大学におけるカリキュラム開発の現状と課題

玉川大学教育学部教授 田中 義郎

1.はじめに

 今、我が国の大学では学部の教育改革に関する議論が盛んである。中でも最も盛んなのは、カリキュラムに関わる議論であろう。既設の大学ではカリキュラムの改訂を、新設の大学においてはカリキュラムを新たに作るわけだが、誰が、どういったところで、どうやってカリキュラムを作り決定していくのか、そのメカニズムの議論が重要である。

 大学には、各々教育に対する思いがある。私立大学の場合であれば創立理念(Mission Statement)といったもの、もっと一般的にいえば教育信条といったものと関わっているが、学生にこう育って欲しいといったものである。ところが、大学のこうした思いに対して、学生は自分たちの価値観や趣味志向に照らして受け入れられるものとそうでないものとを選択する自由をもっている。

 学生の側の選択する自由が色濃く出てきたのは近年の傾向である。「大学の大衆化」という言葉がポピュラーになり、18歳人口の減少(92年度が204万人でピーク)によって一部の大学の存続が危うくなるぞといったことを誰もが知っているような状況の到来においてである。

 こうした時代背景の中で、我が国の大学はアイデンティティ・クライシスという状況に直面することになる。それは、アイデンティティの担い手が大学ではなくマーケットにあるのではないかと見間違う時代である。例えば、ニーズ対応型でいくか、つまり、入学してくる学生のニーズとか社会の人材ニーズに応えることを重んじる考え方である。我が国の大学には、今日、こうした考え方が浸透しやすい環境がどんどん出来上がってきている。大学教育の自由化、一般に「大綱化」という用語が用いられているが、特に、カリキュラム編成における規制緩和が進んでいる。

 学生の質の多様化に代表される大衆化は、それまでの(エリートの住むところとしての)大学像をぼんやりとしたものにしてしまったし、大学生だからどうだといったハッキリした定義づけが困難になってしまった。大学は、大学像と大学生像とが合致するように、カリキュラムで大学像を示し、その教育課程で彼らの期待に合致した大学生像を作り上げていくという状況を作り出していこうとしている。一方、量的拡大が進行し、社会的に享受していた鮮明なエリート像から解放された大学生は、選択の自由を要求し、大学の期待する大学生像に合致する自己像を無条件で受け入れることを拒み、そうした大学の期待とは裏腹に、個々に独自の大学生像を求めようとしているかに見える。両者のこうした対立が表面化している時代が、今日の大学を取り囲んでいる時代だといえる。

2.日本の高等教育の現状

(1)学校システムの量的構造の変化
まず、日本の高等教育の現状について考えてみたい。ここでは、東北大学の荒井克弘氏による「学校システムの量的構造」モデル(荒井モデル)を用いて説明する(図1)。1960年から2000年に至る過程で大学の大衆化が進み、構造がピラミッド型から台形型へとシフトした。この量的構造の変化は、当然のことながら質的構造の変化を伴う。ではどのように質が変化したのか。

 図1の台形構造を見ると、小学校の基礎の上に中学校、中学校の基礎の上に高校、高校の基礎の上に大学がある。量的構造としては確かにそうなっているが、質的にも本当に同じ構造になっているのかというと疑問が残る。これについては、本来学習のパラダイムをシフトさせなければならない時期にそれが適切に行われていないため、問題が生じているとの見方がある。この点もまた、残念ながら今のところ明確な答えは出されていない。

 最近、リクルート・ワークス研究所が、大卒者の就職状況に関する調査報告をまとめ、『新卒無業。―なぜ、彼らは就職しないのか』(大久保幸夫・編著)というタイトルで東洋経済新報社から出版された。その本のカバーには、「21.3%」という数字が出ているが、この数字は大学を卒業しても、アルバイト・フリーターも含めて仕事をしない、進学もしない若者の割合を示している。果たして1960年代にこのような現象があっただろうか。大学の大衆化・ユニバーサル化が進んで、大学に進学するようになった49.1%の学生たちの中から、このような数字が生み出されてきたとも考えられる。このような若者たちは、どのような過程を経て作り上げられてきたのだろうか。

 以前参加したある研究会で「高大連携」が話題になった。ある参加者から「自分の大学で高大連携を進めるべきかどうか」と質問された。それに対して私は、「果たして大学生が聴いても面白いと思わない授業内容を、高校生がそのまま聴いて面白いと感ずるだろうか」と疑問を投げかけた。大学生にとって面白くない一般教養の授業をそのまま前倒ししても、それは大学への進学問題を技術的に解決しようとしているに過ぎない。生徒の動機付けなどの質的問題の解決にはつながらないと考えられるが、この点は今後より多くの議論が必要である。

