現代イスラムの潮流と日本の役割

東京大学教授 後藤 明

 

1.一神教としてのイスラム

(1)はじめに
 1973年に第4次中東戦争が勃発し、オイルショックという余波が日本にも及んだ。そのときから日本社会はイスラム社会について関心を持ち始めたように思う。79年初頭には、イラン・イスラム革命が起こり、なぜイスラムという宗教が新しい国家建設の理念になるのかと大きく騒がれた。その後91年、湾岸戦争が起こり、再びイスラムとは何かとの関心が持たれた。そして昨年9月11日、米国同時多発テロ事件が起きた。

 このように日本では、イスラム関連の世界的な事件が起きた時には、イスラムに対して関心を持つのだが、それが一旦小康状態になるとイスラムに対する知的関心が急速に薄れるということの繰り返しであった。おそらく今後も、同様の繰り返しがあるに違いない。

(2)一神教と日本
 日本のキリスト教人口は、統計上で二百数十万人いることとなっているが、実際はおそらく百万人程度ではないか(日本の人口の1%弱)と考えている。その中で、毎週ミサに行く人の数となると、さらにその何分の一に過ぎないであろう。これが日本のキリスト教の現状である。

 一方、日本にいるイスラム教徒はどうかというと、私の推計では3人〜3万人の間であろうと考えている。メッカ巡礼をし、一日5回の礼拝を行うイスラム教徒は、3人くらいしかいないかもしれない。しかし自称イスラム教徒は、3万人くらいいるのかもしれない。その程度である。さらに、ユダヤ教徒となると、限りなくゼロに近い数値であろう。
一方お隣の韓国を見ると、人口の三分の一から四分の一がキリスト教徒である。しかもその大半の信者が、熱心な信仰を持っている。また、中国を見ても、イスラム教徒、キリスト教徒が相当数いる。フィリピンに行けば、大部分がキリスト教徒であり、イスラム教徒も1割程度はいる。このように日本の近辺だけをみても、一神教の信者は相当数いることが分かる。ところが、日本だけが世界の例外で、一神教徒が極めて少ない国となっている。

 世界の人口を大雑把に宗教別に見てみれば、キリスト教徒が20億人弱、イスラム教徒10億人強で、世界の総人口60億人中の約半数が一神教の世界の住民ということになる。それに対して、日本は一神教の信徒数が1%いるかいないかという程度である。このように日本は一神教の世界から極めて遠い位置にあるということが分かる。

 このことから、日本人は、「イスラム」だけが分からないのではなくて、キリスト教もユダヤ教もよく分かっていないのではないかといわざるを得ない。そうかと言って、日本に一神教の影響が全くなかったかといえば、実は西洋を経由した一神教文化の強い影響圏内に日本も入っている。しかし大半の日本人は、それを一神教に由来するものとは理解していない。

 日本は明治時代以降、西欧及び米国の文化を組織的に国家レベルで輸入した。その文化は、まさにキリスト教文化を背景にしたものであった。しかしそこからキリスト教の部分だけを抜いてしまったのである。その例として、西暦の利用がある。これはキリスト生誕を基準として数えた言い方であるが、それを我々は平気で使っている。キリスト教徒にとっては、キリストが誕生したことによってこの世の中の意味が全く変わってしまい、そこから新しい時代が始まったのだと理解している。しかし日本人は、そのような意味を考えずに西暦を用いている。また2月だけが30日ないのも、もとを正せばカトリックに由来している。

 一週間=7日という考え方にしても、同様である。日本の伝統的暦は、中国から伝来したものであるが、そこには一週間という単位はない。一週間という単位は、聖書の創世記の冒頭にある天地創造の7日間からきている。日本は、明治時代にキリスト教でいうところの安息日(日曜日)をその意味とは関係なく平気で取り入れた。キリスト教徒ならば、安息日は教会に行ってミサに参加するのであるが、日本人はその部分を捨象して休みとして取り入れたのである。

 ちなみにユダヤ教では、神は日曜日に仕事を始め、金曜日までかかって天地万物を創造し、土曜日に安息したので、土曜日が安息日となっている。そのためイスラエルでは、土曜日はほとんどのところが休みとなっている。一方イスラム教には、安息日という考えはないけれども、一週間という暦の単位は採用しており、それが生活のパターンとなっている。そして金曜日の正午の礼拝は、なるべくならばまとまってせよという掟があり、金曜日を休みにすることが多い。

