グローバル化時代の大学改革の方向性
―道徳的基礎を育てるカリキュラム編成―

フィリピンクリスチャン大学学長 オスカー・S. スアレス

 

1.はじめに

 今日、世界各地の平和にかかわる問題は、個人や社会レベルのみならず地球規模においても多くの課題に直面している。混乱と暴力などによる苦痛と悲惨さは、人間社会だけではなく、自然や人間以外の生物に対しても深刻な影響を与えている。貧困層を襲った緊張・不安と世界各地の紛争は衰えることを知らず、戦争の増大によって、数百万人の無辜の人々の生命が危険にさらされている。このような流血の惨事とさまざまな形で現れる暴力事件に直面して、各国政府はしばしばどうすることもできずにいる。

 しかし、これらの問題の責任を、単に政府とその政策にのみ帰すことができないことは明らかである。きちっとした機関であるならば、紛争の根本原因を追求して、それにいかに効果的に対処することが出来るかに、責任をもつべきである。この問題はむしろ、今の時代において平和文化を創造するためいくらかでも貢献できるように、我々教育にかかわる者に向けられた挑戦なのである。

 今日我々が直面するこのような赤裸々な現実を突きつけられたところで、私のビジョンを以下に簡潔に披瀝しようと思う。それはおそらく、教育関係機関においてきっと真剣かつ突っ込んだ議論をするのに役立つことと信ずる。

2.グローバル化の問題点とその解決策

(1)経済優先主義への反省
 私は一人のクリスチャンとして、まず強力な教派を超えた運動と地域共同体の回復を訴えることから始めたいと思う。今私たちが置かれている現代は、各国や地球全体の統一性が、イデオロギーの対立、さまざまな政治的な抗争から生ずる民族・宗教紛争によって、脅かされている時代であるといえる。そして現代の特徴は、宗教、社会生活、あるいは教派にとらわれない生き方や平和に関する問題についての研究など、あらゆる活動において、相互の協力関係が崩れているということである。それゆえ、学術研究、諸宗教の協力の促進とそのための対話、国の統一性や平和に向けた試みなどに有効なプログラムが必要とされている。

 私は、このプログラムは教育課程の全般にわたって、道徳教育が積極的に行われることで実現されると考える。例えば、“グローバル化”は、私たちに大きな期待を抱かせたと思うが、私たちはこの無限の可能性を、結果として人間の社会生活に相当有効に役立つよう用いるべきであった。しかし皮肉なことに、グローバル化のメリットは、ほとんど経済的利益を生むためにのみ処理されており、私たちにとってより重要な人間関係の改善には貢献していない。それゆえ、現在私たちが住む社会は機能が低下し、伝統的な価値観が時代錯誤と同意語のように見られているのは当然といえる。一致と協働に貢献すべき教会や宗教団体でさえ、自分たちの利益を保護することに汲々として、本来奉仕すべき人々のより重要な利益に目を向けなくなっているようにも見える。

 グローバル化の論理から言えば、グローバル化は、経済力の伸張と経済的繁栄への渇望を助長するものである。それゆえ今日、人間生活が経済的な観点からますます定義づけられるようになり、その結果、経済的豊かさが第一であり、道徳や心の問題については二次的なものとする考えが、多くの人々に影響を与え浸透している。ある意味で、毎日マスコミをにぎわしている社会・政治における不道徳な犯罪は、われわれが将に物欲に従って生きていると言うことを証明していると言えよう。平和、慈善、弱者救済などの価値観でさえ、大きな自然災害が起こった時にのみ叫ばれる流行にしか過ぎないというようになり、日常の私たちは、聖なるものとは縁遠い世界に生きている。私たちが貧しい人たちや社会の弱者とかかわることですら、心の底から彼らを助けてあげたいという思いより、上位者として駆け引き上定期的に恵んでやっているというような感覚がほとんどではないだろうか。

