経済・社会的観点から見た日中関係の展望

愛知大学教授 嶋倉 民生

 

1. 中国経済の高成長の背景と今後

(1)中国共産党の政策・路線転換
 50年位のスパンで見た場合に、中国共産党が堅持する政策路線は、「一つの中心、二つの基本点」というスローガンで表現されている。

 「一つの中心」とは、「経済を中心」に国政に取り組むという意味である。毛沢東時代とは異なり、社会主義社会の建設と革命に主眼を置かず、経済中心の政策を取るということである。次に「二つの基本点」の第一は、「対外開放」政策である。小平は、「国を閉ざすと世界の技術、産業、科学の発展から取り残され、損を被る」と明確に表明した。第二の「基本点」は、社会主義の堅持である。それは四つの基本原則(@社会主義の道、A人民民主独裁、B中国共産党の指導、Cマルクス・レーニン主義と毛沢東思想)からなり、社会主義を守るためには党による独裁が必要だと考える。そのために思想問題を最重要視する。このことを一言で表せば、「経済は柔らかく、政治は硬く」(軟経済、硬政治)となる。

 毛沢東後の中国について、経済面で特筆すべきことは、84年の経済体制改革決議において、格差が是認されたことである。特に、学者・研究者・教育者の待遇が中国では不当によくないので高めるべきだとした。この決議は、「北京週報」日本語版(中国で翻訳された日本語版)でも「格差を拡大しなければならない」と表現している。つまり、知識人や技術者の賃金が不当に低く処遇されてきた過去から、格差を拡大するという方向に転換したのである。

 マルクス、エンゲルスが、社会主義、共産主義を提唱して以来、世界各国において共産党はさまざまな決議文書を出してきたが、「格差を拡大する」ことを述べたものは、この決議が初めてである。つまり、84年の経済体制改革決議は、共産主義ビジョンの180度転換を意味するのである。

 当時小平は、中央顧問委第3回総会で言い訳めいた説明をしている。ある特定の地域、産業分野、階層が先駆けて豊かになるわけだから、後発者との間に格差が開く。しかし取り残される者が従来よりさらに貧しくなっていいというわけではないと。リーディング・セクターは、機関車となり牽引していくグループとして先に豊かになり、そうでない者たちとの格差が開くのは仕方ない。しかし、そのことと平行して底辺層の底上げもすべきだという考えで、これを「先富論」という。

 その後87年、趙紫陽総書記が、「社会主義初級段階論」を提起した。中国は社会主義の看板を絶対おろさないし、中国型社会主義社会の建設を目標としている点では変っていない。中国共産党は6千数百万人の党員を擁し、5年毎に開催される党大会でも過去4回必ず総書記が総括報告で社会主義実現を主張してきた。しかし、十三回党大会(87年)において趙紫陽総書記は、中国の社会主義はまだ初級段階で、社会主義が実現するに100年かかるとしている。この「100年」という数字は、小平自らも香港返還の時にサッチャー英国・前首相に対して述べていることであり、全く根拠のない数字ではない。

 香港は社会主義中国に返還されたが、これは中国内に資本主義体制の共存を認めるものである(「一国二制度」)。またこれは香港に政治経済特別区を認めるわけで、今後50年程度は、香港の社会・経済・精神のメカニズム、イギリス植民地支配の姿を保証することを意味する。つまり2050年くらいまでは、社会主義の初級段階だというのである。1949年に中華人民共和国が建国されてから約50年経ており、それから更に50年を加算すると21世紀の半ばがちょうど100年目になる。

 社会主義理論では、そもそも搾取や格差の拡大を否定し、平等を追求する。しかし中国共産党は、これらの決議によって、格差の拡大を是認し、株式、配当、企業者利得、耕作権を他人に貸す行為、すなわち地代などを初めて公式的に認めたのである。社会主義社会において、このような不労所得を認めることは、その理論と矛盾するが、今後50年はこの状態が続く。このように中国は市場経済を公認したのである。だから社会主義も初級段階だというのであろう。

