比日文化交流から見た日本の課題

フィリピン・マニラ大学教授 三木睦彦

 

1.フィリピンとの出会い

 私は60歳の時から24年間フィリピンに住み、文化交流のあり方について研究してきた。そのような立場から日本の国際交流の現状をみるときに、未だ取り組むべき課題が多いことを実感している。私の数多くの体験の中で、特に日本人がフィリピンならびにフィリピン人に対して、多くの誤解や偏見に満ちた理解しか出来ていない現状をとても残念に思う。

 私が日本の大学で社会学を教えていた時に、「これからの日本は、国益を超えて世界の一員としての自覚が必要だ」という点を強調していた。歴史的な宗教指導者達はその時代に応じて博愛思想の実践を試みた。例えば、キリストは2000年前に、世界人類は兄弟姉妹の関係だと指導し、釈迦は2500年前に人間のみならず、生きとしいけるもの、植物も動物でも、この地球上に生存する万物すべてに対して尊敬と感謝の念が必要だと唱えた。ある意味で、彼らは既に今世紀の環境問題を予知していたともいえる。大学の社会学講義で、毎月500人の学生たちに10年間にわたり、そのような理想を説いてきた私は、これまで多くの学生に深い影響を与え、又私自身もそれを信念としている以上、これからは言葉だけでなく実践しなければならないという思いにかられ、大学を退職したのは60歳のときだった。

 そしてこの理念を実践する為には自分とは何の関係もなく、又自分の知り合いもいない全く見知らぬ国へ出かけなければならないと考えた。それは理想主義に走った少年の夢のような出発だった。全人類兄弟姉妹の実践の場は、若ければアフリカやアマゾンの未開の地が最も簡単に選べる最適の場所かもしれない。しかしそれには相当の体力や訓練が必要だが、60歳の自分にはそこまでは出来ない、結局これは私の夢に過ぎないのではないかと考えていた時に、偶然、友人に誘われてフィリピン観光に行ったのが、フィリピンとの最初の出会いであった。初めて現地で接した貧しいフィリピンの人々になぜか親近感を感じ、ここなら私とは何の関係もなく、又誰一人知人もいないという私の目指す条件に合っており、しかも4時間で日本から来ることが出来るという年をとった私には格好の場所と感じられた。そして現地の事情を調査するためその後3回くらいフィリピンに行き、貧しい国から一円も頂いてはいけないというのが私の信念であった為、現地での生活費がいくらかかるか等を調べた。この私の計画に対しては「夢物語」と友人や親戚、そして大学からも猛反対されたが、彼らの反対が逆にバネになった。

 当時、神田のエレック英語研究所が初めて外国人に日本語を教える教師養成のための講習会を始めたことを知ったので、とりあえずその講習会を受けることにした。私の知人の一人が、私の計画を心配して「あなたに最適の方法はまず、フィリピンのどこかの大学に籍を置き、日本語なり日本文化の教授となってフィリピンでのステータスを一応整え、それから自分のやり方でやりたいことをやることだ。自分の友人が永くフィリピンで仕事をしているから、彼にあなたのことを頼もう」とアドバイスし、斡旋してくれた。そこで私はその人に会うためわざわざマニラへ出向いたが現地の日本人は勿論、日本の大使館その他どんな役所もそのような実力を全然持たなかった。

 そのとき頭に浮かんだのはホセ・ラウレル氏であった。彼は太平洋戦争中に日本軍が擁立した大統領の息子である。戦争中日本軍は、東南アジアの占領地から南方特別留学生として各国の有力者の子弟を日本に連れてきて勉強させ、将来、それらの国々が日本の植民地となった場合の親日的な指導者養成を目指した。それは同時に人質の意味を持っていたが、彼も南方特別留学生として戦争中、陸軍士官学校や東大で勉学し、戦後は駐日フィリピン大使として賠償条約などにかかわったフィリピン第一の親日家として、日本では広く知られている人であった。

