大学教育の課題とエリート育成の必要性

早稲田大学教授 林 正寿

 

1. 異文化体験とカルシャーショック

 私の専門は経済学、より狭くは財政学と地方財政論であり、教育問題を系統だって研究しているわけではないが、教育現場での実践を通じて、日ごろ感じている体験を基に問題提起したいと思う。

 私はきわめて典型的な受験校である現在の千葉高(当時は千葉県立千葉第一高等学校)で学び、3年の二学期から「アメリカン・フィールド・サービス(AFS)」の第6期生として米国に留学した(1959‐60)。ニクソン対ケネディの歴史的な大統領選挙のころであり、アメリカ一国のみが超大国であった「黄金の50年代」最後のころであった。この1年間の留学生活の中で、目から鱗が落ちるようなカルチャーショックを体験し、後の私の人生に大きな影響を与えた。日本国内だけから世の中を見てきた人から比べると、若いときに広い視野を持つことが出来たのは幸運だったといえる。ちなみに、高校時代の3年間のアメリカ留学体験が、田中真紀子外務大臣の歴代外務大臣には見られなかった異色の言動の背景にあると思われるし、ミスター円と呼ばれた榊原英資元大蔵官僚の日本人離れした言動は、同じAFS制度のもとで私より1年前にアメリカに留学した氏の体験が影響していると推察される。

 その後、国際基督教大学(ICU)で4年間学んだが、今振り返ってみてもICUの教育環境は日本社会において極めてユニークであった。横浜市立大学で大学の将来計画等にかかわったときにも、ICUが50年前に実施したことのひとつでも導入できたら革命的であると公言していた。完全なバイリンギュアル制度、全寮制、少人数教育、世界に向けて開かれた窓と位置付けられていた毎週のコンボケーションと呼ばれる講演会、チャペルアワーからは幅広いものの考え方を学んだ。また、ICUは教養学部であったから、禅、ヨブ記、ギリシャ悲劇、プラトン、シェイクスピア、非ユークリッド幾何学、生命の起源、ドクトル・ファースト等も含めて、旧制高校で学んだであろうと思われる一般教育は、多様かつ内容豊かであり、人生の多くの側面に対して目を開いてくれた。一日24時間利用可能な米国の大学の図書館には及ばないが、ICUの図書館は夜10時まで開いていたので、私はぎりぎり一杯まで図書館で勉強し、10時以降に寮に帰ってお茶を飲むのを日課としていた。

 その後、一橋大学経済学研究科で修士課程と博士課程で5年間、さらに特別研究員助手として2年間のトータル7年間を過ごした。東大をはじめとする帝国大学とは一線を画した一橋大学の自由な雰囲気と学問水準の高さには非常に満足した。横浜市立大学へ移った後すぐ、London School of Economicsで在外研究をする機会を得て、ヨーロッパの大学を観察することができた。また、横浜市の姉妹都市であるリヨンのグランド・エコールである高等商学院への客員教授としてのフランスでの体験にも鮮烈なことが多く、アングロサクソンに対する不信感、ナポレオンへのこだわりなど、彼らの持つ中華思想的な考えにはずいぶん驚かされた。それにENAの卒業生をはじめとするフランスのエリートの優秀さには驚嘆させられた。フランス人は英語をしゃべらないなんて誰が言ったのか。

 私の学生時代の頃は、国際会議の通訳者はICUから殆ど供給されており、同時通訳のアルバイト待遇はとてもよいものであった。私も博士課程のころから多くの国際会議の通訳をする経験を得た。京都の国際会議場で行われる国際会議の通訳は、わたしも属していたサイマル・インターナショナルが独占しており、各界の一流人の言動を身近に観察する機会を得たのは幸運だったといえる。また、社会経済国民会議の使節団のコーディネーターとして、当時の社会主義国も含めての欧州諸国を何度も訪問したが、中央官庁のエリート官僚や、民間企業のトップ等との対談等も通して、かれらの高い知性と教育水準を知ることができた。