 ところで、大学一年生を対象に大学生活の過ごし方を教育するいわゆる「フレッシュマン教育」が必要だとの指摘がある。フレッシュマン教育は米国で盛んに行われており、その大義名分は次の通りである。すなわち、米国には多くの移民がいて、「大学第一世代」と呼ばれる子供たちは大学がどのようなところか明確に理解しないまま入学してくる。彼らの親たちは大学について見たことも聞いたこともない場合が少なくないからである。したがって、例えば、オープン・アドミッションで高校の成績が上位40〜50%以内の学生を入学させているある州立大学では、子供たちだけでなく親たちに対してもオリエンテーションを実施し、大学教育の意義などについて教育している。ちなみに、大学第一世代の子供の親たちは教育に非常に熱心である。

 日本では旧制高校がフレッシュマン教育に相当する教育を行っていたとか、イギリス型の大学モデルではシックス・フォーム(注1)、ドイツ型ではギムナジウム、フランスでは進学を前提としたリセがそれを行っているという指摘がある。その一方で、現在の日本では総合性のハイスクール(普通科の高校)のみがそのような教育を怠っていると指摘する人々がいる。この点については明確な根拠は今のところ出されていない。

 大学の大衆化の問題には、以上のような諸事情が含まれている。しかしそれらについて十分な議論がなされないまま、18歳人口の減少とともに、大学経営を成り立たせるための学生募集のあり方のみが私立大学における最大の関心事となっている。学生を募集するだけではなく、彼らをどう育てるかを問題としているのがFD(ファカルティ・ディベロプメント)などの取り組みである。しかしこれらの取り組みも、サッカーのワールドカップのように、いくら素晴らしい競技場を作って誘致活動をしてもプレーヤーが集まらないという状況である。皆が観客席に座ってプレーヤーが競技するのを待つばかりであり、決してうまく機能しているとは言えない。FD研修のために大学セミナーハウスに集まって来るのはいつも同じ顔ぶれになったり、新たな参加者がいるかと思えば「業務命令で来ました」と言ったりする状況。尋ねてみると、国立大学ではFDにつけられた予算を消化するために「業務命令」が出されるのだという答えが返ってきたりする。大学の量的拡大は進行したが、大学教育が実質化しているかどうかは疑問である。

(2)大学カリキュラムの大綱化
 日本では近年、大学のカリキュラムの大綱化が進み、行き着くところまで行きつつあると感じる。例えば、今後は学科の新設が届け出のみで可能になろうとしている。10年程前までは、「一つの設置申請をすると一人が死んでしまう」などと言われるほど、学部や学科の立ち上げは大変な作業であった。今になって振り返ると、よく一度にいくつもの学部・学科が立ち上げられたものだと思うが、毎年のように新しい学部や学科が誕生し、スクラップ・アンド・ビルドされてきた。いずれにせよ、大綱化の最も大きな成果は、そのような形で現れてきているのだろう。

 最近では大学設置に関わる手続きも対応が以前とは変わり、設置認可のための最低基準をクリアしていれば、一応認可するという方針であり、そこから先はそれぞれの自己責任で運営せよということであると聞く。結果、中身については様々な議論があるものの、ともかく多くの学部・学科が新たに誕生し受験生の前に姿を現している。ただし、その一方で新しい名前を冠した学部・学科が何を教えるところなのか、受験生が十分に理解しないまま受験に臨む場合も少なくない。高校の教員でさえ名前から実際の教育内容を読み取るのに苦労しているのが現状である。

 大学の再編は進んでいるものの、少子化の中で定員枠の純増を伴う場合には困難を伴う。単なる自己増殖願望では理由にならない。このため多くの大学が同じ定員枠を保ちながら、新たな学部・学科を開設しては、パズルのようなことをやることになってしまうのである。このことは、実はカリキュラムの問題と非常に深く関わっている。なぜなら、定員枠が変わらなければ収入も増えないため、教員を増やすことができない。

 その結果、再編によってカリキュラムを変えても、実際、教える人間は変わらないという状況が生じるのである。一人の人間が生涯の仕事として取り組んできた研究領域を、そう簡単に変えられるものではない。そのため自分が持つ諸知識を切り売りしながら、新しい科目を立ち上げてみたりする。

