経済成長、文明の進歩に伴う人間崩壊と人間形成医学

愛知医科大学元教授・久徳クリニック院長 久徳 重盛

 

●固定観念捨てた喘息の研究

 私は大学を卒業した後、名古屋大学医学部小児科教室に残り、気管支喘息の研究を始めた。当時、気管支喘息は原因が不明で、治らない病気といわれていた。最初私は、アレルギーの研究から始めた。というのは、当時(昭和35年頃)日本では、喘息の治療とはアレルギーの治療であるとさえいわれていたためであった。その頃研究者・専門医の間では、喘息はもともと原因の分からない病気だという固定観念があった。

 研究してみると、喘息は医者が治すことはできないが、自然に治っていく人は珍しいことではなかった。しかし専門医になると専門バカになってしまい、アレルギーにしか目がいかなくなって、全体が見えなくなってしまう傾向があった。その中で私は、「自然に治癒していく」とすれば、医師が「治らない」と決め付けることは間違いであり、「本来治る病気であるが、現在の医学では治せないだけだ」ということを認識した。

 そこで、自然治癒していく人たちを調べ、何故治っていくのかそのメカニズムを解明し、更にそれを医学に応用すれば喘息も治るはずだと考えた。この30年間、私以外の喘息の専門医はほとんどアレルギーの研究に明け暮れていたといえる。

 喘息の場合、春や秋に発作が起るとすれば、それはアレルギーが原因だというよりは、体のバランス、すなわち自律神経とホルモンのバランスの問題であると見るのが、自然であろう。そうであれば、体を鍛えるという発想が生まれてくる。自律神経とホルモンのバランスが崩れるということは、その中枢の問題と見ることも出来、そこから脳機能の異常という観点も出てくることになる。更に言えば、母親が子どもを育てる場合に、どのように子どもの体と心にひずみのある育て方をすると、喘息が現われてくるのかというところまでいくことになる。そこでそのような研究を始めたのであった。

「どのような育て方が、喘息をもつ子どもをつくるのか」という研究である。その逆を考えれば、治療方法も見えてくる。アトピー性皮膚炎、夜尿症、自家中毒症などの「体質病」といわれてきたものも、もって生まれた体質が原因ではなくて、妊娠の末期ないし、ゼロ歳から3歳頃までの育て方が、かなり大きく影響することが、分かってきた。

 その頃、日本は高度成長時代に入っていた。かつて日本は、「生んだら育てることができる」という、世界でも有数の子育ての上手な国の一つであった。「子どもは放っておいても育つ」、「親の背中を見ていれば育つ」とさえ言われていた。ところが、高度成長時代を経ることによって、日本は子育てが下手になってしまった。そこで「何故、経済が成長すると、子育てが下手になるのか」という問題にも、関心を持つようになり、更には心身症や不登校・働けない大人など多様な問題に関わるようになってきた。

●第三の医学への取り組み

 そのような中で、「医学とは、一体何か」ということを考えた。
 現在でも、医学の主流になっているのは、「身体医学」である。これを「第一の医学」ともいう。日本が発展途上国の頃は、この身体医学さえあれば、ほとんど国民の健康を守ることができた。言葉を換えれば、心臓や腎臓の病気や骨折など、身体の部品を治す医学である。しかし文明が発展するにつれて、別の分野の医学が必要になってくる。

 日本で心身医学の研究がはじまったのは、昭和20年であった。心が原因で体に症状が現れてくる病気を「心身症」といい、数年前に、皇后陛下が心痛の余り声が出なくおなりになったことがあったが、これもその一例である。

 平成8年になって、厚生省が「心療内科」を標榜することを許した。しかし現在でも、心療内科の専門医は1%いるかいないかという状態である。この範疇の病気としては、数百種類ある。例えば、心が原因で、咳や熱が出たり、頭痛がしたり、下痢、嘔吐などと、さまざまな症状が現れる。

 更に文明が進むと、人間形成にひずみが出てきたことに由来する極めて多くの病気や異常が増えてくる。

 1921年に、インドでオオカミが育てた少女が発見された。人間はオオカミが育てれば、当然オオカミらしくなる。また人間の子どもだけは、育て方次第で、神様や仏様のようにもなるし、悪魔のようにもなる。このように人間は、環境によって非常に大きく変わる可能性を秘めた存在である。このようなことを研究するのが、第三の医学である「人間形成医学」である。はっと気がついて見ると、自分がやっている医学は、まさにこの「人間医学」ではないかと思った。

 WHOは、「体が健やかで、かつ心も健やかで、更に環境も健やかな場合に、本当の健康という」と、健康の概念を定義している。しかし、実存する医学は、ほぼ100%が身体医学であり、心身医学を知っている医者は1%程度、人間形成医学を知っている医者はほとんどいないという現状である。

 心身医学は、戦後の50年間を通じてやっと数年前に厚生省が心療内科の標榜を認めたのであるが、ここで紹介する「人間形成医学」が、日本の国に定着するようになるのには、20年、40年とかかるのではないかと思う。