 党大会は、その後の5年間にわたる党の内政外交の大枠を原則的に示すものである。過去20年4回の党大会において、総書記総括の中に「中国は平和と安定を求める」という文言が入っているが、これは見逃すことの出来ない重要な点である。毛沢東時代は「革命と戦争」という世界認識が、党大会の最後に記載されていた。即ち、革命勢力が育って大きくなれば戦争を防ぐことが出来る、しかし戦争が防げなければ革命が起こる。どちらに転んでも社会主義が強くなるというのが、毛沢東時代の党大会の結びにあった。しかし、最近は「平和と安定」を強調しているのである。

 先日、驚いたことには、江沢民主席が来日した際(98年11月)、宮中晩餐会の短いスピーチでも、「中国共産党は平和と安定を必要としている」と述べた。つまり、中国は経済的に豊かになることをすべてに優先することを基本路線としており、その基礎として平和と安定を重視するという考えで外交を展開している。

(2)ロシアの市場経済化路線との相違
 中国はロシアより6年早く市場経済化を進めた。即ち、ゴルバチョフがペレストロイカを唱え始めたのが85年で、中国は小平が権限を掌握したのが78年暮であった(11期3中全会)。

しかし、両者の政策転換の進め方は異なっていた。ソ連の場合は、まず複数政党制を認め、言論の自由を大胆に取り入れた。その結果、世界中のテレビ局がソ連国内に支局を設けた。つまり、言論の自由と政党・結社の自由という政治的な自由にも最初から手をつけたのである。ソ連・ロシアは、政党結社や言論の自由を認めたばかりに、皆が会議や議論ばかりするようになった。最近の新しい大統領になって言論弾圧を始め、少しハードな政治に逆戻りしているようである。

 ところが中国は全く逆で、言論の自由、西洋流の複数政党制を許さず、却って党の独裁を固めたのである。経済はソフトでも政治はハードにしている。中国は経済から始め、ロシアは政治的自由化を先に大胆にやりすぎたという印象がある。 

 毛沢東は農民出身の革命家であり、農民に未来の希望を約束し革命を推進したが、権力を掌握してからの毛沢東は農民を冷遇した。農民には人民公社という美名のもとに集団化をしたが、徹底的に重化学工業優先投資を行っており、富の再配分の観点からみると農業を軽視しているといわざるを得ない。

 しかし小平の政策手順はそれとは違っていた。小平は復権してから最初の5年間は農業政策、特に食糧増産に力をいれた。具体的には、人民公社を解体して戸別請負制とし、農民から農産物を買い上げる時の価格(生産者価格)を21%程度も引き上げた。このような大胆なことは日本では出来ないと思われる。日本では、米価審議会が米価の引き上げを諮問してきたが、最近はせいぜい1%未満である。その意味では小平の方が毛沢東より中国農民の尊敬を勝ち得ていいはずだが、この点があまり知られていないのは残念である。

 もう一つ付け加えておくと、中国の食糧生産高は人民中国誕生当時、1億8千万トンといわれていたが、毛沢東時代の終わりの頃には2億8千万トン、小平時代に入って3億トンを突破し、経済体制改革の84年頃には4億トン、最近は5億トン程度と順調に伸びている。そこまで増加した理由は、やはり小平が2割も生産者価格を高くしたためであった。そのために農民は熱心に農産物の生産に励み、化学肥料を大量に使用するようになった。特に硫安、尿素などの化学肥料の使用によって一段と収穫量が増大したのである。