 また「学生消費者主義」だといって学生に美味しそうなメニューを用意し、次々に科目を増やしてゆく。今までは講座の中で深く教えていた一つのテーマを、広く浅く教え始める。これまでは自分の研究成果をまとめた一冊の本の内容を懇切丁寧に教えていたものを、新しいカリキュラムでは横に振り分けて、各章ごとに別の科目を作ってみたりする。さらに、その科目に若者受けしそうな名前をつけようと、まるでコピーライターのように知恵をめぐらす人々もいる。

 大学教育を切り売りしながら若者たちの需要と合致する形に盛り付ける形で大学のカリキュラムが動きつつあることは、危惧すべき事態である。新たな学部や学科は教育研究内容を専門分化して作られているというより、むしろその裾野を広げる方向へと進んでいる。例えば、教養教育を目的とする場合、「教養」という言葉の同義語やそれに関連する言葉を探し出してきて、それを学部・学科の名称として置き換える。「国際」や「文化」なども同じである。その背景には、中央教育審議会などで、誰も明確に「教養」の定義づけをしないまま言葉だけが一人歩きしているといった状況もある。

3.米国の制度から見た日本の高等教育の課題

(1)高等教育に対する戦略の不在
 前述の状況が、日本における研究や教育の伝統が失われたために生じたものかというと恐らくそうではない。日本の教員たちは自分が育ってきたのと同じ環境下であれば、後継者を養成する力を十分に持っていると思う。我が国に欠けているのは、特に高等教育における戦略である。

 高等教育における戦略とは、どの程度の知識をもった大卒者を、どれだけの人数、どのような形で社会に輩出してゆくのかということである。また、それによって今後の我が国の経済や社会を何年くらい維持してゆけるのかということである。大枠の合意はあったのかもしれないが、それが個々の大学に反映されてこなかったのではないか。研究者養成の面では、旧帝国大学を中心にある程度の国策があったと思われるが、今や1000校を超す大学・短大の中の1私立大学に対して、我々の育てる学生たちが社会で何を担うのか、あるいは担わねばならないのかといった明確な指針があったとは思えない。

 その一つの証拠が、1970年〜1980年代のバブル崩壊直前まで続いた大学拡張の実態である。大学が拡張するときの流れとして多く見られたのが、大学を持たない学校法人が  小・中・高校、専門学校を持っているのだから、次は念願の大学を作ろう」などと発想して大学設置に乗り出すといったケースである。そこには人材育成、すなわちどこに向かって子供を育てるのかという考え方以上に、組織そのものが持つ自己増殖に対する限りない願望が見られる。これは日本企業の高度成長期の拡大路線と共通している部分がある。そのような場合、突如として質の異なる問題に直面したとき、舵取りは極めて困難となる。

(2)米国型教育の接続問題
 図2は米国型の「接続問題の構図」である。日本型の場合は、米国型のようにはっきりとした構図にすることができない。このことは、日本型のカリキュラムを構造化できないことと関連している。それでも、理工学系やプロフェッションが明確になっている諸領域では、初等、中等、高等教育および職業社会に関する構造もかなり明確である。しかし、日本で最も多くの学生を抱える人文社会学系の領域では、この発展構造を明確に図式化することが困難である。したがってそれを評価することも難しいのである。

 米国型を見ると、初等・中等教育における教育目標が、20世紀初めから1990年代にいたるまで、「教養ある市民の養成」から始まって「進学準備教育」、「WORK-basedの教育」へと移行している。高等教育に課せられた使命も、「学術研究を通して教養と専門を教育」することから「モード2型の教育」、すなわち総合教育・教養教育などのカレッジ教育を復活させ、同時に大衆化によって入学してきた学生たちをも包み込むような大学教育システムへと変化し、さらに「高度職業教育」へと発展を遂げている。

 ところが、すべての子供たちが高度職業教育へと進むわけではない。そこでその移行期間を埋めるものとして、あるいはステップアップのためのクッションとして、コミュニティー・カレッジが登場する。それによって高校と大学の接続関係に大きな摩擦が生じることなく、あるときは冷却したり、またあるときは加熱したりしながら、うまく機能しているのである。

 残念ながら日本の短大はそのような役割を果たし得なかった。今や短大の灯も徐々に消えつつある。別の言い方をすれば、本来は政策的に消滅するはずであった短大が、これまで継続してきたこと自体が不思議でもある。また最近では、四年制大学がこれほど大変な状況であるにもかかわらず、短大が四年制に改組転換しようとしているのも不思議なことである。これは四年制大学と短大の理念の違いに関する議論がなく、単純に残りの二年を追加すれば四年制になると考えられているためである。