 オオカミが育てると、何故人間はオオカミらしくなるのか。あるいは、どんな育て方をすると子どもが喘息になり易く、どんな育て方をすると非行に走ったり、登校拒否になるのか等、さまざまな課題に取り組むのが、この人間形成医学なのである。実は、「経済が成長すると人間が壊れる」というルールがあるのだが、経済が成長するにしたがって日本のお母さんたちは、どうして無意識のうちに子どもを産むのが少なくなったのか。更には、それとともになぜ子育てが下手になってしまったのか。これらを総称して、「文明国型の育児崩壊」というが、この原因も人間形成医学でなければ分からない。

 人間の子どもを育てるということは、「脳を育てることだ」ということが次第に分かってきた。人も動物の子であり、牛や馬も動物の子である。もっと下等なカメの子も動物の子である。カメの場合は、卵を産めば親の責任を果たしたことになる。生まれたカメの子は、生まれたその日から自立能力が備わっている。すなわち、大人としてのしくみを持っているということである。歩くこと、食べること、泳ぐことなどができる。だから生きてさえいれば、しつけがなくても、大人のカメになることができる。

 最近「学級崩壊」ということが言われるが、生まれた時からずっと同じ質で育った子どもが、学校に入れば「学級崩壊」は起らないはずだ。かつての日本は、子育てが上手であったから、小学校に入る(6歳)までに「人間の基礎」が大体充実していた。そのような子どもが学校に入るのであれば、授業中ずっと落ち着いて椅子に座り、先生の話を聞くこともできるはずである。ところが子どもの育て方が今の日本のようにばらばらになり、多様性のある「人間の基礎」をつくった子が入学するのだから、学級崩壊が起るのは当然であろう。

 牛や馬の子の場合、「育てる」ということばを使うけれども、動物の場合、親が育てても、人間が育てても、あるいは極端な場合機械で、十分なえさなど与えて育てても、ほぼ同じような普通の大人になる。例えば、牛の子を人間が育てたからといって、人間らしくなるということはない。ところが人間の子どもだけは、そうではない。

 先述したインドで発見されたカマラという少女は、生後6ヶ月から8歳までオオカミに育てられた。生まれた時は正常であったが、オオカミが育てたために、8歳で人間世界に戻った時、人間のように立って歩いたり、手で物を持つとか、言葉を話すなど、全然できなかった。これはカマラ自身に問題があったのではなく、オオカミという文化的環境の中で育てられたために、その当然の帰結として「オオカミらしく」なったのである。

 だから現在問題になっている日本の子どもたちも、どこに問題の根源があるのかということを考えないといけない。それは、育てられた環境、養育環境から連綿と影響を受けて、現在の結果が出てくるわけだ。例えば、6歳までの育て方の結果が出てくるのは、大体10年後の15歳前後の頃である。更に、10年後の22〜3歳から26歳頃に問題が出てくる。それは脳のしくみが、そうなっているからである。

 人間の子どもは、育て方や育てられる環境といった「文化的環境」によって大きく人間形成が左右される。またそこに住む大人たちも、文化的環境が変わると、無意識のうちに行動パターンも変わってくる。それゆえ、高度成長時代が始まったことによって、子どもに問題が起ったのではなく、むしろ大人から問題が起ったのであった。

●脳のしくみが変わる

 それではどこが変わるのかというと、脳のしくみが変わるのである。

 図2は、東京大学脳研の時実利彦教授が考えたもの。Aの部分は、間脳や脳幹などのいわゆる「古い脳」で、「反射・調節作用」を司っている。ここだけで生きていれば、植物人間ということになる。Bの部分は、「本能行動」で大脳辺縁系が司っている。本能行動とは、いわゆる自分が生きていくための本能である。例えば、朝起きる、食事をする、活動する、眠るなど個体維持の本能や、みんな仲良くするといった集団の本能、子を産み育てるなど種族維持の本能などである。

 昔の日本の大人たちがたくましく生活し、向こう三軒両隣りも、大家族もしっかりバランスよく維持し、産んだ子どもはしっかり育てることができたということは、動物としての健全性がしっかりしていたということなのである。本能行動というのは、動物としてのたくましさである。

 人間以外の高等な動物はこのAとBの脳で生きてゆくが、人間はその上にまだCとDの脳がある。人間は300万年前にチンパンジーに近い類人猿から進化した。その当時の脳の重さは400グラムくらいであったが、現在は1300グラムくらいであるから、この300万年の間に900グラムくらい脳の重さが増えた。それが図のCとDの部分で、これらを「新しい皮質」と呼んでいる。

 Cを「適応行動」といって、「人間としての賢さ、たくましさ、うまく生きていく」脳の働きである。この中には、ピンチに陥った時にうまく乗り越えるという危機管理能力も入っている。この部分は、知識教育ではなく、人間教育によって充実する。生まれてから一生にわたって、生活を体験、経験した内容が詰め込まれる部分である。「あの人は教育はないが、立派な人だ」というのは、この部分(人間形成)がしっかり成長した人といえる。そのような人が、昔は長老になり、指導者になった。

