21世紀の環境予測と対策
―資源循環とトータルリスク・ミニマムの社会展望―

東京大学生産技術研究所教授 安井 至

 

1.はじめに

 私は1993年から98年3月までの5年間、文部省(当時)の科学研究費重点領域研究「人間地球系」の総括代表を務めた。これは環境に関わる地球と人間との生存戦略に総合的に取り組む研究で、医学、法学、教育、経済学、理学などの各分野の専門家が集まっていた。これだけの専門家が集まれば何らかの有効な答えが見出せるに違いないと思われたが、結果的にこのプロジェクトは各論では多くの成果が出たが、統一見解を得るという点では失敗に終わった。

 そもそも学問には「直感」に基づく側面がある。しかし、一人の人間が環境全体を眺めて最適の戦略を「直感」で感じ取るためには、自分の専門分野の知識だけでは不十分である。すべての知識を詳細に知ることは不可能だが、少なくとも全体の概略を把握して判断することが重要である。

 それ以後、私はいろいろなことを始めた。ホームページ(URL: http://plaza13.mbn.or.jp/~yasui_it/ )を開設したのも、最終的にどのような情報を市民に与え、彼らがそれぞれの生活をどう変えるかが鍵だからである。専門家でなければ分からない情報を、ある程度サイエンスの素養がある人なら理解できるレベルに噛み砕いているつもりである。私はこれを環境の“First Step Interpretation”と呼んでいる。

 環境問題は、話し手が誰であるかによってアプローチがまったく異なる。前述のように、さまざまな分野の専門家が集まったからといって総合的な結論が出る訳ではなく、かえってそれが妨げとなる場合がある。たとえば地球科学を専門とする人は地球全体に関心があるし、NGO活動をしている人は狭い場所の生態系に興味がある。一方、多くの一般市民は自分の個人的な健康問題に関心がある。

 2002年12月18日、「(東京都国立市のある)高層マンションは街の景観を損ねる」という住民の主張を認めて、マンションの一部撤去を命じる画期的な判決が出された(東京地裁)。街の景観は複合的な問題であり、環境問題の中でも厄介なテーマの一つである。いろいろな立場があり、それぞれの議論の目的が異なれば一つの答えが出るはずがない。したがって最初に目標を統一し、議論する内容を決めなければならない。

 それでは何を統合した目標にすべきかといえば、「持続可能性」(sustainability)になるであろう。私が冒頭の環境研究を始める前年(1992)に、ブラジル・リオデジャネイロで国連環境開発会議(環境サミット)が開催された。そのときのテーマが「持続可能な開発」であった。人類社会の持続可能性をいかにすれば高められるのか。そのために何をすればよいのか。それには人類が「持続可能」であり、なおかつそれを支える基盤である地球が「持続可能」でなければならないということである。人類そのものが滅亡せず、なおかつ地球も磨り減らないということである。

 また、持続可能性には、環境的側面、社会的側面、経済的側面の三つの側面がある。環境的側面とは前述のような問題である。社会的側面とは、要するに場合によっては人類が自己崩壊するのではないかという話である。また経済的側面は、端的に言えば貧困問題である。これらは厄介な問題であり、簡単に解決することができない。しかし、例えば豊かな日本では社会的側面が満足されているのかといえば、必ずしもそうではない。そもそも人間以外の生物は本能で生きられるように創られているが、人間は本能に従っているだけでは生きられないように創られている。それなのに現在は、自分勝手な人間が自分の本能に従って生きているといった状況である。

2.環境問題の歴史

(1)問題解決型の環境問題対応
 これまで日本にはさまざまな環境問題があったが、その原点は水俣病、四日市ぜんそく、神通川のイタイイタイ病などで、いずれも時期としては1970年頃のことである。その当時の誤っていた点は、環境に対する無知と経済的条件を無条件に優先する考え方(未然防止、予防原則などの欠如)であった。環境が無限の処理能力を持っていると誤解し、同時に経済を最優先する。

