21世紀に向けた大学の役割と高等教育改革

会津大学学長 野口 正一

 

●国際舞台で必要な英語

 最初にお話したいことは、21世紀に向けて日本の大学は、果たしてきちんとした教育をやっているのであろうか、ということについてである。その後、特に理工系大学の立場から見た教育のデザインについてお話したい。

 現在、日本の教育の中で我々の立場(理工系、特に情報系)で一番困っているのが、英語教育である。インターネットの世界において研究開発上、たくさんの問題が出ているが、日本が21世紀において情報通信の分野において指導的立場を取ろうとした時に、それに対応できる教育ができているかという点は、非常に大きな問題となっている。その中で何が必要かというと、とりわけ産業界からの要請として、21世紀の情報通信の国際標準、あるいは国際社会における事実上のスタンダードを決めていく中で、当然新しいコンピュータやネットワークの技術に関する能力や教育は必要であろう。しかしそれだけではだめだ。世界の舞台に立って、日本からの提案(プロポーザル)を的確に表現し、それを国際的に認めてもらえるような表現能力の開発が、大学においては非常に大切である。それを端的に表わせば、英語教育と言える。シェークスピアの英語は、一般教養としては必要であろうが、コンピュータの世界においてはそれは必要がない。

 必要な能力とは、一体何か。第一に、速読能力(ハイ・スピード・リーディング)。英語で書かれた文章をどれだけ速くきちっと読めるかということ。第二は、テクニカル・ライティング。第三は、ディベーティング。この三つの教育は、日本の教育においてあまりなされていないのが現状だ。特に日本の英語教育を根本的に変えない限り、21世紀の世界において日本が世界をリードするのは難しいのではないかと思う。

 最後に、創造的人材はいかにして育つのかという私の考えを披瀝しようと思う。

●技術革新の流れに教育追い付かず

 最初に、21世紀に向けた大学の役割と高等教育の改革問題についてグローバルな観点からお話する。

 いかに世界では技術革新が急速に進んでいるのか。その中で日本のコンピュータやネットワークに関する工学教育が、それに追いついていないかということを紹介したい。

 情報通信の世界において、どのような技術的な急速な変化が起きているか。図1はコンピュータ発展の流れである。1980年代半ばごろまでは、米国のIBMを中心としたIBM帝国が世界のコンピュータの中心であった。80年代半ばからパーソナル・コンピュータ・ワーク・ステーションが出現した。その中で確かに重大な変化が起きた。それが20世紀の後半において次の段階に入った。ネットワークの研究は80年代からあったのであるが、それが本格的に花を開いたのは、インターネットに代表される1990年代後半であった。これによってコンピュータとネットワークの環境が完全に変わってしまった。一言で言えば、ネットワークとコンピュータが融合したネットワーク・コンピューティングの技術が21世紀の当面する基本的な研究テーマとなったのである。

 こうした流れの中で、それに適合したコンピュータ教育を先進的に取り組んでいる大学が日本に果たしてどれほどあるのか。米国の場合は、教育のカリキュラムに組み込まれているが、日本にはそれがまだない状況である。

 その結果何が起きたのか。従来あったコンピュータの流れの中に、新しいホームコンピュータという第三の階層の世界が生まれた。Thin computerといってもいい。つまりネットワークにつながっているコンピュータとしては、サービスを提供する大きいコンピュータ(server computer)と末端のユーザーの使う小さいコンピュータ(thin computer)とに二極分化された。それらをつなぐのが、ネットワーク。そのために生まれたのがジャワなどの新しい分散環境の言語であった。

 しかもホーム・コンピュータの世界におけるコンピュータの数は、従来のパソコンの比ではない。このいい例が、自動車である。おそらく一台の自動車の中に入っているマイクロチップ・コンピュータの数は、数十、あるいは数百入っているかもしれない。そうするとその数は圧倒的に現在のパソコンの数よりは多い。そのような今あるthin computerの世界をどのようにしてコントロールして使っていくのか。そのための基盤となるソフトウェア技術は何か。今それがない状況だ。具体的には、PCAの世界から生まれたwindowsのCEの基盤ソフトウェアなどが、この世界に入ってくるかもしれない。そうでないものが新しく生まれるかもしれない。また、それを技術革新しなければいけないのだが、それをサポートするような教育体制が整備されていない現状だ。

 通信の世界に、話を進めよう。

 従来あった三つの大きい通信システムとしては、まず第一に電話系、第二にインターネットに代表されるコンピュータ・ネットワーク、そして放送系がある(図2)。これが完全に自由化することになる。これら三つは、それぞれ独立的に発展してきたネットワーク・システムだが、21世紀にはそれらが完全に一つのネットワークに融合されていくであろう。