 横浜市立大学商学部で26年間教鞭をとった後、私は現在早稲田大学で教えている。早稲田の学生には「勉強量があまりにも足りない」とよく苦言を呈している。フルブライト留学試験を受けた時に、先輩たちから「文科系では、1日200ページ読めなければ落ちこぼれる」と断言された。学部レベルのICUでも、一つの科目には分厚い教科書以外に、30冊から40冊くらい参考図書が、図書館には別枠で置かれていた。だから教科書を読むのは当たり前で、それ以外に何十冊もの参考図書を読破し、毎週レポート提出に追われていたのである。

 最近は「国際」のついた学部や大学が林立しているが、本来、大学が国際性をもつのは当然である。ヨーロッパや米国の大学を見ても「国際性」というのは大学の当然の属性であり、古代エジプト、ギリシャ、ローマ、中国等を見ても、国際性というのは大学教育において普遍的な要素であった。ICUでは教員の3分の1が外国人、学生も2割が外国人であったが、アメリカやヨーロッパの大学をみて、その豊かな国際性に圧倒された。

2. 現代学生の現実

 横浜市立大学から早稲田に移って3年目になるが、早稲田大学においては学生たちと共に世界とわが国の未来を熱く語りあいたいと願っていた。しかし、現実には学生の多くは自分の周囲の深刻な問題に対しても、ほとんど問題意識を抱いていない。経済学や財政学はアダム・スミスのいうように経世家(大政治家statesman)のための学問なので、学生たちが一国の宰相になったつもりで、現実の問題をいかによく解決するかの問題意識を前提に授業を受けなければ意味がない。毎回、授業の初めには最近報道されている現実の問題を取り上げて、いかに解決すべきかを自分で考えさせるように啓発している。

 少数や分数が分からない学生が多いことは巷にも良く知られているが、TOEFLテストの成績でいえば、日本の学生はアジア諸国で下から2番目という情けない現状である(最低は北朝鮮)。残念ながら日本語は国際的には通用しない。「パックス・アメリカーナ」がまだ世界の現実であり、世界のどこでも通用する英語を道具として習得しない限りは、国際舞台において活躍はできない。国際機関に拠出する金額ではわが国は世界のトップであるが、国際舞台で活躍する真の国際人がなんと少ないことか。

 最近は日本国内で操業しながらも、英語を公用語とする会社が増えてきている。カルロス・ゴーン(Carlos Ghorn)社長率いる日産自動車はその筆頭にあげられる。NECなども同様である。海外へ行かず国内で日本企業に勤めていても、英語力の不足により意思疎通ができなければ、窓際族化するしかない。日産は外国人教師を雇い、仕事が終わった後に社員たちの英語力を向上させているという。ゴーン社長出身のルノーでも同じく社員の英語力向上の努力をしているが、日産従業員のTOEFL平均点が450点であるのに対して、ルノーでは700点である。フランスはつい最近まで英語を話すことを禁ずる法律があったほど、ある意味において英語嫌いの国であるが、意外にもフランス人は英語が得意である。日本語は確かに他のヨーロッパ言語と余りにも異なるため、英語習得は日本人にとって不利であるが、450点と700点の差はそのまま国際ビジネス競争におけるハンディになるため、この差を埋めるには勉強するしかない。わたしの授業をとる学生には、「ゆとり教育」という言葉は完全に払拭するように挑発している。「そこに山があるから登る」のであり、知らない単語があるなら覚えるしかない。

 横浜市立大学時代には、この50年間世界中を席巻したサミュエルソンの『経済学』を英語で講義した。早稲田大学でも1年次から同じ講義をしようとして志願したのだが、英語での講義は(教務規定上)出来ないが、3年次割り当ての英書研究という講義ではなにをするのも自由であるといわれた。そこで英書研究において、できるだけ英語でディスカッションしようとしたが、とてもそのような水準には達していなかった。しかし、1日200頁という新しい基準を提示するとともに、とにかく、1年間であの厚い教科書を読み終えた。学生の評判はまちまちであり、あれほど勉強させられたうえで点数も辛いということで私の授業をブラックリストに載せる学生もいたようだが、その一方で学生が発行する授業評価の履修ガイドには「本格的に英語を勉強するにはあのクラスをとるべきだ」と好意的に評価してくれた学生もいた。今年は受講者数が大幅に増加したので、講義を英語ですることにした。横浜市立大学ではじめたころ100%英語でやろうとしたら学生がほとんど全員脱落した経験に鑑みて、難しい単語などは日本語訳を教えたり、要約を日本語でいれたりして、学生たちがフォローできる授業のパターンを作り上げた。

