込み、多少の批判があっても善を行おうとする行動力を伴う道徳へと発展させていくということである。

(3)実践を伴う行動としての道徳・倫理
 道徳教育の中で一体何が大切かというと、私たちの周辺にあるさまざまな問題を見てみぬふりをする、事なかれ主義的態度をとるといったことではなく、すべきことはしなければならないし、してはいけないことは絶対しないという善悪の判断基準を立て、それを実行に移すことである。道徳、倫理というのは、そういう実践的行動をも含むものであって、実践を抜きにした観念論ではいけない。それは若い人たちに関することだけではなく、家庭の大人たちにも同様に必要な事柄なのである。

 「いいこと(善)をまず実践しよう」という行動的人間の育成を、私はことあるたびに訴えている。それは老若男女を問わない問題である。「見てみぬふりをする」、「面倒なことには巻き込まれたくない」という人が実に多い世の中になってしまった。しかし、社会を防衛するというのは、まず自己防衛から始まる。自分のことをきちっとやり、自分の権益を侵すものには断固たる措置を取ることのできる行動力を身につける。このような善悪感をしっかりと持った人間が、この北海道を始めとして日本全国に育てば、よい社会が形成されていくであろう。自分が汗と智恵を出し、ありとあらゆるものを出しながら、公に奉仕することをいとわなければ、社会は、今のような氷河期から脱することができるであろう。そして豊かで暖かい社会の建設につながっていくに違いないと信ずる。

 道徳や倫理は決して弱いものではなく、私たちの行動力の一番の原点にあるものである。道徳や倫理は、車のアクセルとブレーキに例えることができる。私たちが安心して車を運転できるのは、アクセルよりはブレーキが良く作動する車の方である。ブレーキがきかない車は、こわくて乗れない。人間も同様で、ブレーキがきかない人間は恐ろしい。このようにまず、道徳・倫理はブレーキの役目として考えられる。

 しかし、私にいわせれば、道徳・倫理の本当の役目とはむしろアクセルの役目ということができる。人々に夢と希望と生き甲斐を与え、その気にさせるのが道徳・倫理の役目なのである。そういう積極的に生きる力を与えてくれる力を持っている。その根幹をなすものが道徳・倫理の感覚なのである。

3.歴史的に見た道徳・倫理

(1)西欧近代史における転換点
 ヘーゲルやカントが活躍した時代は18世紀後半から19世紀初頭であったが、その少し前には、フランス革命(1789)があり、米国の独立戦争(1775-83)という出来事があった。1800年を基軸として、その前20年間は矛盾した時代状況の中から、自由、平等、博愛などの価値を政治的戦いを通して獲得していった時期であった。そして1800年から後の20年間は、ドイツではフィヒテ、シェリング、ヘーゲルなどが活躍した時代であり、自由、平等、平和、博愛といった内容を理論的に体系化していった時期であった。

 ヘーゲルが『法の哲学』を著したのは1821年であった。それ以前は、ナポレオンがヨーロッパを席巻した時代であり、各国ではそれぞれの歴史を自力で以って実現していこうとしていた。それぞれの民族にはそれぞれの歴史と法律があるとして、ナポレオン法典に反対して独自の法律を作ろうとしたのである。その中で、影響力の大きなものの一つがヘーゲルの『法の哲学』であった。

 ヘーゲルのいう法(Rechts)というのは、英語で言えばright(権利、正義、正しさ、右、法などの意味)である。日本では上述のヘーゲルの著作を東京大学の尾高朝雄氏が『法の哲学』(Grundlinien der Philosophie des Rechts)と翻訳したために、「Recht」は「法」というように定着してしまったのであるが、私は「権利の哲学」といった方が意味としては正しいのではないかと考えている。ヘーゲルの言いたかったことは、「人間のもっている権利とは何か」ということを明らかにする点にあった。ドイツ(プロシア)人としてのヘーゲルが、フランス人の法典などに対して断固としてドイツ魂を主張した。彼は、彼なりにドイツ人を育んできた文化・歴史・伝統を念頭に浮かべながら、Geist(精神・環境)にもとづく正義、権利などの問題を解いていった。