 折角、フィリピンへ何度も来たのだから、この私の夢は夢として断念するにしても、せめて親日家、知日家の第一人者として知られるラウレル氏にだけは一度会っておこうと思い立った。そして事務所の電話番号を調べ電話をしたが、いつも事務所は留守で、返答がなかった。私は当時、知らなかったのであるが、その頃はクリスマスシーズンで殆どの事務所は休んでいた。私はラウレル氏に会うことも諦めたが、日本へ帰る前日もう一度だけと思ってかけた電話が思いがけなく通じ、彼と会うことが出来た。これが既に諦めていた私のフィリピン計画実現の具体的な発端となった。

 彼はPhilippines-Japan Society(比日協会)の会長として、マカティのパサイ通りに面した大きなビルの3階に事務所を構えていた。彼の部屋に通され、初対面の挨拶をして、私がフィリピンへこれまで数回やって来た目的やその意図を聞き終えると、彼はすぐさま椅子から立ち上がり、礼儀正しい流暢な日本語で「三木先生、私は貴方に深く感謝いたします。これまでたくさんの日本人がこの国に来られましたが、先生のようにフィリピン人と日本人の相互理解と友好増進を目的としてこられた方は誰もありません。先生が初めてであり、唯一の日本人です。私はフィリピン人を代表して心から厚く御礼申し上げます。もし私達に出来ることがあればどんなことでも協力させて下さい。本当に心から厚く御礼申し上げます」。と喜びと感動に満ちた面持ちで言い終えると、私の手を取って固く握り締めた。

 この瞬間思いがけない彼の言葉に私の胸は高鳴ったが、同時にこれで私の運命は決まった。このようなフィリピン人から丁重な挨拶を受けた以上、もうどんなことがあってもこれを実践しなければならない。それは「日本」の名誉にかかわることであり、それをやり遂げないことは「日本」の恥辱となる。私はもうこれでこの計画から逃げられないと、この時初めて本気でその決意を固めたのである。そしてやはり南方特別留学生であった事務局長のアブバカール氏が早速、私の住むマンションをラウレル氏の事務所のすぐ近くに見つけてくれ、またマニラ大学への斡旋も迅速に進めてくれた訳である。誰からも賛成されず、自分でも呆れるほど何一つ具体的な計画なしに夢見た目的の第一歩がうまく運び出せたのは、まさに天のはからいであった。

2.文化交流のあり方

(1)カルチャー・ショック
 それ以来今日まで私は、日本人とフィリピン人との心と心を結ぶ為の文化交流を目標としながら、あらゆる種類の文化交流活動を継続してきた。私がフィリピンに住み始めた当時は、「カルチャー・ショック」ということばが一人歩きしており、文化交流活動には時期尚早の時代であった。そして私は、大学で学生たちに教えることで、逆にいろいろなことを学んだ。カルチャー・ショックについてもそれを研究材料として、それから逃げることなく逆に積極的になぜそうなのかを理解するためそれに取り組んできた。私は貧しい学生たちを常時6〜7人家におき、彼らの授業料や生活費の一切を負担して彼らを助け、また一方では彼らに助けられながら生活をしてきたが、そのような日常生活の中で生じた私にとってのカルチャー・ショックの些細な一例をここで紹介しよう。

 彼らとの共同生活の中で気が付いたことは、彼らが使用しているトイレの紙が減らないということであった。不思議に思いよく確かめてみると、彼らは用を足した後、手桶を使って水で直接洗っている。水で洗うには手を使わなければならないが、たとえ後で手を洗っても私には汚いという感じがした。大学のトイレにも手桶がおいてあるので、これはフィリピン人の一般的やり方であるに違いないと考えた。自分も試してみたいと思ったが、手桶を使ってやる方法がわからないので、洗面器に水を入れてお尻をつけて洗ってみると、実に爽快な気分であった。フィリピンには痔がないといわれるが、このことを知ってなるほどと思った。

