これからの大学のあり方
―地方大学の行くべき道―

岩手県立大学長 西澤 潤一

1.戦後の問題点

(1)戦後教育の問題
 第二次大戦後の教育改革において、日本は形骸的に米国のやり方・しくみを踏襲した。つまり戦後の教育改革は、戦前の教育制度のどれがいいからそれを残し、どれが悪いからそれを廃止していこうといったやり方ではなかった。何でもかんでも米国式にしてしまった。しかも米国の中にもさまざまな流儀・バラエティーがあるのに、その中の標準的なものだけを導入した。内容を十分確かめもせずに向こう見ずに、画一的にやったことが大きな問題であった。

 他の国は伝統を大事にしてきたのに、日本では戦後、戦前のいいところもみんな捨ててしまった。これは戦後の教育にとってマイナス要因であった。
このような問題点については、私たちが大分以前から指摘していたことであったが、世の中からは無視されてきた。80年代以降、青少年による凶悪犯罪、猟奇的事件が多発するようになったが、これはここにきてこのような問題がはっきりと露呈してきた結果といえる。

 苦労知らずの子供たちは、一度物質的困窮状態に陥った時にその欲望を抑えることができないために、法律違反の行為をやってしまう。しかも相当残酷なことをやる。そのような状況に対して「子供には全くしつけをする必要がない。自然のままがいい」と主張する教育者がいる。

 かつてインドで発見された狼少年、狼少女の話がある。生まれたばかりの人間の赤ん坊が狼に連れていかれ、その後救い出されたが、既に彼らは「狼化」してしまっていた。その後教育をしても元の人間には戻らず、途中で死んでしまった。乳児期など適切な時期に適切なことをやらないと、人間はいかほどにも変わる可能性を持っていることをこの例は示していると言える。つまり人間の教育においては、環境からの影響がとても大きいのである。これは逆に、しつけがいかに大切かを物語るものである。また親がやってみせることが子供に如実に反映していく。このような意味からも、しつけをやってはいけないと言う主張は、全くナンセンスなのである。

 そのような間違いを数多くやってきた。今からでもこのような間違いを一掃しない限り、日本人の持っている才能が世界に向けて生きてこない。
今の時代は「世界化」が一つの流れなので、自分のところだけで仕事をしているわけにはいかない。一瞬にして地球の裏側まで影響が及ぶような時代であり、国際化・世界化が極度に進んでいる。そのような時代に対応するためには自分の才能を十分に活かしていくことが必要であるが、一律に教育をすすめていては国際競争に勝つことはできない。それが今になってやっと反省の動きが出てきた。このような弊害は早急に改めていく必要がある。

 大学のあり方についても同様であった。これまで文部省が全権を任されたような顔をしており、特に国立大学の教官はそれに下駄を預けて、そちらだけを見ていた教授たちも多かった。そのような環境の中で、できるだけサボって安穏と暮らそうという人たちが、国公立大学の中に蔓延していた。それが大学教育荒廃の一つの原因であったと思う。また文科省の役人自体が、自分で教育した経験がない。それが牛耳るので文部行政は足が地からはなれてしまう。そのようなことが永年続いてきた。

 明治改革のときには、ある意味で現実を良く見ながら改革を進めていた。例えば、朝令暮改という言葉は一般には悪い意味で使われるが、東京帝国大学ができた直後の状況は、逆の意味で「朝令暮改」そのものであった。大学に入った学生が翌年には学制がまた変わるために、その学部がなくなるということもあった。その状況を改善するために、現実的な対応をしながら苦心して改革を進めた。その真摯さは評価してよいと思う。

(2)過去の教訓を忘れた日本
 現在の日本を巡る状況は非常に厳しいものがあるが、日本がかつて経験した例から、問題点を振り返ってみたい。

 オイルショックのとき日本人は、どのようにしてその危機を克服することができたのか。当時原油価格が上昇したために、それに伴って電気代、原料代も高騰した。そのような状況の中で、日本の工業は人件費が相当高かったために窮地に追い込まれた。その危機をいかに回避することができたのか。そのとき日本が取った手段は、生産への自動化の導入であった。つまり人間の数を減らし、人件費競争に勝ったのである。

 そのころ私が米国に渡ったときに、米国人に次のように言われたことがあった。「日本はコストダウンするために自動化を進めたと聞いているが本当か?」と。私には当然のことと思われたので、彼の意図が一瞬わからなかった。しかし米国の論理は別なものであった。彼らは工場が自動化すると生産原価が上昇すると考えていたが、日本の考えと異なって、職工さんの質の問題だと考えていた。米国では休憩時間になると、手がけていた仕掛品を放り出して、稼動していた機械を完全に停止させてしまう。休憩時間が終わり再び始めた時には、その仕掛品はだめになってしまう。そういうことをお構いなしにやっていたために、生産性がかなり低下する結果を招いた。その後米国では、日本流のやり方を取り入れて立ち直ることに成功した。

