地域に貢献する教育と人材育成

札幌国際大学学長 和野内 崇弘

 

1. 北海道の地域性とその課題

(1)優遇されてきた北海道
 全国的な組織の会合の席に出てみると、意外と北海道に対する見方には厳しいものがあるのを感じる。北海道を限りなく愛する者として私は、自分を含め道民に対して厳しい目で見つめ、これまできついことを発言してきた。

 現在、北海道全体で2兆7000億円くらいの財政赤字があり、その不足分を国の予算から補填してもらっている。言葉を換えて言えば、東京や大阪など経済力のある地域で稼いだお金を北海道に回してもらっているということになる。

 戦後、ずっとこのような構造で北海道はやってきた。一番多いときで、全国の公共投資額の約12%を北海道に回してもらい(現在は10%程度)、優遇扱いされてきた。人口比では全国の5%以下なのに、公共投資の割合は10数%の恩恵を受けながら、果たして北海道経済はよくなったのであろうか。依然として全国の経済の4%程度の力しかない。つまりそれらの投資は、資本の蓄積にならず全部食べてしまったことになる。

 そのような現実の中で、他の都府県の人たちは「なぜ我々が北海道を援助しなければならないのか」という疑問をぶつけ、「我々の地域だって大変なのだ」と言ってきている。北海道だけが公共投資で優遇されていることへの強い批判の声である。

 最大の問題は何かというと、補助金の優遇を受ける中で、北海道の人が自立心を失ってしまったことである。自分の力で自分の生活をよくしていこうという意欲を失い、開拓期の人たちから引き継いだ魂を次第に失ってしまった。何か困ったことがあれば、国に詣でて「北海道が困ったから国のお金を回してくれ」というような発想になってしまったのである。

 国の省庁再編過程の中で、北海道開発庁の存続問題を論じるときに、「その存続自体が問題なのではなく、北海道開発庁という役所がなくなることが北海道にとっての理想である」と私は主張してきた。それに対しては、地元から大変な反発があった。しかしこの問題は、実は大切な問題なのである。

 一方の沖縄開発庁については、まだやるべきことがあるので、これは存在意義があると考えている。沖縄は、戦争によって国土が完全に破壊され、戦後も北海道の人が味わうことのないような苦しみを味わってきた。また国土の面でも恵まれていない。農作物も育ちにくく、工業開発にも適していないような地域なので、沖縄はある程度特別扱いしてもいいと思う。しかし北海道は、そろそろ特別扱いをやめた方がいい時期にきていると思っている。

(2)自立心を失った道民
ここで、北海道の現状について簡単に見てみたい。

北海道経済の中で、建設業の占める割合は、第二次産業の中でも突出している。発展途上国などであれば、建設業のウェイトが高いのは当然だが、北海道はまさしくそのような状態となっている。それで果たして、北海道は成熟社会となっているといえるのであろうか。私には、北海道がまるで江戸時代の農民生活のように思われてならない。すなわち、「生かさぬよう、殺さぬよう」ということである。一番悲しいことは、いつしか「道民の魂」まで失ってしまったことである。私が地域問題にこだわるのには、このような意味が込められている。そして私は最終的には、北海道の精神的独立を願っている。

 また北海道では、地元の高校を卒業して道内の四年制大学に進学する人の割合は約70%であり、短期大学の場合は、95%である。沖縄も同様の傾向にある。幼いときから大学まで、北海道という島の補助金に恵まれた社会で、外からの刺激を受けずに、過保護の環境の中で、若者が育った場合には、北海道の将来はますます衰退の方向に行くことになるのではないかと憂いている。

 現在、大相撲の力士の中で、北海道出身の力士は幕内には一人もいないし、十両で一人だけである。かつて上位陣の中では、北海道出身力士が7割も独占した時代があった。また、最近は有名な歌手も出ない。つまり相撲も歌手も、生まれながらの頑強な体や声のよさなどが絶対必要条件であるが、努力も必要な職業である。