 Dは創造行為といって、「頭のいい賢さ」である。人間が子どもから成長するためには、脳の構造から言うと、体育から始まって、人間教育をしっかりやり、その次に知識教育をやらなければならない。最低、体育と人間教育をしっかりしておけば、人間としては賢く生きていくことができる。さらに知識があれば、それにこしたことはない。

 今日本の教育は「知識偏重教育」といわれるが、知識を多くするような教育をすると、「逆淘汰現象」という現象が現れてくる。それはどういうことかというと、頭をよくする教育(インテリになるような教育)をすると、中のほうの脳が壊れてくるのだ。すなわち、人間としてのたくましさ、動物としてのたくましさ、本能行動、反射・調節作用などが壊れてくるのである。理屈から言うと、インテリになれば、その分だけ子どもを上手に育てられるはずだし、経済的にも恵まれているので、立派な教育ができるはずなのであるが、インテリになればなるほど、子どもの数が少なくなりやすく、また、インテリほどたくましさ不足で「青白」く、「人情味がなく、水くさい」人間になりやすい。

 このように頭をよくするということは、ある意味では危ないことでもある。だからその前に、人間をしっかりさせることが、大前提となる。人間教育を手抜きして、知識偏重教育をすれば、絶対に人間性は壊されてしまう。ところが昭和39年の高度成長時代以降のわが国は、偏差値を中心とした輪切り教育に象徴されている知識偏重教育に陥ってしまった。産業を興し、国が金を儲けるためには知識教育をして、機械やコンピュータが扱えるサラリーマンをつくれば人間性は壊れてもよいというような教育をやってきたような気がする。

 動物としてのたくましさと、人間としてのたくましさというように、「たくましさ」も二重構造になっている。また「賢さ」も、人間としての賢さと、頭のよい賢さがある。このすべてを充実する教育をしていけば、生物学的に成熟した人間になれる。日本はこのバランスのとれた全人教育を失ってしまった。

 このように「人間は脳を育てる動物」である。このようなことをお母さん方にお話ししても、知っている人はほとんどいない。マスメディアを見ていても、「こんなにもなぜ子どもたちがおかしくなってしまったのか」という話はいやになるほど聞かされるが、脳の育て方をこのように誤ったから、そのような問題行動が出てきたという論説はまず聞かない。国全体の指導者が、何故このようになってしまったのか、分からないという状態である。脳の観点から説明すると、良く分かると思う。

●経済成長と親の人間崩壊

 次に、経済成長と親の人間崩壊について説明する。

「経済が成長すると、大人も子どもも人間として崩壊していく」というルールは、昔から知られていた。図3の上に書かれてあるのは、日本が貧しい時代(例えば、昭和20年以前)の状態である。それを「パトリズム(patrism)社会」といい、経済的に言えば、貧しく、不便な社会のこと。そのころの価値観としては、勤勉さ・節約を尊ぶものであった。ほとんど100%に近い人々が同じような価値観をもって暮らしていた。これは現在でも、発展途上国のほとんどはこのパターンと言える。

このような社会では、「個体維持の本能」が高まり、個々人は「がんばって生きよう」とする。その結果、自分が生きる能力が高まる。文化的に貧しい社会では、このようにがんばって働こうという気持ちが強く、無意識のうちに適応行動が高まっていく。人間として賢い人やたくましい人が出てくる世の中とも言える。脳の作用は連動しているために、他の本能行動も高揚してくる。

 日本が貧しい時代には、「集団本能」も高まるために、地域社会の連帯がよい状態にあったといえる。地域では、みんなが仲良く生きていこうという意識が強かった。村祭りや共同の行事があれば、皆協力する傾向にあったし、近所関係も同様であった。家族の連帯もよく、大家族が維持されるようになっていた。貧しい時代は、家族全員が心と体を寄せ合って世の中を生きていこうとするために、家族の成員それぞれの役割もはっきりしていた。一人一人がバラバラなことを考えて、集団を維持することが難しくなるようなことは少なかった。

 このような時代は、「種族維持本能」も高まる。そのため昔のお母さん方は子どもをたくさん産み、子どもを育てることが非常に上手であった。かつて欧米の人が、ベビーシッターを雇う場合に、昭和20年代までは日本人の娘さんであれば非常に子守りが上手であると言う話があったほどである。10代の後半の年齢で子守りが上手だということは、既に娘の頃から、いつ母親になっても子どもをうまく育てる能力を持っていたということを意味している。これは今では考えられないことである。いま日本の中高生は、世界の中でも一番幼稚で幼いといわれている。昔は15歳になれば元服し、父親と戦争にも行っていたし、結婚もしていた。そのような能力を持っていた。

 パトリズム社会というのは、「人間を生物的にしっかり成熟させる力」を持っているということなのである。日本ではそれが、昭和20年から30年頃までは続いていた。ところが昭和30年代後半から、高度成長時代に入った。要するに、豊かで便利な社会であり、これを「マトリズム(matrism)社会」という 。そうなると人間は、無意識のうちに、「楽しいこと、消費することはいいことだ」といった価値観をもつようになってしまう。