 最近の学生は、勉強量が少ないだけでなく、教科書さえも買わない者が多い。私は教科書をレジメ代わりに使うので「教科書代を節約して何に使うのかしらないが、タダ程高いものはない。教科書があるとないとでは、1年間で講義の習得量に大変な差が生まれる」とよく注意する。また、頭は全然使わずに、板書するとどんなつまらないことでもすぐにノートを取る学生が多いが、わたしの授業では手は動かさず頭をフルに回転させるように要請している。細かい点は、あとで、教科書や参考書を読めばよいのであり、授業中には自分で問題を明確化し、その解決策を必死に考えて欲しいのである。

 また、履修届を出せば単位をもらえると期待する学生が多い。わたしの授業の受講生には「単位とはなんぞや、それは汗と涙で稼ぐものである」と教えている。アダムとイブが楽園を終われて以来、そもそも生きていくことは楽なことではないのであり、労せずして簡単に単位やよい成績を与えるのは、誤った教育であると信ずる。学生の中には「先生、私が早稲田に入ったのは卒業するときに背中に早稲田大学卒業という看板をつけるためで、他には何もいらないのです」と公言する者もいる。しかし、その学生はわたしの授業ではよく勉強して一番優れた成績を収めた。日産再建の成功におけるゴーン社長の秘訣と同じく、適切な動機づけ(motivation)を与えれば、学生の多くはかなり頑張る。

 私の学生時代を振り返ってみると、授業の合間に先生がもらした人生訓のような一言に、目から鱗が落ちたことがあった。大学3年の頃進路に悩み、ある会合で「今の世の中サラリーマンにしかなれないじゃないですか」というとICU教会の牧師に「サラリーマンにしかなれないというのが現代の宿命論であり、きみなら世界中のどこでも何でもできるじゃないか」と怒鳴られて目が覚めた。そのほか、「真理の二面性」とか、「Noということの重要性」とか、状況倫理学という科目では現実における選択と決断の厳しさを学んだ。

 ある学生の答案に「僕たちは夢も希望もない時代に生きているのです。講義を通じて少し夢や希望を与えて下さい」と書いてあった。学生は4年間のうち1年くらいは海外の大学に入り、いかに海外の大学のレベルが高いかということを肌身で体験するのがいいと思う。また、NGO等のボランティア活動に参加して、広い世界を見てくるのが望ましい。言語が通じない不自由さや、文化の違いなどを学ぶことによって、たくましく成長できると思うからである。私が米国留学で滞在していた町は、人口8000人のドイツ系中産階級の町で、日本人は1人もいなかった。

 先日、授業に行く途中で驚いたのは、他の教室の後部ではお化粧をしたり、携帯電話で誰かと話していたり、漫画を読んでいる姿を目にしたことであった。教壇では先生が授業中であった。昨年、外国語教育検討委員会に学生から投書があった。「早稲田に入って喜んだが、このレベルの低さには驚き、失望した。授業を聞きたいのでうるさい学生に注意すると、なんと教授は私を叱った。これだけの人数がいれば私語をする者がいるのはあたりまえだといわれた」と訴えていた。また、ある本で読んだ話だが、女子学生を「うるさい」と注意すると後日、親が出てきて「うちの娘に人前で恥をかかせた」と大学当局に訴え、結局、教授会でその教授が処罰されたという。「お客様は神様」ではあるが、何が正義かの公正な判断ができない社会は最悪の社会になる。

