宗教紛争解決への道
―政治と宗教の関係から―

イスラエル・ラビ協会会長 イサク・バルデア

 

1.平和実現に向けた宗教の役割

 現在、世界において宗教にかかわる問題が大きな関心事になっている。そこで宗教は戦争の解決と平和の実現に対してどのように取り組むことができるのか、また精神的指導者は戦争に対してどのような姿勢で取り組むべきかについて考えてみたい。なぜならこれらの課題こそが、中東全域に対しての平和をもたらすカギとなるからである。

(1)パレスチナ紛争と宗教
 まず、宗教者、信仰者が戦争に対してどのような姿勢でかかわるべきか、とりわけ私の宗教的立場であるユダヤ教の場合、戦争・紛争というものをどのように考え、そしてどのように解決に向けて取り組むのかについて考えてみたい。

 パレスチナ紛争には、いくつかの要因が考えられるが、その重要な要因の一つが宗教である。今日までイスラエル・アラブ双方の間でさまざまな交渉が繰り返された結果、大きく見れば和平は進展してきたといえる。しかし、一たび宗教という問題に逢着したときには、すべての交渉は停止してしまうことになる。そのため、「宗教は平和とは対立するものであり、また戦争を生み出す原因ではないか」と疑問を投げかける人も少なくない。

 2000年7月、米国キャンプ・デービッドにおいて、クリントン大統領の仲介でバラク・イスラエル首相(当時)とアラブ側のアラファト・PLO議長とが会談した。そのときの合意は、99%領土をパレスチナに返還するという内容であったが、これがエルサレムの宗教問題に至ったとたん、互いに一歩も譲ることができずそのまま決裂してしまった。そのため宗教は、戦争を引き起こすものだと考える人が少なくない。しかし、私は「宗教とはすべて平和を渇望するものだ」と理解している。

(2)ユダヤ教の世界観
 ユダヤ教では、「世界とは一つの木のようなものだ」と理解している。木は、葉、枝、幹、実などの部分に分かれるが、それぞれ別々の機能を持っている。違った機能を持つ別々のものが、全体としてまとまり一つの木を構成している。それぞれの部分には、それぞれ固有の役割がある。これと同様に、世界中の人間も一人では生きていくことができないし、誰かがより価値があると決めることもできない。それゆえ、各人がそれぞれに尊重し合って生きていくときに、初めて「木」(人間社会、世界)が成り立つのである。

 私たち一人ひとりは、神の子である。神は最初になぜ人間を一人だけ創造したのか。それは後の時代になって、互いに自分の血統の方が優秀だと言い争わないようにと、神は人間を最初に一人だけ創ったのである。私たち人類は、一つの家族のようなものであるから、その中に戦争や争いがあって欲しくないのは当然であろう。

 パレスチナ・イスラエルの交渉は、すべて宗教問題に絡んだとたんに決裂したと前述したが、それではわれわれユダヤ教徒にとって、「エルサレム」とは一体どのような意味をもつのかについて考えてみたい。

 世界には、さまざまな「聖なるもの」があるが、それ自身が「聖」であるのは「神」だけである。それ以外に「聖なるもの」としては、まずイスラエルなどのような土地がある。また人間では、祭司のような聖なる者(聖職者)がいるし、ものでは聖書といったものがある。しかしこれらは、神の「聖」を分け与えられただけであって、それ自体が聖なるものというわけではない。月が太陽の光を受けて初めて輝くように、それぞれの聖なるものは、神から「聖」を受け継いでいるだけである。

 イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒が、「エルサレムこそ聖なる所だ」と言うときには、それは「(エルサレムが)神に由来する故に、聖なるところだ」という意味である。それゆえ、われわれに対して「エルサレムの半分を譲り渡して(返還)くれ」と言って来た場合に、それは「エルサレムの聖の半分をくれ」ということになる。エルサレムの聖はわれわれの所有ではなく、神のものであるからわれわれ人間が自分勝手にそのことを許可することはできない。つまり、「エルサレムはわれわれユダヤ人のものである」ということを言っているのではないのである。神殿があった場所も、エルサレムも神の所有物なのである。

 しかしその一方で神は、「人を助けるためには、土地もそこに生えている木なども、譲り渡しなさい」とも言っている。なぜなら、人というのは、この世の目に見える世界の中で最も聖なる存在だからである。そして、神が与えてくれた「平和(シャローム)」よりも大きな賜物はない。それゆえ、宗教が戦争に対してどう取り組むべきかを考える際には、この観点は非常に重要になってくる。

 ところで、ラビアキバという有名なラビが語った一つの話を紹介しよう。
ヘブライ語で男のことを「イッシュ」、女のことを「イシャー」という。これらの単語を分解してみると、「イッシュ」はアレフ、ユッド、シンの3文字から成り、「イシャー」はアレフ、シン、ヘーの3文字から成っている。そして両者に共通する文字は、アレフ、シンであるが、それぞれにしかないユッドとヘーを合わせると、「神」という単語になる。つまりこのことの意味することが何かというと、神が出現したときに初めて、男性と女性が一つになれるのである。