 さらに遡ると、ルネサンス、宗教改革の時代は、人間の内面が宗教、芸術面に表現されたものととらえられる。そして1800年を前後とする時代は、人間性が外面に現れた政治的改革あるいは精神が客観的定在となり、制度や組織として顕現した価値の変動ととらえることが可能である。

(2)日本の歴史の転換点
@明治維新
 このような問題を日本に当てはめてみよう。西洋における1800年前後、フランス革命以後の時代は、徳川(江戸)時代から明治維新への移行期に該当する。徳川時代と明治時代とでは価値観が大きく変換した時代であった。例えば、服装、身分制度、教育、軍隊、統治システム(廃藩置県)、貨幣単位の変更(両から円)など、ありとあらゆるものが転換した。意識・発想の転換、価値観の転換や時間的な発展や展望という観点でいえば、日本の歴史の中で一番大きな転換点(基点)となるものは、やはり明治維新であると思う。

 維新以後、日本の若者たちは武士社会から徴兵制度への移行、学校制度、法律の制定、相続問題、憲法、裁判所など、新しいものを次々と作り上げていった。これは日本人のすばらしい文化遺産であった。当時の日本人を支えたものは、道徳や倫理である。「これからの日本人は、どうすべきか、どうすればよい日本ができるのか」といって、当時の若い人たちが手探りで作り上げていった時代であった。明治22年に大日本帝国憲法ができ、翌年教育勅語ができた。人間が成人して一人前の人間になる期間とほぼ同じく維新から約20年を経て新しい近代日本の体制ができあがった。但し、この問題については、今回はふれない。

A1945年
 もう一つの転換点は、昭和20年(1945年)である。これが日本人の意識転換の2番目に刮目する時期であった。敗戦を基点として価値観が全く変わってしまった。

 昭和20年(1945)8月、戦争が敗戦という形で終了したとき、人々は皆茫然としてしまった。人々の前にあるものは、焦土と化した戦火の絶えた寂廖とした光景だけであった。確乎と存在していたものが消滅した後は、不安や焦燥や虚脱感などと結びつき、異常な虚無感だけが日本人の脳裡に残った。既存の体系が崩壊し、否定されたときが、実は日本人に新しい価値の体系が生まれ出たときでもあった。

 さて、昭和20年8月15日に、時の文部大臣大田耕造は、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍びて、万世のために太平を開かんと欲す」という終戦の詔書の「聖旨を体し奉り、教学を荊棘の裡に再建し、国の力を焦土の上に復興」する覚悟である旨を、各都道府県に通達した。戦後のわが国の教育方針が、打ち出された第一歩である。

 戦後の新たな価値体系の中には、価値観の転換を迫ったものがいくつかある。
例えば、第一は、米国政府がマッカーサーに指令した、昭和20年8月29日の「初期対日政策」のなかに次のような文章がある。「天皇および日本政府の権限は・・・・・・政策を実行するのに必要なあらゆる権限を有する最高司令官のもとにある」。これは、われわれ日本人がこれまで絶対的な権力者を天皇と称し、絶大な権限を振るっていたものを「お上」と言って恐れていたのに、それを凌駕するものとして、占領軍が存在することを意味し、占領軍最高司令官としてマッカーサーが出現したことを明らかにするものであった。いわば、天皇よりも、もっと偉い人間が現れたのである。これは日本人にとって大いなる価値観の転換現象であった。マッカーサーは、民主主義を宣伝し、実施し、封建制を打破するために、徹底した政策を指示し、毅然たる行動をとり続けた。彼らは米国から若手の官僚を連れてきて、わが国民に対して、民主主義をそれこそ初歩から教えたのである。