(3)超歴史的なイスラム運動
 イスラム教とは、基本的に言えば、天地万物を創造した唯一神への信仰であり、神以外には神はいないということがその教えの根本にある。神以外のすべてのものは、神によって創造されたもの(被造物)だという考えをもつ宗教を、一般的に「一神教」と呼んでいる。この範疇に入る宗教として、キリスト教、ユダヤ教などがあるが、イスラム教はこれらの宗教と兄弟宗教ということができる。イスラムの神「アッラー」は、イスラム独自の神であると誤解されがちであるが、実際は、聖書のアラビア語訳はすべて「神=アッラー」と表現している。またイスラムの経典であるコーランの英訳本では、アッラーのことを概ね‘God’と翻訳している。従って、旧新約聖書で言う神とコーランで言う神とは全く同じ存在となる。同じ存在に対する信仰という点からすれば、この三つの宗教は共通しており、違いよりも共通点の方が多いといえる。

 また一神教には「正義のために悪を討つ」という考え方がある。キリスト教によると、神は正義であり、イエスはキリスト(救世主)として十字架によって昇天した。その後この世に再臨することになるが、そのときには正義の軍隊を率いてこの世の悪を滅ぼし、この世に神の平和が実現する。そして最後に正義は必ず勝ち、そのためには悪を討たねばならない。このような考え方は、ユダヤ教やイスラム教にもある。

 正義のためには悪を討つという考え方が、必ずしも武力を使うということを意味するわけではない。しかしさまざまな手段を通じて悪を討つという考えは、これら三つの宗教に共通して存在している。

 19世紀以来の近代ヨーロッパによってもたらされた近代文明は、キリスト教の神から離れ、人間中心の政治、社会を作った。しかしその中には、今もなお一神教のイデオロギーが連綿として濃厚に流れている。

 昨年9月11日の米国・同時多発テロ事件で言えば、ビンラーディンにとっては自分が正義であり、米国は悪ということになる。米国も同様の思考方式であるが、それとは逆になっている。

 現実の社会を見てみれば、多くの人間にとって不正義の多い社会となっている。これは現代社会に限った問題ではなく、古代から同様であった。不正義を正す、現実の社会を正して理想の社会を作ろう、イスラムの教えに則った理想社会を作ろうという動きを、イスラム運動と呼べば、これは超歴史的なものである。イスラムが勃興した直後から、一貫してそのような運動があった。歴史上、多くのイスラムの王朝が興亡してきたが、その中のかなりの部分はイスラム運動による新しい王朝の成立とみることができる。従って、イスラム運動は、現代に限定される問題ではなく、歴史を通じて一貫して展開してきたのである。現代もその例外ではない。

2.18〜19世紀のイスラム運動の歴史

(1)神秘主義教団と新しいイスラム運動の出発
 歴史的にさかのぼってみれば、現代に直結するイスラム運動は18世紀に始まる。18世紀半ばにアラビア半島で、新しいイスラム運動が起こった。その時代もイスラム社会は不正義に満ちていた。それに対してその運動の担い手たちは、「(不正義がはびこるのは)まじめなイスラム教徒が少なく、いいかげんなイスラムを実践しているからだ。ゆえに純粋なイスラムに戻らねばならない」と主張した。運動はイスラムの中の神秘主義教団への攻撃という形で始まった。そのような主張を支持し、政治化して軍事力を用いて拡大していったのが、サウド家(現代サウジアラビアの王家の祖先)である。サウジアラビアは、1973年以来石油成金で中東の大国になったが、その由来は18世紀半ばに起こった強力なイスラム運動であった。

 イスラムというのは、一般に教団がなく、寺や教会もない。モスクというのは単なる礼拝堂であって、そこに人々が集まって礼拝をする場所に過ぎない。それゆえそこには、キリスト教でいう牧師や神父、仏教でいう僧侶のような存在はいない。モスクには誰もいないということが原則なので、モスクが信者を管理したり、組織したりすることはない。だから旅人のような通りすがりの信者も、そこで礼拝をすることができる。モスクをイスラム教会とかイスラム寺院ととらえるのは、大きな間違いになる。このようにイスラム教は、信者の組織がないというのが建前である。