 その当時は地球が無限の処理能力を持つと思われてだけでなく、地域環境の処理能力も無限であると思われていた。人工物質の中には容易に分解されないものもあるとか、有害物質に変わり得るものもかなりあるといった知識がなく、とにかく環境に対して無知であった。「問題解決型」の取り組みというより、問題が出てから解決する「問題後追い型」であった。問題が起こっていなければ環境問題は存在しないと思われていた時代であった。

 20世紀末になっても相変わらず問題解決型の時代が続いた。例えば環境ホルモンが出てくればそれに対して問題解決をする。その後、経済優先の時代にはまったくなかった要素が新たに出てきた。それは市民社会が環境問題に対して要求を出すようになったことである。市民社会の要求に対応して問題を解決するという形である。これまでは問題の発生は産業からであったが、市民社会が産業や交通との関連の中で問題提起するようになった。

(2)21世紀型アプローチ
 それでは21世紀型の環境問題はどのような形になるだろう。20世紀末から市民社会が何を要求するかを先取りして対応し解決しようという考え方が出始めた。ヨーロッパでは今もこのような考え方が主流であるが、この点が必ずしもヨーロッパが環境先進国といえない理由にもなっている。このアプローチの誤りは、環境を極度に無害化しようとしている点であり、人へのリスクをゼロにできるという幻想に基づいた環境対策を行っていることである。環境を浄化するというより、最初から有害物を使用しないという方向である。これは一つの選択ではあるが、それだけで環境問題を解決することはできない。

 例えば、「鉛フリーのはんだ」というものがある。ヨーロッパでは2006年から鉛入りのはんだが禁止される。しかし計算してみると、鉛を使わないことによる人間へのリスクの削減と、それによる資源の枯渇のバランスは非常に微妙な問題である。欧米で鉛中毒が問題視されたのは、幼児期の鉛摂取によって知能発育の遅滞が起ったからであろう。しかしそれをどの程度のリスクと捉えるかは難しい問題である。また、鉛フリーにすれば多くの場合、鉛の代わりに銀を使用する。そうすると今度は銀の資源枯渇という新たな問題が生じる。さらに、はんだづけの際の温度上昇によるエネルギー増加、不良製品の増加による効率の低下なども考慮すると、全体的なバランスは微妙である。いずれにしても、市民社会の要求は「無害化」の方向にしか向いていない。

 ではこのほかにどのようなアプローチがあるだろうか。未来を予測してみると、まず「問題解決型」では気付いたときにはすでに遅いということになる。したがって先に持続型の社会(目標となりうる社会)のあり方を決定し、現状との間に何がハードル(阻害要因)となっているかを考えなければならない。

 このハードルとは、一つには地球(環境)の限界、もう一つが人類社会の限界である。地球(環境)の限界としては、エネルギー限界や資源限界、温暖化限界などがある。一方、人類がすべて死んでしまえば地球環境には良いかもしれないが、それでは元も子もない。

 したがって、これらを境界条件(バウンダリー・コンディション)として、現状と目標との相違点の考察から予測される阻害要因を調べて、それを一つ一つ解決するというアプローチ以外にないであろう。またその結果どのような判断を下すかも大問題である。人間の生物としての限界と、地球の限界が天秤にかかってしまうからである。

 ともあれ、日本という境界条件の中でどのように環境が推移してきたかを再点検し、どのような対策が必要かを検討しなければならない。環境省は本来そのような対策を講じるべき組織である。

3.環境の推移再点検

(1)大気と水
 環境が最悪だったといえる1970年から2050年までの日本における環境問題の推移を次に概略してみよう。
大気汚染については、一般環境大気測定局の推移をみると、1970年頃が最も悪く、その5〜6年後に半分程度の基準、10年も経過すると今とあまり変わらないレベルに落ち着いている。ただし、道路沿いの測定局のデータはより悪化している。ディーゼル車の排ガス対策が遅れていることと走行台数が増えているためである。

