大学改革をどう進めるか
―私の大学改革論―

多摩大学名誉学長 野田 一夫

 

 過去十数年の間に立てつづけに多摩大学(私立)と宮城大学(県立)2つの大学創設に携わり、開学後は何れも初代学長をつとめた直接の体験に基づき、以下大学改革につき私見を述べ、各位の大学改革の参考に供したい。

1.国公立大学と私立大学

(1)大学の財政問題
 日本の大学、とくに私立大学の財政事情は、最近一段と厳しくなった。日本の私立大学では、学納金や受験料などが年間収入の平均8割前後を占めているから、少子化に伴う大学入学志願者の減少により、大学財政への直接的間接的影響は次第に大きくなりつつある。一方の国公立大学は今もって親方日の丸のおかげで一見私立大学より恵まれているように見えるが、国や地方自治体の財政の現状を考える時、前途は全く楽観を許さない。

 これまで関係者が大学財政面について無関心でありえただけに、今後の環境への適応はより困難と考えるべきだ。また、新しい時代の環境に大学が対応していくには、単に財政の安定をはかるだけでなく、適切な戦略の策定・実施とか組織体制の柔軟性などが重要な条件となる。その点一般論として、今後の生き残りないし発展に関し私立大学は国公立大学よりはるかにアドバンテージを持つというのが、私の一般的判断である。

 因みに、県立宮城大学の設立にあたっては、私立では考えられないほどの資金が投じられたことが印象的であった。実は私立の多摩大学を設立するとき、理事長と一番議論したのが初期投下資金の問題だった。言うまでもなく、不十分な投資額だと良い設備や施設ができない上、キャンパスの佇まいも悪くなり、更に良い教員も集められないということになるから、後になって受験料や学納金収入などに必ず響いてくる。また逆に過剰な投資をすると、減価償却や借入金の支払利息などの負担が大きくなり、収支の採算が取れなくなる結果、設置者である学校法人の経営を長期間にわたって圧迫することになる。

 ところが県立大学創設準備委員会の最初の会議では、県の担当者から一時間半ほど説明を受けたが、驚いたことは、最後までお金の話は出てこなかった。「民間では何よりも初期投下資金についての議論があるのに、これはどういうことか」と思い、担当者に質問したところ、予算枠は一応250億円があると聞いて、また飛び上がるほど驚いた。予定されていた収容定員は1200人であるから、学生一人あたり約2000万円の投資になる。

 専門分野によって多少異なるが、日本の私学の場合大学創設に投ぜられる資金は、学生一人あたりで500〜800万円くらいが相場である。恐らく1000万円以上の投資をすると、開学後の収支採算をとることが非常に困難になる。またそれより少なければ開学後の学生募集で苦労し、場合によっては文部科学省の基準にさえ満たないかもしれない。このように、同じ大学の創設といっても、私立と公立ではこれほど違う。ただ、宮城県もその頃からすでに財政の窮迫は十分予想されたのに、設立後収支見通しなどの議論も関係者の間で全くなされなかったのは、やはり官と民の経済観念の差によるものだろう。この感覚の差がこれからの経済社会環境の変化で、必ず大きくきいてくるように思えてならない。

(2)「独立行政法人化」の課題など
 例えば、現在文部科学省が進めようとしている「独立行政法人化」の「独立」という言葉に、国立大学教授はどのような意味を感じているだろうか。民間人の常識では、「独立」とはまず経済的自立が前提である。「子供が独立した」と言う場合、親からの経済的自立を意味しているのは、正しい使い方といえる。だから、国立大学が「独立する」というのは、単に「法人化」すれば良いとう話ではない。独立した法人であるにも関わらず、財政は国家に依存し、しかも身分も公務員のままでありたいというのでは、「独立」ではなく「隷属」と言わざるを得ない。文部省の一下部機関である現在と何ら変わらないのである。

 経済的に他者に依存していることを制約と感じないようでは、大学の「自由」も「自治」もしれたものである。現在の国立大学99校には、「独立行政法人化に反対である」だとか「民営化を目指す」と自分たちの未来像を掲げる権限もないが、それ以前に意思がないのである。この事実を情けないと感じないようでは、形だけ独立法人になったところで、大学の「自由」も「自治」も結局は抽象的な理念にすぎないと認識すべきだ。