3. エリート養成と国際競争力

(1)「エリート」不在の日本社会
 最近目にした櫻井よしこ氏の「学力の低下したエリートの悲劇」という記事は、実に的を得ていると感じた。米国やヨーロッパは歴史的に階級社会が存在するため、大衆のレベルは必ずしも高くないが、エリートたちのレベルは極めて高い。早稲田の学生は米国ならばアイビースクール、イギリスではオックス・ブリッジ、ロンドン大学、フランスのグランゼコールの学生たちと競争すべき立場にありながら、今のような状況では競争にならない。イギリス植民地系の優秀な人たちはイギリスの有名大学で学び、国際機関のポストを独占している。アジアに目を向けてみても、イギリス、米国植民地であった国々と比較すると、当然ともいえるが日本人指導者の英語習得度はかなり低い。フィリピンの歴代大統領のアキノ、アヨロなども英語は上手だし、ブット、スーチーなどもすばらしい英語を話す。マハティールの英語は少しアクセントがあるが、国際舞台で喧嘩ができる。韓国の官僚も米国帰りが多い。田中真紀子外務大臣は英語を話せるようだが、前の大臣は殆ど出来なかったようだ。森前首相も英語は苦手である。宰相になるまでに英語はコミュニケーションのための道具として学生のうちに習得しておくべきで、国際舞台にでてから準備しても間に合わない。

 近代化のためにはエリート養成と大衆教育の両輪が必要である。日本にはこの分業を「不平等」と考える傾向があるようだが、これは役割分担だと割り切るべきである。最近の大学では、授業についていけない学生が多いという理由でどんどん授業のレベルを下げている。もっと能力のある学生がいるのに、その人たちは自分の能力の限界まで引き上げることなく遊んでいる。護送船団方式では一番速度の遅い船に全体の速度を合わせるわけであるが、この方式のためにわが国全体の効率性や競争力が著しく低下した。「授業についてこられない人が多いから、全体のレベルを下げるのであり、それこそ平等だ」という人がいるが、同じ平等を重んずる国であるフランスでの解釈はそれとは異なるようで、エリートの能力を極限まで引き上げることに努力している。

 最近は東大でも、生物学を履修しないで医学部に入学するとか、数学を学習せず経済学部に入学するものが多いという。経済学は変数を扱うので数学は必須である。ただ「これは必要だ」と納得すれば、学生は勉強するようになる。誘因の問題でもあり、教える側の責任も大きい。ところで、米国留学中に米国史のクラスで広島・長崎への原子爆弾投下の是非が討論のテーマとなったが、担当教員は「もし相手がドイツだったら(米国は)原爆を使用しただろうか」という疑問を学生に提起していた。それは戦後まだ10年余しか経っていない1959年のことであるが、「主体的に物事を考える力を身につけさせる」という点で米国の教授法は、今の日本の教育と比較するとはるかに進んでいるといえる。

 もちろん、人生において、エリートが幸せになれるとは限らない。映画のなかでモーツァルトが「私は100年生まれてくるのが早かった。誰も私を理解してくれない」と嘆く場面がある。そのとき訪ねてきたベートーベンに向かって「君は天才だ。だが君は誰のために作曲するのか。当代の人々には君の音楽を理解できない」というと、「私は私のために作曲するのだ」と席を蹴って出て行くシーンが印象的だった。芥川龍之介はキリストを天才の代表として取り上げ、「世に天才ほど不幸なものはない。生前は十字架に磔にし、死後は抹香をたいて拝んでいる」と『侏儒の言葉』において述べている。そういう意味では、人生とは天才にとっても凡人にとっても平等なのである。すなわち、学校の成績の良さが、幸福な人生を保証するものでもない。人材活用は適材適所で行うべきで、偏差値だけで人の優劣を区別する価値観は破壊すべきである。有名大学を出て就職した安泰であるはずの一流企業が倒産する今日この頃であり、そのような兆候が出始めているのは、学歴偏重の打破のためによいことである。これからは公務員も終身雇用が保証されるかどうかわからない。たとえ学歴がなくても技術を身に付けて職人として生きていく方が、よい人生が送れることも多いはずである。人生はさまざまであり、いろいろな能力の人々の役割分担で社会は成り立っている。エリートの資質を与えられた人々は自分のためのみならず、国民全体のためにも、能力を十分にのばす努力をする義務がある。