 我々は自分達が日常生活においてやらないことは、すぐ違和感を覚え、それを蔑視し、この場合はそれを不潔だと考えるが、暑い国では(上述のような方法は)非常に合理的なのである。現在では、ビデがついていてお尻を洗う便器があるが、フィリピンでは既にその原理に基づいてやっていたといえよう。「文化」とは奇麗な絵画や音楽だけを指すのではなく、本来、人間の生活様式を意味するものであり、それはその国々の風土にあったものになっているはずである。しかし、それを理解しようとしないで、我々の常識で判断して結論を出してしまうと、それが「カルチャー・ショック」になるのである。このような姿勢では、相互理解や文化交流の研究はできないと反省した。

(2)こころの通う交流
 こんなときに、ラウレル氏から招待を受けて昼食会に出たことがあった。彼は福田赳夫総理(当時)と懇意にしており、福田総理がフィリピンに来られる度に「日本とフィリピンとの文化交流をやらないといけない」と話したのだが、福田総理は横を向いてしまうという。そうした経験から、彼は文化交流は民間でやるしかないと私に話した。

 それがきっかけで、私は文化交流に取り組むことになった。私は即座に「日本に生け花やお茶などをやっている人を知っているが、日本でそういう文化使節団を造れば貴方は受け入れますか」とラウレル氏に提案すると、彼は喜んで快諾した。それですぐ私は帰国して、心当りの人達にこの旨を伝えその協力を得て、昭和天皇の従兄弟に当たるN氏を団長として、その夫人が関係している京都顕護寺の嵯峨御流の生け花の人たちと、九州平戸の城主松浦鎮信が創始した茶道鎮信流の家元のM氏などを中心とした茶道の人たちと合わせて70名の「訪比親善文化使節団」が結成されることとなった。

 現在ではフィリピンにも菊の花があるが、当時はなかったので、生け花をするのにも材料の花は全部日本から運ばなければならなかった。11月開催の予定であったが、途中団長のN氏から「11月なら常陸宮様が時間をとれるということなので、自分より常陸宮様を団長にしたほうがよいのではないか。ラウレル氏と相談してくれ」という申し入れがあった。そこでラウレル氏と相談すると、「三木先生、それはいけません。もし常陸宮様が団長で来られると、マルコス政府が直接タッチすることになり、私達の出る幕がなくなります。断った方がいいです」との意見だった。

 それには私はショックを受けた。私として最も重要なことは、このイベントがもたらす効果であった。フィリピン政府が加わればその効果はフィリピン全国に及ぶが、ラウレル氏が受け入れたのでは比較にならない。ラウレル氏は、自分の個人的な名誉と名声にこだわる人だということがわった。また開会式には私の優秀な学生たちを連れていきたいと思っていたが、フィリピン側で作った招待名簿は全部上流階級の人たちばかりだった。これは大変だと思い、その当時日本語学習の良い参考書がなかったので、使節団の人たちが私の指定した書物を1冊づつ寄贈してくれるように提案した。そして会場で寄贈式を行うために優秀な学生を5人くらい選び、彼らがそれを受け取り、日本語でお礼を言い、さらにフィリピンの歌も歌うことにして学生達を参加させることにした。

 この経験を通して、私は自分の思い通りの文化交流を行うには、自分自身が日本で使節団を結成するだけでなく、自分自身が受け入れを行わない限り本当の文化交流は出来ないと思い、すぐに翌年に比日文化協会(Philippines-Japan Cultural Institute)というフィリピン公益文化法人をつくり、自分の思うようにできる体制をつくった。そこでは、日本映画祭、歌舞伎のデモンストレーション、能、狂言などの、誰も真似をできないような文化使節団をつくり、今まで百以上のイベントを継続して行ってきた。このようなことは、大使館でも、国際交流基金でもできないことである。私はそれを一つの見本として示したのであり、文化交流は如何にあるべきかの私の研究実験でもある。

 しかし、今、行われているような文化交流のプログラムでは、私の究極の目標である両国民の相互理解と心と心の通じ合う真の友好関係など到底達成できるものではない。有名な歌舞伎などがフィリピンにきてマニラの一箇所で興行として公演をしただけでは、真の文化交流にまでは至らない。また、日本のプロのアーチストは、報酬なしでは誰もこない。相当なギャラがないと呼ぶことが出来ない。