 日本の子どもたちは、昭和30年代以降急速に文明国型の人間形成障害に陥った。このような変化を示した国はまれである。欧米諸国は、数千年、数百年をかけて文明が進んできたのであるが、日本は短い期間に濃縮させて経済を成長させてきた。そのときに、経済が成長しても人間は壊さないという政策をとっていれば、これほどまでにはならなかっただろうと思う。私はこれを、「異常に高度で急速な経済成長」と呼んでいる。

 日本人はその波に飲み込まれ、欧米が数百年かけて辿った道を、数十年で経てきたために、欧米以上の人間崩壊が起ったのである。すなわち、文化的、構造的な環境が壊されたということになる。

 楽しいこと、便利さだけを追求する生活になると、それと連動して必ず脳の働きも落ちてくる。まず「集団本能」が壊れるので、近所付き合いをしなくなり、地域の連帯も壊れてくる。むしろ近所で対立する関係すら生じてくる。更に家庭が壊れ、必然的に大家族は壊れ、核家族化が進行する。地域社会の崩壊は、社会を愛する「社会愛」がなくなることを意味する。近隣愛もなくなる。家族愛もなくなるので、家族が分裂する。

 私が初めて不登校児の増加に気付いたのは、昭和36年頃であった。当時は実に珍しい現象であったし、親による子どもの虐待もそうであった。当時の小児科学会では、新しい現象として報告されたものであった。

 親の愛情も、明らかに減っている。親子の愛情、夫婦愛も薄くなっている。医学の立場からは、経済成長の社会を「愛に欠けた症候群」といっている。例えば、近隣愛、社会に対する愛もない。学校に対する愛など、知らないというのが当然。親や近所の人、友人も愛せないのに、先生を愛することができるはずがない。

 いま日本で生まれる子どもたちは、「愛欠症候群の子どもたち」である。愛情に欠けた、あるいは愛情に乏しくなった世の中で、彼らは生まれ、育っていかなければならないという宿命を負っている。

 社会、家庭・親子関係、夫婦関係、そして親が子どもを育てる能力などすべてが壊れていっている。「個体維持の本能」まで落ちてきて、自分自身を愛し、大切にすることすら知らない子どもが現れてくる。そのような子どもは、暴走族にもなるし、シンナーも吸い、売春や人殺しもする。自己愛がなくなってくる。

 奥深い部分まで見てみると、心が通い合う愛情が欠けた世の中になってしまったために、子どもや若者だけではなしに、政治家までも国民に対する愛情が欠けているといえるかもしれない。このように日本は、構造的に愛情の欠けた家族、家庭、社会になってしまったということである。これを「構造的、総合的、文化的な環境の崩壊」といっている。

 最近の子どもたちの残虐な事件を見ても、一部の子どもだけが悪くなっているのではなく、全般的に悪くなっているのである。だから日本全体が子育てが下手になっているので、その落とし穴に落ち込まないように、上手に子どもを育てる方法を教えてあげることが必要だ。ところが無意識のうちに子育てが下手になってしまっているために、困ったことには、この異常な状態を「普通だ」と思ってしまう。これは非常に恐ろしいことである。

 今のお母さん方は、特別な意識や配慮をしなくても、なんとなく子どもは育っていくと思っている。私の病院でもそうであるが、問題が起った時にお母さん方は、「私はこんな風に育てた覚えはない。こうなるとは思ってもみなかった」などと必ず言ってくる。子どもの実態を知った時に、「うちの子どもがそこまでいっているとは、思わなかった」というのが常である。自分の子どもを見る目が、非常に低下してきている。かつては、子どもが隠れて悪いことをしてもそれが分かると言われていた。それは親の「勘」である。現在は、その意味で子どもを育てる勘が働きにくい親が多いといえよう。

 極端な言い方をすれば、毎日「えさ」を食べさせて、その子が目先なんとなく普通に生きていさえすれば、この先どうなるか、先のことなど分からないという親が実に多い。以前は、先のことまで分かるお母さんが多かった。井戸端会議をしながら、育て方についていろいろと話しをするなかで、お母さん方は直感的な育児本能を育てていったといえる。今はそれがなくなってしまった。

 現在の日本は、教育を含めて構造的に環境が崩壊している。知識偏重教育は明らかに失敗であり、人間教育が足りない。すなわち、体育・徳育・知育の順に教育はやっていかなければいけないのに、現在は知識偏重教育に傾きすぎている。しかし人間が人間として成熟するためには、体育と徳育は必須条件である。私たちが見るところでは、今の子どもたちの中で、生物的に成熟した大人になれるのは、全体のほぼ20%程度ではないか。大人になった時、個体維持本能が充実し、しっかり働き、家庭生活など集団生活が出来、子どもができればしっかり育てていけるのは、その程度であろうと思う。

 それでは経済が成長すると、なぜ親が駄目になるのか。(図4参照)