 近年新設が増えてすでに80校にも達しようとしている公立大学に関しても、基本的には同じことが言える。ほとんど破局に瀕している国や地方自治体の財政を考えれば、行政側も大学側も、関係者が「いかなる独立行政法人であるべきか」といった議論を長々つづける時間的余裕など到底ないはずである。国立大学に関しては、ご承知のごとく、すでに文部科学省が統合合併によりその数を減らしていく政策を打ち出した。現在は人員の削減には触れていないが、将来は当然それを織り込んで政策を進めていくはずだ。

 私はかねてから、日本のような経済力をもつ国は国家の威信をかけてハード・ソフト両面で世界に冠たる大学を新たに2つか3つ創り、それを完全に国の財政で運営すべきだと考えてきた。教員も学生も世界から人材を集め、研究・教育両面の成果が常に世界のトップクラスにランクされるような国立大学があれば、現在の国立大学の存在理由はなくなるだろう。現在の国立大学全てに10年程度の期間で毎年逓減型助成金を与えていき、それでも経済的に自立できなければ廃校にするのがいいというのが私の年来の主張だが、国家財政がこれほど悪化した現在、私の構想の現実性も大きく失われたといえよう。

 かといって私は、現在文部科学省が打ち出している「トップ30大学育成構想」(いわゆる「遠山プラン」)にはあまり期待していない。近い将来を展望しても、わが国の財政には世界のトップにランクされる30もの大学育成策を講ずるほどの余裕などあるはずはない。中途半端な額の予算措置を講じたとしても、その公正な配分をめぐって毎年矮小な議論がくりかえされるだろうし、配分方式が慣習化されれば、それが新しい既得権となる可能性も極めて高い。結局、国立大学に期待されることはといえば、上述の統合合併や独立法人化の政策効果で実質的にその数が減少し、そのうちにはやがて教職員の削減も行われ、国家財政の負担を軽減してくれることだけだ。

 それでもまだ国立大学の場合には、設置者である文科省が教学に関する豊富な情報と人材をかかえており、経済社会環境の変化などお構いなしに勝手な主張をする教育現場のわがままを抑え、一定の政策を立案し、それを強力に実施に移していける。だが、公立大学となると、そうもいかないのが普通である。設置者である地方自治体には、情報も人材も乏しいから、公立大学の確固たる未来像など描けるはずはない。これからは、常に財政難に追い立てられる設置者と、抽象的大学論を主張する現場との対立が激化し、改革や適応のための貴重な時間が浪費されるというケースが漸増することであろう。

 こうなるとやはり、これまで日本の大学の中で一番経営的に不利な立場に甘んじさせられてきた私立大学が、条件付ながら一番有利な将来性をもつという結論に達する。その条件とは、いち早く新しい経済社会環境条件への戦略的適応に成功して生き残り組になることである。90年代に入って日本の大学をとりまく環境変化には少なくとも2つの原因がある。一つは「市場の構造的変化」、今一つは個々の「大学の内部崩壊」。もう少し具体的に言えば、前者は18歳人口の減少と大学進学志望率の鈍化、後者は教育の質と研究生産性の低下が常態化してしまったことである。

 80年代には、前者は不可避な時代的趨勢として公知のものとなったが、大学側の危機感は概して薄かった。また後者は誰の目にも明らかとなって、大学は「レジャーランド」とか「愚者の楽園」といった屈辱的呼び名でマスコミの批判の的にされたが、ほとんどの大学はなんら有効な対策を打つ能力も気構えもなかったといえる。こうした状況の中で文部省もようやく重い腰をあげ、大学審議会を設置し、次々と出されたその答申に基づいて大学改革に本格的に取り組む姿勢をみせたのが80年代後半からだった。