 ただ現実には「教団」がある。しかし、それはかなり緩やかな組織である。歴史的に10世紀ごろからある種のグループが存在した。そのグループは閉鎖的ではなく、かなりオープンなものが多い。毎週一度とか月に一度とか定めて、その日に集まって、徹夜で踊ったり、神の名を唱えながら瞑想にふけるなどの儀礼を行う。教団は、当時でも数百年前に既に死んだ人を聖者として崇め、その聖者の聖誕祭を盛大に祝う。こうしたものが神秘主義集団の起こりである。そこには聖者の墳墓(土葬)があり、その上に棺を作り、そこに廟を建てる。そしてその墓に触れると何か御利益がある。死んでしまった聖者のとりなしによって、神から安産、病気直しなどの力をもらえると考える。

 このような考え方は、本来のイスラムではないと主張するのが、サウジアラビアを建国したイスラム運動の建国精神であった。実際アラビア半島以外のイスラム世界には、聖者廟がたくさんある。そこにたくさんの信者が行って御利益を求めようとしている。しかしサウジアラビアに行くと、そのような聖者廟は全くない。この時期に、すべて破壊されてしまったのである。

 それに対抗して、神秘主義教団の方でも新しい動きを展開していく。それを「ネオ・スーフィズム」と呼んでいる。聖者崇拝をしながらも、一方ではしっかりとコーランを勉強するといった教団に生まれ変わろうと努力し始めた。このような新しい神秘主義運動が全イスラム地域に広がっていった。それが今日のインドネシアやマレーシアでの大きな運動につながっていく。

 また、アフリカでは、18世紀末から19世紀にかけて、新しい神秘主義教団が新たな政治組織を作っていった。

 例えば、西アフリカのニジェール川流域では、フルベ人がソコト帝国を作った。アラビアのメッカに行って新しい神秘主義の動きを感じ取った人々が、ニジェール川流域の黒人社会のイスラムは間違っていると主張し、新しい宗教運動を始めた。またリビアでは、1970年代に軍人カダフィーによる軍事革命が起きて王国が崩壊した。この王国は、サヌーシーと呼ばれている神秘主義集団の主が王様であった。18世紀から始まった新しい教団運動が、スーダンに飛び火し、その後リビアで実力を蓄えながら、次第に勢力を拡大していった。そしてスーダンでは、新しい神秘主義教団が大きな政治運動を起こして、十数年間独立王国を築いた。当時、エジプトがイギリスに支配されつつあった時代であった。イギリスのゴードン将軍がスーダンに派遣されたが、負けて死んでしまった。しかしこのような運動は、すべて英仏によって鎮圧され、植民地化されてしまった。

 18世紀後半から20世紀初頭までの期間は、西欧諸国が世界の植民地化を進める過程であった。それに一番抵抗したのが、新しいイスラム運動であった。それゆえ、イスラム運動は、欧米諸国にとっては目の敵となっていた。もちろん、もっと歴史的に深い意味での敵対感情はあるのだが、キリスト教を中心とする欧米とイスラム世界との反目の直接的原因はここに帰することになる。

(2)新しいイスラム運動の担い手「ウラマー」
 18〜19世紀にかけての新しいイスラム運動の担い手は誰かというと、伝統的なイスラム知識人(ウラマー)であった。ウラマーは、(神に関する)知識を持った人という意味である。

 イスラムでは、神と人間とが直接契約をし、人間は神の意思どおりに生きるべきだと理解している。神は人間に対して、すべきことと、してはいけないことを命じているが、それらを整理し明確化したものを一般に「イスラム法」と呼んでいる。なすべきことの第一は、神を信仰すること。それゆえ神を信仰しない者は、どうしようもない人間だということになる。また、一日に5回の礼拝をし、可能ならば巡礼をする。してはいけないこととして、禁酒、豚肉の禁忌などがある。しかし圧倒的多数の事項は、してもしなくてもいいものとなっている。例えば、結婚は、した方がしないよりもよいという理解である。こうしたイスラム法を習得している人たちを、「ウラマー」と呼ぶ。「聖者の墓に行ってそこに触れたからといって御利益はない」というのが、厳格なウラマーの基本的な理解となっている。

