新しい世界の構築
―家族と社会の視点から―

前ウルグアイ東方共和国大統領  J.M.サンギネッティ

 

1.変革の時代

 現代における「変革」の意味について考えてみたい。
 フランスの偉大な思想家アラン(Alain Touraine)(注1)が言っていたように、「私たちの思想とは、私たちの『眼鏡』である」ということである。つまり私たちは、自分たちの「考え方」を通じてしかこの世界を理解できず、そして私たちの「考え方」を通じて、世界すなわち今変革すべき社会を描いていかなければならないのである。

 私たちの目前の現実とは、「遠隔的現実(バーチャルリアリティ)」と表現することができる。それはちょうど私たちが、毎日のテレビ画面を通して世の中の事実を見ているようなものである。このことから、現代における「富」とは、(目に見える)財産をどれほどもてるかではなく、むしろ知識をどれだけ持てるかなのである。

 また人工衛星やインターネットを通じて世界の情報を瞬時に得ることができる時代になった。インターネットとは、人と人とをつなぐ新しい通信手段、コミュニケーションの道のようなもので、それが国境を超えてつながっている。また労働について考えてみても、現代においてその形態や本質が変容している。例えば、今日では労働における肉体的な疲労について語るのではなく、精神的ストレスについて語るようになった。また家族は歴史的に見ても社会の最小単位であったが、今日ではそれが崩れつつあり、脆弱なものになった。これらのことは、私たちの意識を超えて進行している事実である。

 自由民主主義、市場経済というものが現代社会を支配する考え方となっている。そして同時に市場経済は、毎日その限界をも私たちに見せつけている。すなわち、金融危機、経済危機が繰り返し起きているにもかかわらず、それらの考え方はそうした危機を未然に防ぐのにはあまりにも無力であった。また民主主義という考え方についても、すべての人がこの制度を受け入れてはいるものの、その中で常にさまざまな失望を与えられつづけている。つまり民主主義によって望んだことすべてが実現できたわけではないのである。

 そして9月11日の同時多発テロ事件の発生により、ひとつの価値観が新たに生まれることになった。地政学的に見ると、それまでにはない新しい概念の力関係が生まれ、それに関する新しいパラダイムが必要になってきたのである。これらの事実は非常に劇的であるが、社会のあり方そのものを変えるものにはなりえないであろう。むしろ私が主張したいことは、そうしたこと以上に社会のあり方が非常に重要であるということなのである。結論的に言えば、基本的に重要なのは、私たちの基本的な考え方、基本的思想を明らかにすることである。

2.現代を支配する考え方

(1)自由民主主義と思想問題
 まず、「戦争・紛争はすべて経済的な原因によって起こるものだ」という考え方があるが、しかしそうではない。第二次世界大戦は、思想、考え方の対立による戦争であった。また冷戦は、西欧諸国とソ連との対立であったが、これも思想の問題であった。そして中東紛争もその原因を根源にさかのぼれば、やはり経済的な要因ではなく、宗教や考え方の問題に起因することが分かる。それから原理主義的なテロリストたちが、現在紛争の火種を世界中にまいているが、これは基本的に経済的な要因からくるものではなく、非寛容な社会の一つのあり方、あるいはある一つのビジョンを、世界・社会に対して押しつけるところから来ている。従って、戦争と平和の問題は、思想を根底において生まれるのであるから、物質的な次元や手段によっては決して解決することはできない。

 このことは、今日今まで以上に非常に重要になりつつある。現在私たちは、科学・技術の非常に発達した世界に暮らしているが、これまで多くの人は「経済がすべてを動かす、特に今日では科学・技術がすべてを動かす」と考えてきた。しかしそうではない。科学・技術は、もちろん基本的に重要な要因であるが、しかし非常にもろいものでもある。

 例えば、クローン技術を応用して野菜を大量生産し飢餓状態にある人々に与えることや、動物をクローン技術によって複製することさえもできるのだが、その結果私たち人間のあり方を予見できないようなところまで変えてしまうことになりかねない危険性をもっている。また建設するためにエネルギーを使うこともできるが、一方でエネルギーは破壊のために使うこともできる。今日の科学が、かつてない大きな力を持つに至った現在こそ、思想問題、倫理観というものを重要視しなければならないと思う。そして何よりも、科学を人間にとって益になる目的のために用いなければならない。