2.多摩大学と宮城大

(1)大学改革の実験としての多摩大学の経営・教育方針
 多摩大学の創設が計画されたのはちょうどその頃であった。実を言うと私はその頃すでに還暦を目前にしており、もともと望んでなった大学教員ではなかったせいか、日本の大学の制度、慣習、人間関係…全てに対して長年の嫌気がつのり、赴任後30年に達していた立教大学をやめてオーストラリアに移住しようと家まで購入していた。そこへ突然長年の友人から「東京の郊外に私立大学を新設したい人がいるから…」と一本の電話がかかってきた。はじめは相談だけのつもりであったのが、ことの成り行きで「教学面を全て任せるから…」と責任者を受ける羽目になった。

 日本の大学は対外的には各種の規制によって、また対内的には驚くべく時代遅れの制度や慣習によってどうにも身動きのとれない状態にある上に、大学教員には世間知らずで手前勝手な人々が多いことをいやというほど体験し尽くしていた私は、大学審議会の答申が提案しているような大げさな「大学改革」ではなく、自分の納得できる大学をひとつ創って世間に提供してみるかといった軽い気持ちで、構想を練りはじめたのだった。

 東京の西郊(多摩ニュータウン)に、新設される、小さい、単科大学。以上の4つに加えるに、日本の大学が大きな環境変化に当面させられようとしている正にその時期に創設されること。この5つの特徴を最大限プラスに発揮させることが、開学に当たっての私の戦略的課題だった。結局戦略目標は経営面と教育面とでそれぞれ3つに絞り込まれた。経営面では@は教授会権限の慣習的拡大の防止(学長選出方式など)、Aは職員の能力・意欲の向上(積極的人材登用など)、Bは費用対効果に基づく方式の積極的導入(勤務形態別給与方式など)である。@とBについて少しく具体的に付言しておこう。

 私自身は設置者から初代学長に任命された立場だったが、就任早々、次の学長は教授の選挙で選ぶという一般的慣例を排し、俗に「多摩大学方式」と呼ばれている独自の方式を決めた。まず理事会から2人、教授会(単科大学であるため教授会は一つしかない)から2人の合計4人で構成される「学長選考委員会」を設置する一方、すべての専任教職員が、学内外を問わず本人の一応の了解を取り付けて学長候補を推薦できることにした。選考委員会はそれに基づいて、責任を持って学長を決定し、教授会がそれを了承するという方式である。この方式に従って、グレゴリー・クラーク氏が学外から第2代学長に就任した。また今年9月には、前一橋大学教授中谷巌氏が3代目学長に就任した。このような学長選考方式は、初代学長が開学直後に決めておかなければ、後からの実現は難しかったろう。

 一方、常勤教員に対しては「勤務形態別給与制度」を導入した。一番単純には勤務形態は週当たりの出勤日で、A,B,C,Dと分類でき、Aは4日、Bは3日、Cは2日、Dが1日となる。それに対して基本給は、Aを100とすると、Bは85、Cは70、Dは55の比例配分で支払われる。毎年度本人の申告制で、どの教員も教授会に出席し、またゼミを持つといった権利を有するが、CおよびDの教員は試験監督などの学内業務を免除される。

 週1日出勤する常勤教員(D教員)はほとんどいないが、非常勤講師とどこが違うかといえば、上述のように教授会にも出席し、またゼミも持てると代わりに、出勤日は終日学内にいてオフィスアワーなどで学生の指導に当たるとか、大学の広報活動とか就職活動に対しては積極的な協力を求められる。専任講師は、定められた授業のコマ数をこなせば役割はそれで果たせるわけであるが、私の経験では、授業の内容も教育態度も専任教員に比べて決して低くないにもかかわらず、日本の大学独特の慣習から、不当に低い経済的処遇に甘んじさせられてきた。そこで私は開学に当たり、非常勤講師の経済的処遇も他校に比べて相当高く設定し、全教員の処遇を誰にも分る合理的なものとした。