 イスラム世界では、11世紀ごろから既に大学制度が整っていた。よく大学は、ヨーロッパのパリ大学やボローニャ大学から始まるといわれるが、私はそれらはむしろ「イスラムの大学の輸入形態」だと言いたい。イスラムでは、大学でおおよそ10年かけて勉学しないと一人前の知識人にはなれないという。ウラマーたちは、全イスラム地域を巡回しながら勉強する。

 18世紀に現在のサウジアラビアのもとを築いた人は、イランに留学し、当時激しい思想闘争を繰り広げていたシーア派の中でそれを経験し、イラクやシリアを回ってアラビア半島に戻り政治運動を始めた。また中国のイスラム教徒の間では、19〜20世紀にかけて激しい対立があった。それは新しい教団組織が形成されていく過程であった。その運動を起こした人は、メッカからアラビア半島の最南端(現在のイエメン付近)に行って勉強し、中国に戻って新しいイスラム運動を始めた。

 このような全世界的なネットワークの中で、ウラマーたちが勉強した。新しい動きは、すぐイスラム世界に拡散していく。そのような人たちが中心となって、18〜19世紀にかけてのイスラム運動が展開したのであった。

 19世紀に入り汽船の時代になったが、イスラム教徒もそれを大いに利用した。現在の東南アジア、インドネシア、マレーシアなどの国々は、当時オランダやイギリスなどの植民地であった。そこにいるウラマーたちは、汽船を利用することによってメッカに勉強に行くことができるようになった。それまでは、メッカに行くのに1年ないし2年くらいはかかっていたものが、汽船を利用することで数カ月で行けるようになった。また、中央アジア(現在のウズベキスタン)のウラマーたちは、カスピ海を汽船で横断し、鉄道でカフカス山脈を越え、黒海に出て、汽船でメッカの近くまで行く。このような交通手段の発達によって、ウラマーたち、知識人の交流が急速度に活発化した。これがこの時代のイスラム運動の特色であった。

3.19世紀以降のイスラム運動

(1)近代化をいち早く進めたエジプト
 19世紀後半以降、圧倒的に西洋の力が強まり、インドが植民地化され、中国はアヘン戦争でイギリスに負ける。イスラム世界も同様の情勢であった。そのことによって、イスラム世界においても西洋の文物を受容しようという動きが盛んになってきた。最初に行われた事業が、近代教育制度の導入であった。それをいち早く実行した国が、エジプトであった。エジプトは、1805年に新しい国家を建設した。当時の中東世界最大の国はオスマン帝国であったが、エジプトはその一部(同帝国の領土)であった。1805年以来、実質的に独立した。そこには世襲の君主がいて、オスマン皇帝から一国の国王(副王)のような立場を認められ、代々エジプトを統治するようになった。

 そのエジプトでは、日本の明治維新の政策をほとんど先取りするようなことを実施した。即ち、近代教育制度を整え、富国強兵政策を取ったのである。エジプトは、紀元前3000年ごろに人口1000万に近い数百万人(日本は、同じころ数十万人)を擁していた。ところが、19世紀初頭には2〜300万人くらいしかいなかった。紀元前3000年ごろ農耕地であったところが放置され荒廃していたが、そこを開拓した。麦と綿花を中心に開発し、富を蓄えていった。その資本を使って、エジプト人を軍人とする徴兵制度を始めた。近代国家は、国民を形成し、その若い男子をすべて徴兵するということが、その特色である。フランスのナポレオンと同時代に、同様のことを始めたのである。近代的な武器を製造し、それを扱うためには近代教育が必要だとの認識から、近代教育制度(初等教育から大学まで)を整備し始めた。フランスからお雇い外国人教師を呼んで教育しながら、一方でエジプト人をフランスなどに留学させた。当時、大学生は数百名であったが、そこに入る中等の学生はその倍(1000人)、さらに初等の学生はその倍(2000人)と考えて教育制度を出発させた。

