大学改革と新大学構想
―筑波大学創設時の経験を中心として―

筑波大学名誉教授 鈴木 博雄

 

1.はじめに

 大学問題といっても、その内容は多岐にわたっている上、国立大学と私立大学とではその存立条件が大きく違っているために、基本的にそれぞれ分けて考える必要がある。例えば、昭和30年代後半から40年代前半にかけて吹き荒れた大学紛争の中で、私立大学においては経営的問題、学生の立場から言えば学費値上げ問題が最大のテーマであった。このように私立大学をめぐる大学問題を考えるときには、経営問題を抜きにしては考えることができない。しかし、国立大学の場合はそういうことはほとんどなかった。私の経験から言えば長く国立大学にいたので、ここでは国立大学を中心とする大学改革の動きについて考えてみたい。

2.戦後の大学改革

(1)昭和20年代〜30年代前半
 戦後、新制大学制度が導入されると同時に、学校教育法(第五章大学)の中にも大学が位置付けられた。それとともに新制度に応じた大学管理のシステムも作らなければならないとの議論が起こった。

 戦前の大学の場合は、一般に文部大臣が学長を任命する方式であった。ただ例外的に、東京帝大と京都帝大は、学内で学長候補を選任してそれを文部大臣に具申し、それを文部大臣が任命するというやり方をとっていた。しかし戦後は、大学の自治が保障されたことから、大学自身で学長を選ぶようになった。終戦直後に、新制大学をたくさん作ったが、その4年後には、次期学長の選任時期が一斉におとずれ各大学がその選挙をしなければならなくなり、そのためにも大学管理法案が必要になってきた。

 また昭和25年ごろと言えば、レッドパージに見られるように、日本に対する米国の占領政策が大きく転換した時期であった。すなわち、それは日本をアジアにおける反共のとりでにしようという政策の一環であった。当時の大学は、共産主義に理解があることが「進歩的文化人」であるという雰囲気が強くあった。そのような状況を米国側は非常に憂慮し、学生の先鋭的な動きを警戒していた。そういう観点からも、大学管理をしっかりやらねばならないという議論が出てきたのである。

 昭和24年9月、大学管理法起草協議会が発足し、26年3月には、文部省でその内容を整理し法案として国会に提出したのだが、世論の反対が強くて結局は廃案(継続審議)になってしまった(同年10月)。

 何らの指針もなく大学管理運営は進められないとして、文部省は昭和28年4月に「国立大学の評議会に関する暫定規則」と「学長選考規則要綱」を定め、それを参考にして各大学は管理運営を行うことになった。

 しかし、そのような対症療法的な手法だけでは、大学の管理運営はうまくいかず、その後十年くらいは大学の運営面で、旧制大学の慣行だけを頼りにして行われ、全般的にがたがたした時期であった。またこの時期は、安保闘争も加わり、大学問題は手のつけようのない状態でもあった。このように大学問題はいろいろと議論はされたのであるが、それが制度化されるまでには至らなかった。

(2)昭和30年代〜40年代
 昭和35年5月に「大学教育の改善について」という中教審への諮問がなされた。その中でも大学問題について言及していた。しかし、当時「大学自治」が錦の御旗となっていたために、法律で大学自治を規定することはならんということで、その点については触れずじまいであった。

 その後昭和37年ごろから、大学問題が再燃してきた。その背景の一つには、ベビーブームによる大学進学者の急増という現象があった。そのため、従来のような管理運営のままでは、こうした大量の学生教育には対応できないということが言われた。しかし当時の大学教授たちはそんなことには全くといっていいほどに無頓着であった。もう一つの要因は、60年安保が一旦収まったあと、昭和37年ごろから反日共系の学生運動(全共闘運動)が活発化することになったことである。彼らの主張の中心は、「大学自治を教授会自治にゆだねることは納得出来ない。大学は教授と学生とで構成されているのだから、大学自治についても学生の立場を認めるべきである」という学生の大学自治参加論であった。当時の教官たちの多くは、彼らが一体何を言っているのかと思っていたが、今になって冷静に考えてみると、彼らが言っていることは、民主主義社会の市民の大学論だったといえる。ただ彼らのなかには、単に政治的な理由から学生の大学自治参加をスローガンとして掲げているグループと、実質的に学生参加がないと授業内容が改善されないという考えから主張したものとがあった。