 ディーゼル車の排ガスに関しては、日本はNOx(窒素酸化物)対策に偏重し、ヨーロッパはPM(粒子状物質)重視の傾向がある。実はこのことが大きな弊害を招いてきた経緯がある。自動車公害について一般にメディアでは「NOx=喘息」と理解されているが、これに対する科学的な証明はなされていない。むしろPMを原因とする喘息症状の方が多いようである。いずれにせよ日本はヨーロッパよりもNOxに対する規制が厳しい。それでも実際に害が大きいのはPMであるということが合意されつつあるようである。

 PMは肺がんの原因だといわれているが、もっと悪影響の強いタバコを1とすれば、PMは0.1程度だろう。しかし最近の研究では、PMが虚血性の心疾患を起こすとも指摘されており、本当ならそちらの影響の方が大きいといわれている。とはいえ全体的には、大気汚染は以前と比べて徐々に状況が良くなってきており、将来さらに改善される見通しが示されている。

 オゾン層破壊に関しては、先進国はやるべきことをやってきた。あとは自然、地球の時定数に任せるしかない。成層圏におけるフロン濃度は2000年がピークという説がある。今年の調査ではオゾンホールは小さくなっていた。「気温のためだ」という意見もあるが、いずれにしても今後も様子を見なければ分からない。

 水質については、鉛、シアン、カドミウム、ヒ素、PCBなどに関して「水質基準未達成地点の割合」の年次変化を見ると、1971年当時に比べ格段に改善されている状況である。その中でヒ素は、天然起源が多いためなかなか下がらない。水道水中で一番リスクが大きいのがヒ素であるが、大部分天然物であるためどうすることもできない。他の水道水系の不純物、たとえばトリハロメタン系物質もリスクが10のマイナス5乗領域で制御されているが、ヒ素だけは10のマイナス4乗程度である。

 このように全般に水質はある程度きれいになっているが、東京都などでは現在も最大の問題は下水道である。合流式下水道は雨水が増えると下水が未処理のまま海に流れ込む。濃度的には薄く問題ないが、量的に問題となる。東京の場合、年間80回ほど豪雨があれば40回程度は下水が海に流れるといわれている。東京湾に未処理の下水が流れ込んでいる。

(2)ダイオキシン
 ダイオキシンやPOPS(残留性有機汚染物質)なども、やはり1970年ごろに出てきた問題だが、残留しているものを除き、概ねなくなってきている。ダイオキシンとPOPSは主に土壌、海底の泥に蓄積しているが、いったん海底の泥にたまると、光に当たるまで分解しないと考えられる。ある地域の海底の泥を縦に掘ってサンプリングし、過去の大気汚染の度合いを調査するという研究も行われているほどで、100年から200年も分解しないと考えられている。

 母乳中のダイオキシン(DX)およびコプラナーPCB(Co-PCB)の濃度は1973年以降トータルにみれば減少していることが分かる。横浜国立大学の益永茂樹教授の調査では、ペンタクロロフェノール(PCP)や農薬クロロニトロフェン(CNP)、コプラナーPCBなどの放出量の年変化が図(略)のように推移している。

 ダイオキシン類は農薬散布によって分解せずに海底の泥に蓄積する。それをゴカイが食べ、ゴカイを魚が食べ、最後にその魚を食物連鎖の最上位にいる人間が食べる。農薬の場合、その8割を食物から、残りの2割を水と空気から摂取すると言われている。ダイオキシンは大部分が魚に含まれているため、95%が食物から摂取していると考えられる。先頃発表されたダイオキシンのデータによれば、魚の中でもっとも含有量が多いのがクロマグロである。クロマグロは近海魚ではなく、大西洋で捕れたものである。米国は汚染がひどく、ハドソン川の上流のある場所では、川底に含まれるPCBの量があまりにも多過ぎて、最終的にその場所を浚渫することになったそうである。

