教育問題とガヴァナンスを巡って

早稲田大学教授 鈴木 慎一

 

1.国際関係論・国際政治学におけるグローバル・ガヴァナンス論

T;国民国家の概念的機能的実態的妥当性の喪失・減少・再検討

(1)グロ−バリゼーション
1)グローバリゼーションの波
 国際化、自由化、普遍化、アメリカ化、非主権化、非領土化
@顕著な領域:経済、交通、技術、情報、通信
Aポスト資本主義社会:「時差」が経済活動において意味を喪失
B各国政府に代わる国際組織・多国籍企業・NGOの共同行動:国家では大きすぎ、或いは小さすぎる問題と問題領域の発生

2)冷戦構造の解体
@ソ連・東欧ブロックの崩壊:ソ連・東欧の「西側」経済・政治への組み入れ
A軍事ブロックの変化:核軍備の緩和、安全保障面における緊張緩和
B国連機能の強化:PKO活動の促進

3)1990年代における多角的国際関係
@地域紛争の国際化:湾岸危機と戦争、ロシア周辺諸国・ユーゴ・アフリカ各国内戦の長期化
Aアメリカ型政治の一極支配への反発:中近東・パレスチナ・中南米・東南アジアの反米運動
B国際環境保全:グリーンピース・緑の党・酸性雨・技術移転と自然破壊・京都議定書・アメリカの脱落
C世界貿易制度批判:多角的経済交渉・二国間経済交渉・南北問題・多元的格差増大
D農業問題:種子の独占・食料政策・農業国防論・水資源紛争・遺伝子操作植物

(2)グローバル・ガヴァナンス論の誕生
 人間の社会的状態について国際的な観点から論じることは、必ずしも新しいことではない。しかし、冷戦後、「現代世界を理解し、運営していくキーワードとして、いろいろな立場の人によって(グローバルガヴァナンスが)論じられている。とくに20世紀の最後の10年間に一層明確になってきたように、現代の国際問題はグローバル化し、また個々の争点領域が相互に交叉し合っているので、従来のビリアード・ボール・モデルに基づいた国際政治学では十分に対応しきれなくなっているというのがかれらに共通した理解である。」

 「21世紀の国際社会には、単に国家(政府)間の水平的ネットワークだけでなく、………国際機構やNGO、多国籍企業など内外の様々なアクターが網に目のように張り巡らされた立体的なネットワークが生まれている。そこでの集合行為問題の解決には、国際機構やNGOが国家のエージェントとして動いていることもあれば、逆に国家が他のアクターのエージェントとして機能していることもある。これらの多様なアクターの行動をある場合には導き、ある場合には拘束するのが、それぞれのアクター間の広義のパワーであり規範であり制度である。国際社会における集合行為問題を解決するためのこうしたプロセスや制度のことを一般にグローバル・ガヴァナンスと呼ぶようになった。」1)

(3)グロ−バル・ガヴァナンスの論点
 社会システムにおける秩序の在り方に関して、秩序の生成と維持については何等かの程度の強制装置と何等かの度合いのヒエラルキー的構造を備えた公的権威が必要であると従来考えられてきた。その点について、およそ三つくらいの立場がある。

第一の立場:自然発生的秩序
第二の立場:強制に裏打ちされた秩序
第三の立場:交渉を通じて形成される秩序

 立場の違いに応じて、留意点も異なる。アクター間の利害の自然調和的共通性に留意するのは第一の立場であり、アクター間の利害の対立と強制力に裏付けられた対立の解決に留意するのは第二の立場である。第三、つまり第一と第二の中間の立場は、規範やルールに基づく秩序のイメージを持っていると考えられる。この立場は、平和解決を重視する。

2.国民国家を巡る新しい論調

 「近代の文法」派の言説に知られるように、西欧型統治機構である近代国民国家に関する批判的な態度、立場が様々なジャンルの研究者や活動家の間で広がっている。そこでは、国民・国語・国史・国家・国旗・国土地理等、従来ほぼ自明とされた諸事実が再検討に附され、新しい知見が生み出されている。その成果を教育研究に組み入れなければならない。

 稍、急な推論ながら、私見では、国家学的教育学パラダイムとでも称すべき教育研究の動向を克服することが緊要であると思う。(日本教育学会2001年度大会シンポジウム提案)

 他方、ユーロ(新通貨)に象徴されるように、経済活動を基盤としつつ、政治的統合を視野にふくむ地域主義が台頭し、一定の活動を開始し、一定の成果を生みつつある。ヨーロッパにおいては、教育にその運動と実態が及ぼしつつある諸事実を無視することができなくなった。教育における、ヨーロッパ的ディメンションの重要性は加速されている。