 特に、後者の立場で学生の大学自治参加を主張したのが、慶應義塾大学の学生たちであった。昭和38年ごろに、学生たちが教官の授業についてのアンケートをとり、その結果を学生自治会がまとめて発表したことがあった。このことに対して、「こんなことをやられたらたいへんだ」という衝撃を受けた教官も少なくなかった。現代の言葉でいえば、これは「授業評価」である。当時は、「先生の授業を学生が評価するとは何ぞや」という調子であったが、そこにはしっかりとした主張があった。

 その背景として、ベビーブームによって私立大学では急激に学生が増えたために、授業が大教室におけるマス授業となり、丁寧な授業が行われず、学生にとっては満足のいくものでなくなっていたことがあった。そこで学生側としては、客観的なデータを取ってそれを大学に突きつけ、授業改善に結びつけようとしたのであった。それも大学紛争の一つの火種であった。

 しかしその後、学生大衆を政治的に動員するための一つの手段として大学紛争を位置付け、その究極的目的は革命であるという方向に大学紛争が先鋭化していった。時代的な状況を勘案してみると、1970年代は日本が高度成長時代にあり、学生運動によって国全体が大きく動揺するような状況にはなく、政府もあまり心配していなかった。また、労働者や市民も学生は何をやっているのかとさめた目で見ていた。ところが、60年代はまだ国全体が不景気の中にあり、学生運動が拡大すれば、労働者がそれに雷同することが予測され、政府としても憂慮していた。

 そのような状況から、政府では大学問題に正面から取り組み、昭和44年10月1日には「大学臨時措置法」が発効することとなった。これを作ったのが田中角栄(当時、党幹事長)であった。それまで大学自治を名目に警察・機動隊を学内に導入することを執拗に拒んでいた大学であったが、紛争を続ける大学は廃校という趣旨のこの法律が施行されたことによって、大学紛争への対処姿勢が大きく変わり、一気に収束に向かったのである。

(3)昭和40年代後半以降
 昭和46年に、中教審答申が出た。この内容はなかなかのもので、その後の臨教審、その他の答申の基本的内容が一応含まれている。教育改革の全般的な答申としては評価出来るものといえる。

 大学紛争が収束した段階で、高等教育の拡充という方向性が出されたものの、その後十年は具体的な施策が何もなされなかった。その間、大学は紛争中の態度とは打って変わって、全く手付かずの状態であった。大学行政に対して何か追及されても、「46答申」を繰り返すだけであった。その後本格的に大学問題に言及し出したのが、臨教審であった。

 昭和59年から臨教審がスタートした。そこでは、大学における規制緩和を進め、弾力的運営を進めようとした。また一般教養の充実も強調した。それは大学教育の中で、専門教育以上に大事なのが教養教育ではないかという考えからである。それらをもっと専門的につめていくのが、昭和62年に設置された大学審議会の任務であった。

 その後、日本経済がバブル崩壊となり、その影響は大学改革にも及び、大学数の削減、独立行政法人化などの問題が取り上げられるようになり、現在に至っている。

3.筑波新大学構想

(1)東京教育大学移転問題
 全国的な大学紛争の嵐が起きる少し前ごろから(昭和42年ごろ)、東京教育大学ではキャンパスが手狭だという議論が起こっていた。もともと同大学キャンパスは、明治時代に専門学校として造られたので狭いものであった。そのことによって一番多くのしわ寄せを受けていたのが理科系の教官であった。彼らはこのような劣悪な環境のもとで研究をやっていたのでは、他の大学に遅れをとってしまうとの危機感をもっていた。これが移転に向けた最初の動機であった。

 ところがもう一方の文科系の教官は、研究室の広さというよりは、情報にアクセスしやすい東京にいることを重視していたために、移転にはむしろ反対の立場であった。このような学問的性格の違いの影響の他に、イデオロギー的な対立も加わって、キャンパス移転については学内が真っ二つに分かれて対立することとなった。ただ、学生たちとの団交(団体交渉)に際しても、移転するという選択肢があったために、当局側(移転派)も強気で交渉に当たることができたようだ。