 北海道の人間は、「素材主義」である。つまり黙っていても、じゃがいもや魚が取れてしまう環境にある。このような環境にある人間は、努力しなくなってしまう。北海道産のたらこをもっていかれ、それをよその地で明太子にされる。十勝のサバを持っていかれて、宮崎の雲海というサバ焼酎にされる。また昆布をもっていかれては、大阪では塩昆布になる、という具合である。そしてその産物を北海道の人間が高いお金で買って食べる。

 しかし北海道の人間には、素質はあると思う。それは雑居・共生の原則からみても明らかである。北海道には全国から人が集まってきた。生物は同じ血が濃くなってはだめで、いろいろな土地の人間が集まり混ざった方が素質はよくなる。純潔でいいのはサラブレッドだけであろう。他のことは混ざり合った方がいい。北海道に生まれ、大学教育まで同じように受けたのでは、競争のない社会の中で生きることになり、ハングリー精神に欠ける人間になってしまう。

 だから北海道から一旦外に出て、他の社会でもまれて帰ってきた人は、なかなか優れているという。中にはもまれて負けて帰ってくる人がいる。競争のない北海道社会で育ったために、他の社会ではもまれると負けてしまう。適当に混ざり、互いに刺激しながら、やっていくシステムを採りいれないとだめだと思う。

(3)地域へのこだわりと地方大学の戦略
私自身は、地域開発を長年の研究課題として取り組んできた。かつては地域経済を研究する人は低級だと思われる時期があったが、しかし私自身はこれが大切だと考えて、これまで取り組んできた。意外と大学の研究者は、北海道に目を向けていない。

 私が「北海道学会」の創設に関わったのは、いろいろな専門分野の研究者や専門家が、北海道という共通項を軸にすれば、何か発言が出来るのではないかということがその動機であった。専門の立場から、北海道を見つめてみれば何か有益なことがあるであろうし、それらを集積していけば「北海道学」となり、結果として北海道の発展に寄与するのではないのか。しかし実際やってみると、研究者にはそれぞれ自分の拠り所があって、そこからなかなか出てこようとしないために、この学会はうまく発展できなかった。

 私の専門は、地域開発の中の観光学であるが、資本もあまりいらず、補助金も要らない産業として目をつけて、過去20年近く取り組んできた。全国で立教大学に次いで二番目に観光学部を作った。自然に対する環境教育も観光を通して出来る。ごみの捨て方を親が身を持って教えることは、その一例である。

 大学は、全国一律の基準で作られているけれども、決してそれでもって全国の役に立つ大学が出来るとは思っていない。我が大学は、北海道民を学生として受け入れて、教育している。北海道の若い人の力を伸ばし、その結果として北海道全体の発展に貢献できるような人材を養成しようとしている。

 地域社会を良くすることが、結果的には日本全体をよくすることにつながる。それぞれの地域の活性化が不可欠要素である。大学教育を通して地域社会の発展に貢献したいと考えている。

2.大学改革と今後の展望

(1)自由化の流れと自己責任の原則
 文部省の大学審議会での審議によると、今後の大学改革の方向性としては、大学は自分たちの力で改革していくという「大学の自由化」が打ち出されている。大学自由化の担保として、新たに「自己点検評価」という制度が出てきた。しかし自分のことを自分で点検して、評価することは一番難しいことである。

 教育には、訓練や繰り返しをしながら、ある一定の技能を身につけていく段階があるが、そこには自己啓発が必要である。しかしそれは義務づけられていない上、人間は本性的に怠け者なので、自己啓発の必要性が分かっていてもなかなかできない。大学において、果たして自己点検評価ということが本当に出来るのか疑問が残る。それは、大学の先生は外に向かっては立派なことを言うが、自分の組織(大学)の改革は全然出来なかったという過去の例があるからなのである。私自身、教師や大学の教員などの経験を通して、教育界には内発的な改革のエネルギーが足りないのではないかと思っている。