 教育面では@世間の常識の通用する大学(シラバス、授業評価、退学勧告の制度化など)、A教育と研究の2枚看板を掲げられる大学(多摩大総合研究所の設置など)B社会人を相手にできる大学(学界外からの人材の多用など)の3つである。@米国のメジャーな大学と違って、国公私立を問わず日本の大学の自主財源の大部分は学納金収入である。つまり収入面から言えば日本の大学は完全に教育機関であるにもかかわらず、日本の大学はほぼ例外なく教育を明らかに軽視してきた。大学の設立から運営にいたるまで強力な権限を振るう世界無比の官庁文部(科学)省の責任もあるが、教員の多くは過剰な研究者意識が災いして教育の責務を慣習的に怠り、学生の多くは勉学意欲の欠落のために教育軽視の慣習に不満の声すら挙げようとしなかった。この矛盾した現実を打破するため、多摩大学は開学時より、教育に熱心な米国の大学の諸制度や方式を可能なかぎり導入しようとした。

 しかし、A教育を第一義とすることは、決して研究を軽視することではない。多摩大学では教員の研究活動の範囲を狭義の学術研究より大きく広げ、各人がそれぞれの好みと個性的能力に応じて多彩な外部活動を展開することを積極的に奨励し、さまざまな措置を講じた。付置機関としての多摩大学総合研究所の設置はその方針に沿ったものである。ところで、多摩大学は研究収入が教育収入の3分の1を超えた時「教育と研究の2枚看板を掲げる」ことを目指したが、残念ながら開学後12年目を迎えた現在も、この目的は達成されていない。Bは当然のことながら、わが国における大学の市場構造の変化を予想して打ち出された方針である。この方針は大学院(93年修士課程、95年博士課程開設)においてはすでに達成をみたが、学部レベルにおいてはまだ将来の課題である。

 最後に、多摩大学の開学に深くかかわり、かつ開学後6年間初代学長を務めた私の幸運は、私が終始教学責任者としてリーダーシップを思う存分に発揮できたことである。設置者である学校法人の理事長が創設までの期間もまた開学後も、少なくとも教学面での権限を全面的に私に委譲してくれたためである。文部省は大学審議会の答申などを通して、「学長のリーダーシップの強化」につよく言及しているが、その発揮を期待できる人材選出の方法とか、実際にそれを発揮していくための現実的条件などについてはほとんど言及していない。現在のように学長の選考が事実上専任教員の選挙で行われる場合、現状の改革を指向する人物が選出される可能性は極めて少ないし、たとえ選出されても学内規則や慣習が存在する限り、学長がリーダーシップを発揮することは困難であろう。

 多摩大学学長就任時から6年後任期を全うして退任するまで、絶えず学長としての私の頭の中にあったのは、大学財政のことだった。少なくとも8年後に消費収支をバランスさせなければ、どんなにいい大学ができても、設置者である学校法人には大きな負担を強いることになり、結果としては大学の自主的発展を期待することができないからである。幸い設置戦略はことごとく予想外の効を奏して、初年度の出願倍率は33.3倍に達したが、これがまた新設の多摩大学の世間的評価と知名度を高めるのに役立ち、開学3年目からは文部省がとくに臨時定員増を大幅に認めてくれたこともあって財政事情は一気に好転し、完成年度が終わった93年度には、早々と消費収支をバランスさせることができた。多摩大学は経営的にも例外的に成功した新設大学といえるであろう。

(2)宮城大学開学の経緯と県立大学の限界
 多摩大学が開学した翌々年、大学設置基準の改定が行われた。一般に「大綱化」と呼ばれているように、主としてソフト面に関してであるが、久しく大学の新設に関して課せられていた文部省による小児病的規制が緩和され、設置者は各自の理念と方針に基づいてかなり個性的なカリキュラムと教員陣容で学部ないし学科を創る大幅な自由を得た。「今だったら、もっと斬新な大学が創れたのに・・・」と残念な気持ちを抱きながら多摩大学の学長をつづけていた私だったが、その私には、大学の新設に関して相談や依頼に訪れる来客が尻上がりに増えていった。