(3)プロフェッショナル・スクールの意義
 米国では、四年制大学の上に多くのプロフェッショナル・スクールが準備されている。プロフェッショナル・スクールは、経験に支えられた業務的知識や科学技術・専門的技術に依存した産業社会を作り上げる上で重要な役割を果たしてきた。またそのような社会を作るためには、どうしてもプロフェッショナル・スクールが必要であった。米国の大学はプロフェッショナル・スクールによって命を永らえてきたとも言える。このことは、産業社会の側が自前で職業人のフレッシュマン教育を担う機能を持ち得なかったこともひとつの理由である。いずれにせよ、米国のプロフェッショナル・スクールと産業社会の間には「持ちつ持たれつ」の関係が明確に成立している。

 米国の高度職業人養成においては、日本のような国家資格は存在しない。国家資格があるようでも、実際には弁護士にしても医師にしても基本的に州単位の資格である。彼らが資格をもって開業するためには、それぞれの州で定められた基準に応じて自らの能力を証明する必要がある。その結果として、プロフェッショナル・スクールはギルド的職業集団との関係の中で自らの位置を明確に規定せざるを得なかった。

 日本では現在、アクレディテーションの問題が議論されている。大学基準協会や短大基準協会、自己評価・点検の委員会などが各所で動き始めている。米国には大学を認定するための機関が各地域ごとに設置されており、そこから認定を受けることが重要だとされている。そこから認定を受けなければ大学として正式に認められない。日本では、米国の大学の専門領域に関するこのような状況はあまり知られていない。

 各大学は実際には地域の認定機関から認定を受けるだけでなく、それぞれの職業団体における個別の専門職のアクレディテーション・エージェンシーからも認定を受ける必要がある。例えば、心理学であればワシントンDCにAPA(American Psychological Association)という協会が巨大なビルを持ち、心理産業の拠点となっている。APAの会長は米国心理学会の会長が務める。また米国における臨床心理士からプロフェッショナル・サイコロジストに至るすべての資格はAPAが認定しており、APAはそこから膨大な収益を得ている。APAの会長は心理産業における大企業の社長と同じだけの力を持っている。法曹界のABA(American Bar Association)や医療界のAMA(American Medical Association)も同様である。またロー・スクールに入学するために必要なLSATという試験問題や、メディカル・スクールに入るためのPre-Medと呼ばれる学部段階の履修科目の認定なども、これらの専門職業団体によるアクレディテーションとの関係の中で決定される。したがって、各大学は横軸と縦軸の両方のアクレディテーションを考慮しなければならない構造になっている。

(4)専門性と学部教育との関係
 米国のプロフェッショナル・スクールはこれらの状況を踏まえて存在している。そして、プロフェッショナル・スクールがあるが故に、学部段階は教養教育でなければならないという議論になるのである。教養教育だけで終わってしまうのであれば、そのまま社会へ出ることができない。プロフェッショナル・スクールで職業教育を行うことが前提となっているからこそ、学部教育はその準備段階としてリベラルアーツでなければならないという論理になるのである。

 ところが、日本にはこのような脈絡が定着しておらず、教養教育が重要だとなればすべての大学が教養教育へ移行しようとする。すべての学生が教養教育だけ受けて社会へ出てしまうようになれば、企業が職業人教育を担えなくなったときにその間を誰が埋めるのか。また現在、ロー・スクール(法科大学院)が開設されようとしているが、すべての法学部が法曹界に人を送り出すための機関となってしまうのも問題である。弁護士を大量に増やしても果たして訴訟がそれだけ増えるのであろうか。このことには、社会の人々にとって法的実務がどれだけ身近なものとなっているかどうかが深く関わっている。同時に、カリキュラムもまた大きく変わらざるを得ない。

 これらの点を踏まえて日本の状況を考えてみると、日本の高等教育モデルにはプロフェッショナル・スクールがない。また我が国の社会が、経験に支えられた業務的知識を必要とし、科学技術や専門的知識に依存した産業社会であるかどうかも考えなければならない。初等、中等教育ではこれまで子供たちがあるべきスタンダードを決めて、それをなるべく引き上げようとしてきた。そのスタンダードは明確なトップを目指すものでもなく、一番下を目指すのでもない。全員に同じオリエンテーションを行って、良き市民労働者としての教育を促してきたのである。