 第二の価値観の転換現象を促したものは、戦争犯罪人の指名・逮捕・裁判などである。戦争で一切を犠牲にした人々は、戦争裁判を通じて、信頼しきっていたものに裏切られた衝撃が災いとなり、あるいは米国の民主主義も、何時どうなるやらわからぬという、ひたむきには信じ込めぬ国民性を、徐々に形成し始めてしまったようである。日本人の中にこうした政治に対する不信と懐疑心とがつきまとい、相手の様子をうかがうとか、自分の腹の中は見せまいとする自己防衛の姿勢とが生まれて、それが民主主義の流れと裏腹に、ホンネとタテマエという日本的な風潮を生み出してきたように思われる。

 日本人に価値観の転換をもたらした第三の要因として、GHQの指示によってなされた公職追放を挙げることができる。戦時中の指導者層を否定して、一掃することによって、民主主義を培養するための地盤をつくることが、当初のGHQの方針であった。こうして、GHQから昭和26年(1951)1月4日に、「好ましくない人物を公職よりの除去に関する覚え書き」が出され、これを受けて日本政府は、「就職禁止、退官、退職に関する件」として勅令を発布し、施行に際して公職審査委員会を設置することに決定した。その結果、戦時下において生産過程を含めてあらゆる領域にわたって、意思決定機関や実施機関に従事していた人々は、悉く追放されることになり、戦時下の価値体系が否定されたことは否めない事実であった。

 価値観の転換を迫った第四の要因は、極限状況下における倫理観であった。戦争の終結は、「軍隊の武装解除を完了すること」にあった。内地の陸・海軍部隊の復員は、10月15日には終了し、わが国は完全に武装解除された。しかし、満州・中国・東南アジア・西太平洋などからの復員は遅れていた。武装解除された軍人を始め、軍属や家族を含めると、何百万ともいわれた大勢の日本人が、よその国から日本に帰国するのである。これは、ゲルマン民族の大移動の騒ぎどころではなかった。今まで築き上げてきた地位も名誉も財産も捨てて、とにかく、日本人が外地からわが国に戻ってくるのである。戦争で敗れた国民が、草の根を食べたり、虫を食べたり、とにかく食べられるものなら何でも食べて、露命をつないで、日本に帰ろうと努力したのである。生存の目的が何であろうと、生きることが何を意味するものであろうと、そんなことはどうでもよかった。何はともあれ、「生きて、生き抜くこと」を、この人たちは学び、生きていさえすれば、何とかなる、決して死んではならない、というたくましい生存への息吹と気迫を、魂の奥底にしっかりと植え付けて帰ってきたのである。

 「わび」「さび」「しおり」といった日本古来のひよわな文化領域に、たくましさのみなぎる生活文化を加味して、大変革をもたらしたのは、この日本民族の大移動現象であった。後年になって、日本人が世界中の人々から「エコノミック・アニマル」とまで称され、経済戦争で活躍するようになったのも、この当時、魂の真底から奮い立たされ、精神構造において再生することを余儀なくされた、この当時の人々の働きによることが大きく起因していると考えられる。

 また、極限状況といえば、戦後は全くの無法状態であった。例えば、わが国は統制経済をとり、食糧は配給制度であった。食糧が統制されていたから、配給以外の米は、闇でしか購入できなかった。米食の配給は、昭和20年度から遅配が始まり、東京で10日、北海道では何と60日もの遅配が見られた。国家という配給組織が食糧を配給しないのであるから、法を遵守せよという方が無理なことは自明である。法の掟を忠実に守って、どうして10日も、60日も、生き長らえることができようか。それゆえ食糧管理法に違反することを十分に承知しながら、人々は食糧の買出しに出かけ、衣料や雑貨を闇市場で手に入れたものであった。法を犯しているといううしろめたさややましさ、罪の意識などは決してなく、誰でもやっていることだからとか、生きるためには止むを得ないことだという、生きることを主軸にした、実にたくましい日本人の生活意識と正義感覚と自己弁護の論理がそこにあった。