(3)環境ホルモン
 環境ホルモンは1996年(日本では1997年)頃から指摘されている問題である。環境庁は1998年に「SPEED98」で環境ホルモンの疑いのある物質のリストを発表した。以後、このリストにある物質はメディアで「環境ホルモン」と呼ばれるようになった。その後、このリストの中でも疑いの濃い物質から、順次、試験・研究が行われた。

 その調査の結果、環境ホルモンとしてほぼ「クロ」と分類されているのはPCB(発生時)、ダイオキシン(発生時)、トリブチルスズ(貝類だけ)、ノニルフェノール(魚類だけ)、フタル酸類(魚類だけ)などである。ほぼ「シロ」に分類されているのが、ヒトに対してはフタル酸エステル、アルキルフェノール、ヒト以外に対しても「シロ」とされているのがスチレン二量体及びスチレン三量体、ブチルベンゼンなどである。「グレー」に分類されているのは、BPA(ビスフェノールA)、古い農薬類、重金属類などだが、いずれも実際には環境ホルモンである可能性は低い。

 環境ホルモン問題は、ヒトに対してはもともと存在しない問題であったのだろう。2002年6月14日に環境省が発表した報道資料によると、環境ホルモンの恐れのある物質から優先順位の高い順に調査・研究を行った結果、フタル酸エステルの大部分は通常の毒性物質として取り扱うことでよいとされている。このとき継続して調査中の物質についても若干報告があり、オクチルフェノールが、ノニルフェノールに次いで2番目の環境ホルモンとして認定されたということであった。

 ところが、この発表についての各紙の報道は、読売新聞が157文字の非常に簡単な記事のみで、682字の記事として扱った朝日新聞もフタル酸エステルの大部分が通常の毒性物質として扱えばよいとは一言も書いていないのである。これを一般の方々が読んだらどう思うだろうか。この世の中は環境ホルモンだらけだと思われるに違いない。

(4)メディア報道の影響
 最近のことだが、ある高校で生徒たちに質問してみると、彼らの85%が「自分たちの周りの環境は、親が生きていた頃の環境よりも悪い」と思っていた。確かに地球環境が良くないのは事実である。しかし日本という特殊な国における汚染面の環境は、決して悪くない。それでも、なぜ環境が悪いのかと尋ねてみると、「地球環境全体が悪いから」と理解して答える生徒は全体の3分の1程度に過ぎない。

 しかし「自分たちの生きている環境は、親の生きた環境よりも悪い」という考えは、まったくの間違いである。このような認識の責任は、主としてメディアにある。例えば、中国産野菜の残留農薬の問題もニュースで正確に報道されていない。クロルピリホスという農薬の日本の残留基準は、ほうれん草に対して0.01ppmである。ところが、この数字はこの農薬が日本で使用されていないことを前提に定められたものである。普通、農薬の基準値は最初にADI(Acceptable Daily Intake:1日摂取許容量)という体内摂取量を設定して、この程度なら問題ないと思われる値を身近な食材に割り振って決める。クロルピリホスの場合、小松菜や大根など8種類の野菜に割り振られている。そのため問題となった野菜がもし小松菜であったならば、基準値を約20%オーバーする程度であった。しかし、たまたまほうれん草であったため、基準値の約250倍になってしまったのである。

 図1は東大医科研(当時)の黒木教授によるデータで、メディアが食品添加物を叩いていた当時のものである。当時の主婦をはじめとする市民のリスク感覚では、食品添加物が癌にもっとも悪く、続いて農薬、タバコ、大気汚染公害などと続いていた。一方、癌疫学者たちは普通の食品がもっともリスクが高く、次がタバコという理解であった。この乖離は大きく、メディアによって作られた感覚であるといえる。