 1970年代後半から80年代にかけて日米教育の比較を行う日米文化教育交流会議(カルコン)が行われたが、その成果として指摘されたのは、「日本の初等・中等教育には目を見張るものがあるが、その後の教育に関しては注目すべきものが何もない」ということであった。

 カルコンにおける評価方法には若干議論の余地がある。確かに初等・中等教育においてはすべての国民を全体として支え上げるというダイナミックな教育活動が成功し、社会の発展を支えてきた。しかし高等教育においてもそれなりの研究者を輩出してきたし、当時産業社会を支える人材を多く送り出してきたことも事実である。その点を考えるとまったく注目すべきものがないということはない。むしろ、我が国の高等教育には初等・中等教育のような国を挙げてのダイナミックな流れがなく、非常に限られた「選ばれし者」を昔ながらの方法で育ててきただけであったということであろう。大衆化が進む中で、初等・中等教育のようなダイナミズムが高等教育にも及ぶことを期待した人たちも多かったであろう。しかし実際にはそのように機能してこなかったのである。以上が我が国のカリキュラム改革を取り巻く環境である。大学カリキュラムはこのような流れの中で動いている。

4.ユニバーサル時代の高等教育

(1)大学教育の実質化
 日本に「学生消費者主義」の教育という考え方を広めたのが、最近亡くなったデビッド・リースマンである。彼は『孤独な群集』(みすず書房)という著書を記し、社会学や大学教育改革の問題に関して重要な仕事をされ、日本でもよく紹介されてきた人物である。ただ、日本においてこの「学生消費者主義」という言葉は、それぞれの立場から都合の良いように理解されてきたのではないだろうか。大学関係者は、学生は消費者だからそのニーズに合ったカリキュラムを用意しなければならないという。しかし消費者のニーズに合ったカリキュラムを用意するためには、まず消費者教育をしなければならない。優れた消費者でなければ買い物上手にはなれないからである。安物買いの銭失いである。

 では、一体何を買えばよいのか、中等教育において教育してきたであろうか。あるいは大学の大衆化が進行して大学第一世代が増加する中で、大学についてあまり知らない親たちは「とりあえずみんなが買うものを買ってみれば?」と考え、それで全体の構図が生まれてくる。また大学第一世代の子供たちは「大学は登録の時と試験の時だけ顔を出していれば良いようだ」と思い込み、大学側も最初の授業と試験の時だけ大教室を準備する。それ以外の授業は学生がほとんど来ない。このような状況は、正に消費者主義が成立していない証拠である。

 大衆化の流れの中で量的拡大が進むとき、大学教育を大衆化にシフトさせながら大学第一世代を育てていく方法を確立しなければならない。しかし、それができていなかったようである。そして今さらフレッシュマン教育をやっても学生からは「あの大学はいろいろなことをやらせてウザイね」といった声があがるようになる。悪循環に陥っているのである。一体何を与えなければならないかを考えるところからスタートする必要がある。

 学生のニーズは極めて多様である。学生たちの成功のシナリオを用意するために、ひとりひとりに個別のカリキュラムを準備するようになると、大学教育が末広がりになってしまう。そうなると何のための大学か分からなくなる。「閉じている」から大学なのであって、閉じていなければそのメリットを集約できない。個々人にとっても、末広がりになってしまえば全員で同じものを分けなければならなくなる。自分が投資した分だけ返って来ないということになる。専門領域に入るということは閉じるということであるから、細分化が進むことを意味する。それと比べて末広がりの教育を用意するのは「容易」ではない。

 米国ではプロフェッショナル教育をすることによって閉じる構造(ターミナル学位としてのプロフェッショナル学位)を作っており、学部教育は開いても良い(最終学位でなくとも良い)と考えられている。開くときに出てくるのがいわゆる「エンライトンメント」である。エンライトンメントとは教養ではあるが何かスパークするもの、実務とは若干違うが実務の世界で必ず有益であり、創造性に富んだものを作り出す上で役に立つものである。そのようなエンライトンメントを与える仕掛けを学部の中で作ることが可能なのは、その構造が最後に閉じているからであって、全部開いてしまえば大学は「オープン・エンド」となり、結局何をやったか分からない。経済学部や経営学部を出て、将来何になるのか。人文社会学系の学部になるとそれがさらに顕著に表れる。大学で学んだことと、その後の生活の中でやることが縁遠いものとなってしまう。大学4年間の休息は人生の中で意味があったなどと言って、変に納得してしまう。