 例えば、会社の場合、「社員教育」というものはあっても、「社長教育」というものはない。それと同様に、大学における学長や理事長の対する教育もない。だから、自分自身が研鑽を積む以外に、大学を発展させる道がない。そのような自己啓発能力がないと、誰からも問題にされなくなってしまうし、大学がつぶれてしまう。

 それで私は、自分の大学においては、自己点検評価をして、それを社会的に公表することを早くから実施してきた。大学の事情をよく知らない方、例えば、高校の教師や校長、企業人、マスコミ人などを「教育懇話会」という組織の委員に委嘱して、大学に対する評価をしてもらい、その結果を印刷物として公表している。

それに対して、大学内部には、「どうしてそんなことをやるのか」といぶかる人もいる。内部の人は、心の中でいろいろと思っていても、なかなか私に対して率直に意見を言ってくれない。それで外部から忌憚ない厳しい意見をいただき、よい知恵を借りないとだめだと考えて、そのようなことをやってきたのである。

 今まで文部省が認可した大学がつぶれたのでは、文部省のメンツがないので、そうすることができなかった。文部省も今まで(大学を)作らせすぎたといえる。更に補助金を出している。そんなことをしていたら国家財政は破綻するに決まっている。「やりたいようにやってもいいが、その責任は自分で負いなさい」というのが、自由化である。文部省もようやくここまできた。

 かつてのように、文部省のいうことだけを聞いていればいい時代は、何か新しいことをやろうとしてできなかったときの口癖は、「文部省が認めないからだ」という弁解の言葉であった。しかし仮に、文部省がそれを認めたとしても、実際に自分だけでは実行出来ないのである。これはちょうど鎖につながれた飼い犬と同じである。すなわち、犬は鎖から離れたがっているが、しかし実際放してやると、その近くの狭い範囲内でしか行動しない。大学も同様である。

 自由にやれといわれたのだが、却って自由に出来なくなってしまった。「大学の自由化をしたら文部省がやることがなくなってしまう」という人もいたが、実際には大学が責任を持って自由にやれないために、却って文部省に相談に来ることが多くなっている。自由にやれといわれても、自信がないからお伺いしないといけないわけである。

 教育界に限らず、産業界も含めて日本全体が、中央省庁のいうことを聞いてやってきたために、自分の責任において行動することが出来なくなってしまったのだ。

(2)大学の個性化
 大学改革は、平成2年に大学審議会の答申があり、翌年には大学設置基準などを改正して実施した。その主な内容は、大学の自由化ということであり、それぞれの大学の個性を出していこう(大学の多様化)ということである。

 今まで日本の大学は、それぞれの地域は違っても、全国ほぼ同じカリキュラムでやってきた。しかしこれからは、もっと大学ごとの個性を出していける時代になったので、我が大学では地域性を前面に出していこうと考えている。その一つが、国際文化理解である。国際理解というのは、外国語をたくさん知ることではなく、それはあくまでも手段である。自分の足元をもっとしっかりと眺めるため、地域社会を良くするために、もっと国際社会を理解するという視点である。そのような意図をもって、我が大学では、「国際文化学科」を設けたのであった。

 しかしこのような考え方は、文部省や従来のアカデミズムに染まった人たちからはあまり理解されなかった。ただ私自身としては、全国どこにでもあるような大学ではなく、地域の特性に密着した大学を作りたいという思いから、今の仕事に取り組んでいる。

例えば、私の大学では、三年前から北海道の大学としては初めての「アドミッション・オフィス型」の入学選考を行なった。これはペーパー試験をせずに、面談だけで入学選考を行なうものである。一回限りの、出題者の狭い範囲の問題を解くことで、しかもわずか数点の差だけで個々人の能力を判断できるのであろうか。何時間も面談し、本を読んでもらったり、レポートを書いてもらったりしながら、じっくりと選考していく。この方がより適切な選抜方法ではないかと信じている。