 移転先の候補地について考えていたころ、文部省の方から「つくば研究学園都市を作るのにあわせ、国のさまざまな研究機関を集積させたいのだが、研究機関の基礎として大学が必要だから、つくばに来ないか」との誘いがあった。当時、東京からつくばまでは2時間以上かかり、かなり遠い印象であったが、成田経由でつくばに行く直行の特急を作るとの構想も出ていた。

(2)筑波大学創設構想への転換
 昭和43年ごろから、移転のためのマスタープラン(MP)委員会(東教大MP委員会)を学内に立ち上げ、マスタープランを作った上で、同窓会の協力も得て、翌年「発展期成会」という名前で始動した。当時、大学紛争も一応終結に向かったことから、これからの新しい大学像を描いていくということも念頭において、筑波大学の創設問題は佐藤内閣の最重要課題の一つに位置付けられて出発した。

 しかし実際には、あまりうまく進まなかった。そのとき最も力になってくれたのは、東京教育大学の同窓会長で三菱化成会長の柴田周吉氏であった。そのような人の政治的な力がないと、こうしたことはなかなか進捗しないことを実感した。

 新大学構想への転換に向かった背景には、もう一つの要因があった。当時の大学紛争で学生たちが騒いだ原因の一つに「教授会自治」の問題があったが、これはより根本的問題であった。特にその問題点がはっきりと露呈したのが、東大医学部の問題であった。同医学部教授会で学生処分を決めたのだが、それを全学評議会にかけたとき、全会一致を見ないために医学部教授会の決定した処分が大学の決定として執行できなくなった。これではいけないという反省から、大学の意思決定の仕組みを有効なものにしようという議論が起こった。

 そこで私たちの大学移転問題も「移転」という次元に留まらず、「新大学」建設という次元で考えていくこととなった。今までの大学運営の仕組みではない新しい仕組みで運営する大学を作ろうということになったのである。そのために学校教育法の施行規則を改める必要が生じた。

 当時の大学は、大きく分けて3つのタイプの大学があった。@講座制の大学。研究の分野ごとに講座を設け、そこに教授、助教授、助手などを配置するもの。A学科制の大学。学科ごとに教官の定員を設け、その中に教授、助教授、助手などを配置するもの。B課程制の大学。これは教員養成大学。そこでは小学校課程、中学校課程などと課程を設け、それぞれに教官の定員を設けるもの。しかし、筑波大学の場合は、そのいずれの範疇にも属さないために、法律改正が必要になったのである。ただこの中身についていえば、私立大学などでは既にやっている内容だとも言われたが、遅れていたのは国立大学であった。国立大学の方は、筑波大学へのやっかみもあってこれに反対したが、私学の学長などは応援してくれた。そして昭和48年9月に、法案が成立し、10月に開学となった。

 その数カ月前の同年7月ごろの段階では、仲間の反対派の教授からも「筑波大学法案は通らないよ」と言われたり、朝日新聞でも「筑波大学法案、審議未了」という見出しを立てるなど、直前まで大変な状況であった。文部省だけではどうにもならない。

 そこで三輪学長と福田副学長が総理大臣執務室に出向いた。私はその鞄持ちでついて行った。そこで田中角栄首相に会い、「筑波大学法案宜しくお願いします」と三輪学長が深々と頭を下げた。すると田中首相は、腹の底から出るような声で「承知しました」と言った。そのころの世論の雰囲気は難しいというもので、当時の自民党の代議士もそのように言う人もあった。しかし田中首相の働きがあって、法案成立までこぎつけた。これはまるで綱渡りの状態であった。

4.筑波大学の特色とその評価

(1)教育と研究の特色
 筑波大学の組織の特色について見てみる。
まず、教育と研究の新しい仕組みという点であるが、それは教育機能と研究機能とを分離したということである。即ち、具体的に言えば「学群」(教育)と「学系」(研究)の制度の導入である。