 これまで30年間人間形成学について研究してきて、私自身このように表にまとめられたのは4〜5年前のことである。人間も基本的には動物であるので、子どもを育てる基本は、「育児本能」である。それが正常であれば、子どもは育つはずである。人間は他の動物まで壊してしまう力を持っており、例えば、イヌ・ネコでもおかしな飼い方をすると、狂った親になってしまい、子どもを育てられないイヌ・ネコになる。普通野生で自然に生活している動物は、育児本能は正常である。昔のお母さん方の大部分は、育児本能が正常であったといえよう。

 育児本能の正常さという点から言うと、人間も他の動物も共通している。原点は「子どもを育てることに手をかけることが楽しい」ということである。評論家は、「昔の親は厳しかった。つらいのに苦労して子どもを育てた」とよく言うのだが、現実にそれほどつらくいやなことであったのであれば、子どもを産んだり育てるはずがない。ところが昔のお母さん方は、育児本能が成熟していたので、子育てに手をかけることが楽しいと感じて、「手のかかる子ほどかわいい」とさえ言っていた。それはまさに、実感であったのだろう。

子育てが楽しいので、「子どもは子宝」という気持ちになる。当然たくさん子どもを産む。そして毎日手をかけることによって、育児本能がさらに充実するのである。

 妊娠後期になると、胎内で赤ちゃんが動く。そのことをかわいいと感じて、母性愛が高まってくる。産まれた直後から赤ちゃんをお母さんの側に置いて育てると、お母さんは赤ちゃんを抱く時に必ず、左抱きにする(赤ちゃんの頭がお母さんの左側に来る)。そうすると抱かれた赤ちゃんに、お母さんの心臓の鼓動が伝わってくる。そして赤ちゃんの情緒は安定する。赤ちゃんを新生室に入れ母親と分離して育てると、本能的にぱっと左抱きにするお母さんが少なくなってきてしまう。その分だけ母子関係にひずみが生ずる。

 このように親と子が密着して生活している間に、子どもが育つだけではなしに、親の育児本能が育ってくるのである。人間の親は、一般に育児本能が若干未熟な状態で子どもを産む。しかし毎日子どもを育てることによって、子育て本能が充実する一方、大家族で生活し、近所付き合いが盛んであれば、子育てについて周りの育児経験者のまねをしたり、教えてもらうことができ、実践教育を受けながら、成熟した親になっていく。

「子どもが3歳になるまでに、成熟した親にならなければならない」ということが、最近分かってきた。そのことで親子の基本的な好ましいパターンが形成され、育児本能が成熟し、「勘」で子どもを育てることができるようになってくる。動物はすべて勘で子どもを育てる存在だ。人間だけが例外ではない。育児に大切なのは、育児本能(愛)に基づいた直感的な勘であり、育児知識だけでは健全な子育てはむつかしい。

 30年前の育児相談は、子どもを育てる相談ではなかった。予防接種のことや離乳食の問題など、体の医学の問題が多かった。だから昭和30年の初めまでは、日本では育児書が必要なかった。心身とも健全な子に育つということは、もっと大きな目で見ると、健全な大人に育て、代々家系を継ぐことができるということである。そして先祖の墓も守れるということになる。

 昭和30年に入って、文明国型育児崩壊型の親が増えてきた。それまでは、子どもを産んでお母さんになると、お母さんになったという喜びがあった。しかし次第に、お母さんといわれるよりは、娘であることのほうがうれしいという気持ちの人が多くなってきた。

 豊かで便利な世の中になるということは、物質的に豊かになるということである。掃除機、洗濯機、自動車など、便利になること自体は悪いことではない。人間の知能は相当不完全なものなので、機械が便利になると、人間関係まで便利になろうとする。しかし人間関係というのは、元来不便なものである。例えば、夫婦の間まで便利になろうとすれば、便利な妻、便利な夫がいいということになる。更に、子どもを育てる場合にも、便利な育児がいいし、おとなしい子がいいということになる。高度成長以降に現れたこのような価値観を、人間形成医学の立場では「消極的な敵意」と呼んでいる。

 人間の子どもを育てることは、もともと手がかかって、不便なものだが、便利な育児やおとなしい子を望む親になってしまうと、いつも「いやだ、いやだ」と思いながら子育てをすることになる。「いやだ、また手がかかった」という感じ方を、「消極的な敵意」というのである。今まであちこちで講演をしてきたが、どこに行っても、便利な子育てがいいという親が9割以上であった。昔のように、「手をかけるのが楽しい」という親は、少ないところでは100人に1人しかいない。このように育児の質が、大きく様変わりしてしまったのである。

 この極端な場合は、子どもがいなくてもいいということであるから、日本にとっての大きな問題となっている「少子化」の問題の原点は、まさにここにある。「手がかかって、子育てがいやだ」というのであれば、子どもを産む気になるはずがない。

「いやだ、いやだ」といいながら子育てをすると、育児本能は成熟しないので、いつまで経っても未熟なお母さん(親)のままである。それはすなわち、親であることがいやで、夫婦や独身に帰りたいという気持ちが働くということでもある。その結果、子どもをどのように育てればいいのかわからない親になる。これを学問的には、「育児不能症」という。