 受験雑誌などで、このことが取り上げられたこともあったが、北海道の高校等からはあまり評価されていない。地元の高校の先生の中には、「アドミッション・オフィス型の選抜をやるのなら、生徒を送らない」といって抵抗する人もいた。

(3)大学改革への一つの視点
 これからは、いろいろなタイプの大学があってもいいと思う。例えば、研究を重視する大学、教育に重心を置き、人材育成に付加価値を置く大学などである。

 従来日本の教育は、生産者の論理で運営されてきた。つまり教師(教授)の価値観で教育をやりすぎたと思う。消費者の論理が欠如していたために、自立心が欠如してしまったといえる。教える側の自己満足的な価値観のみで教育してきた。受けての利益、欲求を無視してきたといえる。だから、単に大学の卒業証書だけを出すような大学は、やがて見捨てられてしまうだろう。学生に付加価値をどれだけつけることができたのかという視点が、今後重要になってくるに違いない。

3.教育の危機と家庭問題

(1)自己責任のない現代人
現在の危機は、金融や経済の危機ではなく、教育の危機であると思う。経済は、表面に表われ、目に見えるので非常に分かりやすい。しかし人間が悪くなったことは、目に見えないのでわかりにくい。その根底には、人間の価値観の崩壊がある。つまり倫理観、道徳観が崩れてしまった結果としての危機なのである。

 現在のように高等教育への進学率が高い社会になると、大学の価値がないと主張する人がいる。昔は大学への進学する人の割合は、同世代の4%程度であったが、現在ではそれが約50%になっている。このこと自体は歓迎すべきことである。

 高等教育を多くの人が受けられるというのは、豊かな国の証拠である。例えば、22〜23歳までモラトリアムで過ごせるのは、豊かな社会以外のなにものでもない。世界の国の中には、義務教育という概念すらなく、教育を受けられない子供がたくさんいる。その素晴らしさを人間を鍛えることに使っていないところが、日本社会全体の問題なのである。

 今年の夏、神奈川県の玄倉川中州のキャンプ場での事故は、現代人の特徴を表わす象徴的な事件だったと思う。当局が何度も警告を発しながらも、聞かないで中州にとどまった人たちは、「自分が好きなことをやっているのだから構わないじゃないか。他人はつべこべいうな。去年も来て大丈夫だったから、今年も大丈夫だ」と考えて行動していた。一見すると自己責任のある発言のように見える。しかし彼らの誤った判断の結果、多くの費用と人材が投入(自衛隊、消防、警察など何百人にのぼる人数による救助作業)されているのである。しかし警察や消防などが遺体の捜索をやらなかったら、彼らやマスコミは一体何というであろうか。本来的には自業自得の結果であるから、面倒を見る必要はないはずなのだが、そうするとマスコミは当局を「非人道的だ」と非難することであろう。しかし一体どちらが非人道的かといいたい。

 結局、自己責任の原則が成り立っていないということが根底にある。実は、教育の世界にも、この自己責任の原則が不在なのである。

(2)真のエリート
 かつて江戸時代には徳政令(借金の棒引き)というものがあった。人から金を借りたら返さなければいけないという基本的価値観を崩して、借りた金は返さなくてもいいというのである。銀行の不良債権問題は、まさに現代版の「徳政令」といえる。1000円や10000円なら返せとなるのに、100億円、1000億円となれば、返さなくてもいいという。この観念がまかり通るようになってしまった。これは大変なことだと思う。マスコミも「経済・金融危機」といっているが、税金を投入してごまかしているのに過ぎない。

 最近、企業人も大学生の質が悪いということを言わなくなった。これはいいことである。なぜなら、従来は教育だけが悪いといわれてきた。しかし現在の経済危機、金融危機、などすべてエリートといわれる大蔵省などのお役人がやったことであった。

 私は「秀才」には、二種類あると考えている。一つには、記憶力がよく、それをマークシートにあらわせる人間。日本の試験に、正答のない試験はない。今まで正答のない問題を出してはいけないとなっていた。しかし世の中には、答えが分からないことがたくさんある。例えば、バブルの後始末のことについては、経験的に過去になかったことである。問題集に答えのある問題を解いている間は、大蔵省の役人のぼろが出なくて順調であった。日本の試験制度は、そのような意味の秀才を生み出してきたと言える。