小平が権力を掌握した後に、ちょうど多数の化学肥料工場が稼動し始めている。その以前、周恩来総理は死ぬ直前、四人組に引きずり落とされそうな危険な中にありながら、13の尿素プラント(肥料工場)を輸入した。そして周恩来の死後(1976年1月)、それが稼動し始めたのである。つまり実際の功労者は周恩来であるが、化学肥料を大量生産始めるころに権力の座に着いた小平は運がよかった。その後、食糧増産が実現していくのは当然といえる。ただ肥料のコストがかさむため、農民は生産量が増えても実際に懐は寒いという問題がある。いずれにしても今の中国政府は、穫れすぎて食糧をあまりたくさん買い上げることができない状態になっている。

 その後、80年代後半から90年代前半にさしかかると、豊かになった中国農村に住宅建築ブームが起こる。都会の人は狭い住居面積で暮らしているが、農村部では庭に住宅を建築し、豊かな農村が増えてきた。中国人の75〜80%が農村地帯に住んでいるため、その購買力が高まれば中国経済は活性化する。小平の農村重視政策が、今日の建材需要の堅調から始まり消費需要堅調の基礎になったといえる。

小平は、小さな企業を発展させようと努力した。その結果、農村における零細中小企業の裾野が広がった(郷鎮企業)。毛沢東時代の人民公社は、ハルサメ工場、露天堀の石炭砿山、セメント工場などどれを見ても惨めなものであったが、それでも農村小工業を重視していた。それが小平時代になって国外の華僑資本や日本の技術協力によって目覚しい発展を遂げることができた。

 私がかつて見たある紹興酒工場は、ハエがたくさんたかっていてとても不潔なものであった。ところが最近は、日本や香港などの酒造企業の資本と技術指導が導入され、日本の下町にある企業と同レベルの工場が増えつつある。もちろん零細企業が多いということは、一方で公害問題などの弊害もある。実際、工場からの汚水の垂れ流しや煤煙問題も起こっている。しかしこのような零細企業の裾野の広さは、ロシアには見られない。

 中露の国境地帯では、ロシアの人々がリュックを背負って中国の工業製品・消費財を買いに来ることが多い。彼らは中国の郷鎮企業が生産するジャケット、革靴などを買っていく。ロシアには中小企業や零細企業はあったとしても、中国ほどの広がりはない。今後、中国は中小企業をうまく組織化していけば目覚しい発展が期待できる。日本のトヨタ自動車ですら、中小企業の上に成り立っていることを考えれば、想像に難くない。そういう意味では、21世紀において中国はロシアとは決定的に違うレベルの経済力を持つと推測できる。

 最近、特許庁の中国模造品摘発業務担当者の報告を聞いた。ホンダの偽物オートバイを作るのに、一つの県内のいくつかの町でオートバイの部品単位に分担生産し、どこかに集めて組み立てるという。いくつもの市町村にまたがって組織的に偽物造りに取り組んでいるので摘発が難航しており、国際社会に介入してもらうしか解決方法がないといわれている。中国の社会主義国営工場は問題が多い。最近は、所有権は「国有」であるが、経営は多様化する、つまり「非国営化」している。いずれにしても、役人が経済を管理しようとしてもうまくいかない。先述した経済体制改革決議の中で胡耀邦は、「経済社会は複雑に絡み合っており、時々刻々変化している。それを政府(行政機構)が管理することは不可能である」とかなりはっきりと表現している。

 中国とソ連・ロシアの決定的な違いは、中国は国営・国有企業をすぐつぶさずに、徐々につぶしていくことである。まるで安楽死方式のようである。非国営部門の成長状態に合わせて外国資本も取り入れ、成長を図ることもする。出来るだけ民営化するが、一挙にはしない。最近はレイオフしても、何年間は給与を支給するなどの対処をしている。漸進的である。

 いずれにしても中国は21世紀においてその低賃金を基礎にゆるぎない世界の生産工場になっていくと思われ、更に中国は東アジア、地域経済的にも大きな役割を果たすだろうと考えられる。