 先述したコンピュータと通信の流れの中から生まれた概念が、ネットワーク・コンピューティングである。こうした先進的な技術開発をサポートするには、大学がそれだけの教育をしなければならない。ところが日本の大学の現状では、それができていない。

 ここで情報の一元化という新たな問題が出てきた。ネットワークを通し、各コンピュータが持っている情報を、あるいは電話系が持つ情報を、あるいは放送系が持っている情報が一元化されることによって、重大な社会革命が起こることになる。

 ファイナンス(金融)の世界における「ヘッジ・ファンド」のことは、皆さんご存知のことと思う。これは全世界におけるファイナンス・インフォメーションの一元化によって、そのような世界が形成されてきた。コンピュータの導入によって巨大なマネーの流れが生まれてきた。実物経済の100倍の規模を動かす仕組みを作ったのが、ネットワークとコンピュータであった。結果として、考え方(論理)も変わらなければならないし、当然教育も変わらなければならない。それが最後にお話するバーチャル・ユニバーシティーである。

 そのしくみは次のようなものである。世界にキー(軸)となる大学がいくつかあり、その大学の中の有名な先生がある講義をきちっとやる。もちろん制度的問題もあるが、その先生が世界でも最高の教育を、あるカリキュラムに従って行なう。それを全世界に流す。それが単位として認定されるとすれば、全世界の教員の数は100分の1以下でいいかもしれない。これから10年先の大学関係の方々にとっては、なかなか大変ではないかという気がする。

 これは情報の一元化の世界から生まれてくる問題だ。このような問題をこれから我々は真剣に考えていかなければならない。善し悪しは別にしても、このような方向に必然的に向いていくことは確かである。

●抜本的に改革が必要なシステム

 それでは当面日本にとって大事なことは何か。21世紀において、情報通信の分野において日本が指導的立場を獲得するための戦略として、何が必要かといえば、技術開発で言えば先端的ネットワークの研究である。わかりやすく言えば、実在インターネットの研究を米国よりも先に進めなければいけないであろう。第二の問題は、それに伴うネットワーク・コンピューティングの新しい世界を作っていくような技術開発をしなければならないことである。さらにそれを支える人材を大学が教育しなければならない。これは大変な作業である。現在ある大学のカリキュラムを抜本的に変えていかない限り、このような環境はなかなかできない。

 よく誤解されるのだが、コンピュータ・サイエンスとインフォメーション・テクノロジーとは基本的に違うものだと考えた方がよい。原点においては、それぞれがきちっと融合しているのだが、先端的なインフォメーション・テクノロジーに関しては、残念ながら直接的なコンピュータ・サイエンスのコミットメントは少ない。その辺の理解が大事だろう。従来の大学における研究は、コンピュータ・サイエンスを中心とするものであった。インフォメーション・テクノロジーに関する研究は、今までゼロではなかったが、きわめて稀薄であった。この傾向は、一般的な工学系の教育においても同様ではないのか。これを今後変えていく必要がある。

 このような状況の中で、日米の状況を比較してみよう。私の独断と偏見が入るかもしれないが、日米の違いがはっきり出てくる例を紹介しよう。

 その前に、情報通信の世界における世界的な流れについて説明する。技術革新は非常に急速であることはわかると思う。最近次のようなことがある。家を建築する時に、2バイ4、4バイ4という方式がある。ソフトウェア開発のベンチャーの世界には、「6バイ6」という考え方がある。最初の6は、6人の意味で、次の6は6ヶ月を意味している。つまり「6人で6ヶ月やってご覧なさい。その結果生まれたシーズ(種、成果)が、社会的なニーズに合わなければ、それはだめだ」ということである。

 例えば、ベンチャーとして新しいシーズがあって、そこに資金と人材を投入する。その成否を問う場合に、普通であれば、1年以上の長いスパンで評価が行なわれる。ところが米国の先端的なベンチャーの世界では、6人6ヶ月でだめなものはだめという哲学を持っている。これがいいかどうかはわからないが、このくらいのサイクルで新しい技術革新というものが、米国では行われているということを認識してもらいたい。

 第二点は、ファイナンス一つを例にとっても分かるように、ネットワークを中心とする21世紀の高度情報化社会で重要な中心的なアプリケーション分野の基礎は、アングロアメリカン・カルチャーであるということである。