(5)発癌物質
 発癌物質が何であるかは一般にあまり知られていない。WHOの国際ガン研究機関(IARC)は、グループ1の「ヒトに対する発がん性があることが確認されている」物質(87種類)、グループ2Aの「ヒトに対して恐らく発がん性がある物質」(63種類)、グループ2Bの「ヒトに対して発がん性があるかもしれない物質」(234種類)、グループ3の「ヒトに対する発がん性について分類ができない物質」と分類している。

 今日本で使われている化学物質の種類は恐らく数万種類程度に達するであろう。そのうちこの400種類程度だけが上述のような分類をされており、残りの物質の発がん性についてはよく分かっていない。それらについてはあまり影響がないのではないかとの見方も出始めている。

 グループ1を見ると、アルファベット順で「アフラトキシン」という物質が最初に出てくる。これはピスタチオなどに付くカビが出すカビ毒の一種で、規制値の10ppbを満たせず輸入されないことも多い。しかし米環境保護局(EPA)のホームページなどを見ると、子供が14歳までに癌になる主たる原因がアフラトキシンだと書かれている。本当なら大変なことである。ピスタチオやピーナッツなどのナッツ類だけでなく、ナツメグなどの香辛料も半数以上がアフラトキシンに汚染されているという。しかし、厳格に適用するとほとんどの食材が不合格になってしまうので、規制値を厳しくすることはできないのが実情である。「自然物は安全で、人工物は危険だ」という誤解を破る第一候補がこの天然毒である。

 このほか、アスベスト繊維や結晶質のシリカ、ベンゼンなどもそうである。ベンゼンについては、化学工場から信じられない程の量が出ていたことが明らかになっている(平成7年には放出量が16000トンもあったという)。それだけでなく、ガソリンの中に入っていたベンゼンの影響も大きかった。

 このほか中性子線、X線、ガンマ線、プルトニウム、ダイオキシン、DESなどもある。ただし、ダイオキシンはすんなりグループ1に入ったわけでなく、投票の結果、最終的に1票差で入れられたようである。

 中性子線やガンマ線に対する世の中の理解はひどく、放射線を浴びるとあらゆる病気になるというイメージを持つ人が多い。しかし放射線の専門家に個人的意見として聞いてみると、思いもしない答えが返ってきた。今の放射線の基準は、人間が自分の体から出している放射線と、地面から出ている天然の放射線などを合わせた数値が、許容できる数値として設定されている。しかし、その専門家によれば実際にはその100倍は問題ないというのである。真偽は不明だが、その専門家は、放射線を完全に遮蔽した環境ではゾウリムシが育たないといっていた。

 グループ1では胃がんの原因細菌であるヘリコバクター・ピロリ、B型肝炎ウイルス、C型肝炎ウイルスなども有名である。一方、あまり知られていないのが、女性ホルモンが発ガン性物質に入っている事実である。女性ホルモンは乳がんの原因物質とされている。ピルも基本的に女性ホルモンと同じ構造であり、発がん性物質に分類されている。
混合物としてグループ1に入っているのが、アルコール飲料、鎮痛剤、コールタール、鉱物油、塩漬けの魚、煤、タバコの煙、木のダストなどである。太陽光も皮膚がんの原因となる。こうなると、休みの日にゴルフなどして、終わった後にアンチョビを食べながらビールを飲み、タバコを吸えば、完璧な癌になるための対応策である。

 グループ2Aは人に対して発がん物質であることは確認されていないが、恐らくそうであるという物質である。このグループは化学物質が揃い踏み状態で、ディーゼルエンジンの粒子状物質、ヒ素不使用の殺虫剤(ただし職業的使用)、アクリルアミドなどが含まれる。