 23年前と今ではいろいろ状況が変化してはいるが、そのポイントになる「心と心の結びつき」の関係をつくるという点では変化していない。フィリピンの日本大使館は友好月間として毎年2月から3月にかけていろいろなプロジェクトをやっているが、日本や日本人のひとりよがりのものが多く、現地フィリピンにおけるその時どきの状況と情勢を考慮して行わなければ時には逆効果になる。特に2月から3月にかけては前の大戦の終局に近く、マニラやその付近で日本軍による住民虐殺の行われた時期で、その犠牲者達のための慰霊祭が行われるからである。とにかくフィリピンについての研究不足である。文化交流を意義あるものとする為には、日本人はもっとフィリピンについての勉強をしなければならない。あまりにもフィリピン研究が、官民ともになされていないことを痛感する。

(3)文化摩擦
日本の優秀な企業がフィリピンに進出することにより、摩擦が起こりつつある。日本の企業の多くは、フィリピンの安い人件費を利用するために進出してきた。例えば、ある会社は日本人従業員が11人、フィリピンの従業員は5000人で、会社のトップの日本人は5000人の従業員をいかに扱い協力させるかに腐心している。この日本人達は英語も殆ど話せない。若い日本人の社員達は、トップの悩みに関心がない。それでその会社はフィリピン通の有能な日本人女性を探し出して抜擢した。

 そのような女性は大使館では「ローカル」と呼ばれ、フィリピン人の館員と同様に区別されている。彼女らは相当の地位と教養のあるフィリピン人と結婚して20年以上フィリピン社会で暮らしているため、大使館での文化交流などに関しても貴重な存在であるが、一生下積みで過ごさなければならない。そのような女性達がこのような会社で社長の秘書兼、相談役か顧問のように活躍している。そしてフィリピン人の従業員に対する社長のスピーチは勿論、扱い方についての色々な点で社長にアドバイスを与え協力している。日本から進出した企業はすべて同じ悩みをもっているが、このような相談相手は殆ど見つけられない。

 発展途上国の国民は、日本政府がどんなにその国に寄与しても容赦することはない。なぜなら友好推進のために日本政府が寄付したりするが、実際の経済面にはプラスにならないことが多いからである。また日本から公共投資資金の援助を受けても、資材や業者は日本からというような紐付きになることが多く、その場では助かったようでも実質的には現地の経済復興にもつながらないと考えられる。

 最近、日本政府は小渕資金として現在進行中の高架鉄道延長工事のための資金を提供したが、フィリピン政府はこの資金をこの事業のために使わないことに決定した。それは日本からの借入金には利子が付き、その上、それに要する資材はすべて日本から買い入れなければならず、その工事は日本企業に任せなければならない。ただでさえ運営困難なこの事業は、それではとてもやっていけない。そこへちょうどカナダのある大企業からつぎのような申し出があった。すなわちカナダのある大企業が高架鉄道の建設のための会社設立と運営を提案した。その企業は、25年間カナダの会社が経営しこの事業が軌道に乗った時点で、フィリピンにその会社を譲渡するという大変有利な条件であった。

 今やアジアを含めた国際社会の中において、今までの日本のやり方、認識では通用しなくなってきた。また、グローバリゼーションの競争社会では、高い人件費の日本国内では大量の工業生産事業などとてもできない。それでもし日本からこのような企業の多くが進出しているフィリピンとの間で何かが起きたときには、日本は難しい立場に置かれるのではないかと心配している。このままでは日本は危ないというのが率直な感想である。マニラにいると、他国の情報も日本より多く来るので却って政治、経済、文化交流に関しては常に敏感に感じ取ることができる。

