平和文化の確立と民主主義の役割

エレノア・ルーズベルト正義平和研究所理事長 ニコラス・N.キトリー

 

1.テロリズムとの戦いの歴史

(1)ナチズムと共産主義
 私は今日、米国とその同盟国が直面した21世紀の「新たなテロリズム」とその背景について、自らの些細な経験といくつかの歴史的教訓、そして私なりの批判的検証を披瀝したい。テロリズムは長い間、人類の敵であった。誤った預言者、偽りの預言者、さらには邪悪な預言者によってミスリードされた政府や個人が引き起こした過去のテロリズムについて、我々はよく知っている。

 1930年代の終わり頃、私はまだ小さな子供であった。当時、欧州で今にも起こりかねない破壊行為や、人間の尊厳と生命に対する冒涜、恐怖による統治、大量虐殺、あるいは今にも多くの宗教や少数民族、国民、国家の上に降り注がれようとしていた悪の勢力について、世界は敏感に察知し、予感していた。本来、いわゆる「文明国」であった国が、やがてある一人の男の狂気と策謀によって、殺人工場と化そうとしていた。その男とは、アドルフ・ヒトラーである。

 ヒトラーはオーストリアに生まれ、後にドイツへ移り住んだ。両国とも第一次世界大戦の敗戦国で、失業率は高く、人々の労働意欲は低かった。国民にも政府にも、国力回復への明確な道筋はほとんど見えていなかった。そのようなとき、ヒトラーは当時の不幸な状況に対する壮大な解決策を彼の支持者たちに披露してみせた。国家社会主義という穏やかで罪のないその名前は、一般にナチズムと呼ばれ、人々は伝統的ドイツ主義の価値観と制度への完全な回帰によって、ゲルマン民族が抱えるあらゆる問題に魔法の答えが得られると信じたのだった。ナチズムにより、第一次世界大戦の軍事的敗北で失った国家の威信を取り戻せるはずであり、それがゲルマン民族のあらゆる社会経済的問題の完全な解決策となるはずだった。また、ナチスに対する「真の信仰」が、地理的に世界の全てのドイツ語圏に拡大し、ひいてはアーリア人の全子孫へと広がってゆくはずであった。これら全ては最終的に、ドイツ千年帝国の出現をもたらすと考えられた。

 程なく、第二次世界大戦前のベルリンで英国情報機関の責任者を務めていたメーソン・マクファーランド司令官は、ロンドンのホワイトホールの上官に対し、ヒトラーと彼の政権が良からぬことを企んでいると忠告した。ヒトラー率いる政権は、欧州のみならず世界全体の平和に対する切迫した危機であり、ドイツの邪悪なカリスマ的新指導者ヒトラーを排除しなければ何百万人もの生命が失われると警告した。マクファーランドは上官に対し、アドルフ・ヒトラーを、生死を問わず排除する権限を与えるよう辛抱強く要請したが、結局のところ認められなかった。英国の上官たちはマクファーランドの申し出を拒絶し、彼の提案内容は「無節操、非紳士的であり、公正でない」と断じた。

 今日、米国と同盟国およびその他の世界各国は、自己防衛のための先制攻撃が正当化されるか否かを再び問わなければならない。その先制攻撃とは、特定の個人あるいは集団が、民主主義(一般的に認められるところでは、未だ進化を続ける不完全な人間統治のシステムである)の基本的概念と制度に対する敵意を明らかにしただけでなく、老若男女、有罪無罪を問わず人々を無差別大量に殺戮する兵器を所持していると認められた場合の攻撃である。実のところ、自己防衛の問いに対する答えは早急に出さなければならず、アドルフ・ヒトラーのときのように、より「紳士的」に対処する機会をいつまでも待っている訳にはいかない。そのような紳士的態度により、世界は五千万人以上の生命を犠牲にしてしまったのである。

 我々が思い起こすべきもう一つの民衆に対する約束が、20世紀初頭に示された。それは人間の生活を画期的に向上させる総合的な計画を実行するというものだった。この約束は、第一次世界大戦中に帝政ロシアが崩壊した後、政権を握ったボルシェビキ(ロシア社会民主労働党の多数派の一員)が宣言したものであった。ボルシェビキは古典的社会主義が掲げる人道主義を前提に経済や社会の正義を主張し、後のナチスのように、兄弟主義的平等と愛に満ちた腐敗なき世界の実現を約束した。共産主義によって真の自由世界を到来させるため、彼らはほんのひとときの間だけ、プロレタリアートによる独裁政権が必要であると説いた。ところが、実際にはその後70年にもおよんだ政権が拠り所としたのは、恐怖政治や思想的粛清、スターリン主義者による政敵やその疑いのある者の排除、要注意とされる民族・宗教的少数派の虐殺や国外追放であった。しかし、結局のところ、過度に中央集権化され機能不全に陥ったこの巨獣は、自身の官僚機構の重さによって押し潰されてしまったのである。