 最近話題になっているのがアクリルアミドである。アクリルアミドは、スウェーデンで2002年4月にポテトチップスの中に多量に入っていると指摘された。アクリルアミドは、ジャガイモ中のアスパラギンとでんぷんが170度に加熱されて生成される物質で、非常に強い神経毒性と発がん性があるといわれている。これまではポリアクリルアミドが土壌凝固剤や水道処理過程での汚泥処理などに使用されている。従って水に溶け込む可能性があり、WHOの規制値は0.5μg/Lと厳しく設定されている。ところがポテトチップスの分析値は0.5〜3.5μg/gで、ポテトチップス1gが水道水1リットルに相当する計算である。もしこれが本当にWHOがいっているようなリスク・ファクターを持っているとすれば、日本で年間1万人がアクリルアミドによる癌で死亡している計算になる。過大評価ではないかという気がする。アクリルアミドは日本人に馴染みのある「かりんとう」やほうじ茶にも含まれる。

(6)環境問題とその健康への影響

 日本人は世界でも一番健康な民族である。乳児死亡率の推移を見ると、1900年頃には東京周辺で1000分の200であった。10人に2人の割合である。それが今、1000分の3.2人である。ここまで改善した理由はいろいろあるが、最大の理由は感染症の克服であろう。環境要因だとすれば1970年頃にピークがあるはずだが、ほとんど表れていない。また死産率の推移を見ると、環境の要因が含まれているのかどうかはっきりしない。

 日本人の平均余命の推移をみると、1947年に男性の人生は50歳までであった。未だにアフリカ諸国ではそこまで達していない国もある。日本はほんの50年の間に寿命が27年も延びている。特に女性は84.9歳で世界第一位である。男性は余り伸びていないが、その理由の一つは自殺者が多いことである。最近は経済的影響によると思われる自殺者が数千人いて、その大半が男性である。

 総合的に考えると、際立って人体に対する影響が強い化学物質はないのではないかと思えてくる。むしろ最大の要因は、やはりタバコではないか。

 資源環境技術総合研究所の蒲生昌志氏による「日本における化学物質のリスクランキング」(図2)では、ダイオキシンの損失余命が1.3日とされている。仮に世の中からすべてのダイオキシンがなくなったとしても、一人一人に対する延命効果は1.3日しかないという話である。ただし、1.3日だから構わないということにはならない。例えば、ある非常に特殊な場所にだけダイオキシンが集中してリスクが反映していると、そこにいる人たちは死んでしまうのである。

 電磁波の影響もこれと同様である。電磁波の影響として小児性白血病が指摘されているが、そのリスクは10のマイナス5乗といわれており、ほとんど問題視するに値しない。しかし、例えば送電線の下に住んでいる人だけに影響があったとすればどうだろうか。スウェーデンでは年間70人程度が小児性白血病にかかっているが、そのうち一人くらいは電力線の影響かもしれない。人口比率で換算すると日本なら10人に相当する。その場合、電力線から離れていれば影響がないのであるから、公正な状態とはいえない。このような場合には環境問題となる。

 同じように考えると、ダイオキシンのような物質の影響を全員がうっすらと受けているのであれば、もはや環境問題とはいえないのではないか。これは市民がどのように考え、どのように行動するかという問題である。人によっては、損失余命が1.3日なら気にしないという場合もあるだろう。

 それに比べて、ディーゼル粒子は道路端で濃いと考えられる。ただし、どの程度濃いかというと、例えば田舎に幹線道路が一本通っているとする。その幹線道路から150メートル離れた場所でも8割の濃度であるから、かなり広がっている。東京などではほとんどの市民が影響を受けているであろう。しかし、田舎では影響があるのは200メートルくらいの範囲だ。それを不公平と考えるかどうか、という話である。

 ラドンは放射性物質であり、地下から出てくる。ホルムアルデヒドはシックハウス症候群のイメージが強いが、家の中で裸火を使えば発生する。燻製が腐らないのは煙で燻して乾くためであるのと、煙の中の有毒物であるホルムアルデヒドに殺菌作用があるからである。岐阜県白川郷の萱葺屋根が腐らないのは、下の囲炉裏から毒物を出しているためである。