 例を挙げると、キャルス(CALS)というものがある。インターネットを利用した取り引きに代表される電子商取引(electric commerce)の一部の世界であるが、キャルスとは米国の国防総省(DOD)が推進したものである。米国・国防総省が、多くの予算をもって資材の調達をする。その際には、いろいろな契約事項があるが、「その全ての契約に関する事柄は、米国で生まれたキャルスの発想に従ったドキュメンテーションで提案書を書きなさい。すべての書類を国防総省の決めたフォーマットで作成しないと、米国の軍の調達には参加できない」という。これがキャルスの最初の出発であった。これが米国の軍内部のみの話であれば、たいしたことではないのであるが、それがビジネスの世界にまで発展してきた。具体的な日常のビジネスの世界に、キャルスの発想が入ってきたのである。日本の一般的な商取引の標準ではなく、米国的な標準によって商取引の世界が生まれてきたということだ。

 もう一つわかりやすい例を挙げよう。電子商取引の中で、我々と直接関りのあるものとしてカードがある。ICカードをどのようにして標準化するか。これはすでに決まってしまっている。世界における大手のカード会社といえば、マスターでありVISAである。それらがこれからどのような中味でカードを作っていくのかを、サポートしたのがマイクロ・ソフトとアイウェーブであった。この両者が合致した一つの標準は、ある意味で世界的な事実上のスタンダードになってしまうのである。

 そのような流れの中で、一体日本はどうしたらよいのか。残念ながらそのベースになっているのが、アングロアメリカン・カルチャーの世界である。これははっきりしている。少なくとも、これから5年〜10年の間は、我々がアプリケーションを含めた情報通信の世界で、米国や全世界的な立場で主張を通すとすれば、残念ではあるが、彼等の土俵の上で戦争をし勝たなければ、我々のプロポーザル(提案)は通らないことになる。

 そのような環境の中で、教育システムを我々は抜本的に変えていかなければならない。そうは言っても、学長一人の力では一斉に変えていくことはできないが、どこかいい大学がそのように変革していってくれればと思う。

●ベンチャーを生む人材を

 日米の大学において、コミットメントはどのくらい違うのかについて、見てみよう。

一般に日本の大学において、一体何をしてきたのであろうか。日本の大学の研究者は、基本的にgoing my wayである。つまり自分の研究がすべてなのである。研究というものは、誰からもコントロールされずに、自主的にやるものが崇高なものだという考えである。他からの干渉は余りないほうがいい。頑張って自分の穴を深く掘ろうよ。これが日本の従来の研究スタイルであったと言える。

 特に日本の場合、評価の問題が一番大きい。例えば、助教授が教授に昇進したり、他の大学に教授として採用される場合に、何が一番重要かというと、基本的に論文しかない。論文を何本書いたのか。最近の国立大学の一般的なルールとして、ジャーナル・ペーパーが20篇から18篇くらいあれば、教授になれるというのがよく行われている評価基準である。また助教授の場合は、大体10篇が必要となっている。大学によっては、きちんと評価制度を立てているところもあるが、大体は論文の数で評価し、その中味までは立ち入らない。そうなると自分の専門分野の延長の中で、論文を書きやすい分野で書こうという傾向になるのは当然だ。

 もう一つは、他分野との交流がなかなかないこと。最近は、文部省などの重点研究などによって異分野間の交流が生まれつつあるようではあるが、まだまだおざなりである。あるテーマのもとに包括的に人を集めて研究するという方式は、現在の日本の大学ではなかなか作りにくい状況にある。

 確かに産学協同が叫ばれ、産学の連携がよく言われている。しかし現状は言われるほどには進んでいない。その背景としては、評価の問題が大きいだろう。ある研究者の評価として論文の数は大きなファクターではあるけれども、具体的にどれだけいいプロダクトを作ったのか、どれだけ使われているソフトウェアを開発したのかといった点を評価に入れないといけない。そのような評価をする人が、大学の中に少ないために、なかなかその方向に行きにくいというのが、現状である。

 その結果、出てきたのがこの図3である。通産省のレポートの中からの抜粋であるが、これらが日米の状況である。左側は、基礎研究。右側は実用的研究。日本の大学の場合は、国立研究所を含めほとんどアカデミズムの世界の中で一生懸命汗を流している現状である。基礎研究と実用研究をつなぐのが、大学と産業界の関わり合いである。

 これに対して米国の場合はどうなっているのか。例えば、MITのメディア・ラボというのがある。そこでは21世紀を展望して実用化のための基礎研究をやっている。もちろんそこでの技術全てが成功するわけではないし、ベンチャー的に何%しか実利にはならないけれども。このようなものと同時に、一方ではカリフォルニア大学バークレー校のように、データベース・システムの研究開発などの具体的な研究開発をやっている大学もある。あるいは、カーネギーメロンのように、コンピュータの基礎になるOSEに関する基礎研究をやっているところもある。このように基礎と実用の間を埋めるたくさんの大学が存在する。技術的にこのようなしくみが米国にはできている。