 このような今日の状況下において、教育機関は沈黙すべきときではない。もし私たちが社会正義や平和を追求するのであれば、誠実さを持ち、そしてグローバル化の負の側面に向かい合う勇気を持たなければならない。そして、真の知恵をもって何ができるかを考えれば、今の試練の時は必ず乗り越えられるはずである。偉大な物理学者アインシュタインは次のように述べている。「科学とテクノロジーは、私たち人類にこの地球上の人間を発展させることのできる奇跡と驚くべき業績をもたらした。しかし人生というものは他のために生きてこそ価値がある」と。

 グローバル化の良い面ばかりが賞賛される中、教育機関はグローバル化推進者の絶対的で勝ち誇ったような態度に対して、批判的な立場をとらねばならないと思うし、そうすることがより良い利益をもたらすと考える。

(2)教育機関における道徳・人格教育の強化
 またグローバル化の影響によって、高等教育機関ではビジネス系学位のプログラムを充実・強化するという新たな展開を見ることとなった。そのプログラムは、多国籍企業など国際的に活動を展開する産業界の要請に充分応えることができ、更には世界を相手にすることの出来る技術を身につけた学生を育成することを目的としている。もちろん教育機関が産業界の要請にかなった教育に向けて努力することは重要だと私も思うが、しかし、それと同様に重要な一般教育のプログラムを無視してよいということではない。確かに学生たちがビジネスに携わることができるように技術を高めることの必要性は理解できるが、私は市場経済の論理が大学の教育プログラムの主たる目的をゆがめはしないかとの疑念を持っている。

 言葉を替えて言えば、道徳の価値や精神性の涵養を無視して、大学を単なるビジネススキル習得のためだけの場所にしてはならないということなのである。それゆえ、フィリピンの若者がビジネスや政治の分野にしか関心を向けていないという危機的な現状に対して、警鐘を鳴らす必要があることは言うまでもないことであろう。結局、現代における腐敗と汚職の根本原因は、その他の犯罪と同様に、フィリピンの社会と国民の中に長い年月をかけて築き上げられてきた道徳性と精神の基礎が揺らいでいることにあると思う。それゆえ、学校が若者たちに対する道徳教育や人格教育にもっと真剣に取り組まなければ、さらに多くの犯罪や不品行が社会に蔓延するに違いない。

3.道徳的基礎を育てるカリキュラム

 結局、この論文で私が言いたいことは、平和文化と真の共同社会の実現を目指して、私たちのカリキュラムを再検討すべきだということである。私たちは失われた伝統、つまり何かをじっくり学ぶという学問に対する取り組み方や精神性を高めるプログラムを取り戻すべきである。このことは学生たちが価値観を形成するように動機付けるのによい効果がある。またこのことは、社会科学のカリキュラムを再検討すると共に、学生たちに強い道徳的基礎を育てる学科を充実させることも意味している。そのような科目としては、例えば、哲学、倫理学、一般教養科目、社会学、政治学、宗教学などが上げられよう。これらは、社会変革や対立の解消に向けて潜在的な力の土壌を生み出す学問の伝統といえる。そしてこれらの知恵が平和や和解の大きな助けになると考える。

 上述のような提言をしたからといって、私は近年話題となっている宗教的な原理主義や分派主義的な方向へと戻るようにということを言っているのではない。むしろ平和や変革への私たちの願いを実現するよう手助けしてくれる学問的側面の回復を求めているということに過ぎない。

 これまで述べてきたことは、市場経済中心の教育によって私たちが忘れ、あるいは失ってきたものといえる。もし私たちが真剣に平和の実現を考えるならば、じっくりまなぶ学問の方法論から知恵を得、そして共同体の前進的発展のために信仰と理性がどれほど重要かについて再認識することに、もっと自信を持たなければいけないと思う。

(2000年11月30日〜12月4日、タイ・バンコクにて開催された第27回ICWPにおいて発表された論文である)