(2)貴族には貴族の義務(noblesse oblige)
 エリートには、フランス語の「ノブレス・ウブリージュ」を若いうちから教え込むことが必要である。私たちは 戦後、社会科の授業などで「日本には天然資源がなく、唯一の資源は人的資源である」と学んできた。つまり日本は人的資源が枯渇したら立ち行かないのである。武田信玄も「人は石垣、人は城」といっているが、まさにそのとおりである。日本ではこの「失われた10年」において景気回復のために血眼になってきたが、経済の問題は氷山の一角であり、もっと深刻な問題は人心の荒廃、教育の荒廃だと思う。「構造改革なしに景気回復なし」という小泉首相の主張には全面的に賛成であり、小泉内閣が登場による「風向きの変化」に大いに期待したい。

 私は70年代中ごろにイギリスで在外研究に従事したが、当時イギリスはいろいろな面で落ちぶれており、ヨーロッパでは「耄碌老人」扱いされていた。そのようなどん底状態にあって「私こそ没落したイギリスを救うジャンヌ・ダルク」と公言したサッチャーは立派であった。悪く言えば、誇大妄想狂や自惚れの要素もあるが、これくらいの使命感と信念が指導者には不可欠であり、彼女は文字どおりイギリスを救ったのである。

 また、日本には本当の専門家が少ないように思う。日本では事件が発生するとほんの一握りの人がさまざまの番組を掛け持ち出演しているような状況だが、米国のシンクタンク等の抱える厚い人材層とは比べ物にならない。また日本では、「インフォメーション」も「インテリジェンス」も「情報」と訳しているが、後者は容易には入手できない機密情報であり、とりわけ国際関係や安全保障においては不可欠である。数年前にイラクで起こった原子力発電所の爆破は、イスラエルの秘密諜報員がイラクの閣僚になって入手した機密情報がなければ成功はおぼつかなかった。アーミテージは日本に対して、日本版CIAの設置を提案しているが、本格的に機密情報を収集し加工する専門機関が不可欠であり、機密情報の収集や処理には最高の人材の投入が不可欠であろう。湾岸戦争時に外務省のある高官が「私はCNNインターナショナルを毎日見ているから国際通である」と言ったとされるが、誰でも知っている広く報道された情報と機密情報とはまったく異質のものである。

 オックス・ブリッジで学ぶ貴族の子弟たちは、普段エリートとして特別待遇を得ているが、戦争などの国難の際はまず最前線に自分たちが出て行く覚悟ができていた。それは本人たちの意志だけの問題ではなく、エリートたちは社会的責任を持つという共通の認識がある。日本でいえばかつての「サムライの意識」に似ている。ところが最近の日本人はこの日本版ノブレス・ウブリージュを失いつつある。内村鑑三の有名な言葉にも「私は日本の為に、日本は世界の為に、世界はキリストの為に」とある。私は「何故、存在し、何に対して奉仕するのか」という問いかけが大切である。これは単なる知識ではなく自覚が必要である。明治維新の志士たちが抱いた「この国のあり様はいかに」という問題意識を、今の学生たちも持つべきである。

(3)開かれた「愛国心」と現実的思考法
 今日の日本で愛国心の話をするとすぐ「右翼」「タカ派」と誤解される風潮がある。最近見た映画では「プライベート・ライアン」に深い感銘を受けた。ラストシーンでライアンは、妻、子ども、孫たちをつれノルマンディーの戦いで死んだ戦友たちの墓参りをし、自分を助けてくれた戦友の墓前で男泣きする。そのとき妻に「私は彼らの犠牲によって民主主義、平和、繁栄のもとで生涯を送ることができた。私は彼らの死に値するような良い人間だったであろうか」と妻に問う。戦友たちがナチスドイツのヒットラーの独裁と戦い、自由を勝ち取ってくれたことに感謝する心は大切だと思う。そのような問いかけは、わが国においても必要であり、戦犯に関する歴史観とは別に、子孫たちのために戦争で命を捨てた兵士達に対するもっと敬虔な感謝の気持ちを表明すべきである。