 日本の大学は、割合ホモジーニアスなスタイルになっている。それを変えていくようなしかけが、これから必要ではないか。ある大学は、基礎研究を中心にし、又ある大学のあるグループは実用化研究のコアになる。先述したネットワーク・コンピューティングの世界が21世紀の中心的技術開発問題であるとすれば、それに特化するようなグループが日本にいくつかあってもいいわけだ。これからこのような環境を作っていかないと、日本はなかなか大変だろうと思う。

 それができないと、ベンチャーが創出されなければいけないと叫ばれつつも、それに対応する人材育成ができない。ベンチャーができる人材だけを養成するのが大学の使命ではない。それを養成する機能が今まで日本の大学になかったことが問題なのである。これからは、新しい先端的な研究開発に対しては、ベンチャーを生むような人材を養成していくことを具体的に考えていくべきであろう。

 図4は米国におけるベンチャー創出の図式である。新しい産業・研究開発を進めるのに際して重要なことは、国家プロジェクトである。日本でも多くの国家プロジェクトが行われてきた。例えば、かつてIBMが頑張っていた時代に、日本のNECなどがIBMに負けない環境をつくろうとして、日本の通産省は、大型機の開発に関する国家プロジェクトを立てた。これは成功した。またLSIも同様であった。それは従来あったコンピュータよりも性能がより良く、より強力なコンピュータを作るのに関して、国家プロジェクトは十分機能した。

 この図式をベンチャーの世界に持ってきて、果たして成功するのか。それは違う。なぜか。その方法は、従来あった技術の延長線上に強力な製品を作るもの。つまり新しい製品の開発の図式としては非常に良いのだが、そうではなく、現在あるベンチャーに代表される新産業、ニュービジネスを興す分野ではだめなのである。米国ではどうなのか。大学又は民間の研究所から飛び出してくる人たちが、この環境を作るのである。それをサポートする体制が、米国ではベンチャーキャピタルに代表される形で、自然発生的にできている。しかし日本にはそれがない。きわめてチャレンジ精神に富む人が組織から飛び出して、ビジネスを仕掛けられるようなしくみがないと、新産業は生まれない。 

 このような人材はどのようにして作るのか。まず大切なことは、チャレンジ精神。次には、技術に対する深い洞察力。そのような人材を作っていくしかけ、これがベンチャーが生まれてくる簡単なスキームである。

 具体的には、どうすべきか。一つには、産業界と大学界との交流をより促進する方向を考えることがある。もちろん従来日本の大学においても、教授たちが企業から委託研究を受けて日常的に共同研究が行なわれてきた。そのほとんどは、ある意味で名刺代わりに近いものであった。大学の先生が年間50万円や100万円の委託研究費をもらって、果たして一生懸命働くだろうか。企業の側でも、いい学生が採用できればいいかなという思惑もある。今までの委託研究のしくみはそうであった。しかし、それではいけない。

 例えば、あなたに3年間継続して毎年3000万円ずつ約1億円やった場合に、良心のある人であれば、本気になって研究するはずだ。それがないとだめだ。日本の企業や大学に対しても答えが返ってくるのかなという問題である。日本も大学の体質を変えていかない限り、問題は解決しない。

以上は先端産業という流れの中から見た大学教育についての見方を紹介した。

●「ミドルウェアの教育」がない

 技術教育を中心とした立場から見た時に、大学教育の中で基礎教育と専門教育というのは、概念が非常にわかりやすい。しかし図5にあるように、日本の大学教育には「ミドルウェアの教育」がほとんどない。その意味は、次のようなことである。例えば、数学の授業を、できればコンピュータなどの専門科目の先生が教えてほしい。できればオートマトン理論とか言語理論を数学の先生が教える。このような状況を作ることである。つまり専門教育と基礎教育とが、ばらばらで相互関連性がないのである。

 会津大学の場合、コンピュータ理工学部であるが、そこで素粒子理論の物理学を教えなくてもよい。あるいは量子力学もほどほどでいいはずである。ところが物理学を専門とする先生は、自分が専攻した学問を教育したがる傾向がある。数学の専門家が、細かい分野のことを教えても、コンピュータを専攻する学生にとってそれが適切かとなると、疑問である。つまり専門と基礎との橋渡しをする中間層がない。これデザインしないと、本当に効果の上がる教育システムにはならない。これをやろうとすれば、それぞれの先生方の考え方を変えていかないとできない。その意味でミドルウェアの教育が重要なのであるが、今日はあまり言及しない。