 後に日本は急速に初等教育を拡大させていったが、エジプトの場合はそういかずに、初等教育の普及は20世紀に入ってしまった。そのような問題点はあったものの、近代教育制度を整えていったことは確かであった。そこで新しい知識人層が形成されていった。エジプトが最初で、その後、トルコ、シリア、イラン、中央アジア、インドなどでも同様に知識人層が形成されていった。そこでは伝統的な知識をもつウラマーとは全く違った知識をもった知識人が育った。即ち、弁護士、医者、技師(エンジニア)、軍人などである。彼らが19世紀後半から現代に至るまでのイスラム運動の主要な担い手となり、18世紀とは全く違った様相を呈することになった。

(2)西洋を意識した運動
 新しい知識人層にとっては、西洋を意識することは当然のことであり、ヨーロッパの文明とイスラム文明の関係をどうするかということが最大の関心事であった。伝統的ウラマーは、7世紀のムハンマド以来の知識の集積の上に立って、それをどうしていくかということが、最大の関心事であった。

 新しい知識人層の中には、もうイスラムはダメだから捨ててしまえ、言語も英語などにしようという考えもあった。もう一方には、西洋文明は本質的に間違っている、古典的なイスラムの延長線上に現代のイスラムを考えようという考え方がある。これは18世紀に始まったイスラム運動の担い手たちに共通の考え方であった。サウジアラビアなどは、つい最近まで西洋を拒否してきた。

 しかし、大部分の人たちは、イスラムは西洋文明を十分吸収できる宗教・思想であると考えていた。歴史的に見ると、18世紀までは明らかにイスラム文明の方が、西洋文明よりも先進的・発展的であった。18世紀にそれが逆転した。新しいイスラム運動の担い手たちは、西洋の文明を近代教育制度を通して受容しながらも、イスラム文明の価値も認めていた。従来のイスラムは、純粋なイスラムから離れてしまい、夾雑物を抱えすぎてしまった。今までのイスラムのあり方が悪かったために、西洋に追い越されたに過ぎず、イスラムのあり方を直せばイスラム文明も十分に近代に対応できるのだと考えた。そこからイスラム改革運動が盛んになったのである。

 当時、英国の植民地であったシンガポールで起きた一つの事件を紹介しよう。イスラム社会は一般に平等な社会だと言われているが、これはあくまでも建前のことであり、現実はそうばかりではない。例えば、「自分は預言者ムハンマドの子孫だ」と称する人が結構いる。1979年のイラン革命を指導したホメイニや現在のヨルダン国王、モロッコ国王などもそう称しており、全世界では何百万人の単位でいると言われている。彼らは自分をエリートだと思っている。シンガポールで、ムハンマドの子孫だと称する人の娘が、普通の人と結婚しようとしたが、それに対してシンガポールのイスラム社会はダメだと言った。そこで彼らは、この問題をエジプトのカイロで発行している中心的雑誌に発表したところ、そこでイスラム運動の改革運動を推進していたエリートたちは、「ムハンマドの子孫だからといって、特別視されるのはおかしい。そのような考えはイスラムではない。彼らの結婚は許されるべきだ」と主張し、その内容をシンガポールに送った。

 このような動きは19世紀末に強まり、通信技術の発達によって、イスラム世界全域へと伝わるようになった。その結果、近代を受容するようなイスラムの改革の動きが強まり、全イスラム世界を巻き込んでいった。その中心の一つは、エジプト、特にエジプトの伝統的イスラム大学であるアズハル大学であった。

 10数年前までは、インドネシアのイスラムの指導的な立場の人に会うと、皆アズハル大学に留学した人たちであり、マレーシアも同様であった。彼らは皆エジプトのアズハル大学で勉強して自国に戻り、各国のイスラムの指導者になった人たちである。そこでは、近代を受け入れるべくイスラムを変革しようという考えが主流を占めていたために、その影響が全世界へと波及していったのである。

(3)イスラムと政治運動
 しかし、政治の動向とこのようなイスラム運動の動向とは別であった。19世紀後半から20世紀前半の第二次世界大戦までは、圧倒的に西欧諸国の力が強く、世界中の大半が植民地化された時代であった。そのような情勢の下、中東諸国の中で独立をまがりなりにも維持した国は、トルコ、イラン、アフガニスタン、サウジアラビアだけであった。そのため、イスラム改革運動よりも、西洋の植民地支配からの脱却という運動の方が、イスラム知識人の関心事であった。20世紀に入ると、民族独立運動という形へ展開する。民族独立運動それ自体は、イスラム運動とは関係のないレベルのものである。