 教育組織は、第一学群、第二学群、第三学群に大きく分けられる。学群の下に「学類」というカテゴリーがあり、学類は従来の学部に相当する規模で、その中から教育の部分だけを取り出したものである。その学類をまとめたものが学群であるが、それは実体があるわけではない。各学群には、自然、人文、社会などの分野が相互乗り入れしており、それぞれが一つの小さな大学を形成することになる。そのことによって、学生は各学群において、自然、人文、社会などの分野の講義を聴くことができる。これは当時の欧米の大学の良い点を取り入れてできたものであった。

 第一学群は、基礎学問を担当し、第二学群は応用的学問となる。具体的には、人間関係(教育、心理など)、生物、農学。第三学群はさらに応用した学問で、物理工学、社会工学、物質工学の三つの学類がある。上記の三つの学群の他に、教育のシステムや方法がそれらとは別なものとして、「体育専門学群」、「芸術専門学群」、「医学専門学群」を設けた。

 もう一つの特色として、大学院のあり方の違いがある。従来の国立大学の大学院は、一般に学部定員の上に乗ったものであり、学部、マスターコース、ドクターコースというピラミッド型になっていた。それに対して、筑波大学では、マスターコースは専門的職業人として位置付け、マスターとドクターを並立させたのである。すなわち、独立のマスターコースを作った。

 しかし教授の方の意識が、従来の枠組みにとらわれており、マスターをドクターより低く考えており、自分はドクターコース所属だという意識が強く、うまく機能しなかった。つまり、マスターの後にドクターへと進ませて、従来の大学院コースと同じ仕組みになってしまったのである。せっかく独立したマスターコースを作ったのに、その意義を発揮できなかった。本来、マスターコースの目標とドクターコースの目標が違うのに、そのことを教官たちが理解できなかった。このように後で反省してみると、大学教官の意識改革が充分になされなかったことが挙げられる。

 次に、研究組織について説明する。従来の学部の中の研究の分野を「学系」と呼び、全部で26学系設けた。

 そしてさらに、「研究プロジェクト」を設けた。「学系」というのは、それぞれの教官の「本籍」のようなもので、実際には一つのテーマを設定して、その関連の専門の教官が集まり数年のプロジェクトを組んで、そこに属しながら研究活動を進める。更に、その研究成果を授業などで学生にも還元する。例えば、「不登校の研究」という研究プロジェクトを組めば、そこには教育学、心理学、社会学などさまざまな専門教官が集まって、研究を進める。

 当初は、いくつかのプロジェクトを組んで5年間くらいの研究を進めた。しかし、これまでの結果を見てみると、自分の研究だけをやっていればいいという悪い側面(研究者の習性)が前面に出て、自分の所属する学系(本籍)が、いつの間にか「現住所」になってしまった。プロジェクトを組むことの難しさを実感した。研究者はそれぞれが専門に分化しているために、ただ集まっただけでは共通の場が形成しにくく、いっしょになって研究することが容易でないようである。

 ただ、この仕組みがきっかけとなって、自分の専門分野を越えて共同研究をするという雰囲気が、大学全体として形成されたように思う。例えば、一昨年ノーベル化学賞を受賞した白川英樹氏などは、第三学群の工学系であったが、他の分野の方々といっしょに共同研究をするという自由な空気があって、その中でのびのびと研究をすることができたのだと思う。筑波大学で育った先生の一つの成果といえる。

(2)新しい大学自治
 従来の国立大学の制度的限界の要因の一つであった教授会自治と講座制の壁を破るために、新しい大学運営の方法を導入した。つまり筑波大学では、学部、学科、講座に定員を置くのではなく、大学全体に定員を置くという形にした。そしてその定員の配分は大学の裁量に任されている。実際には、総定員数の1割程度のポストを学長のもとにおき、残りの定数は26の学系に振り分けていた。定年や退職などで各学系のポストが空いた分は、大学(学長)のもとに戻し、新しい分野が必要になったときにそれを割り当てる。

 大学の研究のマンネリ化の最大の原因は、人事の停滞と新しい研究分野を創設するに際していちいち文部省にお伺いを立てなければならず、迅速な対応ができなかった点にあった。それを大学の中で弾力的に運営できるようにしたのである。これには学長の独断専行を招くとの恐れもあり、この点は他の国立大学からは厳しい目で見られた。しかしこのしくみそれ自体は、素晴らしいものといえるし、実際上、大学評議会や研究審議会などを通して決定していくので独断専行ということはあまり行われなかったと思う。