 ただし、理工学系や医歯薬学系などのプロフェッションが明確になっている領域はトレーニングの形を持っているので、このことは当てはまらないかもしれない。問題は、今日本の大学で最大の学生数を抱え、日本の大学の行く末を左右する人文社会学系の諸領域における卒業生をどうするかである。

(2)理工学系における人材教育
 理工学系においても問題がないわけではなく、その分野の素質を持った人材の育成は初等・中等教育の段階から考えなければならない。理工学系分野では素材選びに相当苦労している。最近も初等・中等教育レベルの理科・数学の学力を比較する国際調査が行われたが、日本の子供たちは理数において高得点を挙げるが、理数が嫌いな子が多いという結果が出ている。日本の子供たちは理科・数学の知識と技術、すなわちファンクション(機能)においては非常に長けているが、科学者になりたいという子供は多くないという。ひとつの学業においてどのように物事を学ぶのか、学習そのものの在り方が大きく問われている。

 先般、香港で国際会議があった際に、ある中等学校を訪ねる機会があった。子供たちは朝8時から午後1時まで授業を受ける。各教科の一時限は35分間である。そのとき感じたことだが、45分であっても35分であっても、授業の効果はあまり変わらない。時間が長ければ良いというものではない。その学校ではだらだらと授業をする代わりに午後1時で終わる。ところが、学校は夜9時まで開いているのである。そして午後1時から9時までの間、子供たちは自分たちで計画したプロジェクトに取り組んでいる。彼らは学校側にプロジェクトについての提案をし、予算をつけて貰うのである。例えば、コンピューターを用いて実際の社会にいかに貢献するかをテーマとしてプロジェクトを組み、最終的にその成果をコンピューター技術を使って表現するというものである。できあがったものは日本の大学院生より優れたものであった。

 このような育て方をみると、日本はかなわないと思ってしまう。これは単に学習に対する動機付けの問題ではない。この学校では、どのようにして知識や技術を地に付いたものにするか、あるいは社会を豊かにするためにそれをどう使うかを教育している。子供たちが実際に学ぶこのプログラムの中に、リーダーシップを養成するための構造が戦略的に組み込まれているのである。またそれを正規の教科の中ではなく、課外活動として行っていることも重要である。何でも枠の中に閉じ込めるのではなく、彼らが自由に判断できる余地を残している。このような構造の中には、自分たちの責任で何かをやらせることを通じて育てていく力がある。

 そのような力があれば、子供たちはクリエイティブな仕事ができるようになるだろう。子供たちが自分たちの活動についてコンピューター・グラフィックスを用いてプレゼンテーションとしてまとめようとするとき、彼らは知識や技術を持っていても実際には問題にぶつかるに違いない。言われた通りやっているつもりでも、実際にはできないのである。そこで時間をかけてどうすればできるか考える。もちろん知識や技術がなくても良いということではない。どちらの能力が欠けてもならず、共に高度なものになってゆかなければならない。

 米国でも算数の授業の中に、「マス・ラボ」と呼ばれる授業を取り入れている学校がある。算数の授業で得た知識を応用して何かを作るという授業である。例えば、算数の知識を地域社会で実際にどのように用いるかを学ばせる。functionalな側面としての知識・技術と、感情すなわちemotionalな側面を合わせて何かを作り出そうとする教育の姿がここにある。日本においてはそれが重要であったにも関わらず、特に小・中・高等学校の教育の中に取り込めなかったか、あるいは避けてきた部分である。なぜなら、emotionalな側面は家庭の社会的・経済的位置と連動している場合が少なくないからである。どのような親に育てられ、どのような人々と出会ったか。あるいはどのようなものを見て育ったかなどである。年齢が低ければ低いほど、そのような要因の影響は大きい。

(3)教養教育のあり方
 そのような環境において、教養教育をベースとした大学教育が可能であろうか。小・中・高校で学ぶ内容の延長として、高校より少々高度な知識や技術を習得するための大学4年間のカリキュラムを作ることは容易である。しかし、人間の世界において大切であり、リーダーシップを発揮する上で大切なものを教えるためのカリキュラムを作ることは可能だろうか。

 認知科学、心理学の世界では「特殊的転移」と「非特殊的転移」という言葉を使う。特殊的転移であれば右にあるものを獲得したものをそのまま左に動かせば良い。ところが非特殊的転移であれば右にあるものからその原理や態度を獲得し、それをもって何か別のものに応用しなければならない。非特殊的転移の獲得には比較的高度な思考を要求される。