(3)NIEs・ASEANの雁行型との相違
 アジアの経済発展は、「雁行型」とよく言われる。それは日本が経済発展のトップを走り、韓国、台湾がそれに続き、ASEANの国々がそれに続くという意味である。つまり日本が機関車としての牽引リーダーの役割を果たし、それにアジアの他の国が続くと説明されてきた。

 しかし中国の発展は「雁行型」とは別ではないかと考えられる。なぜなら、中国は台湾やASEANなどの海洋型国家と異なり、大陸型国家だからである。解放前、蒋介石の時代には、列強諸国が上海、天津、北京、重慶などに重化学工業の基礎をもっており、戦前日本は現地に満州重工業、三菱重工業、満鉄などを有していた。また、中ソ蜜月時代には、ソ連の援助で従業員1000人以上といった巨大重化学工業の基礎を沢山築いていたので、生産力の基礎をNIEs・ASEANと比較することができない。

 毛沢東の大躍進政策は、農業を犠牲にして重化学工業傾斜の大投資を行っている。毛沢東は本気で米国、蒋介石が反攻してくると考え、60年代の半ばからはソ連が中国を侵略するだろうと恐れていた。そこで毛沢東は、重化学工業投資を内陸部の辺鄙なところに分散疎開した(「三線建設」)。これは効率的にロスが多いものの、どうも最近になってみると内陸部に効率の悪い工業分散をしていたことが、却って「西部大開発」などプラスに転化しているようである。例えば、軍需産業振興策によって四川省などの内陸部に重化学工業の種を撒くことができたし、毛沢東時代に行った人民公社小型工業育成の努力は、現在の郷鎮企業の発展に役立っていると思われる。

(4)中国経済の課題
 中国経済は現在も高成長を遂げているが、若干憂慮すべきことがある。まず近代化に関して言えば、経済発展のテンポが速すぎるのではないかと思われる。また世界貿易機関(WTO)への加盟を急ぎすぎたために、そのツケはないのだろうか。欧米留学から帰国した若手指導者たちが大胆な政策を企画、立案して実行しているが、それらはすこし上滑りのようにも見える。内陸部の驚くべき貧しさを見落としているのではないか。豊かな海辺の大都会の一人っ子で育った大秀才たちが、西側の経済政策の真似事を強引に展開しているようにさえ思われる。

 私は若い頃10年ほど農林省で仕事をしたことがあった。そのときの食糧管理制度について考察してみると、日本の農業が自民党の農林族に守られていることを知った。人口に占める農業従事者の割合を比較してみると、現在中国60%、日本5%、イギリス1%前後である。もし日本の食管法や国会議員の農林族がウルグアイ・ラウンドなどに抵抗せずにいたら、日本の農業はつぶれていたかもしれない。それゆえ中国も、WTOに入りたいがために徒に関税障壁を低くするなどすれば、中国の農民はつぶれる可能性がある。中国の近代化のテンポが速すぎることによって、階層間、地域間の格差は過激になるのである。

 表Aを見てみると、中国が二桁成長したのは82〜83年から94年くらいまでである。一方、日本の二桁成長は60年からであった。中国の高度成長が80年代の半ばからであることを考えると、日本は二桁成長を中国より20年以上四半世紀近く早く体験していることになる。二桁成長を10年も続けているとその国は有頂天になり、相手国を軽く見るようになる。日本が二桁の高度成長で驀進しているとき中国は文化大革命で国が破壊されており、日本人の多くの脳裏には「中国はどうしようもない国だ」というイメージができた。その後、中国が二桁成長を始めて10年経つが、一方日本は、バブルがはじけて「失われた10年」を取り戻そうとあがいている状態である。それを尻目に見て中国では「日本は21世紀には消えてなくなる」などという若い者が出てきた。つまり両国の経済成長の波の時差が、両国関係によい影響を与えていないのである。