 カドミウムは米に含まれる。今まで日本のカドミウムの基準は1ppmであったが、それを農林水産省が0.4ppmに下げるという。今まで1ppm以上の米については同省が買い取っていたが、基準値を0.4ppmに下げると買い取りに770億円くらいかかるという。買い取った米はどう処理するのか。特定の場所の人たちだけがそのような濃度の高い米を食べれば確かに不公平だが、日本人全員が薄めて食べれば問題ないのではないかという気がする。

 ヒ素は水道水、トルエンは塗料、クロロピリフォスは防腐剤やシロアリ処理、ベンゼンはガソリン、メチル水銀はマグロ、キシレンはトルエンと同じく塗料などに含まれる。以下、DDT、クロルデンと続いている。
恐らく、これ以外に命に関わるようなレベルの物質はないのではないか。それゆえ、それ以外の環境問題に変わりつつあるということを意味している気がしてならない。

 最近、市民を対象に環境コミュニケーションを行っている。環境問題は健康問題だと思いがちだが、本当だろうか。それを訴えるために次のような話をしている。
1)人が死ぬ確立は100%である
2)日本における死亡の実態
3)急性毒性と慢性毒性
4)発がん、DNA、生命
5)発癌物質にはどのようなものがあるか
6)人工のリスク、天然のリスクの大きさ
7)環境リスクの大きさ
8)均一なリスクと局在化するリスク
9)個人の感受性
10)メディアの特性を理解する
11)企業の事情を理解する
12)何のために健康が必要かということ

4.これからの環境問題

(1)地球温暖化
 日本における環境問題の推移を考えると、今後日本で残っていくのは資源・エネルギーの消費と地球温暖化、土壌・底質汚染、オゾン層破壊などで、ダイオキシンや大気汚染、環境ホルモンなどの問題はなくなってしまうのではないか。また新たな問題が出てくくるかどうかは不明である。

 温暖化はどのような問題であろうか。図3は西暦600年から2000年までの温度変化である。温度変化についてはいろいろなデータが使われている。IPCC(気候変動に関する政府間パネル)が使っているデータはこれと異なり、そもそも日本と世界の平均気温の推移も異なる。いずれにせよ1800年から現在まで温度は上昇を続けており、2度ほど高くなっている。しかし大半は完全に太陽のゆらぎの影響であり、最後の50年間くらいになって若干人工的な温暖化の影響が出ているかもしれないという状況である。縄文期の三内丸山遺跡を見れば分かるように、6000年前は暖かかった。暖かいときと寒いときの差は何か。寒いときは食物が少なく、戦国時代のように争いが起こっている。一方、平安時代は暖かい。

 地球温暖化の根拠となっているのが、IPCCのワーキンググループによるモデル計算と観測値が一致しているという指摘である。しかし本当に一致していると断定するには、あと10年ほど状況を見る必要がありそうだ。温暖化が否定される確率もゼロではない。

 温暖化はCO2が主たる原因と言われているが、本当は水が一番の温暖化ガスである。しかし環境中の水の量は制御できないので、CO2を制御するしかないという話である。

(2)CO2と経済発展
 次にCO2効率とGDPの関係を国別にみる(図4)。CO2の排出は持続可能性という観点から考えれば重要な経済行為の一つである。このCO2とGDPの効率がもっとも良いのは産業のない中央アフリカのチャドである。産業が皆無の国はCO2を出さないが、農作物などでもCO2は若干発生する。

 スイスやカンボジア、日本なども比較的効率が良い。中国は非常に効率が悪い。米国もこのデータで見る限り発展途上国並みである。米国は京都議定書からも離脱している。いずれにせよ豊かになるにはCO2を出さなければならないというのが世界的な傾向である。