 最近、英国のある団体が、「日本は発展途上国に対し世界で一番たくさんお金を貸している。しかし安いけれども利息がついており、それが債務国の発展を阻害している。ゆえに日本はこれらの借金を帳消しにすべきだ」と主張しているが、時を同じくして、クリントン米国大統領も、先進国の発展途上国に対する融資金の減額について考えなければならないという演説をしている。先日バンコクで経済会議があった時も、貿易の自由化が問題になった。日本はこれまで農産物などの貿易自由化に対して抵抗してきたが、今は先進国の一員として発展途上国にこれを強要している。しかし彼らの数は多く、発展途上国が集まって先進国(豊かな国)に対して圧力をかけてくれば今までのようにはいかないと思う。

3.比日文化交流上の課題

(1)フィリピン人の宗教性
 今後の日比関係において私が一番の課題と考えている点は、フィリピン人と日本人の心と心をつなぐルートがないことである。

 戦前においても既に岡倉天心は「東洋の理想」において「東洋は一つ」と東洋人の精神文化を同類のものとみなし、その同類の共存共栄を理想として主唱したが、一般に共通の文化圏として仏教文化圏を想定し、日本、韓国、中国、ベトナム、タイ等大陸の陸続きの国々からインドに至るまでを一つの文化圏として規定して、フィリピンはキリスト教圏、インドネシアは回教圏としてこれから除外し、日本人は疎外した。しかし現代では日本の大乗仏教は、その他の国々の仏教とは全然異なるご利益仏教となり、伝統ある古寺、大寺は観光の対象となり、宗教として信仰の本質から逸脱し、倫理道徳とは関係のない自己本位のご利益宗教に成り下がった。

 例えば、タイでは成人すると1年間は寺院に入って社会奉仕をする。日本は戦前において徴兵制があり、そこで上官の命令に従って公的目的のために訓練を受けた。軍国主義的だとの批判はあるが、若者に公的奉仕精神を養う機会は与えられていた。しかし今の日本には教育面において、若者に公的奉仕活動の機会を提供する機会は与えられていない。

 特に忘れてならないことは、前大戦中設立された国立民族研究所の件である、私も文部省から出向してその一員になったのであるが、これは当時、日本軍が占領していたインドネシアにおいて民政を行っていた日本軍が非常に大きなミスを行ったことに起因していることである。インドネシアは回教圏であり、国民はイスラム教の信者である。イスラム教はキリスト教を母胎としてマホメットが創始したものであるが、この宗教では徹底的に偶像崇拝を忌避し、イスラム教寺院(モスク)は勿論、どこにも偶像は存在しない。このような国において日本軍は伊勢の皇太神宮の分祠を建て、絶対命令としてこの前で脱帽礼拝を現地人に強調した。そのためインドネシアの民心がすべて日本軍から離反し、民政が失敗した。

 この教訓から、占領地を統治する為にはそれぞれの国の文化、宗教、慣習等を研究し、それに応じた政策を行わなければならないことを痛感した結果、軍の強力な要請により文部省主管で設立されたのが国立民族研究所である。これが設立されたのはやっと昭和18年であって、私も南方部に属していたがすでに使用すべき航空機もなく、現地での実際の活動をなんら行うことなく終戦を迎えたのである。研究所には当時、そうそうたる関係学者が集められていたため、そこに居た2年間は私にとって貴重な学習時間であった。この期間の学習がフィリピンでの私のあらゆる文化交流の大きな基盤をなした。

 フィリピンでは85%がカソリック教徒で、フィリピンの暦はキリスト教の行事で進められていくと思われるほど宗教が生活に結びついており、キリスト教の愛と平和の精神がそのまま、一定の倫理道徳に直結しているといえる。

 この前の大統領選挙の時、「貧しい人を救う政治」を標榜して立候補したエストラーダ現大統領に対して、カソリックの頭領シン枢機卿はアキノ元大統領と共に彼を批判して、「大学もろくに出ていない俳優上がりで女たらしのエストラーダが大統領になればこの国は滅亡する」と民衆に呼びかけたが、結果は前大統領ラモス氏の後継者として立候補した次点者と百万票以上の差をつけて大勝した。しかし現在でも事あるごとにシン枢機卿はエストラーダ政権を批判するため、大統領は、「フィリピンの憲法は政教分離を規定している。宗教は政治に関与せず、倫理道徳に専心せよ」と反撃しているが、その舌の根も乾かないうちに今度は、この国の発展のためには国民の一致団結が必要であるとしてそのための祈祷集会をエルミタ公園で何万人もの民衆を集めて開催した。