 次に表Bを見ると、北京を100として一人あたりの消費水準格差の変化がわかる。例えば、1985年の北京100に対して上海は117で、17%北京人よりいい暮らしをしていることがわかる。また広東省は60である。つまり今から15年前、中国の改革が始る頃は40%もの差があった。ところが1997年の統計を見てみると、広東が99に上昇しており、100の北京とほぼ同じレベルになった。同年の上海は190.8で北京人の倍程度のよい暮らしをしていることになる。また全般的に南の伸率が高く、北の伸率が低い。

 沿岸部の上海、福建、広東などは、消費水準は年8%以上の成長を遂げている。ところが内陸部は5%程度に留まっている。つまり中国の経済発展は地域的にアンバランスであり、沿岸部の中でも特に南がよく、北が悪いという様相を呈している。

 表Cは、海外資本の直接投資の地域割合を示しているが、広東省26.4%、江蘇省14%、福建省9%、上海7.9%となっている。貿易に関しても、中国の対外貿易の4割は広東省に集中し、その他、上海、福建、江蘇にも集中している。

 先日、中国におけるIT革命のシンポジウムを聞いて、中国でIT革命が進んでいるエリアは、北京と広東付近に集中していることがわかった。中国の動きが激しいだけにあちこちにひずみが出て来ている状況である。WTOに加盟するということは、一般的には労働集約型産業、輸出型産業には有利であるが、資本技術集約型には厳しいという原則があてはまる。繊維産業などは駄目だという見方をしている人も多いが、実際は自動車産業の方が不安定である。

 取り残される地域に関しては、「西部大開発」が提唱されている。しかしそれがどこをさしているのか不明確であり、おそらく、四川省成都、重慶、西安くらいであろう。その他は駱駝に乗って飛行場に飛行機を見物にくるようなエリアが大半を占めているのが現状である。また上海〜北京に新幹線を走らせる計画もあるが、西部大開発方針とは二律背反しているように見える。

2. 昨今の日中問題

(1)日中経済摩擦
 現在の中国の外貨準備高は1656億ドルで、巨額なものである。スリー・チャイナ(台湾・香港・大陸)の合計外貨準備高は世界を動かせるくらいあると推測できる。日本の対中貿易は89年以来、入超で、12年間貿易赤字が続いている。以前は中国から輸入する品目はとうもろこし、大豆、石炭や雑貨程度だったので、日本がプラントを一つ売れば対中黒字が出来た。しかしこの3年間ぐらいは、毎年200億ドルくらいの輸入超過で中国の大幅黒字が続いている。

 今の日中貿易は垂直分業型から水平分業型に移行しており、日本は中国から製造業製品を輸入するという構図である。日本から資本が出て中国に産業を育て、今度は日本が製造業製品を中国から買うという循環となっている。今や、「日日関係」といってもよいほど相互依存が深化した。200億ドルの対中入超が3年続いたからといって誰も騒がない。別な視点でみるべきであろう。

 そのような中で最近起こり始めたのが、しいたけ、ねぎなどの急激な輸入によって日本の農家がダメージを受け、セーフガード発動にまで発展したという問題であった。イグサは畳の原料だから日本が買わなければ他に買い手がいないので、これに関してセーフガードを発動すると中国の農民が被害を受けることになる。そもそも委託生産的にしてきた農産品に対して、セーフガードを発動するのはWTOの精神に反している。

 最近は対中政府開発援助(ODA)の見直し議論がさかんである。その中で、見逃されている点は、日本は無償援助が意外と少ないことである。つまり有償援助の割合が高いのである。さらに低金利であるにしても金利がつけられている。アンタイドローンで建前では輸入国を拘束しないとしているが、現実は資金を提供した国から買うことが多い。つまり日本企業は日本政府が提供したODAを当てにして、途上国へ経済的に進出しようとしているのである。有償を新聞などのメディアが報道しないのはおかしい。