 1940年代から民族独立運動が活発化したが、その民族独立の考え方の中には、イスラムという考え方は入っていない。近代化を受容しようとするイスラム運動は表面には現われず、むしろ民族独立運動が目立って現われていたといえる。そのような国々では、民族独立に向けて民衆のエネルギーが結集し、第二次世界大戦前後にはほぼ独立を達成するところまできた。

 例えば、トルコの場合、オスマン帝国からの独立という形であったが、それはトルコ人の国を作ろうというものであって、決してイスラムの国を作ろうという動きではなかった。もちろん、その過程にはイスラムもかかわっているのであるが、表面には出てこない。
第二次世界大戦後、トルコとギリシアとが戦争を起こした。その後、両国内に留まっていた互いの国の人たちを各々自国に戻るようにしたため、200〜300万人単位での民族交換が行われた。その場合、ギリシアに住んでいるイスラム教徒は皆トルコ人とみなし、一方トルコに住んでいるギリシア正教徒たちをみなギリシア人と呼んだ。そこには宗教がからんではいたのだが、表面には出さずに民族の問題として処理したのである。

 アラブに関していえば、アラブ民族主義が、1960年代まで盛んであった。その発端は、レバノンのキリスト教徒の運動であった。レバノンでは、人口の半数がキリスト教徒であるが、同じキリスト教といっても、ヨーロッパのそれとは違い「シリア教会」などキリスト教発祥以来の伝統的な教会である。そこには、イスラム教、キリスト教を絡ませまいとする努力があった。またインドネシアを建国したスカルノも同様で、決してイスラムは前面に出さなかった。

 そして国家独立後には、国家建設をすることになる。その際に一番魅力のあった開発のためのイデオロギーが、社会主義であった。インドネシアのスカルノ、エジプトのナセルなどは、国家建設には国家主導による計画経済が一番よいだろうと考えていた。当時、ソ連邦は計画経済によって国家が順調に発展している国であると見られていた。例えば、人工衛星を最初に飛ばしたことに見られるように、ソ連邦は世界の最先端の科学技術を有した国であった。このように1960年代までは、民族主義と社会主義という、イスラムとは無縁な政治思潮が前面に出ていた。その間、イスラム運動は、社会の底辺に流れているだけであった。

4.現代のイスラム運動

(1)1970年代の変化
 1967年、第3次中東戦争が起こり、アラブ諸国がイスラエルに惨敗した。そのため民族主義の英雄であったエジプトのナセル(Nasser, 1918-70,任56-70)は、実質的に指導力を失った。もう一人の指導者であったインドネシアのスカルノ(Sukarno, 1901-70,任45-67)もスハルト(Suharto, 1921- ,任68-98)にとって代わられ、幽閉された。60年代で全世界的に民族主義がほころびていく。70年代には、民族主義を声高に叫ぶ時代は終わってしまった。

 また、社会主義をいくらやっても国家建設が進まないことが分かってくる。民衆は貧しいままであった。1973年の第4次中東戦争後、湾岸諸国の産油国の一部は急速に豊かになったが、これは例外であった。イスラム世界全体の人口は10億人程度だが、その中で日本人並みの豊かな生活をしている人は、数千万人しかいないであろう。

 現在、60億を超える世界人口の中で、日本人並みの生活をしているのが約10億人、住む家もなく餓えている人たちが10億人、そして残りの40億人が日本人の昭和20年代の生活をしているということになろう。イスラム世界の大部分は、その40億人の部類に属することになる。イスラム世界には、本当に餓えた人というのは少ない。しかし圧倒的多数が貧しい生活に甘んじている。

 そのような状況の中で、彼らにとっては政治も、社会のあり方も、何もかも悪いと映る。そのために貧しさからの脱却ということが、大きな希望となって、労働運動、政治運動、学生運動が活発化することになる。ところが、ここにきてそのような運動の主要なイデオロギーであった民族主義と社会主義が色褪せてしまった。そのことによって、1970年代以降イスラム運動が民衆化していく。

