21世紀における教育改革の新パラダイム

韓国・高麗大学教授 洪一植

 

1.はじめに

 今日、世界史の流れは、産業社会の段階を超えて情報化時代に入ってきている。

 歴史を振り返ってみれば、農耕時代には土地を多く所有した者または集団が支配層として浮上し、その時代の高級文化を維持・発展させる主役を担ってきた。そのようなことが、産業化社会に転換することで一変し、資本と生産手段、即ち財力(資金)と技術を持ったものが社会発展の主役を演じるようになった。機械化と工業化の急激な潮流が、従来の牧歌的な秩序を崩壊させ、人々を工場地帯と都市に集中させ、物質的生産力が最高の価値として君臨するようになった。

 1960年代以降30年余りの間、「やればできる」、「われわれも一度豊かに生きよう」などというスローガンの下に韓国国民が追求してきたことは、正にこのような物質的な価値を目指しながら、発展途上の競争の集団から、世界史的な先進国グループを目指していこうという奮闘そのものであったと要約することができる。

 しかし、今日われわれの目前に押し寄せている情報化時代は、従来とはまったく違った局面を提示している。いまや、資本と生産設備以外に、情報と創造的なアイディアをより多く持ったものが時代をリードすることのできる指導層として浮上するという新しい歴史時代の段階が到来したのである。

 従来の産業社会においては、実体を有する物的な生産物だけが商品として認められ、知識や情報といったような物質的に計量できないものは、商品として扱われなかった。しかし今日に至り、各種情報産業が生み出す文化的産物や情報が立派な商品として扱われるようになり、更には物質的な生産物の商品の価値も、その原料や材質といった物質的なものから、却ってアイディア、特許権、デザイン、包装といった情報的な要素によって決定される場合が、多くなってきた。したがって、いまや人間の精神労働力や知的創造力が、物質よりもさらに重要な資源として浮かび上がってきた。

 しかしながら、社会の支配的価値観は、まだ産業社会の後発走者として有してきた固定的な観念から脱しきれずにおり、教育もまた、競争と対決を主眼とする時代の軌道上を走っているというのが実情である。既成世代はそのような時代の中で生まれ、今日まで生きてきたので、そのようになるのもやむを得ないかもしれないが、21世紀の新しい時代を生きていかなければならない若い世代の人々にとっては、20世紀の産業社会の固定観念にとらわれている教育のみを強要するのであれば、これは大きな間違いといわざるを得ない。

2.MQ(道徳指数)時代の文化の意味

 ここで、国連が21世紀を「文化の世紀」と規定した事実を、意味深長に深く考えてみる必要がある。

 この「文化の世紀」とは、物質的な価値よりも精神的な力量が重要な時代であり、精神的な能力の中でも従来から強調されてきたIQ(知能)よりもEQ、即ち感性的能力が重要になっていく時代であるということができる。更に一歩進めれば、21世紀は文明MQ(道徳指数)時代として指向しているという現実に留意する必要がある。天地万物と自然を征服・利用の対象物として見るというよりは、人間とともに生きていくべき有機的秩序の一部分として理解し、人間の相互存在を欲望の対象として、あるいは競争相手としてのみ認識することよりも、人文的共感の同伴者としてみることのできる姿勢が、文化の世紀を形成していくための根本であることを私たちは注目しなければならない。

 このような姿勢と能力を備えなくしては、誰でも新しい世紀を導いていくべき指導者層に立つことはできないし、その国家、民族、または未来世界の中心になることはできない。私は早くから、「文化領土論」を提唱してきたのも、そして今日韓国の大学教育の課題として人格の陶冶に基礎をおいた「正しい教育、大きな人物」を育てる運動を通して強調してきた趣旨は、正にここにある。

 人類文明史の進展がこのように旋回するときを迎えて、私たちはこれまで私たちが大切に保存し、育ててきた文化的力量と遺産の意味をもう一度注目せざるを得ない。

 かつて植民地時代の知識人たちが語ったように、韓国民族の歴史が「苦難の歴史」あるいは「屈辱の歴史」であったとしても、今日まで耐えに耐えてきたのは、一体何の力であったのだろうか?きびきびしく、勇敢な軍事力であったのか、あるいは豊富な資源を基盤とした経済力であったのか。