 すでに韓国は最近ODAを出す側の国になりつつあるし、中国もODA受入れ国から卒業する時期がいずれくるはずである。米国が出すODAは、相手国(例えば、南アや中南米の国々)に返済能力がないことがわかっていて提供していることが大半である。だから無償援助も多い。しかし、日本のODAに対しては、かつての韓国、台湾、そして今の中国にしてもきちんと返済している。日本がかつて戦後受けた借款が、高速道路整備網やダムなど様々な面で日本経済を助けてきたことを、少し思い返すべきではないかと思う。ODAは双方に有意義である。

(2)李登輝・台湾前総統来日問題
 この問題に入る前に、日中共同声明(資料参照)について、若干考察しておこう。
72年9月に日中共同声明を出した当時、蒋介石も毛沢東も「中国は一つだ」と頑迷に主張していた。蒋介石は「共産主義の奴隷にされている中国の8億の民が、共産主義から解放されるべく大陸にもう一度もどって反撃する」ということを主張していた。もし台湾側が一つの中国にこだわらないで、中華民国は人民中国とともに国連に残る算段をしていれば、人民中国は別として国連に残ることに同情した国々もあったであろう。北朝鮮と韓国、西ドイツと東ドイツ等の例でも分かるように、同時に国連にいても問題なしとする国際世論もあり得たと思う。しかし、今は情勢が変り、台湾が独立したいという流れになっている。

 日中共同声明の第3項では、台湾は中国の不可分の領土であると中国側は声明しているが、別途日本側はそれに続く一文で、中国の主張を理解し尊重すると述べている。つまりそこでは単に「尊重する」とだけいっているのであって、「台湾が大陸の一部である」ということを日本は「承認」も「認知」もしていないのである。当時、双方が中国は一つと主張するので、日本は「口出ししない」と言ったに等しいのである。

ところで、こうしたことを表現する外交用語には5ランクあって、上から「承認する」、「認知する」、「尊重する」、「理解する」、「留意する」となっている。前述の「尊重」は中間段階の表現であり、元来、日本には中国の領土である台湾を「承認」したり「認知」したりする資格はない。

 今年4月、李登輝・台湾前総統の来日問題が起こった。一私人の旅行、行動に対してビザの発給をするなと中国が日本に要求すること自体は不愉快なことであるが、李登輝という人物は非常に問題の多い人物であることに間違いない。

 中国の元外交官の話によると、次のようである。李登輝は京都大学出身で、日本の兵隊も経験し、親日家であることが知られている。戦後、中国共産党に入党した。彼は台湾生まれの本省人で、蒋経国に用いられ台湾国民党の中枢部に上り詰め副総統になった。台湾人でありながら大陸からやってきた外省人を跳ね除けて副総統まで上り詰め、蒋経国氏の死後、総統になると台湾独立を言い出した。これは二重の裏切りであるという。つまり共産党員になって、それを隠して今度は国民党に入り、国民党総統になり、独立を主張しているというのは、二度裏切りをしたというのである。

 中台問題は夫婦喧嘩のようなものであり、他人は口を挟まない方がいい。昔は本家争いをしていて、今は分家を認めないという話に似ている。96年に李登輝が始めて民主的な選挙を行った時、中国は台湾海峡にミサイルを発射して周囲は驚いた。ところが、その2カ月後に尖閣列島に日本人が日の丸の旗を立てると、台湾の人も大陸の人も一緒になって悲憤慷慨し、日本を許せないと主張した。つまりこの程度のことで北京と台湾はすぐ仲直りをするのである。台湾は中国と本気で戦争ができるほどの規模はないし、それ以前に台湾資本は経済、産業面で深く大陸と結びついている。

 私が若い頃、香港に住んで学生運動を見ていても同じようなことがあった。台湾派と北京派が内ゲバをするほどの激しい衝突を繰り返していても、尖閣列島に日本人が灯台を建てるようなことがあれば、両派はたちどころにスクラムを組んで日本領事館に押しかけていた。彼らは「沖縄も中国の領土だ」などとも主張している。中国の人たちの内輪もめに巻き込まれるのは損であり、どちらかもしくは双方に憎まれるようなことをするのは得策ではない。