 「愛国心」は「偏狭なナショナリズム」として誤って解釈されることが多い。「国の為に命を捨てる」という表現は正確とはいえない。財政学的観点からみても「国とは自分や隣の人のこと」として、自然人の個人にまで還元して理解すべきである。侵略によって自分や自分の愛する人たちの生命が脅かされることに対して、立ち上がる気概を持つのは当然のことである。もちろん自分が命を捨てるのは嫌だけど、ときには命を捨てても守り抜かねばならない大義が存在することの認識と、そのような大義の為に命を捨てる覚悟を持つことは当然のことである。現在のわが国においては、愛国心に関していえば、「あつもの(羹)に懲りてなますを吹く」、「角を矯めて牛を殺す」というような状況になっている。

 あのクラーク博士の有名な言葉「少年よ、大志を抱け」に刺激を受けた人は多いと思うが、「大志」ということばは今の日本では死語になったのかと思わされることがある。1970年代の中ごろにイギリスで研究中に、もはや「ambition」という言葉はイギリスにはないといわれた。そんな体験も基礎にあって、私が横浜市立大学で推薦入試の小論文出題者であったとき、小論文のテーマとして「大志」を選んだことがあった。「天下国家」「世界のために」などの内容を期待したのだが、典型的なものを紹介してみると、「私には大志があります。まず目前の大志はこの大学の推薦入学に合格することです。そのあと新しい大志が生まれます。それは一流企業に就職することです。更に、第三の大志があります。金属バットで殴られて死なないような良いお父さんになることです」というような内容が多かった。このような小市民的「大志」も社会の原子として必要だが、「少年よ大志を抱け」の大志と比較すると、格段にレベルが低くスケールが小さいと言わざるを得ない。

(4)持ち場を死守する
 勝海舟についての時代小説の中に「江戸を守るのは知識の糞袋ではなく、大工の棟梁、火消しの親方、飲み屋の女将だ。あいつらは江戸を愛しているし、腹ができている」という言葉がある。『葉隠』には「武士道と云うは、死ぬ事と見付けたり」とあるが、人間は死を見つめ、大義のためには命を捨てるほどの覚悟が必要である。日本の自衛隊員には、就職先としてその職業を選ぶ人もいると聞くが、そのような動機では敵が来たら逃げるという人も当然出てくるに違いない。

 松方正義は明治の悪性インフレを収束した人だが、それを依頼したのは伊藤博文である。そのとき伊藤は松方に「この悪性インフレを収束しなければ日本経済の未来はない。そしてこれを収束できるのは君しかいないが、命は保証できない」と言ったという。最近電車のなかで「政治家は命を捨てろ」というある週刊誌の記事の見出しを見た。好んで危険な場所に入っていく必要はないが、場合によっては命の危険を顧みず持ち場を死守することが、政治家のみならずすべての国民にとり不可欠の義務であろう。

 アダム・スミスは「君主の第一の義務は他国から同胞を守る(安全保障)こと、第二は悪い同胞からいい同胞を守る(治安)こと、第三が、社会全体では便益の方が費用より高い(公共事業)こと」であるといっている。夜警国家を標榜する小さな国家においてさえも、主権国家の独立を維持するための安全保障が最優先課題であることは常識である。安全保障に関しても、現小泉内閣の見解は国際的常識に近づいてきたが、まず、安全保障の重要性の認識とそれを断固維持する国民意識の覚醒を高め、そのための法律や制度の整備を推進することが不可欠であろう。

 先日「アミスタッド」という奴隷制をテーマとする映画をみた。奴隷を使っている米国・南部の農業経営者が、自分たちに有利になるような判決をしてくれるはずの若造の判事を選んだのだが、その判事は判決の前夜に単身で教会に行き、「神よ正義にかなう判決を下す力を与え給え」と祈る。宗教改革を断行したマルチン・ルターも同じだが、人間がどのように批判しようとも、人間の評価とは別の立脚点があるということは強みである。『菊と刀』に指摘される「罪の文化ではなく恥の文化」を有するわが国には、一般的にこのような精神的力が欠けていると思う。