 我々が20世紀におけるこれら二つの重大な出来事から学ぶべき点は、この世で仰々しく正義と平和を約束する者があれば、それは殺し合いや宗教、民族、思想的「浄化」と全体主義に至る前触れだということである。

(2)ビンラーディンと新しいテロリズム
 それでは、新たな“偽りの”預言者にもっとも騙されやすい地域において、実際のところ、現在の最大の懸案は何であろうか。その地域とは、中東および極東の国々であり、アラビア語を話す人々あるいはイスラム教を信仰する人々が人口の大半を占める国々である。世界の中でも広大なこの地域(約十億人のイスラム教徒が暮らしている)に位置する60数カ国のうち、近年あるいはそれ以前に、事実上一般の国民によって選出され、彼らから信頼された政権はほとんどなかった。クーデターや、完全に不正な選挙、市民ではなく軍による支配、腐敗した政権、経済の停滞。これらは、ごく僅かな例外を除き、世界全体の三分の一を占める国々の主な特徴であった。これは植民地支配の時代も、第二次世界大戦後に独立国となった時代も、同様であった。世界人権宣言、高まる女性の地位向上の声、技術発展に伴う経済成長の兆し、国内外の寛容と平和の精神に基づく世界秩序などは、これらの国々の国民には決して実現することはなかった。

 全人類を解放して歴史的不正義や貧困、病気、不道徳などの欠陥のない完全無欠な世界を創ると主張する者たち(近年は東洋で目立っている)に、これまでどの国の、誰が、あるいは何人が協力してきたのか、また今後も協力しつづけるのか、それは定かではない。しかしながら、特筆すべき点は、9月11日のテロ攻撃や同様の大虐殺の首謀者とされる人物、そしてアフリカ、中東、アジアにいる彼の仲間や崇拝者たちは、ソビエト連邦やナチス・ドイツの前例とは異なり、宗教者を自称し、宗教的訓練も受けていることである。そして、恐らく何らかの宗教原理によって強固に結びつき、その原理が現代の多元主義的世界のあらゆる病理に対する究極的解答だと考えているのである。

 経済力を持たない一人の男。彼は米国のような超大国のみならず、世界第二の人口を抱える国家(インド)、そして聖書に出てくるアブラハムのもう一方の末裔であり、世界に一神教を紹介した小国イスラエルに対しても、個人的戦争を宣言した歴史上の数少ない人物の一人である。憎しみという名の偶像を崇拝するこの傲慢な男が約束したのは、世界の主要宗教の一つに対する彼の誤った解釈こそが、地上と天上で天国を建設する確かな道であるというものだった。ビンラーディンは彼自身が神によって命を受けたと公言しており、よって他の人々も彼に生命を捧げる価値があると信じて疑わない。実際のところ、彼はアフリカ、中東、極東の広大な部分を占めながらも、社会的、経済的、政治的に(西洋諸国から)搾取されてきたイスラムの民衆に対し、スターリンやヒトラー(両者とも無神論者である)が与えることのできなかったものを与えると約束した。すなわち、豊かで満たされた「死後」の魂と肉体である。

2.西洋主義の侵略と抵抗運動

 我々は、第三千年紀が始まるまでの数カ月間、黙示録的信仰とマスメディアの大騒ぎに煽られた人々が不安に陥ったことを記憶している。中には、重大な技術的大混乱を懸念する技術者もいた。新千年紀を迎えるに当たって人々が浮き足立ち、異常な社会騒乱が起こると心配する者たちもいた。さらに、聖書などに預言されているように、「ハルマゲドンの戦い」の時が間もなく到来し、「善」と「悪」の最終戦争が勃発すると不安がる者たちもいた。人類歴史に興味を持つ一方で合理的な事実の検証を行う私としては、預言書にある「ゴグとマゴクの戦い」(ヨハネ黙示録20:7-10)の始まりを目撃するのに、もっとも相応しいとノストラダムスらが考えた正にその場所で、密かに新たな千年紀の観察を始めたのだった。

 突然の強い衝動にかき立てられるように、私は1999年12月31日、ヨルダン・ハシミテ王国の首都アンマンのヨルダン川東岸にあるホテルからタクシーを拾ってエルサレムへと赴いた。エルサレムは、少なくとも三つの世界宗教が聖なる都市の一つとしている場所である。夜遅くエルサレムに到着した私は、2000年1月1日、日の出を見るために朝早く起床した。しかしながら、そのとき私が内面深くに感じていたのは、世界に万事問題がないわけではなく、共産主義の崩壊と冷戦終結の後、二つの大きな勢力の衝突がそれに取って代わろうとしていることだった。