 韓国民族は中国大陸と直接に接しており、数千年の間生きてきながらも中国に同化されず、固有の領土と主権、固有の血統の民族、言語・文化を守り続けてきたという厳然とした事実は、決して偶然の結果ではあり得ない。このように韓国民族が最後まで服属、同化せずに今日までこられたその力の源泉は、一体何なのであろうか。それは明らかに軍事力でも、経済力でもなく、ただわが民族固有の特殊な「文化の力」であった。

3.グローバリゼーションと民族の主体性

 私たちは今日まで、現代の普遍主義(グローバリゼーション)としての自由民主主義と資本主義市場経済原理を追求するのに余念がなかった。しかしこのように普遍主義だけを追従していくと、かつての歴史が実証しているように、それが生存の論理、現状維持の論理、または危機克服の論理にはなったとしても、持続的発展の論理、繁栄の論理へと連結することはできない。何よりも、古代の三国時代以降、高麗王朝と朝鮮王朝において、わが国力を周辺国家に高らかに鳴り響かせられなかったのをみても、このことが実証されよう。これは普遍性のみを追求し、そこに民族固有の特殊性を接木することができなかったときの、限界を露呈しているのである。

 私たちの文化的な主体意識が薄弱となったのは、植民地時代において助長された自己否定と抑圧がその第一次的要因として作用したのであるが、それだけが問題のすべてではなかった。1945年8月15日の光復(解放)によって政治的独立を果たしはしたものの、自我の覚醒を妨げたり、混迷の中に陥れる諸問題を経験せずにはおれなかった。

 先進産業社会を目指した歴史的運動の中においても、西欧文明が一方通行的に押し寄せてきたことが、その重要な要因であった。更には、物質中心の世俗的な実用主義によって価値体系の混迷が急速度に拡散したことも、指摘しないわけにはいかない。ひととき、地に落ちた物質文明は、健全な精神文化として克服することができたけれども、一度堕落してしまった人間の精神は、いくら豊かな物質でもそうやすやすとは救済することはできないという命題が、今や切実なものになった。

 産業化の過程において発生し拡大したこれらの諸問題は、かつての植民地時代とはたとえ違うとはいえ、ある意味においてはそれ以上に深刻なものであるはずであろう。抑圧されていた植民地時代には、それでも「民族」という共通の求心軸だけは確固として立っていた。しかし今日、物質万能の社会の中にあっては、そのような同質性すらも解体されていこうとする兆しを憂慮せざるを得ない。

 その上に、1945年の独立以降、韓国における教育が、西欧社会の発展の論理をほとんど盲従する模倣に過ぎなかったことが事実とすれば、浅薄化した現代の文化現象は却って当然の帰結点といえるかもしれない。小さくは衣食住の生活文化から、大きくは民族精神の表現といいうる高度の専門文化・芸術にいたるまで、民族の固有性を見出すことが困難になってきている。

 文化というものは、崇高な人間精神の表現である。したがって民族文化とは、正にその民族精神の具体的な実体であるといえる。一つの民族の存在価値は、その独特な文化によって確認され、認定されるものである。それゆえ、民族文化の喪失は、即ち民族それ自体の消滅につながることを意味するので、ある一時代の間「国」を失うことよりも、更に悲惨な結果を招来することもありうることを肝に銘じなければならない。

4.「文化の世紀」実現の処方箋

 それならばわれわれに与えられた「21世紀の国家経営と教育の課題」は、明らかになろう。私は、「文化領土論」に立脚した「文化大国」の建設が正にその回答であると信ずる。科学、技術、経済、軍事などすべての部門の発展も、結局は文化大国に至るための過程であり手段であって、その他の目的はあり得ないのである。これは人類文明史におけるあるべき理想論であり、趨勢であるのみならず、わが文化の属性および本質とも全体的に一致するためだからである。