 ところがその後の日本は、そのような模範的な例を覚えておらず、人件費が高騰した時にどう対処すればよいかについて、過去の経験が全く生きていない。過去において、全くお手本がなかったのに、自動化をうまく導入して成功したことは一種のイノベーション(技術革新)であった。そのような先輩の成功例があったことすら、今気づいていない。

 以前、ミネベア鰍フ社長であった高橋高見氏(故人)と話をする機会があった。彼の話によると同社では工場をみなタイ国に移転させてしまうと言う。最後にあと一つ出すと全部という時に、「但し絶対に研究開発と試験工場だけは海外に移転しない」と言った。日本で新製品を出し試験工場でテストをして合格した後に、海外の工場に持っていって生産段階に入れることを考えた。
それまで工場を海外に移転しにくい理由は、外国の政情不安定という要因が一番大きかった。もし現地で革命でも起きて政権がひっくり返ればすべて工場を持っていかれかねないという不安があったためであった。それを早い段階でクリアできた国の一つが、タイであった。それでも研究所と研究開発部は日本に残しておくという原則に立っていた。タイの労働原価が安いために、安い製品ができ、その結果大きな利潤を上げることができた。このような成功例も忘れてしまい、その後十分に活かされていない。

 日本人は歴史を考えない民族だとよく言われるが、最近の状況に関しても、自分たちの先輩たちがやった大ヒットを全然見ていないと言える。

2.これからの大学教育

(1)人間教育の重要性
 大学教育をよくしようとした場合に、先ずは家庭教育からやらないといけない。先ず心があって、その上に技術という花が咲くのである。ちゃんとした人間教育をやる部分が欠落しているのが現代の教育である。旧制高校はある意味ですばらしい人間教育をやった。世界的にも賞賛されるべきものであった。

 こんな話がある。かつて日本に来ていた米国人の息子が、日米の学校を互い違いに入学・卒業を繰り返した。その方が最近亡くなったのだが、亡くなる前に日本に来て言った言葉は、「最もよかったのは日本の旧制高校であった」ということであった。

 この旧制高校の時期は、ちょうど思春期に相当したが、現在ではその時期が若干後ろにずれており、この時期に猛烈な入試が入っている。つまり高校の上級と大学の最初の段階で人間教育をやるべきなのだが、現実には高校段階では入試のための勉強に余念がなくちっとも人間教育になっていない。以前は16歳から19歳にかけて一括して人間教育をやった。人間教育の基礎を固めてからその上で専門教育に入った。大変うまくできた制度であった。このようにうまくいっていたのに、それをきちっと評価もせずに一方的に壊してしまった。このように教育は連続しているので、単に大学だけを改革すると言うのは難しい。

 例えば、米国・MITの場合、次のような例がある。MITの大学(学部)から大学院に入った学生と、別のリベラルアーツカレッジから大学院に入った学生を比較した場合に、大学院に入った直後の段階では、後者は専門教育ができていない分大差が見られた。ところが大学院課程が終わるころになると、学生の成績において逆転していると言う。しっかりした人間教育を受けていると、却って後にそうではない人を一気に追い越すことができると言うことを示している。

 大学も同様で、これからは高等学校との間をどううまく連結していくのかが重要になってくる。また中高一貫教育も一つの方法と言える。その場合、中高一貫で合わせて5年とし1年短くする。それは昔の飛び級と同じ意味となる。そのようなやり方を取りながら、リベラルアーツをしっかり教育する。大学に入った段階で、一般教育と技術教育と平行させながら、その上で専門教育は大学院で行う。

 このようにバラエティーのあるやり方をしながら、チャレンジする精神を育てることが大切だ。これまで画一的な道しかないということが問題であった。

 例えば、東北大学ではかつて傍系という道があった。すなわち高等工業学校などの学校を出て大学に入るというコースである。そのことによって(結果として)多彩な人材が養成された。

(2)地方大学の生きる道
 人間としてのしっかりした考え方を育てた上で、技術教育に入る。これが大学教育の第一歩である。また技術教育にしても、バリエーションを持たせることが大切である。地域、国家、世界のために役に立つ人材の養成である。
ここで地方大学のあり方について考えてみよう。

 まず、地域性を持たせるということについて。東京の大学であれば、東京にプラスになる人材、岩手県であれば、岩手に役立つ人材を育てるということが一つである。そのように特殊な対応性を持った人間がたくさん出るということが、その地域の活力を生むことにつながる。もちろん応募者は他県(外国)からも入れるし、卒業生は他県(外国)に出て行くことをも拒まない。受けた教育の特異性が、ぱっと仕事に生きるようになればしめたものである。

 私が学長を務める岩手県立大学創設にあたっての実例を若干ご紹介したい。本学の開学(平成10年4月)に当たっては、看護学部と社会福祉学部は常套手段であるが、他の2学部の創設については私に任せるといわれた。岩手県は経済的には低い県である上、今までヘビー・インダストリーがなかった。これからそうしたものを立ち上げることも不可能ではないが、簡単なことではない。そこで重厚でない分野に必要な人間を養成しようということになった。そこでいろいろと調べた結果、コンピュータを使える人が非常に欠如していることが分かった。そこでそれに特化した教育をしようとまず考えた。