 日本は2002年6月4日に京都議定書を批准し、国連に批准書が寄託されている。しかしこのことはほとんどニュースになっていない。日本はもはや京都議定書から逃れられない。京都議定書によると、日本は2008年〜2012年の第一約束期間で、1990年比のマイナス6%を達成しなければならない。しかし、2000年でプラス8%となったので、2000年でマイナス14%、2010年でマイナス20%の実績が必要となっている。「成り行きモデル」と比較すると、すべての物質を重さで20%カットし、エネルギー効率を20%アップしなければならない。

 マイナス20%というのは大変な数字で、エネルギーだけで20%減らすのは不可能である。鉄などの材料を作るときに排出するCO2の量に支配されているため、CO2を減らすためには物質をカットしなければならなくなる。そうなると売る物の量を減らすことになり、今のような不景気ではすまなくなるのである。

 日本、欧州は京都議定書に批准し、ロシア、カナダも批准する予定である。それに対して米国は京都議定書を離脱し、オーストラリアも批准を否定している。経済的思想がこの二つの勢力に分かれている。すなわち米国型のグローバリゼーションは裸の市場経済であり、非人間的な競争社会、犠牲者を作る経済を指向している。北欧型の社会は財政重視、地球重視型で人間回復の経済を指向している。敗者ミニマム型である。

 世界全体として2050年から排出量を下げなければならないとしても、例えば中国やインドは当分無理で、ある程度経済成長してから下げるしかない。米国は2015年以降、日本は2006年頃から下げ始めなければならない。スウェーデンやデンマークなどヨーロッパ諸国はすでに下げ始めているが、必ずしも景気は悪くなっていない。

 少しでも経済的利益を出そうとするとエネルギーを使わなければならず、CO2を排出せざるを得ない。日本は2006年頃をピークとして、それから先は急速に排出量を落とさなければならない。そのためには、エネルギーの消費量を下げたとしても価値のより高いものを作り出してゆく以外に手はないであろう。その意味でデフレは最悪で、環境負荷の大きい方向(商品寿命の短さ、資源・エネルギーの無駄など)に進んでしまう。

5.最後に

 一般市民社会の環境観を変え、健康問題以上に省資源・省エネルギーで経済的利益を生み出すことを考える必要がある。環境問題全体を考えればそのことの方が重要である。

 2030年の暮らしについて、環境省の「循環型社会白書2002」は循環型社会に向けた3つのシナリオを挙げている。シナリオAは「技術開発推進型」シナリオであり、高度な大量生産・大量リサイクル型社会において廃棄物技術開発が進み、省エネルギーが実現するというものである。シナリオBは「ライフスタイル変革型」で、地域社会に密着した無駄のないシンプルライフを目指すものである。シナリオCは「環境産業発展型」で、技術開発によって環境適合型社会・脱物質化社会となり高い環境効率を実現するというものである。実際には、これらの3つのシナリオが混ざり合った社会となるであろう。

 いずれにせよ、どのようなシナリオを選ぶかをまず国民全体で決定し、現在そこに向かう上で何がもっとも大きな阻害要因となっているかを究明する必要がある。恐らく旧来の日本の利権が最大の阻害要因であろう。

 このように考えると、環境科学は果たして科学なのかという疑問が湧いてくる。ここで重要なことは、「今の日本においてはこの解決方法しかない」という直感的な判断を下すことのできる人材が何人いるかである。しかし、環境問題は多岐にわたるため、一人の頭脳に入りきらないのである。

 直感が利かない科学などありえない。過去において科学は夢や直感によって進歩してきた部分が大きい。そうだとすれば、直感が利くかどうかが環境科学の科学としてのクライテリア(判断基準)である。総合判断を下すために必要十分な形に圧縮された知識体系として環境科学が存在し、そのような知識体系を理解している人間(但し、どこか一カ所は自然科学の領域をマスターすることが望ましい)が世の中に増えない限り、未来はないのである。(2002年12月21日発表)