 学校法人の理事長とか地方自治体の首長とかが大部分であったが、説明を受けた総数約20件のうち9割は私からして話しにならないものばかりで、「お止めになった方がいいのでは…」などと余計な意見など申し上げたため、気分を害して帰られた方も多かったはずである。すでに大学をとり巻く経済社会環境は明らかに厳しくなろうとしているのに、まだ旧来型の何の変哲もない大学を設置したいと考えている人たちがそんなにたくさんいることに、率直に言って、驚きよりはむしろ懸念さえ感じた。

 それでも、説明を聞いて感銘を受けた例外的ケースが2件あった。宮城県の県立大学設立計画はその一つだった。私に会うためにわざわざ上京された本間俊太郎知事から受けた印象は強烈だった。「前知事の時代からの引継ぎの懸案で、看護単科大学の設置が決まっているが、21世紀を展望した場合、宮城県としては、せっかく大学を創るのに、それだけでは物足りないので…」という前置きで、氏独特の大学論をとうとうと披瀝された。その内容の大部分が的を射ており、しかも現実性があることに感銘を受けたのみか、平成5年4月に県庁内に設置する「県立大学創設準備委員会」委員長には西澤潤一先生(当時東北大学総長)が就任される予定と聞いて、依頼された副委員長就任をその場で快諾した。「西澤さんとなら面白い大学が創れるぞ…」という期待で大いに胸が膨らんだものだ。

 創設準備委員会は予定通り設置された直後、例の「ゼネコン汚職」で本間知事が突然退任するといった異常事態に見舞われたりはしたが、後を襲った浅野史郎氏は、「本間県政の見直し」を標榜しながら、こと県立大学計画に関する限り、予算はもとより、体制も、人事も全く変えようとしなかった。したがって、創設準備委員会は新知事のもとで続行され、県立宮城大学は平成9年4月開学の日を迎えることになった。前年の申請時にはまだ西澤先生が東北大学学長であられたことから、すでに多摩大学の名誉学長に退いていた私が学長候補となり、許可とともに自然に初代学長に就任することとなった。

 結局、宮城大学は看護学部と事業構想学部という2学部で発足した。最初から注目されたのは後者で、第一次入試の出願倍率は実に36.4倍に達して大成功したわけだが、ここへいたる過程は苦労の連続だった。まず学部の名称と内容をめぐって、自治省という思いもかけぬ役所から行政指導をうけて、当初の案の変更を迫られた上に、二転三転してようやくたどり着いた「事業構想学部」案に対しては、県側が「文部省が容認しない」と強く難色を示した。「大綱化」の意味を何回も説明したのだが、長い間厳しい許認可行政がつづくと規制緩和後も申請者の側には自縄自縛現象が残るものなのである。結局文部省へは私が単独で説明に行ったが、応対してくれた担当官に恵まれたのと、当方の準備と信念とが正しく評価されたのとが重なって、拍子抜けするほど簡単に了承が得られた。

 名称が決まると今度は県の担当者との間では、「そんな名称で志願者は集まるのか」ということが懸念材料になった。私は彼らに「マスマーケットは今や個別化されていくのは時代の流れ。大学の学部といえども例外ではない。後発の宮城大学が今ごろ法学部や経済学部を創っても魅力が生まれるはずはない。それより小さくても将来性のある事業構想学部のようなニッチマーケットに限られた資金と人材を投入した方がこれからの世の中のためになるし、また遥かに大学としての成功率が高いはず。自信を持って募集活動に専心してほしい」と説得した。案の定受験生の反応は県にとっても予想外で、私の説得は事実によって十分裏付けられたといえる。

 前述のごとく、この大学創設のために県は大金を投じた。キャンパスに投じられた資金のうち土地の取得ならびに造成費を除くと、学生数がほぼ同じ多摩大学の場合の実に3.5倍の資金が投ぜられた。この事実を知ったとき、期待と不安という2つの感情に駆られた。これだけの資金を投ずれば、敷地は狭くとも、米国の大学関係者が訪れても肩身の狭くないだけのキャンパスがつくれるという期待であり、後者は、将来どのようにして収支採算を取れるようにするのかという不安であった。前者に関しては、一生に一度のチャンスと、キャンパスレイアウトや建物・設備などの構想には総知総力を傾けた結果、完成した時から退任して半年も経つ現在も、その斬新性にも佇まいにも誇りと愛着を感じている。