 教養教育は教養であるが故に、かなり具象から遠ざかってしまう。そのため高度な言語能力と複雑な思考能力が求められる。高校まで旧来の方法で教育を受けてきた生徒たちが、入学試験で高得点を挙げたからといって、大学に入学してすぐに教養を身につけることができるだろうか。知識や技術を再度上乗せするだけでなく、どうやって充実した学習を行うかについては別のオリエンテーションが必要ではなかろうか。その移行がうまく行われていないのが、昨今の問題でもある。

 中教審が教養教育や大学改革の必要性を議論し始めた頃、全国の国公私立大学長を対象に、どのような大学を作りたいかについてアンケート調査を実施した(注2)。かれこれ10年近く前のデータである。表1は「現在あなたの大学はどの型に帰属しているか。今後どの型への帰属を指向するか。」を尋ねたものである。「教養型」の「現在」は28%、「今後」は16.7%であり、「実学型」が多くを占めていることが分かる。

 ちょうどこの頃は、一般教育を廃止してすべて縦型の教育に切り替えようと議論している時期であった。その後多くの大学が「実学型」の大学を目指すようになった。「実学型」といっても決して教養教育を軽んじるつもりではなく、教養をベースとした「実学型」を目指すことを意図していた。しかしながら、「実学型」の大学で得られる実学は、産業界が欲しているものではないという声があがり、その議論は最近になっても続いている。

 それでは、大学のカリキュラムはどうならなければならないのか。私も大学のカリキュラムを作成する機会が多いが、カリキュラムを作成しその中に理念を盛り込むのは大変な作業である。しかし、最初にミッションが決まっていて、大学カリキュラムの出口でどのような学生が育たねばならないかが明確であれば別問題である。

 前述のように日本では、ギルド的な職業集団が十分成熟している領域は極めて限定されているが、一応の調査をしながらそれに連動した形でカリキュラムを立ち上げるのはそれほど困難なことではない。ところが、実際に教員に新しい科目の担当を頼むと、科目の名称は変わっていても教えている中身は同じである場合がある。

 カリキュラムの改編に際して、教える人間の入れ替えをどう行うか。またFDをどうするのか。例えば、パワーポイントを使ったり、OA機器を多用して企業で行われているようなビジネス・プレゼンテーションをしたからといって良い授業になるわけではない。企業の場合、そのプレゼンテーションを聴く人々は利益が生まれるかどうかの瀬戸際に立たされているのであり、学生とは置かれている状況がまったく異なる。どうすれば教員たちがフィールドに出てきて、真剣にゲームをしようという気持ちになるのか。それに対する決定的な結論は未だ見出せていない。

 しかし大学教育は4年間で完結してしまうので、単に高校より高度な知識や技術をリニア・カーブの流れ中で教えていくだけならば、学生たちはその後も一生涯学び続けなければならないということになる。大学が完結教育としての意味を持つとすれば、知識や技術の足し算だけではない何かを付加して学生を社会に送り出さなければならない。そうでなければ、この問題は解決しない。

(4)教養における語学教育の重要性
 ただしこの問題を解決しようとして新たなカリキュラムを用意するとき、あるいはプラスアルファの教育を提供しようとするとき、それを単に「教養」と呼んでしまうべきではない。「教養」は非常に複雑で、高度の言語能力を要求する科目である場合がある。米国のSATとACTは、良い意味でも悪い意味でもシンボリックであるが、「バーバル(言語)」と「マス(数学)」という二つの判断能力を測るものである。

 ハーバード大学やエール大学などアイビー・リーグ系の大学のリベラルアーツ・カレッジは、入学する学生数も少ないが、卒業までのドロップ・アウト率はゼロに近い。一方、総合大学の中には、ドロップ・アウト率が50〜60%というところも多い。リベラルアーツ・カレッジへ進む生徒たちの5〜6割は、伝統的な進学準備教育を行うプレップ・スクールの出身者である。そのような生徒たちはいまだにラテン語やギリシャ語を学び、極めて古典的なレトリック、すなわち言語依存型の教育を受けている。言葉を使ってどのように考え表現するかについて、徹底した教育を受けているのである。

 サイエンス以上にヒューマニティーに重点が置かれた教育環境の中でカレッジへ行く準備をするのはなぜか。これは大学の中で大切なのはレトリックであるという考え方による。複雑な問題を考えたり、その問題を解決する上で言語への依存度は高いというのである。数学も公式で考えるのはなく、言語で考える。