 1999年12月31日にエルサレムに到着した後、私は「ロサンゼルス・タイムズ」紙の要請を受け、来るべき時代に対する私見を執筆した。この来るべき時代については、大きな争いのない「歴史の終焉」と見る人もいれば、過去のイデオロギーの対立が新たな文明の衝突へと変化すると見る人もいた。

 そして、1999年12月の終わりに、私は以下のように書いたのだった。

  政治的正統性の真の根拠をめぐり、世界的対立が起こりつつある。我々は、宗教政治的原理主義の諸勢力(イスラム教であれ、キリスト教であれ、ユダヤ教であれ、「聖典」の不変の真理の絶対的優位性を主張する勢力)と、民主主義の諸勢力(専ら非宗教的、多元主義的であり、大衆によって導かれ、半永久的に進化する「社会契約」によって絶えず変化すると信ずる勢力)との間で生じている、新たな世界的紛争を目の当たりにしている。それらの多くの現実に接すると、21世紀が中東全土で黙示録的な時代となるのではないかと思われてくる。千年近く昔、欧州のキリスト教徒たちは、法王ウルバヌス二世の呼びかけに応えてイスラムの地へと十字軍遠征を行った。果たして我々が今目にしているのは、イスラムの神聖な遺産を腐敗させ、その生存を脅かすとされる西洋の価値観・制度に対抗するイスラムの「逆十字軍運動」なのだろうか。

  仮にそうだとすれば、来るべき時代の最初の世紀は、神聖で不変なる聖典に身を捧げた人々と、進化を続ける現代の多元的民主主義の価値観を信奉する人々の間の、狂信的で残虐な争いを見ることになろう。

  21世紀の風がどの方向に吹くのか、我々は間もなくその答えを得るであろう。

 第三千年紀の最初の十年間において、当初の私の予測と懸念の大半は過ぎ去ろうとしている。国連をリードしている西洋諸国は、民主主義と人権のメッセージを世界に拡大し続けている。即ち、西洋メディアは、アフリカ、中東、極東など世界の果ての市場においても、映画や音楽という商品に彼らのメッセージをのせて販売してきた。それとともに、国際金融機関や国際巨大企業(コングロマリット)がその勢力を拡大させ、その結果技術労働者の国際的な移動も劇的に増加している。このように、世界のグローバル化は、引き続き進行している。

 この西洋主義の侵略が、中東、北アフリカ、東アジアにおいてより保守的な人々の脅威となっていることは、疑いの余地がない。伝統的な制度や部族、家族、文化、宗教などが脅かされているのは確かである。英国のラッダイト運動(18世紀、暴力とテロで新しい技術の進歩に抵抗しようとした人々)のように、北アフリカ、中東、極東でも、グローバル化し、西洋化した世界がもたらす脅威に抵抗しようとする運動が起こっている。

 教育を受けず、雇用もされず、疎外されている大衆は増加する一方である。彼らは、人権と平等が保障された素晴らしい世界を創造するという西洋諸国の主張に耳を傾けながらも、同時に西洋諸国がその地域のもっとも抑圧的な独裁主義的政権を(国際石油カルテルやその他数多くの西洋の巨大企業の利益を安定的に確保してくれるという理由から)支持してきた事実も目撃してきた。そんな彼らにとって、古く単純明快な形式のイスラム原理主義への回帰は、極めて魅力的に感じられたのであった。このことは、アフガニスタンにおける米国の「戦争」に抗議する大衆のデモとして現われている。また「(米国の今度の戦争は)イスラムやアフガニスタンに対する戦争でも、タリバン政権全体に対する戦争でもない」と主張しつづける米国への、アラブとイスラムの民衆のかつてない不信と敵意をも表している。ガザ地区とヨルダン川西岸地区の住民の世論調査では、米国の取って付けたような奇妙な同盟に対する支持率は、僅か7%であった。

 「困ったときの友こそ真の友」という諺がある。私がそれに代わるものを提案するならば、「困ったとき」に(特定の人を排除して)恣意的に選ばれた友は、必ずしも「真の友」ではない、というものである。私自身の良心と、真の永続的同盟を求める願望は、さらに修正した諺が現実のものとなるよう望んでいる。すなわち、「真の友は、必要なときのもっとも信頼できる友でもある」。

3.根本にある問題の解決

(1)市民一個人の内面の問題として
 統治の正統性の根拠をめぐる世界観の対立はエスカレートを続け、どのような結末を迎えるのか不透明である。一方の側は、民主主義から生じた社会契約の概念を支持している。社会契約は状況や必要に応じ、また時代の流れと共に変化可能であり、実際に変化している。他方は、特定の小さな信仰集団が解釈するところの神聖で絶対的な計画に対し、揺るぎない献身を捧げる。この対立に軍事力に依存した解決手段を望む人々もいれば、テロリストとその同盟者、そして彼らを匿う者たちを注意深く探し出して公の裁きにかけることを望む人々もいる。後者の人々は、たとえ正義が理由であっても無差別の対抗手段は決して許されないとする旧来の考え方を、裁判をすることで一般に知らしめることができると信じている。様々な考え方があるにせよ、ビンラディンような人物の出現を許し、また同じような偽預言者を生み出す可能性のある環境がなおも存在している。ビンラディンの一件を片付けたからといって、それが何ら問題の絶対的かつ最終的解決とならないことは、誰の想像にも難くない。