 こうした戦後の状況は、日本人にとって、政治的にも、経済的に、また意識構造から見ても、まさに明治維新に匹敵する大変革であった。原始的ともいえるたくましい生命力が、わが国民の実存的な生き方として芽生え、既存の歴史では見られなかった雑草文化として開花してきた。昭和20年より暫くの間は、日本人が古いしがらみを脱して、恩義や義理に拘束されない、新しい価値観と秩序体系とを作り出そうと虚空探索を始めた時代であった。焦土と化した街と、荒廃した山河、貧窮化した家庭、その上軍需工場が閉鎖されていたので、失業者が市中に溢れ、また帰郷した人々によって失業人口が急増するという世の中であった。食べるものも、住む家も、着るものもない、それに加えて悪性のインフレがひしひしと社会を覆い包みつつあった。この時代にもRecht(法、権利、正義)は存在しているはずなのに、既に「法」は「法」の役割を果たさなかった。人々は混濁の社会をただ拱手傍観するのみであった。

(3)戦後の道徳教育のあゆみ
@戦後から高度成長期まで
 戦後の復興が完了し、わが国の状態は「もはや戦後ではない」と謳われたのは、昭和31(1956)年度の経済白書においてである。この白書は経済的な面はもとより、戦後の意識を一変させ、人々の行動をも変えてしまったという意味からいっても、現代日本の極めて重要な分岐点となっている。

 戦後の東アジアでは、1949年に中華人民共和国が成立し、1950年には朝鮮事変が勃発した。このような状況の中、1951年に対日平和条約が調印され、日米安全保障条約が締結された。「日本政府は、教育および広報によって、日本に愛国心と自衛のための自発的精神が成長するような空気を助長することに第一の責任」とせざるをえなくなった。わが国で、こうした社会変動が矢継ぎ早に起こったのが、この時期である。

 昭和25年の朝鮮事変がわが国に特需景気を生み、それが契機となって生産の拡大、輸出の急増となった。この成長は、やがて技術革新となり、わが国が欧米から高度な技術水準を導入し、合理化を進め、設備投資を促進させる原動力となった。「量入為出」というか、需要が増加したら設備を拡大するという旧来の考え方を打破して、生産の向上を目指して最初から大量生産ができる合理的な工場の建設を目指すのである。需要や購買力については、大衆を操作して欲望を掘り起こしていけばよいという仕方である。こうして技術革新は、生産様式を変えたが、それ以上に人々の行動様式や思考様式をも完全に変えてしまった。

 昭和28年(1953)から、昭和29年にかけて、わが国は紡績工業の時代から合成繊維の時代へと移り、いわゆるナイロンやビニロンの大量出現の時代になった。その結果、日本人は靴下の「穴かがり」を捨ててしまった。質素・倹約というわが国古来の美風は、あっという間に姿を消してしまった。また、昭和28年のTV放送の開始とテレビの普及は、マスコミの力によって人々の思考様式さえ変えてしまった。

 事実、この昭和30年(1955)代から、わが国は豊かな社会の仲間入りをしたのであり、産業構造は重化学工業化し、国民生活は大量消費の時代を迎えることになった。その結果、産業上の組織・職業構成・経営・流通などの側面では大きな変化が現われ、産業や人々の都市集中化、それに付随して交通戦争、住宅不足、公害などの諸問題が巷間で論議され始めてきた。

 天野貞祐が文部大臣に就任して以来、道徳教育の振興策が打ち出されるようになった。昭和32年(1957)に文部省は「道徳教育基本要綱」において、道徳教育は学校全体を通して行う方針に変更はないが、その徹底化を図るために新たに道徳教育を実施するための時間を特設する方針を発表した。

 昭和33年(1958)、文部大臣松永東は、「小・中学校教育課程の改善について」の基本方針で、道徳教育の徹底・基礎学力の充実および科学技術教育の向上を挙げながら、「道徳教育の徹底については……新たに『道徳の時間』を設け、毎学年、毎週継続して、まとまった指導を行うこと」を決定し、通達を出した。