 そして「イッシュ」と「イシャー」の共通の文字、アレフ、シンを合わせたものは、「エシュ」すなわち「火」となり、これは戦争を意味する。人間(男性と女性)から神がいなくなった場合に、火(戦争)が起きることになる。それを裏返せば、私たちに強く信ずる心(信仰)があれば、平和を作り出すことができることを示唆している。

2.宗教的指導者の役割

 次に、戦争に対する宗教的指導者の役割について考えてみたい。
これまで聖なるものについて、及び私たち人類は一つの家族であることについて述べてきたが、神がわれわれに望んでいることは、互いに手を差し伸べて協力しながら、平和を作り出すことなのである。

 このことをチェスに喩えて述べてみよう。チェスには、king、queen、rook、bishop、knight、pawnなどの駒がある。その中で端に位置する「城将(ルーク、rook)」が、まさに宗教的指導者の立場ではないかと考えている。すなわち、宗教的指導者は高い立場に立って全体を見るという役割である。聖書の中で神が預言者に語った言葉の中に、「あなたは塔の上に上って周囲を見まわせ」という句がある。塔に上って監視をするのは、「王」ではない。その役割としては、塔の上に立って周囲に敵がいないか、国の周辺状況を監視してその情報を王に伝えることである。

 この点ではイスラム教、キリスト教、ユダヤ教いずれも同様であり、宗教的指導者は高い塔に上って空間的に遠くを見通す必要もあるが、時間的にもそうしなければならない。精神的指導者の役割というのは、過去、未来ともに遠くを見渡しながら、現在を見つめて、これからどうなっていくのかを展望する(「幻」を見る)のである。

 イスラエル、エジプト、ヨルダン、シリアなどすべての国の政府指導者(政治家)は、塔の上に立つ宗教的指導者に、これからどのようになっていくのかを聞く必要がある。しかし皮肉にも、王といわれる政治家たちは、精神的指導者に聞く耳を持たないのである。国の指導者たるものが、国の内外を問わずこれからどうなるのかについて、精神的指導者に聞かずにどのようにして民を導くことができるのであろうか。

 現実の国際政治においては、国家と国家との間でさまざまな交渉が行われている。その交渉の席につくのは、その分野の専門家であることが多く、政治家たちはそのような人にしか耳を貸そうとしない。しかし一番大切なことに関しては、何の委員会も会合も持とうとしない。すなわち、最も重要な問題である宗教に関する委員会は、一つも設置されていないのである。従って、このような現状の中にある限りは、平和を作り出すことは不可能であろう。宗教という問題を解決しなければ、平和の問題は解決の糸口をみることはできないのである。

 米国では政教分離が原則となっているが、イスラエルでは政治と宗教とは一つのものと考えられている。政治が宗教と結びつくと、それぞれにとってよくないと一般に考えられている。しかし政治家は足元にある現実問題の解決にのみ目を奪われがちであるから、宗教指導者はその上に立ってもっと先を見ることがその重要な役割であると考えている。これを例えて言えば、政治家は「手」に相当し、宗教指導者は「目」に相当すると思う。最近の現状は、目をつむったまま手だけが先行して動いているといえる。

3.平和実現への道

 一般に、さまざまな宗教者が一つの席につくことはできないと考える人が多いが、私の経験から言っても、更に今回のIIFWPの国際会議(2002年2月、韓国ソウルにて開催)はそのよい証しとなっている。つまりさまざまな宗教の指導者が一つの席に集まり、その場でどのようにすれば平和を作り出すことができるか話し合うことが可能なのである。

 私が願うことは、政治家たちが一日も早く宗教的な指導者たちに声をかけて、彼らを集めて会合を持ち、その場で宗教的指導者から平和についての意見を聞くことである。しかし、政治家にそのようなことを期待しているだけでは、いつまで経ってもそのことは実現しないので、私たち自ら他宗教の方々との話し合いの場を設けながら、推進していくことが大切だと考えている。

 私たちユダヤ教徒は一日に3回ないし4回礼拝をしているが、その最後の言葉は「オーセ・シャローム」という祈りとなっている。これは「高いところから平和を作ってくださるお方が、全世界に平和を起こしてくださるであろう」という意味である。神は全能の方なので、全世界の人が平和に暮らせないことはないと思うが、私たちの間からも平和を望む声を上げていかなければならない。

 ヘブライ語で「天」のことを「シャマイム」といい、これを分解するとエッシュとマイムの二つの単語になる。これはそれぞれ火と水という意味である。つまり、天においては相反するものが同時に存在(共存)しており、突き詰めれば「天においては平和が既に実現している」ということになる。

 パレスチナとイスラエルが、たとえ火と水の関係であったとしても、もし願えば平和を作り出すことができる、共存することができることを示唆している。そして平和を作り出すには、信ずる心(信仰)が必要であり、「平和」という言葉は「神」の別名ともなっており、「神」という言葉と同様に重要な言葉である。

 「エルサレム」という言葉は、「平和(シャローム)の町」という意味であるにもかかわらず、皮肉なことに、エルサレムにおいて紛争が起きている。それゆえに、今後もこのような会合(さまざまな宗教を持つ人々の集まり)に多くの宗教者が参加し、そこに神が臨在しながら私たちの間に平和を作り出す助けをしてくれることを願ってやまない。(2002年2月21日、東京にて開催された講演の要旨をまとめたものである)