 以前は主として米国と日本がフィリピンの経済界で重要な役割を占めてきたが、グローバリゼーションの波が押し寄せるようになってからは、欧米諸国は勿論、東洋諸国等の力のある国々がフィリピンとの経済関係を深め、フィリピンへもどんどん進出してくるようになってきた。これはフィリピンに進出している日本企業の競争相手である。この競争に日本が勝ち抜けるかどうか。その要因となるのは政府対政府の関係ではなく、安価な労働力を提供する一般のフィリピン人と企業主となる外国人との関係である。外国人の多くはキリスト教徒であり、又英語が堪能である。彼らとフィリピン人との交流は日本人に比べて容易であり相互理解も早い。彼らがフィリピン人の心をつかむことは日本人より容易である。この競争において今のところ日本人に勝ち目がない。私が目指してきた心と心の結びつきなど、今のところ日本人には到底出来そうもない。私はこの点を強調して日本人に反省と自覚を促したいのである。

(2)日本人の文化交流に対する考え方の問題点
 日本の教育に関しても現状はきびしいものがある。

 私の身近で日本への留学を希望するフィリピン人学生がいたが、今の日本では留学しても逆に悪いイメージを持つだけではないかと思っている。それで「今、日本で学ぶことはないから」と説明して留学を思い留めさせた。未だに奨学金を出して留学生を援助している組織もあるが、もっと本質的なことをしなければ文化交流どころか、逆にあだになってしまうのではないかと危惧している。

 最近、私はフィリピンのある新聞記事を読んで驚いた。それは京都に13年間住み、日本文化を研究したフィリピンの一学究が、フィリピンの地元紙にこんな記事を書いたのである。「日本は文化交流と称して、海外で歌舞伎、能、狂言、茶道などの公演を行うが、私の日本での13年間の学究生活の中で、これらをたしなみ、楽しんでいる人を見たことがなかった。現在の日本人の生活からかけ離れた特殊な伝統文化を日本政府がきもいりで文化紹介として行っているのは、日本人がいかに優雅で高尚な趣味人であり、文化人であるかという宣伝のためではないかと疑わざるを得ない」というのである。さらに日本にある上下関係の難しさ、差別の問題なども取り上げながら、「日本人はエコノミック・アニマルである」と結論づけている。私がフィリピンに行った当時、フィリピンに居住している日本人をさして盛んに文化を知らない「エコノミックアニマル」と事あるごとに非難したことがあるが、その時私が意味したアニマルは人間も動物の一種であるという定義にもとづいてであった、しかし彼がいう「アニマル」は「畜生、人でなし」というニュアンスだった。

4.今後の比日文化交流のあり方への私の提案

(1)フィリピン人による老人介護
 日本人は一般に宗教心がないので、人を愛するとか、年寄りの面倒をみるのをいやがるが、特に心配なのは今度の法律によって老人介護に従事する人々がお金のためにだけこの仕事に従事し、人間愛の精神を欠いているということである。しかも現在でも介護者の絶対数が足りないし、今後はますます老人が増え、逆に若年層が減少していく実情からどうしても、今後は外国人の協力に頼らなければならなくなる。その点から見れば、フィリピンには医科大学や看護学校が多く、卒業後は医師や看護婦として欧米諸国でも働いている。家族の生計を助けるために海外へ出稼ぎにいくフィリピン人は多く、国家収入の点からも国家はこれを奨励し国に対する功労者として称えている。日本ではすでに家族は崩壊したがフィリピンではまだ家族の紐帯が強く、老人を大切にし、尊敬する精神がある。そしてクリスチャンとして人を愛する精神を持っている。

 文化交流の観点から言っても、私はフィリピン人のそのような性質を日本での老人介護に生かせればよいと考えている。彼らを日本へ招請するためには、フィリピンの大学に日本語や日本文化のクラスをおいて日本のことを学ばせ、日本での介護に必要な日本語や日本の知識やマナーを習得させる。最終目標としては、介護を受ける老人から日本人の介護人より、フィリピンの介護人のほうがすばらしいと言わせたいと思っている。