 また当時の大学は、社会から一歩遠いところにある存在で、「象牙の塔」と揶揄された。その最大の問題は、人事問題である。東京教育大学の講座制の場合は、隣接講座の教授以外に人事の発議権がなかった。そのため隣の講座の教授に睨まれたら絶対に教授になれないという仕組みであった。こうした壁が崩れることによって、人事面の風通しが良くなった。その最大の恩恵を受けたのが助手たちであった。そして筑波大学の場合は、できる限り助手をなくそうという考えで人事を進めた。ところが実験系の分野の教官は、やはり助手が必要だということから反発もあり、そうしたところには助手のポストを増やしたりした。

 筑波大学の前身は、東京高等師範学校であったが、昭和初期に東京文理科大学となった。そのとき、専門の関係で師範学校の教員だけではカバーできないために、他の大学から教員がかなり入ってきて、同窓の血が半分くらいになった。戦後、東京教育大学になったとき、外地にあった京城帝国大学や台湾帝国大学などから教官が入ってきたことによって、「純潔」がかなり薄まったのであった。さらに、筑波大学に移行したときに、東京教育大学から移行した教官とそれ以外から採用した教官が半々であった。このように期せずして、結果的に同じ大学の卒業者による人事配置の弊害からまぬがれることができた。それがまた活力の要因になったように思う。

(3)開かれた大学
 開かれた大学という点では、
 1. 管理運営に対する学外の意見の反映
 2. 社会への大学開放
 3. 内外の大学間交流の推進
 4. 理想的な学園の建設
などが重点的に進められた。
その中で、まず海外の大学との交流の実例を紹介したいと思う。国際交流において、大きな成果をあげたというほどではなかったが、時代に先駆けて国際交流の端緒を作ったように思う。

 明治10年代に東京高等師範学校の校長が米国の師範学校で勉強してきて、日本の教育にそのやり方が普及した。そこでその師範学校と縁があるから交流しようということになり、同校(現在、その学校はニューヨーク市立大学となっている)との交流を進めた。このような経緯から、ニューヨーク市立大学と筑波大学人間学類との交流が実現したのである。それはそれぞれの学生が互いに相手の大学に数カ月滞在し、授業の単位を取得するような形の交流であった。しかし残念ながら、その後の交流計画が続かなかった。
国際交流という点で言えば、現在でも全国で留学生数の一番多いのが筑波大学であろう。

 次に、理想的な学園の建設について、若干述べてみたい。 
筑波大学を構想するときに、福田信之教授とともに海外の大学を視察したことがあった。米国のスタンフォード大学や、カリフォルニア大学などの理科系のキャンパスでは広大な敷地を使って実験施設を設けている。これを見ながら、理科系学部は敷地など環境面の条件が重要であることを肌で感じたものであった。ところが、文科系の教官は、誰も移転を賛成しなかった。むしろ私が移転を進めることに対して、皆からいじめられたほどである。実感として言えることは、キャンパスが広いことはいいことだということである。広ければいろいろな施設を作ることができるし、将来の大学の発展を考えれば、なおさらのことである。

5.最後に

 筑波大学の成果を評価してみると、一言で言えば「きっかけは作ったけれども、目指したことの半分程度しか実現できなかった」となろう。しかしそれでも、新しい大学の仕組みへのきっかけ、端緒を作ったという点は評価できると思う。

 筑波大学が作られてから20年くらい経過したとき、当時の大学課長だった方が記念パーティーに来られたので、筑波大学の評点を聞いてみたところ、70点くらいだと評していた。しかし、あれから数十年経過してみて、現在進められている大学改革の内容を聞いてみると、既に筑波大学で構想されていたことと類似していることを感じる。

 特に、大学人というのは、「消極的抵抗」とでも形容すべき性癖があって、それが改革の障害になっているように思う。積極的には反対しないのだが、自分の権益などを奪われまいという本能が強く、それが「消極的抵抗」となってあらわれてくる。それゆえ、大学改革の推進に当たっては、今後大学におけるリーダーシップが重要になってくると思う。大学改革には時間がかかるものである。
(2001年12月12日、口頭で発表、文責編集部)