●「専門家」のネイティブ導入を

 次に英語教育について。会津大学の場合を紹介するが、これがベストというわけではない。英語教育の基本問題というのは、学生にシェークスピアそのものを教えなくても言いということにある。一般教養としての場合は別である。もっともしなければならないことは、先述したように三つの教育テーマである。ハイ・スピード・リーディング、テクニカル・ライティング、ディベーティング。これらをわが大学がしっかりやっているということではなく、あくまでも目標である。そのためには何が必要か。

 一つは、理工学部の英語教育の場合には、従来の英語の先生のグループとは別にいわゆるテクニカルな分野におけるネイティブを雇いなさい。例えば、コンピュータの世界であるいは、機械設計の世界で頑張ってきたネイティブ、必ずしも米国人である必要はないが、その人たちを英語の教師として雇えればうまくいくだろう。彼等が、上記の三つの機能を、自分の専門分野の論文を読みながら教える。例えば、ある設計についての論文の書き方を教えるのである。そして書いた自分の主張を、具体的に相手に訴えるためのディベーティングの教育も必要である。

 一つの例を挙げてみよう。インターネットの世界における標準化の問題を扱っているところとして、Internet Engineering Task Forceというグループがある。インターネットにおけるさまざまな標準化は、この団体が決めている。そしてさまざまなところから寄せられた標準化のための提案が約2400あるが、その中で日本からのものが一体どれだけあるのか。大変残念ではあるが、24しかない。つまりたったの1%に過ぎない。このような状況で、果たして日本が情報通信の世界において世界のリードを取れるかというと、かなり難しいといわざるを得ない。

 それはなぜか。ひとつにはディベーティングの問題(英語の問題)がある。もちろん企業の標準化に向けた理解の不足という問題もあるが、一つには英語を扱うことがおっくうなのであろう。事実、確かに日本人もたくさんの標準化委員会に参加している。資料はたくさん持っていくので、かなり行っている。行く限りは、自分も必ず提案しなさいといいたい。それを妨げているファクターとして、日本人は英語を話すことで気後れして積極的になっていないという点がある。そのため、日本人同士で食事をする方が気が楽だという傾向も強い。

 会津大学では11人の英語の専任教師を雇っている。日本人は語学センターのセンター長を務める人のみであり、その他10人は皆ネイティブである。その実情をすこしく紹介しよう。

 教育内容としては、高校卒業時に標準的学生が知っている英語単語が約3000語といわれている。コンピュータの特化した技術用語として4万語を設定したい。それはテクニカル・ライティングを含めて、英語を駆使する際に、そのバックグランドをサポートする環境となる。

 英語でわずか2ページの卒論を書くように学生に義務づけているが、この英語の程度がかなりひどい。この指導をしているのが、語学センターの米国人教師であり、学生の書いた英語の論文に対して英語教師が数回の添削をやってようやくよくなってくる。このような教育システムはこれから重要ではないか。通常は学生の書いたものを指導教官が直したりするわけだが、それも大変な作業である。特に英語の場合は、日本人の指導教官でも容易ではない。それを英語教師との間で数回やりとりをすることが大切であり、これがシステム化されると、英語教育においてもかなり重大な変化がもたらされるであろう。これがテクニカル・ライティングの具体的な構図である。

 次に、もっと低いレベルのリテラシー(読み書きの能力)の問題を見てみよう。図(省略)は発音に関してのグラフで、英語のRとLの発音の区別を示している。最近はいろいろと便利な器機が開発されたので、これらも大学に導入する必要があろう。一番いいのは、比較しながら米国人の発音がそのまま口から出るようになればいいのであろうが、なかなかそうはいかない。視覚に訴えるような発音に対する新しい教育方法が必要だ。 

 図(省略)はRの発音のソノグラムを示しているが、これはソニーが開発した機器を使って描いた。発音の要領を視覚的に目で見せるしくみになっている。ネイティブの発音のスペクタクルの分布と自分の発音のスペクタクルの分布とが、どのように違うかを目で確かめることができるというわけである。このような視覚系に訴えるような新しい教育方法というものがこれから必要であろう。