 われわれが物質・技術文明の象徴としての西欧文化を受容し始めてから、既に約1世紀が経過した。その間、植民地時代という民族的悲劇を経験しながらも、今日まで生き延びられたことは、われわれがたとえ近代化の後発者としてであっても、西欧文化の普遍性に忠実であったという結果だと見ることができる。しかしながら、われわれがその普遍性のみに重点をおいて模倣と追従の段階を克服できないでいることは、歴史的な事実として証明されている。

 今われわれが追求しようとしていることは、民族の生存と存立のための消極的なものであるはずがない。ここに新しい時代精神の指標として、民族と民族文化の意味に対する深層的認識を重視せざるを得ないという論理的根拠と当為性があるのである。

 伝統文化とは、単純に過去の時代の遺物ではなく、優秀な外来文化を受け入れて受容し、それを肉として花を咲かせるようにする器、枠組み、溶鉱炉であるといえる。その器、枠組み、溶鉱炉を壊してしまえば、他国のよいものを受け入れようにも、受け入れる基盤を喪失するようになる。

 もちろん、われわれは21世紀を迎える時点に立つ現代人であって、過去の文化の中に退行し後戻りすることはできない。しかし復古主義を警戒するからといって、その代案として主体性を持たないまま西欧主義を肯定することではない。1世紀にわたる現代文化史において、われわれの最も大きな損失は、伝統文化を正当に評価せず、その肯定的な価値を新たに認識し継承することをおろそかにしてきたことである。

 現代の時代状況を見てみると、高度産業社会が生み出す物神主義を克服し、人間回復、人間復活の新しい社会的調和を見出す必要が、真に切実なのである。そしてそれを西欧文明に期待することはできないことは、既に現代社会の経験によって証明された以上、われわれの民族文化の伝統基盤から探し出さなければならない。周知のように、西欧社会は近代の物質・技術文明のおかげで今日の繁栄を築くことに成功したけれども、人間・自然・社会、そして宇宙を連結することのできる調和のとれた紐帯を喪失するという高価な代価を払ったのであった。

 このような混迷を克服し正しいビジョンを提示するためには、民族文化の遺産と伝統に対する探求が、ここに新たに強調されるべきことは当然であろう。文化意識の混迷が、歴史意識の混迷をもたらすのは当然であり、歴史意識の混迷が現実意識の歪曲という必然的結果を生み出すのである。社会主義の全世界的な没落という趨勢の中にありながらも、わが国の若者の中にはいわゆる「進歩」の虚像に対する心情的な憧憬を捨てきれないままに、彷徨しているのは、なぜであろうか。私は文化的な自我の喪失に代わる価値を目指した熱望がその重要な動機だと考えている。このような欠乏と渇望を癒すことのできる教育的な代案を提示できない限り、若い世代の理念的彷徨とそれによる国家的損失は、明快な解決の道を見出すことは困難であろう。

 わが伝統文化は、このような自我喪失の危機を克服して、物質・技術文明を昇華し、新しい世紀を建設する精神的底力の源泉とならなければならない。これによって民族文化の悠久なる伝統に確固たる根をおろすことができ、それを求心軸として現代と未来を創造していくとき、今日の西欧文明が逢着している難問を超えると同時に、21世紀を「文化の世紀」「文化領土」の時代に拓いていく課業に呼応することができるのである。このための一大覚醒と転換が、現代教育に与えられた課題と同時に21世紀を設計する指導者の役割だという点を、もう一度強調しておく必要がある。

 したがって今急がなければならないことは、マス・メディアを総動員・活用して、21世紀に向かう国家戦略目標に対する方向と地平を提示し、これらを国民に知らしめ国民の共感を得られるようにすることが先行されなければならない。そのような国民的な合意なくしたいかなる政策も、またいかなる国民運動も、決して成功することはないであろうことは、これまでの数多くの試行錯誤の経験からも明らかである。

(この論文は、1998年12月18日に開催された韓国PWPA定期総会において発表されたものである)