 もしも動物が子どもをどう育てていいのか分からなくなった場合には、その子は死ぬことになる。人間だけは知能を持ったおかげで、どう育てていいのか分からない場合に、ハウツー育児に頼ることになる。

 頭で考えて育児をするようになると、直感が働かず、親の判断を子どもに押しつけることになる。正常な親の場合は、親の判断を押しつけるのではなく、子どもを見ると直感的にその子どもに何をすることが必要かが分かり、そのように対処するのである。子どもの状況に合わせて親の態度を決めるのが、育児本能の成熟した親といえる。この直感が働かないと、親の判断を子どもに押しつける。そうすると、がみがみ言う、命令する、殴る、虐待するとかいった問題が出てくる。これを「積極的な敵意」という。

 いま一つは、過保護、溺愛。親が楽しむために子どもをおもちゃのように育てる。子どものほうからすると、甘えっ子や未熟な子になる。また反対に、極端に放任する場合もある。最近はこのような例が多くなっている。

これを「悪魔の愛情」というが、これはギリシャ神話の時代から知られていた。何故人間にだけ、「悪魔の愛情」があるのか。この問題も、人間形成医学で明らかになってきた。動物の中には、種族維持のために子を殺すことはあるが、これは合目的にするわけで、人間のように非合目的にがみがみ言ったり、虐待したりするのとは質が違う。

 例えば、ある子持ちの母ライオンが、オスライオンが何かのきっかけでいなくなったとする。よそから別のオスライオンが来ると、子どもを抱えている母ライオンでは都合が悪く、よそから来たオスライオンはその子どもを殺してしまう。オスライオンは、母親でなくなったメスライオンとセックスして、自分の子どもをもうける。このような場合、子どもを殺すことがあるが、これはあくまでも種族維持という目的がある。一般的に徒に親子が傷つけたり、殺したりすることは、人間以外の動物にはない。

 この悪魔の愛情で子育てをすると、子どもは当然親を嫌ったり、憎んだりするようになる。これが近年、非常に多くなった。中高生で、「親はいやだ、家庭はいやだ、家にいたくない。できることならなるべく早く、家から離れて自分一人で生活したい」と考える子が非常に多い。結果としては、心身ともに不健全に育つ子どもが増えてくる。

 更に言えば、このような状況では家系が絶えていく。いまは日本民族が、急速に自滅のコースに乗っているとも言える。少子化問題、家庭崩壊、教育崩壊、子どもの遊びの文化の崩壊、子どもや大人の人間形成のひずみなど、あらゆる面で、日本民族が自滅の道を進んでいるように思えてならない。

●誤った「人間の進化」

 子どもは、6歳までに人間の基礎を作る。その中でも3歳までが非常に重要だ。3歳以前の子どもたちは、血液中の白血球の好中球、リンパ球などの比率、交感神経、副交感神経の関係などが、大人とは全く逆になっている。これらのしくみが3歳から6歳の間に逆転する。このことは小児科学では50年以上も前から分かっていることなのであるが、なぜかという意義付けは分かっていなかった。

 0歳から、3歳、6歳の頃にかけて、生き生きとした育て方をするということで、好中球や副腎、交感神経の働きをよくすることが大切だ。これらの働きをよくして小学校に入れれば、まず70%は子育て成功といえる。ところがこれらの働きが悪い状態に育てると、3歳までに喘息やアトピー性皮膚炎が発現してくる。これらを薬で治すとすれば、みな副腎ホルモンが効く病気なのである。

 この頃までに、副腎や交感神経の働きをよくする子育てをしておけば、このような病気には一切ならない。小児科の専門家の中でも、今もってこのことを知っている人は少ないと思う。3歳までに自律神経やホルモンの働きをよくする、すなわちからだのバランスのよい子どもに育てること、言葉を換えれば、生き生きとした生活をするということにつながってくる。図2のCの働きをよくするということである。

 脳の機能から見ると、一番奥の機能が反射・調節である(心臓の搏動、呼吸など)。二番目の脳が本能。三番目がしつけでつくられる適応行動。ABCは主として3歳から6歳にかけて形成される。人間の脳を育てるということは、まず0歳から6歳までに、建物でいえば土台に相当する人間の基礎を育てることである。

 そして6歳から10歳、15歳は、本建築に相当する大人の基礎を作る年齢である。このことを昔の日本人は体験的に知っていたのであるが、現在の大人たちは忘れてしまっている。15歳までに、男は声変わりをするし、女の子は月経が現れる。昔でいえば元服をし、時には結婚することもあった。この時期は、脳のしくみで言うと、CとDの脳を充実させる年齢である。人間は15歳になれば、生物的には成人である。土台を築き、本建築をしっかり完成すれば、親も立派に育ったからうれしいし、子どもも大人という自覚を持って高校に進学することができる。こうなれば、成熟した親であり、子であると言える。