 同様の事柄は、アジア地域においてもアメリカ大陸においても見出すことができ、二国間あるいは三国間の文化・技術・教育協力が経済的協力に平行して行われるようになった。

 たとえば、日本・韓国・中国相互間の教育的文化的対話は今後深まると予想される。そのとき、対話は本格的な知的交流と知的変容を相互に齎すと予想され、言説・言語の新しい空間が作り上げられると思われる。

 しかし、他方、1960年の“アフリカの年”の輝かしい出発と希望にもかかわらず、アフリカは本格的な独立を達成できない「国々」に満ちている。ここでは、「国」を作ることに依然困難な課題が山積している。教育は必須とされつつ、十分には普及していない。

 どのようなアクターが必要なのか改めて再検討される。西欧の国民国家型モデルは十全に機能しない。しかし、そのオルタナティヴが見つからない。報道によるとアフリカ統一機構(OAU)は、今年7月9日にアフリカ連合(AU)として生まれ変わった。アフリカ大陸53カ国(8億人)からなる国家連合が産まれた。けれども抱える課題は多いと報じられている(外国からの援助・資本を呼びこむことを狙い“よい統治”を自らに課すが、“よい統治”を巡っても見解が一致していないという)。仮にそのことによって外国資本流入を加速しても、内戦と政治的行政的腐敗が広がる国には結果的に援助と投資がゆき届かず、大陸の貧富の格差を拡大することにならないかとの懸念も消えていない[最貧国のエチオピアやブルンジでは、一人当たりの国民総生産GNPが100ドル程度である。南アフリカ・ボツワナ・セーシェルの3,000ドルと比べるとき、既に格差が如何に大きいかが分かる]。1963年に設立されたOAUは、エリトリアやエチオピアの国境紛争の解決には一定の成果を残したが、各国への内政への介入を控えたこともあって,頻発したクーデターや紛争を抑止できなかった。民衆を抑圧した独裁的政治に対しても圧力を十分かけることが出来なかった。AUがこれらの課題に十分に答えられるかどうか、依然見通しが不確かであるという。2)

3.新しい統治体は何か―教育・共育を支える社会的地域的基盤となる新たな空間

 課題を巡る系譜は、二つあるように思われる。
@統治機構に参加する人々総てをふくむものはどのような「システム」か?
A統治する人と統治の機構のみをふくむものはどのような「システム」か?

 政治学が教えてくれることは、@はいわばcommonwealth(res publica)に、Aはいわばstateに対応するということである。Nation-stateは、この二つを総合することができなかったのではないか。その理由の一つは、“ふくまれる総ての人々”の中に、“異種”を認めるか認めないかで、「システム」を編成する原理が機能しないか原理の前提が崩れたからではないのだろうか。Nationalismは、そのような矛盾の表現である。

 どのような原理を持つべきであるか。「新ガヴァナンス論」はそういう問題への解答を模索する試みの一つであるように思われる。しかしながら、相互に排他的であるような国家主権論を超えて、(α)人間の組織の内部において多様であること、相互に異質であることを拒否せず、(β)したがって外部に対しても自らの組織が等質的であることを主張し、それ故に外部との異質性を強調することがないような人間の組織が可能であるか否か、(γ)可能であった場合、そのあり方がどのようなものであるかを模索することは必ずしも容易ではないように思われる。

 そのような問題の解決に関連して、教育こそが迂遠のように見えるが捷径であるとする見解がある。蓋し、教育とは、@子どもが育つことを認め、A子どもを育てる責任を持ち、B子どもと共に育ちあうことを成人が発見していくことであるからであろう。教育についての言説は古来多様ではあるけれども、ほぼ、いずれの文化圏、文明圏においても上記三点については、教育の形態こそ異なれ、教育の機能と過程においてそれらが見出せるからであろう。付言すれば、この教育の基本形式について、多様な文化あるいは文明が、それぞれに語ることは、当然ながら多様である。

 ところで、今日の国際的な教育の場面では、大別して二様の議論が行われている。概括すればそれらは次のように纏めることができる。

@生涯学習論的提言:知るために学び(learning to know)、何事かをなし得るようになるために学び(learning to do)、人として自立するために学び(learning to be)、ひとびとと共に生きるために学ぶ(learning to live together)。