4. 財政学から見た大学経営

 経済学者の立場から見ると、教育は一種の「混合財」(注)であるから、一部は直接的受益者に対して便益を与え、もう一方ではそれ以外の第三者(社会的外部便益)にも便益を与えるという構造になっている。現在、大学生の7割を私立大学で教育しているということを考え合わせると、基本的に大学運営は民間でできる。私学補助金は憲法上の問題があると指摘されているが、経済学的には第三者に及ぶ外部便益に対応する部分について補助金を出すことにより、私的便益以外の第三者への外部便益を考慮した教育への社会全体の需要に対応した量の教育を供給することが最適である。外部便益をもたらすのは国公立大学教育だけではないから、税金から補助を受けられるのは国公立だけで、私立は授業料ですべてを賄うというのは不公平である。外部便益に対応する部分は補助金の交付を受けるとしても、基本的には授業料という形での受益者負担により大学は経営さるべきである。授業料を現時点で負担する能力の低い学生に対しては、低利子での貸与の形での奨学金を充実すればよい。なかには将来返済できない人も生ずるであろうが、公共事業の無駄使いを思えば貸与した奨学金の回収不能などは微々たる額である。更に、奨学の意味で、成績優秀者には無償交付する奨学金が一部あってもよい。しかし、財源は税金であるから、無償の奨学金を受ける学生は、社会全体への義務を自覚し、学習・研究に精進し、成績の優秀さを証明すべきである。

 大学教育の費用が一人当たり300万円かかるといった場合、それを自分が払うか、あるいは別の誰かが払うかの二者選択であって、タダということはありえない。それゆえ直接的受益者がまず教育費用を負担するのは当然といえる。小泉首相は、国公立大学はまずエージェンシー(独立行政法人)化し、最終的には民営化するという方針を打ち出しているが、この方針は正しい。郵政三事業も含めて、民間でできることは民間に任せ、国は手を出さないという基本原則の大学教育版である。純粋公共財の性格を有する基礎研究等には税金を投入するのは経済的にみても、適切な政策である。

 横浜市立大学に在職中に、国公立大学民営化のパイロットモデルとして、神奈川県内の横浜国立大学と横浜市立大学を統合しようという構想の検討を命じられた。静岡県でも、国立大学民営化の一つのモデルとして、国立大学と県立大学とを統合させようとする動きがあったと聞く。私は民営化検討委員会委員長として、この構想を検討したが、民営化の試みに関しては「大学教育などは、税金による補助なしに運営できるか」という内部からの猛反対にあった。横浜市立大学の医学部に入学したら、何千万円の補助金を貰うことと同じである。補助金は税金が財源であるが「国や市とは何か」と問えば、まさにそこに住む住民たる自分であり、隣人の誰かである。その立場から考えるときに、医学部を出て、シュバイツアーやマザー・テレサあるいは国境無き医師団などに属し滅私奉公して社会の為に働くならともかく、お金持ちの代名詞のようになっている医者を税金で育成する必要はない。医学部にいく経済力のない有為の学生に対しては、奨学金を豊富に準備し、さらに成績優秀や高額所得が期待できない無医村、国際奉仕団での勤務を条件として無償の奨学金としてもよい。

 外部便益の範囲の判定は非常に難しい問題であるが、少なくとも国公立大学と私立大学とを比べた場合、それらの私的便益と外部便益に大きな違いがあるとは思えない。どの国も海軍士官学校、陸軍士官学校など特定の学校を国が運営することには賛成だが、高等教育全般では民営化の余地がかなり多いと思うし、基本的には受益者負担が原則だと考えている。親が子どもの授業料を負担し、更に税金で補助するような条件下では、学生が勉強する気にならないのは当然であろう。自分で負担し、将来のために借金をしてでも大学で勉学するならば、どれだけ学習意欲の動機付けが高まることか。費用と便益との比較考量は、自己責任において為すべきである。
(2001年5月31日発表)

(編集部・注)混合財
 それから得られる利益の一部が民間財のように分割可能であり、一部が公共財のように集合消費の性質があるというように、民間財と公共財の中間的性格を有する財をいう。たとえば道路は、ドライバー個々人にのみその便益を限定するのではなく、救急等の公的サービスを通じて一般市民にもその利益を与える。(有斐閣『経済辞典』第3版より)