 このように育った子どもが大人になれば、個体維持の能力も充実してしっかり働くし、集団能力もしっかりするので、夫婦、家族、近所など人間関係をうまくやっていけるのである。そして子育てもしっかりやれる。これを成熟した大人という。昔は図5のAコースを歩ける人が多かったので、先祖代々の家系も継ぐことができた。

 高度成長期に入った時、まず子どもの問題が現われるより前に、大人の種族維持本能が壊れてきた。だから子どもを産む数が減ったのも、昭和30年代から既に始まっていた。子どもを虐待する親もボチボチ出始めた。実は、働く能力を身につけることが一番簡単で、みんな仲良くする能力はそれよりも難しく、更に人間として成熟しなければ、子どもを育てる能力は身につかないということになる。このように成熟にも段階がある。

 子どもの数が減り、次に集団本能が壊れたために、近所付き合いをしなくなった。核家族化が進み、一人暮らしの老人が増え、更に大人になっても働けない大人が出てきた。今「問題児」が多発しているが、既に昭和30年代からまず「問題の大人」が出てきたのである。ところが当時の評論家や政府関係者は、この人間崩壊現象を「価値観の多様化時代だ」と言い、「文明国になり、豊かになって、価値観が多様化したのだから、どんな生き方も価値ある生き方だ」と評価するようになった。図に見られるように、下に行けば行くほど未熟な大人ということであり、生物的な機能が壊れてきたということでもある。

 要するに、子どもも育てられず、夫婦生活もできず、働くこともできないという人間形成障害のコースをたどるのだから、まさに生物的な機能が壊れてきたということになる。昭和30年代当時、政府もマスコミも「少なく生んで、上手に育てよ」と言っていた。しかし実際には少ない子どもは、絶対に上手に育たないように出来ている。たくさん子どもがいたほうが、上手に育つ。少ない子どもは非常に育てにくい。

 ところが、「少ない子どもは、こうすれば上手に育つ」という社会教育もしないままに、「少なく生んで、上手に育てよ」と宣伝してしまったので、一般の人達は少なく生んでも上手に育つと思ってしまった。その結果、日本の子育ては失敗の道を歩いてしまった。

 それでは、なぜ少ない子どもは上手に育たないのか。

 人間やサルは、本来大家族で生活する動物である。いくつかの家族が集まって生活する。そこで生まれた子どもはたくさんの家族だけでなく、近所の友達やおじさんやおばさんとも交流するということで、そうした集団生活を通して育っていく。人間やサルの仲間は、共同生活がなかったら、うまく子どもが育たないようになっている。

 ところが、トラやヒョウのような動物は、いつも一匹で生活している。もしトラやヒョウがたくさん集まると、彼らは仲間が気になって、パニックに陥ってしまうだろう。人間やサルは、たくさんの人がいて、うれしくもあり、懐かしくもあり、というような環境の中で成長するのである。 

 日本の国は核家族になってしまった。日本では、核家族を「新しい時代の、新しい生き方だ」と評価しているが、実は「壊れた家庭」なのである。

 アフリカのジャングルにいるゴリラやチンパンジーの夫婦を人間が捉えて、動物園の檻の中で飼えば、これはまるで核家族である。近所や友達との付き合いもない。そこで子どもを生んだとする。そこで生まれた子どもは、社会のことも、他人のことも知らないで育ってしまう。これをいわゆる近隣愛も知らない「社会剥奪」、家族愛も知らないで「愛情剥奪」の状態になったという。日本の社会も同様で、いま日本人は大人も子どもも、社会剥奪、愛情剥奪の傾向にあることになる。

 動物園の檻で育ったゴリラやチンパンジーの子どもは、ある程度大人になってアフリカのジャングルに戻しても、ジャングルも、そこにいる仲間も恐ろしくて、彼らはパニックに陥ってしまう。ジャングルの仲間の社会では生きていけないのである。

 それと同様のことが、日本人の子どもたちに起っている。最近は、人の目が気になる、電車にも乗れない、人との付き合い方が分からず、友人たちが近くで話していると自分の悪口を言っていると思ってしまう、友達に話し掛けたくてもどうやって話し掛けたらいいのか分からない。このような現象が出てきた。これらは皆、社会剥奪現象である。世の中知らず、他人知らずである。

 Cコースに育ったとしよう。「三つ子の魂百までも」というが、土台に問題があって育った場合には、喘息・アトピーなどが起きやすいが、喘息は今では人間形成医学の立場で根治療法を行うと治って当たり前で、治らないことの方がむしろ例外的な病気になっている。本建築が完成するのが、10歳から15歳であるが、この時期はいわゆる「第二反抗期」に相当する。このころになっても、10年前に作った土台がだめなまま幼い状態で成長すると、本建築が完成する15歳の頃に、三番目の脳(C)が壊れてくる。これは人間としての賢さ、たくましさの脳であるから、人間として変という状態になる。これが「問題児」である。非行、万引き、登校拒否、高校生の売春など、すべて人間性が未熟だから現れる現象と言える。