 こうして昭和33年8月28日、「小学校指導要領道徳編」が告示された。これはわが国の戦後の道徳教育の基本的な骨組みを形成した画期的なものである。この道徳教育の基本方針は、昭和43年(1968)、同44年(中学校)の改訂、昭和52年(1977)の改訂、平成元年(1989)の改訂、平成10年(1998)の改訂においても変わることなく一貫している。もちろん、それぞれの改訂の際に、「総則」の字句や表現は部分的に変えられているが、道徳教育の基本的な骨組みはいささかも揺らいではいない。

 さて、昭和35年に成立した池田勇人内閣は、高度成長を謳い、経済発展を支えるために「人づくり」を重視し、マン・パワーを標榜し、科学技術を振興するとともに、道徳教育を徹底的に行う必要があることを強調した。こうした中で、昭和41年9月に、中央教育審議会から「期待される人間像」が発表された。かかる教育改革を進めざるを得なかったのは、わが国の経済界における高度成長と人的資源を育成し確保することを至上命題とする社会的要請があったからである。昭和39年の東京オリンピックから昭和45年の大阪万国博覧会開催まで、わが国は華やかな経済上の発展が続いた。
高度成長期のわが国には、大量生産、大量販売、効率優先の気風が生まれ、消費が美徳と謳われる時代であった。適者生存、優勝劣敗の思想を背景にした激烈な競争社会が出現していた。さらに、国民所得が倍増した結果、教育に対する国民の関心も高まってきた。「教育爆発」という言葉が用いられたのは、昭和46年ごろで、教育の大衆化が進み、高等学校への進学率が急増した時期のことである。

 刮目に値するのは、昭和46年に中央教育審議会が出した「今後における学校教育の総合的な拡大整備のための基本的な施策について」の答申である。この答申は、「好景気のために学生たちが産業界に進み、教育界に人材が集まらないなら、教育界も優秀な人材が必要なのであるから、教員の給与を一般公務員よりも3割程度高めて支給し、人材確保に尽力したら如何」と大胆な提言をした。この思想を支えているのは、教育をすることによって国民は幸福になるし、それにともなって国家も繁栄するはずだという経済成長を背景にした楽天主義である。

Aオイルショック以降
 その後、昭和48年のオイルショックを契機にして、わが国の経済界は低成長期に入った。この社会変動は教育界にも影響を及ぼし、教育軌道は大幅に修正されることになった。

 昭和55年に「初等・中等教育内容の基本的なあり方」が中央教育審議会に諮問され、報告書は「自己教育力の育成」「基礎・基本の徹底」「個性の重視」という三本柱を提言している。内閣に直属する臨時教育審議会は第一次答申に「個性化重視の原則」を掲げ、第二次答申で「道徳の内容見直しと重点化」を掲げ、最終答申で「学校教育の偏重から生涯学習体系への移行」を強調して、昭和62年8月に解散した。

 この答申で刮目に値する点は、「学習社会のあり方」「学歴社会の是正」「家庭教育の見直し」などを大胆に提言したことである。すなわち「教育力をもっているところでは、その教育力を発揮してもらうことが大切だ」として、学校だけが教育の場ではないという思想をみんなに持ってもらうべきだと提言したのである。学校の役割は、生涯教育の基礎・基本を培うものに限ると学校の役割を限定したこの思想は、やがて社会共通の認識として育ってくる。これは家庭の教育力を回復するための起爆剤であったと高く評価できる。

 大胆な発言をした臨教審が解散した後、昭和62年12月に教育課程審議会から「幼稚園・小学校・中学校及び高等学校の教育課程の基準の改訂について」の答申が出された。この教育課程審議会の答申の背景になっているのは、科学技術の進歩や経済発展と並んで、情報、国際化、価値観の多様化、核家族化、少子化、高齢化社会の到来に対して、どのように対応するかである。特に道徳教育に関して大事なことは、幼い子どもでも病める人も、年老いた人でも、いかなる人に対しても「生命の尊厳」と尊重に配慮したことである。