 李登輝のしたたかさを表す事例として、訪日日程をみても、森、小泉両内閣にまたがって倉敷に来たことが挙げられる。つまり彼は森内閣で訪日を実現し、小泉内閣でも訪日を実現した実績を作って帰った。本来、米国に行く予定があったのを日本の政局をみて来日したわけで、医療で人道問題というが、揺さぶりをかけたとも見ることが出来る。

 また、台湾の医者たちにも異議があるようだ。彼らの中にも欧米で先進医療を学んだ優秀な外科、心臓外科の専門病院や医師がたくさんおり、台湾で李登輝を診察治療できないわけではない。それにもかかわらず、わざわざ日本にくるというのは、我らを馬鹿にしているのではないかというのである。倉敷の医師が本当の名医なら訪台してもらう方法もあったはずである。それ以前に、一人の個人が訪日することに対してはビザを出せばいいわけで、これだけ大騒ぎする必要もなかった。

(3)歴史認識と教科書問題
 戦後50年間、中国共産党編纂の教科書のみで教育された人々が10億人もいることは恐ろしいことである。50〜60歳代くらいまでの人たちに対して、日本が中国大陸でひどい殺戮行為を行ったことが一方的に教え続けられてきた。中国は日本の教科書を非難するが、日本は教科書を多数の中から選べる国である。中国の教科書内容も吟味されるべきであろう。日本の教科書に関しては「日教組」の教育で形成された歴史感覚の偏向があり、平和や戦争反対などの考えが徹底しているせいか、比較的日本の子供たちの平和に対する認識は健全であるが、中国の場合は時間のかかる問題だと思う。

 愛知大学は天津の南開大学と交流しており、愛知大学の1年生が半年ほど留学し、そこで現地の教師から中国語を学ぶ。また語学友がマンツーマンで付いて、家に遊びにいったり、ピクニックにいったりする。そうした交流の中でどのような会話を中国の学生と交わしたか聞いてみると、日本は南京で30万人殺したなど、日本はいかに悪い国かということを熱心に説くので、嫌気がさすという。中国で行われている歴史教育の是正はとても難しい課題である。その根本は共産党が一党独裁を守りつづけている国であることを理解しなければならない。

 一方、日本でいろいろな見解の教科書ができるのはいいことであるが、「右より」の教科書は良いと思えない。たとえ出来たとしても、選択する自由が守られなければならない。米国では南北戦争に関する教科書の記述において、北側と南側で解釈が違う教科書が存在するという。南北が互いに相手側を侵略者と規定する教科書が同時に存在できる国である。多様性という意味では、そのような米国の教科書制度には良い点がある。

3.21世紀に向けた日中関係の展望

 中国と日本は経済面でも避けることができないほど結びつきが深くなっており、今後も摩擦は避けられない状態にある。その中で重要なことは、中国の異質性を理解するべきである。中国は、共産党による一党独裁で、普通の国ではないし、13億の人々が受けてきた対日歴史教育にしても我々から見れば信じがたいものがある。こういう人々とは付き合いたくないと考えていては今後の日本は成り立っていかない。

 人類社会の歴史潮流は、自由、人権、民主の拡大であり、独裁の維持ではない。中国もそうした価値観を尊重すべきだが、すぐに変われる国ではない。あの国の現状において独裁は必要な段階であると思う。わが国には居住権、信仰・宗教の自由、結社の自由も法律で保障されている。どこに住んでもよいという自由もあるが、もし中国で基本的人権として「居住の自由」を認めたら、奥地から大衆が押し寄せて海辺にあふれてしまうようなことが起こる。そういう意味では、農村の人が自由勝手に都会に住むことは出来ないと決められている方が現実的である。ヒラリー・クリントン夫人は、中国の一人っ子政策は、党が夫婦の布団の中にまで介入するという人権無視の政策であると北京で開催された第4回世界女性会議(1995年8-9月)で演説し、失笑を買ったという。国の発展段階には、独裁や規制も必要な時期がある。必要悪としての独裁に付き合っていく必要がある。