 もうひとつよく言われることに、「すべての思想は尊重されるべきものである」ということがある。しかしこれは重大な間違いであることを指摘したい。すべての「人」は尊重すべきであるが、すべての「思想」あるいは「考え方」を尊重すべきだということはできない。例えば、人種差別は一つの思想であるが、これは軽蔑すべきものといえる。またファシズムも一つの思想であるが、これは不幸しかもたらさない。

 それに加えて、「思想というものには限界があり、学術界やインテリの間でしか語られないものだ」という考えがあるが、それも間違いである。思想そのものはエリートの間で生まれるのであるが、その後思想が一人歩きをし、世界を動かすことになる。その結果は、いい方向に動く場合もあるが、一方では紛争や戦争など悪い方向に向けて動かすこともありうる。過去もそうであったし、現在でもそれは変わっていない。

 私たちは今、非常に不思議な矛盾に直面している。自由民主主義は、これまで非常によい政治システムだと考えられてきたが、そこに住む市民は自由民主主義の理念からむしろ離れた存在になりつつある。つまり市民がその責任を果たさなくなってきているのである。例えば、米国においては選挙を棄権する人が国民の半分に至っており、選挙や政治家を選ぶことへの関心を失いつつある。米国以上に政治的意識が高いと言われるヨーロッパにおいてさえも同様の趨勢にあり、議会がその権威を失いつつある。ラテンアメリカではもっと複雑である。ベネズエラ、ペルーなどでは、いくつかの政党が姿を消している。エクアドル、パラグアイなどでは、政治制度が非常に不安定な状況にある。またコロンビアなどでは、ゲリラと麻薬の密売が政治体制を揺るがしている。幸いなことにラテンアメリカの他の国々は、非常に確固たる民主主義体制を保持しているものの、市民の政治参加は同様に遠のきつつある現状である。

(2)グローバリゼーションの影響
 そこでは一体何が起こっているか。
 まず第一に、グローバリゼーションによる影響について考えてみる必要がある。グローバリゼーションの進展は市民生活にさまざまな機会と便益をもたらしたが、国家はその影響に伴う国内外の諸問題を解決する能力を失いつつある。その結果、国民はその政府が問題解決能力がないのではないか、そういう状況を管理できないのではないかと思うようになった。そして国際的機関に目を向けてみても、その国際的機関にも十分な問題解決能力を見出すことができない。このように私たちは、大きな力に押し流されつつある現状である。

 そのもう一つの影響は、労働の不安定化である。グローバルな経済活動の結果、技術革新が継続的に起こり、併せて国際的競争が激化するため、安定した労働が失われてきつつある。例えば、終身雇用制度の崩壊、ロボット化による失業の発生、技術革新に伴う労働者の不適応問題などである。その結果として国民は、国家や政治に対して不満を抱くようになった。このように国民は、無防備な状況でさまざまな変化に振り回されているのである。

 第二に、私たちは現在ダイナミックでバイタリティーのある経済の中に暮らしているが、それは一方で不安定であり、危険を常に伴うものである。株価を中心とするマーケットの動きは、それを象徴している。そしてこれまで私たちが経験したことのないような、ある意味で1929年の大恐慌よりも深刻な不況が訪れている。前述したように現代が大きな変革の時期に至ったにもかかわらず、産業の中心が工業にあると多くの人が信じている。株式市場は投機の場と化し、常に危険を孕んでいる。そして実体経済の上に金融が大きくのしかかっている。このように私たちは、危険な形の経済構造の中で生きているのである。

 第三に、今日の社会は非常に大きな「社会的亀裂」というものを体験している。フランシス・フクヤマ氏の言葉を借りれば、「家族構造の弱体化」ということになる。特に、新しい世代、若年世代がその影響を大きく受けている。それから犯罪の若年化、薬物の使用、新しい貧困という問題が起こっている。特に先進諸国においては、移民の人々を中心に貧困の問題が起こっている。そのような人々は、社会の新しい変化にうまく適応できなかった結果、貧困にあえいでいるのである。