 「自由」と「平等」の言葉は、わが国の教育現場では戦後50年の長きにわたり、それこそ耳にタコができるほど聞かされてきた。しかし、「博愛」「思いやり」だけは、なぜかわが国では最近まで忘れ去られてきた。21世紀のわが国は、福祉社会を到来させて、たとえ、不経済で非生産的なものでも排除せず、「モノ」「カネ」を中心に据えたりしないで、植物人間になった人であっても、アルツハイマーの人であっても、ボケた人でも、身体に障害を持つ人でも、誰からも「生まれてきてよかった」と称される世の中にしなければならない。生命の維持・操作の問題も含めて、人倫関係において人々が英知を出して共存しあうべき時代がきたのである。「倫理」とは「人間関係の調整機能を担うもの」であり、「生涯教育の基礎・基本たる学校教育においての道徳教育の一貫性の課題」がここに見出されるのである。

4.最後に

 日本にとって1900年からの50年間はほぼ5年ごとに戦争を行った時代であったが、後半の50年間は文字通り「平和の時代」であった。しかし私に言わせれば、「経済戦争」の時代であったと考えている。つまり、20世紀は武力戦争と経済戦争にあけくれた時代ということができよう。しかしその結果、日本は豊かな国になることができた。

 それではこれから21世紀の日本は、どうなっていくのか。豊かになっても、煽り立てられる欲望の再生産の影響を受けて、「モノ」「カネ」と「ココロ」が調和しない状態のうちに、経験したこともない時代がまさに到来しようとしている。このような時代に、私たちは一体何を目標としていくべきなのか。今までは豊かになることを目標としてきたが、これからは「きれいな国」にしていくべきである。その意味は、自然環境を美しくすることはもちろんのことだが、政治、経済を含めた社会環境もきれいにしていく。これからの21世紀の私たちの課題は、きれいな環境を作ることである。

 22世紀、私たちの子孫に何を残すのか。この美しい地球をきれいな形で私たちの孫子の代にバトンタッチさせていくことが、私たちの課題である。これが「世代間倫理」である。次の世代、自分が死んだ後の時代のために、譲り渡すべきものを遺産としてきちんとあけ渡していかなければいけない。別の言葉で表現すれば、横の線で見れば環境倫理であり、縦の線で見れば世代間倫理となる。

 いずれにせよ、私たちの道徳・倫理の課題は、現に「ある姿」を「あるべき姿」に高めることである。それは頭の中でのみ思い巡らすのではなく、実際に汗水たらして泥んこになって誰かが動いていかない限り、この世界は動いていかない。「あるがままの姿」を「あるべき姿」に移し変えていくのは、人間に与えられた尊い仕事である。これは私と皆さんとが触れ合う中で生じてくるものであり、それこそが倫理なのである。人間関係を支えるのが、倫理であるから、道徳・倫理を除いて人間を支えるものは何もないことになる。

 学習指導要領によれば、全国の学校で道徳の授業を週に一度ずつ実施しているはずだが、中には道徳の時間に別のことをやっている学校も少なくない。しかし道徳をやった学校とそうでない学校とでは、やはり大きな差が出てくる。道徳の時間は、目に見えるような直接的効果はあまりないように見えるが、しかし実際にはじわじわと効果が現れてくるものである。現場の先生方が自分の全人格を傾注して、子どもたちと何でもいいから裸の付き合いをやってくれればと思っている。自分が経験したことを洗いざらいに伝えていけば、子どもたちも真剣に受け止めてくれる。道徳とは全人格的ふれあいの中から培われ、そこからこそ影響が与えられるものである。

 この社会においては人間がすべての原動力であり、人間と人間のふれあいの中から歴史、文化、伝統が生まれる。それを支えるものが倫理、道徳である。それを真剣に考えていくのが、現代の道徳教育の課題にほかならないのである。(2002年11月21日発表)