 また、経済交流の拡大こそが相互理解を深め、「衣食足りて、礼節を知る」道ではないかと思う。日本の周辺国が豊かになれば、安心して眠れる程度が高まる。(文中敬称略、2001年4月28日に発表した講演をまとめたものである。)

 

■資 料

日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明(日中共同声明) 
1972.09.29署名 
 日本国内閣総理大臣田中角栄は、中華人民共和国国務院総理周恩来の招きにより、一九七二年九月二十五日から九月三十日まで、中華人民共和国を訪問した。田中総理大臣には大平正芳外務大臣、二階堂進内閣官房長官その他の政府職員が随行した。

 毛沢東主席は、九月二十七日に田中角栄総理大臣と会見した。双方は、真剣かつ友好的な話合いを行つた。

 田中総理大臣および大平外務大臣と周恩来総理および姫鵬飛外交部長は、日中両国間の国交正常化問題をはじめとする両国間の諸問題および双方が関心を有するその他の諸問題について、終始、友好的な雰囲気のなかで真剣かつ率直に意見を交換し、次の両政府の共同声明を発出することに合意した。

 日中両国は、一衣帯水の間にある隣国であり、長い伝統的友好の歴史を有する。両国国民は、両国間にこれまで存在していた不正常な状態に終止符を打つことを切望している。戦争状態の終結と日中国交の正常化という両国国民の願望の実現は、両国関係の歴史の新たな一頁を開くこととなろう。

 日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。また、日本側は、中華人民共和国政府が提起した「復交三原則」を十分理解する立場に立って国交正常化の実現を図るという見解を再確認する。中国側は、これを歓迎するものである。

 日中両国間には社会制度の相違があるにもかかわらず、両国は、平和友好関係を樹立すべきであり、また、樹立することが可能である。両国間の国交を正常化し、相互に善隣友好関係を発展させる事は、両国国民の利益に合致するところであり、また、アジアにおける緊張緩和と世界の平和に貢献するものである。 

1.日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する。

2.日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する。

3.中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基く立場を堅持する。

4.日本国政府および中華人民共和国政府は、一九七二年九月二十九日から外交関係を樹立することを決定した。両政府は、国際法および国際慣行に従い、それぞれの首都における他方の大使館の設置およびその任務遂行のために必要なすべての措置をとり、また、できるだけすみやかに大使を交換することを決定した。

5.中華人民共和国政府は、中日両国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。

6.日本国政府および中華人民共和国政府は、主権および領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等および互恵ならびに平和共存の諸原則の基礎の上に両国間の恒久的な平和友好関係を確立することに合意する。
 両政府は、右の諸原則および国際連合憲章の原則にもとづき、日本国および中国が、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し、武力または武力による威嚇に訴えないことを確認する。

7.日中両国間の国交正常化は、第三国に対するものではない。両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する。

8.日本国政府および中華人民共和国政府は、両国間の平和友好関係を強固にし、発展させるため、平和友好条約の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。

9.日本国政府および中華人民共和国政府は、両国間の関係を一層発展させ、人的往来を拡大するため、必要に応じ、また、既存の民間取決めも考慮しつつ、貿易、海運、航空、漁業等の事項に関する協定の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。 

一九七二年九月二十九日に北京で 
日本国内閣総理大臣    田中角栄(署名)
日本国外務大臣      大平正芳(署名) 
中華人民共和国国務院総理 周恩来(署名)  
中華人民共和国外交部長  姫鵬飛(署名)  
(出典:外務省アジア局中国課監修 『日中関係基本資料集 1970年−1992年』 P98〜99)