 では、なぜラテン語を学ぶのか。今はラテン語は使われていないが、西洋の言語を学ぶ上でそれぞれの言葉の語源としての意味合いが大きい。言葉の語源を学ぶことは何かのヒントを得たり、次のことを考える際に有用である。同時に、今使われていない古語をじっと座って、その言語のもつ意味について思いを馳せることもその後の学習にとって極めて重要である。

 例えば、SATで同じ得点を取った生徒について考えてみる。普通の総合性の公立ハイスクール出身の生徒と、古典的なヒューマニティの教育を受けてきた生徒を比較した場合、カレッジに入学してからの4年間の伸び率は後者の方が高いという数字がある。これについてはさらに研究の余地がある。

 日本の中等教育から高等教育に移行する段階において、最近は「思考」あるいは「クリティカル・シンキング(批判的思考)」の重要性が認められるようになってきた。しかし、その大本である言語教育に関してはあまり学習の時間が裂かれていない。英語に関しても強調されているのは実用英語、あるいはコミュニケーションのための英語である。最近の学生は言葉が不自由であるが故に、複雑な思考や高度な問題に対するディスカッションができない。公式や漢字は知っているし、試験もできる。しかしそれらを組み合わせてできる豊かな言語諸能力が整っていない。それを単純に読書離れとして片付けて良いのだろうか。果たして今の大学生がどれだけ新聞をきちんと読めるだろうか。大学生の推薦入試の面接で受験生に新聞を読んでいるか尋ねると、新聞を購読していないと答える者が非常に多いことに驚く。

 カリキュラムの実質化の流れの中で、このまま行くと言語に依存しない大学カリキュラムを考えざるを得なくなる。言語に依存しない大学カリキュラムなどあり得るのだろうか。そのように考えてみるとき、フレッシュマン教育において一学期に徹底してやらなければならないのは、まず言葉の教育ではないだろうか。書く、読む、そして複雑な問題を議論できる段階まで教育する。断片的知識をたくさん持っているのと違い、それを連動させて文章として表現できる諸能力が求められている。それがフレッシュマン教育のカリキュラム開発の中で重要なトピックである。高大連携を行うのであれば、ぜひともそのようなプログラムを高校に降ろして欲しい。

 点と点を結んで線にする。その点をもう一つ増やして面にするということを、レトリックとしてイメージできない。その意味では、極端な表現すれば最近の学生はLD(学習障害)を抱えているとも言える。断片的知識を繋げる訓練がなされていない。このような能力と関連させたカリキュラム開発をする必要がある。学生たちがこのような能力を身に付けなければキャリア・ディベロプメントも望めない。自分の足下の点だけを見つめ、毎日を楽しく過ごすしかないのではなかろうか。そのようなカリキュラムなくして、プラクティカルアーツにもリベラルアーツにもならない。大学から「アーツ」を取り除けば何も残らない。「アーツ」を根付かせるためのカリキュラム開発が、現在求められている。
雑駁な話で恐縮です。本日はありがとうございました。    (2002年6月15日発表)


注1:イギリスの中等教育について:イギリスの総合制中等学校は、最も一般的な中等教育の学校で、前期(5年。義務教育段階)及び後期(2年)の課程を併設する7年制である。このほか、義務教育段階のみの総合制中等学校もある。これらの総合制学校では、初等学校の卒業者を原則として無試験で受け入れ、生徒の能力・適性・進路などに応じた教育を提供している。このような総合制の形態の中等学校の在学者は、公立(営)中等学校全体のほぼ90%を占める。

 義務教育後の中等教育は、シックスフォーム(sixth form, もともとは第6学年/最終学年の意)と呼ばれる。7年制中等学校の最後の2年間の課程で行われるのが、最も一般的な形態である。ここでは、進学希望者の志望分野に応じて大学入学資格上級(GCE・Aレベル)及び準上級(同ASレベル)試験のための準備教育が主として行われる。この2年間の課程がシックスフォーム・カレッジという名称の独立した機関として分離・設置されている場合もある。(文部科学省発行『諸外国の学校教育(欧米編)』より引用)

注2:この調査は、著者らが平成5年度に質問紙票による調査研究「我が国の大学カリキュラムの今日的課題」を実施した結果である。『平成5年度全国大学一覧』(文部省高等教育局大学課監修)に基づき、全国の国公私立大学(短大を除く)の学長534名(放送大学長は除く)に質問紙票を送り調査を実施した。