 例えば、町の駄菓子屋で在庫管理をするとしよう。ある種類の菓子が問屋から定期的に送られてくればいいのだが、高齢者の店主にとってはそれを管理するのは容易なことではない。そこでそれをコンピュータで管理できるようにしよう。また暑くなったときや、寒いときの売れ具合を見ながら、それに合わせた仕入れができるように条件を設定してより適切な管理ができるように修正・調整していく。そのようなことができる人材を養成しようと謳い文句を考えた。そこからソフトウェアを開発する縦型と横型の応用型コンピュータのためのソフトウェア情報学部を作った。これはあまり資金がかからない上、岩手県では一番需要があり、効果的なものであった。

 また当時、環境・エネルギー問題が社会の大きな問題となっていた。エネルギー源一つをとっても、原子力関係の人は、それが一番といい、火力発電関係の人はそれがまた一番だというように、それぞれ自分が一番だと主張する。一つ一つに利害得失がある。火力発電であれば、炭酸ガスが排出されると批判される。水力発電であれば、農業用水と兼用にすることから巨大な貯水施設が必要になるために環境問題が生じる。しかし水力発電の要は、水を高いところから落とせばいいわけで、巨大な貯水施設を作る必要はない。階段状にして水を落としながら発電すればよい。このように、それぞれの方法論の長所と短所を挙げて、総合的に比較検討を進める。

 また不景気対策予算として政府が1兆円を投じた場合に、それに対してどれほどGDPが増えるかを想定しなければいけない。単にフィーリングだけの施策ではいけない。そうした総合的比較検討のなかから、一番メリットの多い施策を選ばなければいけない。このように政治にも数字を導入しようという発想をした。統計データをどう処理するかというソフトウェアを作り、絶えず改良していかなければならない。

 そういう意味で、横型、つまりさまざまな分野のことを定量化して比較していくという手法である。それでこの内容を、総合的に見ながら政策を決めるという意味で「総合政策学部」という名称にした。

 そのようなことを計画しながら開学する直前の2月に、「米国で一番欠如しているのは、コンピュータの技術者ではなく、それを使う技術者だ」との記事にたまたま接し、自信を得た。その後、大学への応募者の状況などを見ても、現在のところうまくいっている。

 一方、東京のような大都市の大学であれば、次のような観点の学部があってもいいのではないか。

 ある意味でニューヨークなど欧米の大都市というのは、人口過疎地域の中の大都市であるが、東京や北京などアジアの大都市は人口稠密地域の中の大都市である。そのような大都市はいかにあるべきかについて、社会学や建築工学・都市工学の観点から分析する。

 また過疎地の大学であれば、過疎地の問題に関わることを考える。例えば、過疎地の電車は、速度を上げて走ればいいが、人口密度の高いところでは狭いためにしょっちゅう停車することになる。そうかといって到達時間がかかってもいけないために、急加速して次の駅にさっと止まるという方式が必要になり、全体としてはスピードを落とさずにたくさん止まる電車となる。このように社会科学、自然科学などさまざまな面から見て検討を加えなければならない。そしてその地域に住む人にいい施策ができるような人材を養成することが大学の一つの使命である。

 今度の大学の独立行政法人化に際しては、このような地域性に基づいた学問のあり方、学部の設定などの発想があってもいいと思う。それはそのような特殊な環境条件のあるところで、それに見合った研究・教育をすることの方が、よりよい教育が可能となるからである。

(3)米国流研究方法の見直し
 最後に、研究開発のあり方について一言述べたい。
今度の田中耕一さんのノーベル賞受賞はとても特徴的であったと思う。それは我々(東北大流)の学問のやり方そのものであった点で、我々にとってうれしいことでもあった。今回の受賞は国民的共感を買ったが、田中さんの研究手法はまさに「東北大流の学問のやり方」なのである。

 ともすれば従来日本の研究者は、米国流の派手な研究の展開・やり方が一番だと考えてしまう傾向がある。そして研究者は誰しもノーベル賞が夢であるから、学問をはじめるときの第一歩として、まず米国に行って研究の仕方を見てくる。ただ英国はむしろ日本の流儀に近いといえる。

 しかし自分の立つところ(分野・フィールド)でそこに直結した問題から研究を立ち上げるのが、学問のスペシャリティーである。田中さんの研究方法は、とても謙虚な仕事のやり方であり、涙ぐましいほどである。資料作りに失敗して、それを捨てるのがもったいないからといってそれを測った。そこには意外性がある。

 十分な研究環境がないから研究ができないという発想それ自体が間違いで、自分のところで一番大事なことを進めていくことから出発する。例えば、お母さんが病気で亡くなったから、そのことが惜しいから医学でもって社会に貢献したいという動機から学問を始める。それが日本の自然科学の展開の基礎でなければいけないと思う。

 国によって手法が違って当然である。むしろそれによって特徴を出すことができる。外国のやり方を真似するだけでは特徴がないし、二番煎じでしかない。その意味で、今回の田中さんのノーベル賞受賞は、我々に日本の研究のあり方に一つの転機を示してくれた出来事であったと思う。(2003年3月7日)