 後者に関しては、学長就任した直後、そんな危惧をしていた自分が公務員としての常識を度外視していたことをつくづく自覚させられた。大学設立も県にとってはいわゆる“箱物”投資のひとつに過ぎず、収支採算とか投資回収といった民間的考えは、はじめから考慮外であった。それに、県立大学長は県の機構上は約150ある地方機関の長に過ぎず、地方機関の長は予め決定された予算にしたがって形式的にことを運ぶ以外さしたる制度的権限(人事権、予算執行権など)も与えられていないのである。それを知らずに理想に燃えて勇躍赴任した私は、県幹部にとって正にドン・キホーテに思えたであろう。

 率直に言うと、当初私も当惑し、失望し、何度も後悔さえもした。しかし結局、自分が直面した予想外の現実が私の目指した宮城大学創設の理想を諦める理由にはならないと思い返すや、私は戦ってでも改革をすすめようと決意した。県の制度および慣習との戦い、一部県官僚の陰湿かつ矮小な行動との戦い、日本の大学独特の因習に固執しようとする教員との戦い、彼らと通じた政治権力の不当な圧力との戦い、時にくじけそうになる自分との戦い…、考えてみれば宮城大学学長時代の4年間は、私にとって1日とて安らぎを感じたことのない日々であった。しかも4年の任期中の特筆すべき改革実績といえば、教学面では「授業評価結果の(自由記入項目を含む)完全公開」、経営面では、多摩大学の勤務形態別給与制度の公立大学版と言っていい「特任教員制度」くらいのものだろうか…。

 美しいキャンパス以外に宮城大学に関して私が誇れるものがあるとすれば、それは学生である。宮城大学の学生は大半が宮城県を含む東北各県で生まれ育った若者たちであるが、はじめはただおとなしい若者に思えたのだが、授業やその他の機会に接触が深まるにつれて、私は彼らに対して愛情よりは、尊敬が深まっていくのを感じた。表面的には東京の学生に比べて内気に見えるが、内面を知るとその率直さと賢さはあらゆる機会に感銘を受けた。これは学校教育以前、つまり、彼らが育った家庭環境によるものだと確信している。

 戦後日本は経済の高度成長により消費生活は格段に高まったが、他方貴重なものも失った。その最たるものは、“健全な家庭”である。健全な家庭の喪失は、誠実にして勤勉な国民性の喪失につながり、ひいては社会秩序の乱れと精神の荒廃をもたらした。その点、高度成長の恵みに預かることが最も少なかったが故に、東北地方には他の地域には見られない膨大な森林が残された。残された森林の緑は誰の目にもはっきり見えるが、実は東北地方には、“目に見えない緑”も大きく残された。それは健全な家庭である。私は宮城大学の学生こそ、目に見えない緑によって素直に、賢く育った若者だと信じている。彼らの素直さが心無い教員によって汚されないことだけが、初代学長としての最大の希いである。

3.おわりに

 大学の活動領域はどこの国でも「高等教育」と「学術研究」である。しかし教育水準が高まり、かつ大学、大学生、大学教員の数が急速に増加して、いわゆる大学の“大衆化”が進行すると、大学の社会的役割としては「高等教育」の比重が高まるのは当然である。例えば、米国には現在の日本の4年制大学に匹敵する大学が2千数百校あるが、そのうち高等教育のほか「学術研究」を標榜して成果をあげている研究並行型大学は約5%程度だと言われている。これらの大学では年間収入の少なくとも10%以上が専任教員による研究受託による。しかしそれらの大学でも大学院はもとより学部での教育には競って力を入れることによって、名声を保ち、かつ順調に経営を維持することができる。

 日本ではどうだろう。大学教員は一般に過剰な研究者意識の故に、多くが教師としての自覚も情熱も乏しく、かつ当然のことながらその力量も努力も伴わないことが災いして、教育機関としての大学の社会的評価は、ここ数十年の間に他国に比べて急速に低落してきた。かといって、学術研究の成果はとなると、ごく限られた数の人材を除いては、世界的にはもとより国内的に見ても余りにも知られない存在である。そのくせ国・公・私立を問わず、大学という大学には、金額こそ異なれ専任教員には「研究費」の一律支給といった制度まで温存させて、彼らの研究者意識を甘やかしているのが現状である。