 もう一つの本当の秀才は、別のものだと思う。本当の秀才とは、人間性を犠牲にせず、ある程度の学問的基礎があり、人間味があり、教養ある人である。今、世の中でいわれているいわゆるエリートとは、似非エリートである。これは戦後の受験戦争を中心とする偏差値教育のひずみの結果だと思う。そのような人たちは、地方など見向きもせず、常に中央指向となっている。そして中央が優秀で、地方は低価値だという認識である。

(3)チャレンジ精神の喪失
もともとは学習の到達度・理解度などを調べるための統計学的手法であった「偏差値」が、教育上の人間の仕分けの手段に使われたことがそもそもの問題点であった。その結果、今の子供たちは自分の能力をはじめからわきまえて「すみわけ」をしている。

 例えば、ある子供は「Aさんは偏差値が高いから頭がいい。偏差値の高い人はどこに行って、私のような低いものはどこにいく」というように、「すみわけ」を当然のことのように考えており、そこには全く欲求不満がない。初めから諦めていて、全くチャレンジする意欲がないのである。

その意味で、今、高等教育(大学など)にしっかりとした意図(目的)をもって進学してくる学生は、実に少ない。「みんなが(大学に)行くから、私も行く」という群集心理が大半の学生の動機だろうと思う。ここにメスを入れないといけない。今の大学生が、私語が多いということの背景には、このような問題もあると思っている。更には、日本の社会全体を見ても、弱者中心の社会になってしまっていて、競争が排除される雰囲気の社会になっているといえる。 

(4)父性の復権
 学生にアンケートで、「進路を決めるときに、高校の先生の相談が有力な要因であったか」と聞いても、そうだという回答は少ない。また、「高校以降の進路についての相談相手は誰か」と聞くと、圧倒的に「母親」と回答している。そこには、父親は殆ど出てこない。母親の次が、友達、学校の先生と続いて、父親という回答はずっとあとになっている。これはまさに教育の危機だと思う。

 母親の愛情と父親の愛情とは本質的にちがったものである。母親の愛情とは、端的に言うと盲目的であり、母子間に距離感がない。父親は子供に対してはちょっと冷たいようではあるが、距離をもって客観的に見ている。この組み合わせ(調和)が大切なのである。

ここで私がいいたいことは、母親と相談しているということではなく、父親が子供の相談相手になっていないという点なのである。女性の価値観だけで子供(男の子も女の子も)が育っており、母子分離ができておらず、子供が自立していないといえる。

 私の経験では、大学生の子供のことで電話をしてくる母親がここ十年前ごろから多くなってきた。これは私の体験からは、大学というところにまで親がしばしばお出ましになることが信じられなかった。今の子供は、確かに素直でいいかもしれないが、挫折を味わっていないからだめなのだと思う。このような世の中は、今後どうなってしまうのか。

 大学の教員にも学生をしかりなさいと指導している。今の学生は親からも怒られたことがない。まず家庭で怒る立場の父親が優しい。むしろ父親が母親から怒られている。そのような姿を見て子供が育ってきている。そのような姿は、子供の前では見せてはいけない。だから母親に相談することになる。人間(子供)は、権力を持っているもののところにいく習性がある。これは正に実証的なことである。

 だから父性の復権を訴えている。父親の存在を回復しなければいけない。両親が対等の関係にまでもっていかなければいけない。

青少年問題については、今まで大学・学校が問題だと非難していた人たちが、その根本に家庭問題があったということにようやく気づきはじめた。特に、そのような声を高く上げているのは、教育界の人ではなく、経済界の人であり、政治家も政治課題として扱わなければいけないと感じはじめている。社会全体としての取り組みを今後期待したいところである。 
(1999年8月20日発表)