 明らかなのは、テロリズムに対する戦争に勝利するためには、人々の疎外、人口過剰、無知、貧困、失業、倫理的腐敗、その結果生じた外国人に対する嫌悪な感情などとの闘いが伴わなければならないという点である。国連が半世紀以上にわたって存在しているにも関わらず、また、国連が最近ノーベル平和賞を受賞したのも何とも皮肉だが、この機関はその第一の使命をほとんど果たすことができなかった。すなわち、世界のあらゆる国家や国民に対して、国際的、超宗派的、超民族的、超文化的な善意、寛容、協力の理想と実践を訴え、促進し、強化することである。これまで国連は繰り返し、雄弁な各国代表のプロパガンダや、意見を異にする隣人への攻撃と中傷の場として利用され続けてきた。

 地域的あるいは世界的な交流と協力を求める声にも関わらず、また音楽、文学、電子メディアなどの分野で文化交流が進展しつつあるにも関わらず、外国人に対する嫌悪の感情や原理主義的不寛容、国家主権の主張(自国においては、また自国民に対しては、何をしても勝手であり、絶対に妥協しないということ)は世界中、東西南北に蔓延している。それは私たち自身の問題である。政府の代表者ではなく、我々、世界の一般市民や市民社会が変えていかなければならない課題である。

(2)「共有」という考え方の実践
 結論として、私が最近二歳になる孫と一緒にテレビで漫画を見ていたときに得たある洞察を紹介したい。その子はその番組をもう20回は見ているに違いない。私は初めて見たのであったが、その後数週間が過ぎてから、ようやくその漫画が持つ究極的かつ地球的な意義に思い至った。

 その漫画にはいくつかの人形が登場していた。彼らは最初、意見の相違もなく仲良く遊んでいたが、やがて新しい刺激的なおもちゃを発見する。私も皆さんも幼稚園の頃を思い起こすようだが、その人形たちはちょっとしたいさかいを始める。最初は単におもちゃを要求するだけだったが、徐々に荒々しく叫び始める。「これは僕が見つけたから僕のものだ!」「私が最初に触ったから私のもの!」「僕が最初に拾ったから僕のだ!」と。すると、賢くて年をとった大きなクマがやって来て、小さな人形たちに「譲り合い」と「分ち合い」の力と価値について教えてあげる。漫画の終わりには、絶対的な所有権を主張していた人形たちが様々な形で分ち合い、喜び合うのだった。

 スリランカ、マケドニア、南米、アフリカ、中東地域など世界中で、数々の衝突が起きている。それらの地域では、公民権を失った個人、あるいは民族的、宗教的、経済的、文化的共同体の人々が、より積極的な政治参加とより公正な扱いを求めている。ここで我々が肝に銘じなければならないことは、完全なる支配という概念、すなわち、一つの集団、一つの階級、一つの共同体、一つの宗教、あるいは一つの国家が他の全ての多元的世界の構成員を支配するという概念はもはや存在せず、過去の遺物だという事実である。

 我々は「共有」という新たな考え方を学び、実践しなければならない。経済的豊かさの共有、多様な意見や信条の共有、究極的な統治の権力の共有である。私が孫のお気に入りの漫画を彼と一緒に見て過ごしたひと時は、私にとって非常に楽しく、充実したものだった。今日、私は皆さんとこの教訓を共有するためにこの場へ来たのである。人々がより積極的に分ち合える世界を創るための我々の努力が、報われることを願ってやまない。

 米国と同盟国は、現在起こっている戦いは「イスラムに対する戦争ではない」と主張した。この場に集った我々も、主要な宗教、文化、社会を代表している者として、これが「キリスト教とユダヤ教に対する戦争ではない」と真摯に宣言しなければならない。実のところ、そもそもこれは戦争ですらない。同時に、誰も絶対的正義、ひいては「不屈の自由」を求めて報復行為を行うべきではない。そして、この戦いは単に悪を無能力化し、正義によってより永続的な平和を達成するためのものでなければならない。兄弟姉妹の皆さんが平和のうちに帰国し、平和を追求し、そしてまた平和のうちに再会できることを祈念する。
(2001年10月19日〜22日、米国・ニューヨークで開催された国際会議IIFWP Assembly 2001において発表された論文)