 この現状を知ってか知らずでか、文部(科学)省は近年、数値目標まで明示して、大学院の整備拡充政策を進めている。短期間に先進欧米諸国の水準に追いつくべく、「二階建て方式」と称して、学部の施設と教員を利用した安価かつ簡便な大学院の設置をどんどん認可している。考えようによっては、学部教育すら十分にできなかった大学が、果たして期待されたような大学院教育の実を挙げられるのか。また下手をすると、新制大学の乱造が結果として「レジャーランド」という言葉に象徴される大学教育の荒廃を招来したように、大学院でも日本はその二の舞を演じるのではないか。とにかく私は日本の大学の教育の現状をどうしても楽観視することはできない。

 日本の大学の世界では、教員間にも大学間にも米国ならごく当たり前のような競争が全くない。教員は一度専任となると、昇格や昇給には多少個人差はあるとはいえ、教育や研究の成果とはほとんど関係なくほぼ完全な終身雇用が保証される。ことに、国公立大学教員は公務員法の他に「教育公務員特例法」という時代遅れの法律で二重に保護され、事務職員では考えられないような数々の特権を日常的に享受できる上に、(破廉恥行為以外)いかなる職責遂行上の無責任や無能によっても処分されることがない。大学が日本では「愚者の楽園」などという屈辱的な異名を与えられる所以がここに淵源すると言える。

 その点大学も同じで、国公立でも私立でも(偏差値などで)一たび“一流”という社会的評価を確立すると、教育内容や教育方法の如何にかかわらず、なぜか評価は信じられないほど長く変わる事がない。逆にいえば、一たび“三流”と評価された大学とか、名もなく(特に地方で)新設された大学とかは、どんなに教育に力を入れても、高い社会的評価を得ることが不可能に近い。高い評価を受けた大学には優秀な学生が自然に集まるから、教育の手を抜いても人材が社会に出て行くし、逆に、低い社会的評価しか受けられない大学には優秀な学生が来ないから、非凡な教育にもかかわらず、卒業生に人材が出ない。こんな不条理な事態の定着は、大学間の競争の激しい米国では考えられないことだ。

 最近日本の大学界では、一流(特に国立)大学での学部教育を縮小ないし廃止し、大学院大学へ移行することによって研究活動の比重を高めるという動きがある。例の「遠山プラン」が打ち出したベスト30大学育成政策も何か、こうした動きに関連がありそうである。こんな話を耳にし、真相を邪推しそうになるたびに私の心に蘇る昔の思い出がある。もう40年以上も昔、私はMITフェローとして研究に従事していた。現在も当時もMITは年間収入のうち研究が50%を切ったことがなく、授業料収入は20%を超えたことがないと言われる米国でも特異な大学である。しかし、教育への配慮と力の入れ方は、日本の大学を知っていた私には何から何まで頭の下がる思いだった。

 そこである日私は、親しいディーンに、「学生は授業料を納めるという意味で、大切な消費者だからか?」と問うてみた。その時彼の答えを聞いて、私は己を恥じた。彼は静かな笑みを浮かべながら言った。「それも確かにあるが…。なんと言っても、MITには国の内外から俊才が集まって来る。見た目は年も若く、服装もみすぼらしいが、彼らには素晴らしい未来がある。彼らがMITの教育で才能を大きく伸張することができれば、卒業後はそれぞれの職業で大をなすことは間違いない。そして成功した彼らは、きっと将来のMITを力強く支えてくれるはずだ…」と。ディーンのこの言葉は、毎年のファイナンシャル・リポートに計上されている「寄付金」の数字によって何よりもよく裏づけられている。

 日本の大学は、教育こそ大学の本来の役割であることを改めて考え直す時期にきている。このことを最後にとくに強調し、私の講演を終わりたい。
(2001年11月10日発表)