 三番目の脳が育たず、人間としてのたくましさがないと、さらに中のほうの脳が壊れてくる。Bの脳も壊れてくると、個体維持の本能が壊れる。朝起きる、しっかり食べる、しっかり活動する、夜はぐっすり眠るといったことに、支障が出てくる。登校拒否の子どもは、最初起きずらくなるといった症状が現れてくることが多い。食欲が乱れると、特殊な例として、過食症・拒食症などが現れることもある。更に無気力になって、部屋の中に閉じこもってしまう。あるいは、落ち着きなく動き回る。夜眠れなくなる。

 更に三番目の脳が壊れると、集団本能が壊れてくる。そうなると人の目が気になってくる。みんな仲良くすることが出来なくなる。このような生活をしていると、人生の目標を失い、中高生の時代に死にたいと言うことを言い出す子も珍しくはない。「長生きする気はない」とか、「生まれてくるんじゃなかった」と言うのは、大体人生の目標がないと言う状態なのである。このような子どもたちが、今非常に多くなった。

 高校生や大学生を調べてみると、何かの職業に就く目標があって学校に行っているのではなくて、「只漠然と学校に行っている」「遊ぶために行っている」。「将来のことは、卒業してから考える」と答える子どもたちが多い。

 要するに人間は、3歳から6歳の頃に土台をしっかりつくっておかないと、その10年後の15歳前後に問題が起るのである。更にこの未熟な状態から立ち直れないまま成人していくと、更に10年先の23歳から26歳頃になって、仕事も出来ない、結婚もできない、子育ても出来ない、仕事も出来ないという人生コースを歩くことになってしまう。あるいは、働くことが出来るが、結婚と子育ては無理だというコースを歩くとか、結婚と仕事は出来るが子育ては出来ないという、いずれかの人生コースを歩くことになってしまう。

 このような子どもたちは、私の推察では全体の80%くらいだと思う。要するに、人生のフルコースを歩けないのだ。昭和30年から約30年でこのような状態になってしまった。私はこの30年を「にわか成り金一代目」と言っている。これは花で言えば、桜の花が三分咲きになった段階であろう。さらに30年経った2015年ごろ(今の中学生が社会人になる頃)になると、現在の状況を食い止めない限り、もう桜の花は満開になり、今の何倍も問題の大人や子どもが多くなるはずである。

 そうなれば、子どもを産んでも育たないのは当たり前となり、もしもしっかり育てるような親がいたら、逆に「あの親は変な親だ」と言われ、あるいは結婚にしても、離婚するのが当たり前となり、一生同じ連れ合いを保つことが却って異常だと思われるようになってしまうし、中学生が不登校になるのも、人を殺すのも当たり前と言うことになる。これを「異常の正常化現象」という。文明国になると、「異常なことが正常」と言う感覚が増えてくる。

 このように問題行動は、子どもの頃からの積み重ねで形成されることが多いので、図5にあるように、いろいろな病気や異常が一生にわたって、マーチのように次々に現れやすくなる。これを私は、「人間形成障害病のマーチ」と名づけている。

 ところでこの一連の人間形成障害現象は、人間にだけしか現れない。一体人間とは何かを考えざるを得ない。

 人間は300万年前に、チンパンジーに近い類人猿から進化して人間になってきた。類人猿から人間に進化し始めたとき、一番最初にやり始めたことは、人間が人間を殺すようになったことだと、ある専門の学者が言っている。また、私の専門である喘息について言えば、人間にある病気ならば人間の先祖の類人猿にもあっただろうとか考えて、京都大学の霊長類研究所の先生にお聞きしたことがある。「ゴリラもチンパンジーも絶対喘息はない。それは人間だけだ」と言われる。人間だけ何故、喘息があるのか。それは人間が進化して、脳のしくみが変わったからである。だから、人間は「進化することによって喘息になれる動物になってしまった」といえる。

 人間が人間を殺すのは、本能の作用ではない。動物段階から人間に進化したことによって、出てきたことなので、強いて言えば「本性(ほんしょう)」というべきか。それから人間だけは、「悪魔の愛情」がある。これも進化の結果であると考えられる。

 動物園の園長さんに聞いてみても、「動物には親に反抗する子どもはいない」と言う。親に反抗する子どもは、人間の子どもだけなのだ。それも脳が進化したことによって、生物として健全な脳が壊されたということなのである。そのために、人間だけは、無駄に人殺しをし、自殺をするし、気が狂うことも出来る。

 それから人間は環境を破壊する存在である。人間以外の動物は、必ず環境に適応して生きるようになっている。しかし人間だけは、環境を壊すことが本性になってしまった。近年、環境保護が叫ばれているが、将来にわたっても長い目で見れば、人間は環境を破壊し続けていくだろうといえる。人間は、知能が発達することによって、文明が進み、却って文明国型人間崩壊という悪い面が出てきたのである。進化の面から考えると、人間は、生物としての健全さを壊し、地球を壊すために、進化しつづけてきたことになる。人間の進化は、「誤った進化」だったと言えるようだ。

(1999年2月20日発表)