A基礎学力の定着と学習機会の拡大:識字率の向上と女子のための教育機会の拡充
しかし、多少率直ないいかたをすれば、前者は高度産業社会・知識産業社会の教育計画に連動する政策的格率であるのに対して、後者は低開発国・開発途上国にかかわる政策的目標である。両者の教育の水準と質の差は大きい。(因みに、アフリカの初等教育統計によれば、女子の就学期間が1年未満のケースがあり、オーストラリアの先住民の場合に遠隔地教育の機会を持ち得ないケースも報じられている。他方、ヨーロッパにおいては、ソクラテス計画による国境の壁を越えた青年の高等教育が一般化しており、ミケランジェロ計画による職業教育についても統合されたヨーロッパ圏域内で共通化の趨勢が進んでいる。他方、高等教育の機会を手にするための資格取得に係わる試験等についても先進国型文明圏の支配域拡張が続いている。)

 格差は大きいけれども、二つの動向が、新たなガヴァナンスの在り方に関連しつつ展開していることは疑いが無く、そのような観点に立つと、従来、近代的国民国家をモデルとし、そこに基礎を据えて繰り広げられてきた国民教育についても再検討が必要になる。新しいガヴァナンスと教育とを繋ぐもの、それは何だろうか。

 私が1998年以来主張してきた“Body Educational, body educational (bodies educational)”という発想あるいは考え方は、この問いに答えよとする仮説的提案である。17世紀のイングランドにおいて、主権国家の具体的イメージがまだ整わない時期に、body politic, body economicという標記が行われていたことにヒントを得ている。Political economyという概念はこの二つの概念の統合、総合として生み出された。ただし、そこには前述のような、commonwealthとstateの総合に失敗する要件が未整理のまま残されていた。愚見では、その残されていたものが教育(education:instructionからschoolingへ、schoolingからlearningへとイメージが移って今日に至っている。)ではなかったかと思う。このように考えるところから、body educationalという概念を提供したが、それを図式的にを示せば、概要下図のようにイメージしたい。その場合、様々な「body体」(その複数型を示すために、また、規模の大小を示すために、用辞法として“態”(body, bodies)及び“体”(Body, Bodies = plural situations of bodies)を区分する必要があると思う。

 幾つかの仮説的定義:
@living space = geo-cultural, geo-economic & geo-political sphere for human beings to live together
Acultural space = geo-behavioral, geo-semiotic, geo-axiological & geo-institutional sphere for human beings to live together 
Blearning space = geo-intellectual, geo-technical & geo-societal sphere for human beings to live together
Cecological space = holistic sphere for living beings to live together

 このイメージに沿って具体的に教育論を書きなおすためには、関連する仮説的定義として、データ集積に関する基礎的カテゴリーを整頓する必要があり、私は、当面、次のようにそれらを定めておきたい。

T 第1データの分類領野
@子どもは育つ。
A子どもを育てる。
B子どもは子どもとともに育つ。
C子どもは大人とともに育つ。
D大人は子どもとともに育つ。

また、上記分類領野にそってデータを収集する場合、事柄としては関係的である@〜D領域について量的・質的分析と諸概念の構造化を助けるようなデータ解析のメタ的カテゴリーが更に必要になると思うので、次のような基本的関係(性)を予め前提しておきたい。

基本関係T:モノ・対・モノ
基本関係U:モノ・対・イキモノ
基本関係V:イキモノ・対・イキモノ
基本関係W:モノ・対・ヒト
基本関係X:イキモノ・対・ヒト
基本関係Y:ヒト・対・ヒト

 生命の本質については、多くの議論がある。人間的な精神の活動と呼ばれるものについても多くの議論がある。教育体と仮称する政治的・経済的・文化的・歴史的・地誌的空間を教育・学習空間として記述する上で、生命あるいは人間的知性の形式と機能をどう記述できるかが仮説の妥当性を決定するので、私としては上述の基本関係をベースにして生命あるいは人間的知性を基礎過程とし記述し、記述された基礎過程を構造化し、体系化し、その上に教育体を描き挙げていこうと考えている。その際、留意したい点は、無文字社会においても人間は種々の問題をその社会特有の意味において合理的に解決しているという一事である(文字をもつ社会においては、制度として整備されている問題解決機構がある。無文字社会にも問題解決の機構がある。その差は何であろうか?)。この作業は自ずと、既存の文明社会における問題解決の歴史を振り返ることに通じ、近代化過程の相対化を大規模に行うことにも通じるのではなかろうか。

 当面、作業を具体的なものにするために、「歴史としての20世紀―自己認識と他者認識」というテーマで、清華大学思想文化研究所(北京)との共同研究を開始した。成果を追って一つ一つ報告していき、諸賢のご批判を仰ぎたい。
(2002年7月10日発表)


1)渡辺昭夫・土山実男「序章 グローバル・ガヴァナンスの射程」、渡辺・土山編『グローバル・ガヴァナンス―政府なき秩序の模索』(東京大学出版会)2001年、3−4頁。
2)「アフリカ連合きょう誕生」(朝日新聞朝刊、2002年7月9日付、7面)