 本当に優秀な介護人をつくって日本に送りたい。このような活動を通して本当に日本人とフィリピン人の心と心が触れ合うような交流をさせたいと思う。これまでの文化交流にありがちな一方通行的なものではなく、双方向的な文化交流を実現したいと考えている。フィリピン人が直接日本の老人達と触れ合う中で、深い関係を築けるようにしたい。このような活動を通して日本人に対するイメージが変わり、フィリピンに進出している日本企業にとってもプラスになると確信する。

(2)文化交流に対する提案
茶道の裏千家は、積極的に家元が海外に赴くという点では日本の文化の宣伝に貢献しているが、これから必要なのは外国にいる裏千家の会員が本部の許可とか難しいことを考えず、現地で現地人に教えてあげたらいいと思う。

 フィリピンに駐在する日本大使館の人たちは、現地にいれば日本にいるより3倍程の給与がある。書記官ですらビレッジと呼ばれる特別居住区の豪邸に住み優雅な生活をしている。高価なビレッジに入り、運転手、ガードマン、メイドを雇うことが慣例になっている。20年以上も前なら防犯のために、それが必要だったかもしれないが、今はそれほど危険ではない。ちまたには安全で安くてきれいなマンションや家屋もあるので、そこに住めばよいと思う。多くの日本人は「マニラは危険だ」と口をそろえていうが、私にいわせれば高校生が5000万円恐喝する日本のほうがはるかに危険である。

 リストラが騒がれているこのご時世にあって、官僚たちと一般社会との間に意識のずれがありすぎる。このような待遇で甘やかされると、役人達は使いものにならない。

 海部元総理はフィリピィンを訪れた際に、新聞の朝刊の一面を買い取って真中に「戦争中には迷惑をかけた」というような文章を掲載し、残りの紙面を自分の政治歴と個人歴で埋めた。世界でもトップクラスの国の総理大臣が、自分の宣伝をするような愚が、国際社会において日本の評価を引き下げていることに気がついていない。他のアジア諸国でも、同じことをしたというからあきれてしまう。

 また中山元外務大臣がピナツボ山噴火の災害者の現地慰問に来た時、これは現地の大使館の責任でもあるが、避難民を雨が降る中に小学校の校庭に集めて長時間大臣の来るのを待たせ、到着と同時に日本の旗を振らせて歓迎させたがそれによって、夫を日本兵に殺された恨みを思い出した未亡人もいたということであった。「ピナツボの噴火が日本に対する怨恨を吹き飛ばした」という見出しの記事の内容は逆であった。日本の閣僚や外務省はもっと勉強し、知恵を働かせなければ日本は本当に世界の孤児になるに違いない。

 今はコンピューターの時代だが、逆説的に「老人の知恵も大事だ」と言いたい。旧約聖書に出てくるイスラエルのソロモン王、日本の大岡越前の名裁きの知恵が古来広く知られているが、これらの共通の知恵は、獲得してきた知識と生活経験から出てくるものである。老人達はもっと自信を持ってこの知恵を働かせ社会に対して発言し、積極的に活動するべきではないか。老後をのんびり過ごすことばかり考えているからぼけるのである。

 インターネットが加速度的に普及している今日、日本人の海外に対する無理解や誤解が一度に海外に伝わるという意味では、この高度情報化社会が日本の首をしめることにならないよう期待する。
(2000年4月8日発表)

※著者注:
 比日文化協会=Philippines-Japan Cultural Institute、日本で登録した日比友好団体は、すべて日比○○と日本が先になるが、私の協会はフィリピンで登録されたフィリピンの文化公益法人である。従って、比日とフィリピンが先で日本が後にくる。このような常識的なことさえ日本人は有識者といえども全然知らないし、無関心である。これでは外国との公式なお付き合いは出来ない。些細なことのようであるが、常識として重要なことである。