 その運動の中には、イスラム法を学ぶという伝統的なウラマーの運動もある。例えば、インドネシアなどでは、ウラマーは小中学校で宗教教育を担当している。裁判所の民法のある部分はイスラム法に則っているために、その解釈などはウラマーが携わっている。そしてインドネシアのウラマー協会の主がワヒド前大統領である。またエジプトなどでも、民衆は家庭内のこと、結婚、売買など日常生活のいろいろなことをウラマーに相談する。彼らはその組織をもっており、活躍している。また神秘主義集団も依然として大きな力を持っている。

 その一方で、近代的な教育を受けた人々によるイスラム運動も活発化してきた。ナセルはそのような運動を弾圧した。彼らは民衆にきちんとコーランを教え、社会福祉の場面でも活躍する。中には小中学校から大学までの学校や病院を擁しているところもある。また、災害などが発生すれば、真っ先に駆けつけて炊き出しなどの手助けに出るのも、彼らである。このような運動が、特に70年代以降盛り上がり、民衆の支持を得るようになった。

 例えば、70年代の前半にはモスクで祈るのは、お年寄りばかりであったのが、70年代後半には若者が多くなってきた。またラマダンの月(断食)には、かつては街頭で屋台や露天商が、外国人には食べ物を売っていたが、80年代には屋台がなくなってしまった。

 その大きな転換点が1979年であった。79年初頭に、ホメイニ(Khomeini, 1901?-89)がイランに帰り、イラン・イスラム革命が起こる。イランでウラマーが中心となる政権ができたのである。これはイランの革命ではなく、イスラム革命であって、このような展開をイスラム社会全体に起こすべきだとの主張がなされた。しかし、その後サダム・フセイン(Saddam Hussein, 1937- ,任79- )がイラン・イラク戦争を仕掛けることによって、イラン革命だけに終わってしまった。元来は、イスラム世界全体の革命を目指した運動であった。

 メッカにある聖なるモスクに向かって、全世界のイスラム教徒は毎日礼拝をし、一生に一度はメッカに巡礼に行く。そこは絶対に生き物を殺してはいけない聖域である。アラブ世界では、親族が殺された場合には、仇討ちをしなければいけないという慣習があった。親の仇であっても、メッカではそれをしてはいけないことになっていた。ところが、そこに銃を持って数百人が立て籠もるという事件が、79年秋に起こった。これに対しては、サウジアラビアのウラマーたちが相談して、ここは例外だと判断してサウジアラビアの国軍が彼らを全部撃ち殺してしまった。聖なるモスクで血が流されたという大事件が起きた。

 その年の暮、ソ連がアフガニスタンに侵攻した。当時の日本での受け止め方は、アフガニスタンは、中立国ないしは自由主義陣営の国であるから、そこにソ連軍が進入することは許されないとして非難した。イスラム教徒の受け止め方は、イスラムの世界に無神論者の共産党の軍隊がやってきたという認識であった。つまり、アフガニスタンへのソ連の侵攻ではなく、イスラム圏への侵攻だととらえたのである。そのため、全イスラム世界から義勇兵が集まった。

 現代に直結する多くの問題が、79年に集中して起きた。新しいイスラム運動が、民衆化しながら発展してきたのであるが、この年のさまざまな出来事を通じて、イスラム運動が全世界的に見えるようになってきた。

(2)政治的過激派
 今日、一番の関心事になっているのが、イスラム運動の過激派である。一般に、その正体がわからないためにそれらを「過激派」とひとくくりにしてしまっている。

例えば、日本でかつて事件を起こしたオウム真理教の一派を「日本過激派」と呼び、日本赤軍も「日本過激派」と呼んだ場合に、「日本過激派」とは何かと聞かれても答えられないのと同じことである。それと同じ論理で、いろいろな過激派の組織を十把一からげにして「イスラム過激派」と呼んだところで、分からないのである。