 私たちはあらゆる問題の解決を政治というものに求めてきた。なぜなら社会問題に対する政府の介入の力が大きなものであったからである。それは民主主義国家であれ、あるいは全体主義的な国家であれ、その介入の力は大きいものであった。ところが、グローバリゼーションの進展によって、国家のプレゼンスというものが小さくなってしまった。このような変化が起こったのである。

 これを一般市民の立場から見た場合に、より多くのチャンス(機会)が生まれるということでもある。もちろんそれはまた同時に、多くのリスクも伴うものである。いずれにせよ国家から保護されているという感覚は、今後ますます小さくなっていくであろう。

3.現代社会と家族

 このような状況を前にして以前にもまして私たちがしなければならないことは、ここで一瞬立ち止まって社会について考えることである。
 今私たちが生きている社会は、不安定感に満ちたものである。例えば、雇用の安定性が失われ大規模な失業問題が起きている。また都市の街頭には暴力行為がますます増えて、都市の治安が悪化している。

 ところで、現代における都市は、さまざまな機能を備えている。さまざまな市民サービス、繁華街、ショッピング、散歩など憩いの空間などの機能であるが、その一方で、社会から疎外され、落ちこぼれた人々が生まれ、違法の暴力行為がこれまでにないほどに激化している。これは1970年代に始まり、全世界に拡散していった。さらに、浮浪者の増加、街頭での泥酔者・物乞いの様相などは、近代都市によく見られる風景となってしまった。そして犯罪者の若年化が進行しているのも一つの特徴である。

 このようなことから、こうした現象は、複雑な文化的な現象だということができる。規律、伝統的なよい習慣などが失われ、あらゆる面で寛大さが弱まりつつある。それは家族が社会の基本的な単位であるという視点が失われたことに起因する。即ち、家族の弱体化である。

 それから別の現象として、大量生産に伴う消費享楽主義というものが出てきた。これは実際の必要を満足させる以上に、無駄を生み出している。以前にも増して人々に次々とさまざまな新商品が提供されて宣伝活動が行われ、購買心が煽られている。そのため人々は精神的なストレスを目に見えない形で受けている。つまり、ものを買い続けなければいけないという不安感・衝動を押さえきれず、そして商品を買えば買うほど欲求不満を感じるのである。これを社会心理学的に表現すれば、「病気」の症状であるといえる。例えば、親がそのような欲望をもった子どもたちの心を十分に満たせない時、家庭内にはさまざまな問題が起きてくる。それはテレビ、インターネット等を通じてますます促進されている現状である。

 このように世の中で一番大きな変化が起こっている場所が、まさに家族なのである。それ故、社会・経済的変革というのは、まさに家庭の中から行われるべきであろう。更に敷衍すれば、家庭の改革は社会資本の改革の一つだということができる。そして家庭の中でのおいてこそ、協力(協調)の精神を養うことができる。それは家庭の中で母親が子供の世話をするような形で見られるものである。

 ところが今日、世界全体として残念ながら出生率が下がっており、家族構造が変化しつつある。スペイン、イタリア、日本などの国では、それが顕著に現れ、人口減少となって現れてきている。つまり若年層の人口が減少することによって、逆ピラミッド型の人口構成になる傾向を示している。それは将来の社会保障システムに悪い影響を及ぼすとともに、経済の停滞、労働力不足、社会不安という問題も引き起こすことになる。

 家庭の弱体化を示すもう一つの動きを指摘しよう。
 それは「家族」概念の変化である。出生率の低下による子供数の減少とともに、家族概念の中から祖父母、親族などの大家族の概念がなくなり、親と子という最小単位の家族(核家族)が増加した。また、正規の婚姻以外の非嫡出子が増えた。例えば、米国では非嫡出子の割合が1940年に5%であったものが、1993年には31%、現在では50%になっている。このように現在においては、結婚制度が崩壊しつつある。