 いずれにしても、従来日本がやってきた英語教育の方法を大きく変えていくようなしかけを真剣に考えていかなければいけないだろう。会津大学でも、その一つの例を作っているところではあるが、まだまだ不十分である。このように各大学が、いろいろな方法を考え、互いに競争しながら進める環境ができると、日本の語学教育(英語教育)の状況も変わってくるのではないか。再言すれば、現在の英語教育に対する一番わかりやすい教育改革の方法は、具体的にその分野における専門家であるネイティブを英語教師として導入することができるかである。 このような改革を進めるためにも、今ある日本の教育制度的問題を改善していくことが要請される。例えば、外国人教師の雇用期間(テニャー:tenure)の問題である。それから給与の問題もある。制度上の問題の大きな課題として、年棒の問題がある。

 先述したように、日本が情報通信の分野で発展を目指す場合に、日本人研究者が頑張らなければいけないことは言うまでもないことであるが、それだけでは不十分である。できるだけ優秀な人材を持ってこなければならない。事実、米国のシリコンバレーの中心的な研究開発を進めているのは、米国人だけではなくて、中国系やインド系を含めての話である。

 例えば、インターネットに関して研究開発の能力の非常に高い研究者を助教授や教授として呼びたいといった場合に、日本では国公立・私立大学を問わず、給与がその人の能力とは関係なく一定に定められている。30代後半優秀なの人を呼ぶ場合に、年棒10万ドル出せるかというと、日本ではまず不可能だ。そういう意味でのリクルートができないのである。これも大きな問題だ。これをどうクリアーできるのか。

 日本が本当の意味でインターナショナルに活躍できる大学を作るといった場合には、相当思い切った改革をしなければ達成されないだろう。

 例えば、産学協力をやる場合において、一つの大きな制約事項として、いわゆる「兼業問題」がある。最近は緩和されてきてはいるものの、まだ大きな障害になっている。本業に差し支えがあってはいけないと言っている。「あなたにはきちんと給与を支払っているのだから、本業をしなさい。5時過ぎや土日曜にやるのならばいい」というのだが、実際はそうすると本業に差し支えるので認められない。そうなった場合に、どのくらい稼げるのか。人間にはボランティア精神があるから、お金がすべてではないことも事実であるが、ボランティアにもやはり限度があると思う。清く正しく貧しいのではあまり働かないと思う。人間の本性からして、豊かにしないと働かないだろう。程度の問題はあるが、最低給与の他に、2倍くらいの適用ができる制度が必要だろう。

 TOEFL600点以上の点数を取れることを目標として、会津大学ではやっている。毎年550点以上を取る学生が10数人出るようになってきている。

只困った問題としては、そうした学生の大半が米国に入学してしまい、わが大学に残らないということがあって、学長としては困っている。広い目から見ればいいことである。今後国際的に活躍する日本人が出てくればいいと思う。

●問題解決の方法論を教育

 最後のテーマに移ろう。先端的な技術開発をどうやって養成したらいいのかという問題である。

 まず問題として重要なことは、問題解決の方法論をきちんと身に付けるような教育が必要だということ。それはものごとの本質をどのように見極めることができるかということでもある。これは言うに易いが、実際には難しい問題だ。本質から具体的な発想を生む、つまりヒューリスティックな能力をどう開発するか(図6)。

 その一つの方法が、モデリングである。今ある実世界(リアル・ワールド)をどうやって的確にロジカルな表現としてモデル化できるかということ。これを開発することが一つの方法論であると考えている。

 まずモデルを作る。それを何度かフィードバックしながら検証していく。しかし作ったモデルが、本当に正しいのかどうかは分からない。それをいくつかのケースにシミュレーションして、一つのきちんとしたモデルを作っていければ、これは創造的なことにつながっていくであろう。

一つの例を挙げよう。

 これはコンピュータ・ネットワークの一つの単純な話の例である。コンピュータの間でネットワークが張られて、相互間で情報のやり取りをするのが、コンピュータ・ネットワークである。このようなことを技術的に研究開発していく上で、どのような考え方でやっていけばよいのかが問題である。

 例えば、電話のシステムがある。電話をモデルとして、コンピュータ間通信の世界を、これから研究開発するスキームとして、どのような考え方で進めていくべきか。それには、モデルを作ればいいのではないのか(図7)。

 コンピュータ間の世界では、人間の代わりにプロセスが通信をしている。これをどのようにモデル化することができるか。これは実世界から具体的にモデルを作っていく話である。そのような伝統的哲学がヨーロッパにあるために、ヨーロッパ人はそのようなことに長けている。