 それらの中には、具体的な政治目標を持っている過激派がある。例えば、パレスチナのハマスは、パレスチナからイスラエルは出て行けという明確な政治目標をもっている。それ故、ハマスはイスラエルとその同盟国である米国に対して敵意を持っている。タリバンも同様で、アフガニスタンをきちんとイスラム的に統治しようとする明確な政治目標を持っている。そのためには、反対する勢力を武力で打倒する。しかし彼らの大部分は、軍事力では太刀打ちできないために、それ以外の手段(テロなど)でその政治目標を実現しようとするのである。このような種類の政治団体は、外部から見ても理解しやすく、何か事件を起こした際に必ず犯行声明を発表する。

 しかし、そうではない奇妙な過激派が最近出てきている。明確な政治目標もなく、ただ「イスラムの正義」といった抽象的概念のみを掲げ、そのために悪を討つのである。このパターンの一つが、昨年の9.11米国・同時多発テロ事件であった。彼らは犯行声明を一切出さない。またどのような主張を持っているかもはっきりしないまま、単にイスラムは善で、米国は悪だというところに留まっており、何を求めているのかもさだかでない。そのような組織がいくつかあるようだ。

 しかし、さまざまな種類の過激派があるものの、大きく見れば過激派はいずれもイスラム運動のはみ出た部分にあることは確かである。大部分のイスラム運動は、コーランを勉強し、イスラムの教えを実践しようとするものである。さらにはそうした実践を、社会に展開し、社会福祉の向上などにも役立てようと努力している。

5.日本の役割

 最後に、日本の役割について述べよう。
19世紀以来日本が外国から輸入してきた西洋の知の枠組みは、もう限界にあるという認識を持っている。例えば、私の所属する東京大学は、明治初めに作られたのであるが、そのときの設置目的は、西洋の学問を輸入することであった。そこで、その前段階の旧制高等学校においては、まずヨーロッパの言語習得が第一の課題であった。東京大学だけではなく、日本の国立大学の創設目的が、基本的に西洋の学問の輸入にあったのである。

 19世紀以来のヨーロッパの学問とは何かといえば、私の関連の学問分野で言うと、ヨーロッパを特別の地域とみなす学問である。例えば、象徴的な例として、オリンピックの旗には5つの大陸を象徴する五輪が描かれているが、その5つは、ヨーロッパ大陸、アジア大陸、アフリカ大陸、北アメリカ大陸、南アメリカ大陸を表している。なぜそこにヨーロッパが特別にあるのか。実際には、ヨーロッパ大陸はアジア大陸とひと続きの大陸であるのに、ヨーロッパの人々はアジアといっしょにされることを嫌う。19世紀以来のヨーロッパの知識人たちは、このようにヨーロッパは特別だと考えており、これが彼らの知の枠組みなのである。

 私は歴史学を研究する者であるが、ヨーロッパの大学に行って分かることは、これまで歴史学部においては中国史や日本史は扱ってこなかった。歴史とは、(米国を含む)ヨーロッパの歴史を意味し、発展のダイナミズムを研究することが歴史学のテーマだと考えている。アジアは、アジア的生産様式のために停滞した社会であり、東洋的専制君主主義があって自由がないところであるから、研究の対象にはなりえないと考える。東洋学は半ば趣味的学問に過ぎない。さらに、アフリカの黒人社会、米国のインディアン、南太平洋の諸島などは、未開で野蛮な社会であるから、研究するに値しないという。もちろん、ここ
20年くらいの間にだいぶ変わってきたが。

 しかし、今やこのような枠組みは崩壊した。我々日本人は、ヨーロッパ大陸という言葉を使ってきたその背後の思想を否定しなければいけないのではないか。そう考えてみると、アジアも世界も実に多様であることが見えてくる。

 ヨーロッパ(ロシア、東欧諸国を含む)の人口は、世界人口の1割強の7億人程度であり、ロシア、東欧諸国を除けばその半分になってしまう。その地域は世界の中心ではなく、人口比に応じて世界の十分の一の地域として認識しよう。それと同じ論理で、中東地域に対しても、我々は同様の比重でもって関心を払う必要が出てくる。東南アジア地域もしかり。このように、日本人の知の枠組みを変えていって初めて、日本はイスラム世界ともつきあうことができるのではないかと考えている。そのためには大学教育も、マスコミも大きく変わらなければならない。
(2002年2月16日発表)