 もう一つの社会不安の要素として、麻薬消費がある。これは精神の空白の表れと理解することができる。なぜならこの問題は、貧しい発展途上国から発生したのではなく、主に先進国の問題だからなのである。麻薬の密売は、ニューヨークにおいて、しかも上流階級の中から生まれ、それが広く世界に拡散していった。この問題の本質は、社会不安の表れ、すなわち人生に意味を見出すことができなくなったこと、自分自身に対する信頼喪失だといえる。これらは21世紀に向けて社会が非常に重大に考えなければならぬ問題である。

4.ドグマティズムとの闘い

 歴史的に見て、9月11日(米国同時多発テロ事件)は、一つの時代のシンボル的な日である。例えば、歴史上には記念すべき日というものがある。例えば、1789年7月14日はフランス革命におけるバスチーユ監獄襲撃の日であった。その日、リベラルな考え方と絶対君主制の考え方とが衝突した。また、1989年11月9日には、ベルリンの壁が崩壊した。自由民主主義と共産主義という二つの考え方がぶつかって、一つが落ちたという記念すべき日である。そして、2001年9月11日は、同様にもう一つの違う概念の戦いが始まった日でもある。多民族主義、プラグマティズム、ドグマティズムなどがぶつかった日である。

 これは原理主義の一つのグループに対する闘いである。幸いなことに、この闘いは近いうちに終息するであろうことが明らかになりつつある。しかしながら、真の闘いは武器を持った戦いではなく、精神の闘いなのである。私たちが平和にしなければならないのは精神なのである。また私たちが教えなければならないのは共存である。特に諸宗教の共存する社会を、これから構築していかなければならない。それこそ真の偉大な闘いといえる。

 原理主義というのは、道理のひとつの病気ともいえる。原理主義者たちは宗教の世界にもあるが、政治家の中にも見出すことができる。現代の社会は、宗教的原理主義者たちと戦っているが、かつてはレーニンの原理主義、すなわち政治的原理主義者たちと戦っていた。

 これらのことを通じて考えなければならないことは、現代における「闘い」の根幹をなすものは考え(思想)だということである。そして私たちの暮らす自由民主主義の政治形態についても考えていかねばならない。その考えの対極にあるのが、ドグマティズム、ファシズム、民族主義である。それらすべてが政治の健全な運営を害する障害要因となっている。アランは、これを「大いなる断絶(亀裂)」と呼んだ。

 そして全世界に移民の波が押し寄せ、さまざまな文化が互いに接触しあっている。そのような動きの中で、私たちは新たな社会を建設しつつある。それでは、その社会をどのようにして作り上げるのか。寛容な精神を持ち、さまざまな複合性の共存できる社会、異質なものが共存できる社会が必要なのである。そこにおいては「ドグマ」は排除されねばならない。また、自分の思想を強要することは避けなければならない。これは非常に偉大な闘いである。

 今日重要なことは、その寛容という考え方をどう「押し付ける」かということであり、これは自由民主主義の基本理念そのものである。寛容のために私たちは闘わなければならない。この偉大な戦争は、私たち人間の精神の中に宿っている。従って平和のために闘っている人たちに「おめでとう」と申し上げたい。それは偉大な信念であり、世界の人々すべてがその信念を求めなければならないからなのである。人間を尊重すること、社会の基本的核としての家庭を尊重すること、こうした精神を持って、日本とウルグアイ、世界平和のために。

(この論文は、2001年11月26日、東京において行われた記念講演内容をまとめたものである)

注1 アラン・トゥレーヌAlain Touraine (1925- )フランスの社会学者、哲学者。社会運動をテクノクラシー支配への抵抗としてとらえ、「新しい社会運動」論の展開に貢献。主な著書に、『社会学へのイマージュ』『声とまなざし』、『自由主義からどう脱するか』(Fayard出版、パリ、1999)、『共に生きることは可能か』(Fayard出版、パリ、1997)など。本文は『共に生きることは可能か』より引用。[三省堂「新辞林」より一部引用]