 そのような考えで作ったのが、OAスライのセブン・レイヤー・モデルである。これはインターネットのTCPIPの原型になったもの。実世界における情報のやり取りの中で、それをもう少しロジカルにわかりやすくしたらどうなのかということである。このようなモデルを立てられないかという提案である。一つには、一番低いレベルの物理的階層においては、単にビットレベルの情報をやり取りするだけである。あるいはそれを交換するだけの世界がある。そしてそれらをベースにして、全体のノード(接続中継点)をつないでいくとネットワーク・フローができる。その上に情報処理、アプリケーションのソートがくる。これが一番単純なモデル。これを七つに切ったのがOSIのセブン・レイヤーモデル。それに近いモデルがインターネットのPCPIPのプロトコールである。

 このようのものを作ることができるのが、実世界から具体的に一つのモデルを作るということである。これを研究開発のベースにしていく。最初にこのセブン・レイヤー・モデルOSIを考えたのが、ヨーロッパ系の人であった。それはヨーロッパの基礎研究の伝統が支えていたのかもしれない。このようなことは、日本国内においてもできないといけないと思う。聞いてみれば当たり前のことなのであるが、このようなモデリングが若い学生たちにできないといけないというわけである。

 そのためには、ものごとを見る目をよく教えておかないといけないのかなという気がする。その基礎は、実世界の把握にかかっている。そのためには、どうすればいいのか。すなわち、実世界をいろいろな見方で見ていかないといけない。

 われわれは、学校教育も同様だが、ものごとを一定の方向から定型的にしか見ていないことが多い(図8)。n次元の世界を、単に一面的世界からしか見ないのでは、全体が分からないのは当然である。n次元の世界ならば、n個の独立した面から見なければモデルは作れない。それをいろいろなビュー(view)から見つめないといけない。n次元であれば、いくつかに切ってその視点(view)から見ていかなければ全体をつかめない。従来からある典型的な見方だけではだめだということである。違った方向から眺めることが、非常に重要なのである。

 独創性というのは、多面的な立場から実世界を見ることができるということであり、それをもとに頭の中にロジカルモデルが作れれば、創造性が生まれるであろう。そのために重要なことの一つが、発想の転換である。すなわち従来ある枠から離れて、新しい世界でものごとを見ることができないかということ。

 いろいろな側面からものごとを見ることが発想の転換につながる。それは今までの古いコンセプトという実枠から離れて、自由にものを見ることができるような人を育てるのである。

 発想の転換の具体的な例を挙げてみよう(図9、図10)。

 気象観測の方法の一つに、定点観測というものがある。これは太平洋のある地点に行き、そこに停泊して全天候を観測しなければならない。時には嵐という気象条件もあるので、この船の必要条件として、どんな波がきてもできるだけ揺れないような静かで安定する設計が要請される。従来型の発想では、1000トンの船よりも3000トンの船の方が大きいからその方が安定しているというものである。

 しかし違った発想ができないか。原理は単純である。波が来て船が揺れるということの意味は何かと言うと、船の重心の位置が変わるから揺れるわけである。だからその重心の位置が揺れないようにすれば言いという考えが出てくる。波というものは、海面上は大きな波があっても、海の中にある程度入ると中は静かだという事実がある。そのことを応用して、その安定した位置に船の重心を持っていくという発想が出てくる。 定点観測船は、動くことはあまり必要ではなく、一点に止まっていることがその主たる機能となっている。そのような構造の船を作ればいい。だから横を縦にすればいい。つまり縦形の船を作ればいいのである。「うき」と同じ原理である。従来の船と比較して、重心を更に低いところに設定できれば船は揺れないという発想である。

 これが発想の転換の例だ。このポイントは何かというと、波のモデルをきちんと理解していれば、新しい発想の船の設計が自ずから生まれてくるであろうというわけである。

 もう一つの例。従来の発想と逆転の発想から生まれていい例が、「ポストイット」である。のりの基本的性質は、剥がれないようにするところにある。絶対に剥がれないのりを作るというのが従来の発想である。それを逆転して「剥がれるのり」を作った。マーケットの規模はそれほどでないかもしれないが、我々の世界では非常に便利なものを作ってくれたと言える。「ポストイット」は、簡単に貼れ、簡単に剥がすことができるものである。まさにこれは、縦を横にする発想と言える。

 従来の通信とは何かというと、基本的に混信は困ることである。携帯電話でも、PHSでも、たくさんの電波を使って通信するわけだが、周波数が重なれば当然混信が起こる。それでは混信を起こさないためにはどうすればいいのか。それはできるだけ、独立に周波数を使うことである。すべての帯域に同じ情報を流していいという発想をしたらどうか。つまり混信を思いっきりやりなさいというのが、スペクトル拡散法の発想である。もちろんそのためには、ロジカルに分離できるようにすることが必要ではあるが。

 通信で一番重要なことは、どれだけ多くの情報を送ることができるかという点にある。これはシャノン(C.E.Shannon)の原理による。もちろん送信パワーは重要ではあるが、ログしかきかない。ストレートには帯域(バンド)幅が、情報の伝送には一番重要である。スペクトル拡散の一つの考えが生まれる時には、帯域というものを極限に使いなさいということ。情報をたくさん扱った波をどのようにして分離するのか。それは別の技術で解決すればよい。それこそスペクトル拡散の理論である。恐らく21世紀の無線通信の中心的通信方式になるであろうと思われる。これはシャノンの方程式から自然と生まれてくる発想なのであるが、やはりこれを最初にやった人は偉い人だと言える。これらが横のものを縦にするという具体的な例と言える。

●創造的人間を生み出すポイント

 それでは創造的なこと、新しいことを考える人間を生み出すための方法として、具体的なものがあるのかというと、それには王道はないといわざるを得ない。しかし三つのポイントがある。第一に、基本的な理論を徹底的に教育すること。つまり我々の先輩たちが築き上げてきたコンセプトをきちんと教えること。第二は、定石、標準となっているアルゴリズムを教えること。アルゴリズムの基本となっているベースを、きちんと教えておく必要がある。第三には、現場での問題意識である。具体的にこの問題が適用できるかどうかというように、具体的な世界にその話を持って関連付けなさいということである。このほかにもあるかもしれないが、まずこの三つをやることが基本であろうと思う。

 例えば、インフォメーション・テクノロジーの先端を走っている米国のビル・ゲイツはどうであったか。彼は、ビジネスの卓越した天才であって、いわばコンピュータ・テクノロジーのエキスパートではない。

 この三つをやればかなりいい人材が育つであろう。しかしだからといって、全てが成功するというわけではない。それを決めるのは天分であろう。譬えれば、プロ野球で3割バッターにならなくても、2割7分で打てる一軍の選手は作れるということになる。

 今言った教育をやっても、三つに分化していくことになる(図11)。一つは、目標統一設定型の人材が作れるだろう。現在の研究開発の流れの中から、新しい研究開発目標を設定できる人間である。これは全体の10%程度いくかもしれない。これがだめでも、第二番目のもににはなるであろう。すなわち目標達成型である。目標が与えられた時に、それを達成するまでのグローバルなデザインが立てられるという人材である。トップレベルの与えられた問題が決まれば、それに対するトップデザインができるというのが、二型の人材である。この一番目と二番目が養成できれば、大学教育としてはいいのではないかと考えている。三番目は、過程実現型というもの。目標とデザインが決まると、あとはしこしこと一生懸命やっていくというタイプ。大学教育の目標としては、三番目を欲してはいなく、やはり一型と二型のタイプの人間を育てたいという気がする。

 別な言い方をすると次のようになる(図12)。一型は、レベル5とレベル6、わかりやすく言えば、その専門領域では日本をリードする第一任者である。いろいろな論文も多く出していて、世界的にも認められているというもの。二型は、レベル3とレベル4。例えば、自分の専門知識・ノウハウをその分野でトップレベルに達していない多くの組織に適用して知的リーダーになれる存在である。あるいは自分独自の専門的理論を生み出しながら、トップレベルの組織に適応して、知的リーダーシップを発揮していく。これらが大学教育において養成できればいいと考えている。

レベル1とレベル2は、落ち零れになってしまった人たちかなと思う。

 最後の例。

 図13は飛行機をデザインする際に、どのようにしたらいいのかという例である。非常に早い速度の飛行機を作りたいという場合を想定してみる。問題になるのは、超音速の環境の中でのショック・ウェイブ(衝撃波)の問題がある。それを避けるには、どうしたらよいか。多分一番簡単なのは、図のような絵を描くことである。ベクトル解析が分かる人であれば、この直角方向の力を角度をつけることによって(曲げること)、その力を分散できる。それによって、衝撃波の発生がずっと遅くなるから、スピードは出せるはずだ。これがまさに二型の発想。

 一型の発想は、もっとすごい。なぜ対称形にするのかと考える。非対称でもいいのではないか。構造的に、本当にいいかは分からないが、理論的には、対称形よりも非対称形の方がいいということが分かる。これが一型の発想である。ここまではなんとかなるであろう。

 結局、これからの大学教育としては、一型の教育に合うような人材が生まれてくればいいと思う。只具体的な実行に関しては、まだまだの段階であり、その一端をご紹介した。

(1999年1月30日発表)