国際文化交流のアイディアと実践
―新通信技術の役割―

東京電機大学客員教授 一松 信

 

■国際文化交流の必要性

 今日世界は、一体になろうとしている。どの国も単独では生きていけない。いうまでもないことだが、今日国際相互間の交流と理解とは、一部のかぎられた人々だけではなく、国民全体に対しても不可欠である。

 特に我々日本人は、これまで孤立した島国に住んできた。以前には外国文化に関心を持つのは、少数の限られた人々だけだった。そのような様式はもはや正しいとはいえない。

 我々にとって尤も大きな障害は、言語の壁である。多くの未来予測において最も切望されているのは、自動翻訳機械である。確かに言語の問題は重大だが、それがすべてではない。国際文化の相互交流の第一歩は、相互理解であり、そのためには現在既に多くの優れた通信技術がある。それらの活用について、僅かだが実例を挙げて論じたい。

■教えられるよりも学ぶことを

 これまでの学校教育は、主として知識を教えてきた。それは効率的な方法であり、私も決してそれらを過小評価するつもりはない。しかし世界は急激に変化しつつある。我々はあらゆる事実を学ぶことはできないし、またすべての人々に全く同じ内容を教えるのは、実際的ではなくなってきている。教育の重点を、伝統的な同じ大量教育から、各個人の学習に移していく必要がある。

 ここに興味深い日米国際比較の結果がある。それは私の所属する東京電機大学と、姉妹校であるアイオワ州立大学の学生の比較調査である。最も興味があるのは、次の点である。すなわち、日本では未だに、難しい訳のわからない講義がありがたいものと考えられており、学生もおとなしくて何も質問しない者が優秀だと思われている。米国では、全くその反対である。

 ものごとを真に理解するためには、受け身の学習では不十分である。そのためには、各自が自分の必要にそって、積極的に活動することが不可欠である。特に自然科学の知識は、急激に変化している。今日多くの知識人は、その昔小・中学校で習った古い理科の知識の大半が陳腐化しているのに悩んでいる。しかも現在では、学校だけが唯一の教育機関ではない。これらのことを考えると、一生にわたる生涯学習の場を整備する必要がある。 

 多分これからの学校の新の役割は、各自が学習するために不可欠な基本である「読み書き算盤」を教育することであろう。

■国際交流

 今日では、特に先進国では、外国旅行は日常のことになった。更にテレビのようなマスメディアを介して、たとえ限られた映像にしても、世界中の風物をいながらにして楽しむことができるようになった。

 さらにインターネットができた。これは無限の可能性を秘めている。既にいくつかそれによる遠隔教育を経験している。

 例えば、東京電機大学は、マレーシアの留学生を多数受け入れており、彼等が実際に来日する前に、現地で日本語や基本的な数学などの予備教育をしている。現在では、そのための講師をマレーシアに派遣して実施しているが、徐々にインターネットによる遠隔教育に切り換えつつあり、そのためのテストも実施した。更に将来試験や面接をも、インターネットによって現地で実施する計画がある。

 私自身は、その他に「実用数学技能検定(略称:数検)」に関係している。現在これは、日本国内だけのものだが、東南アジアで小規模の試験的な検定をしたことがある。しかし将来、「国際数検」を企画している。これは試験ではなく、各自の能力を評価するものである。そのような目的には、多少の秘密保持技術が必要だが、インターネットなどの新通信技術が多いに活用できるものと信じる。

 前にも述べた通り、国際交流の第一歩は、相互理解、即ち、自分たちだけが世界中の唯一の民族ではなく、多種多様の人々がいることを正しく認識することであろう。

 私はここで、「数検」についてあまり多くを語るつもりはないが、一言しておきたい。これは小学校から大学の水準まで十段階の級があり、原則として現在の日本の学校で教えられている学年毎の数学に準拠している。受検者は学生が主であるが、幼児から社会人まで、あらゆる年齢層に及んでいる。検定は2部からなる。前半は計算技能検定であり、後半は証明・モデル化・作図などの数学諸技能を対象とする。受検者数は急激に増加しており、今年度(1998年)は全部で9万人と予想されている。

 口はばったい言葉だが、数学は国際的に通用する一つの共通の文化であり、国際文化交流の題材になり得るものと信じる。

■言語の壁

 前にも述べたように、国際交流のための大きな障害は言語の壁である。これは特に我々日本人にとって深刻である。日本の学校においては、長年にわたって英語を教えて来ているが、これまでの伝統的な教育は、外国語を話すことではなくて、書物を読むことに重点が置かれていた。

 このことは過去百年においては当然であった。ヨーロッパ文明を吸収し、国を発展させるためには、それが必要だったからである。しかし今や情勢が激変し、語学教育の改善について多くの議論がなされている。

 もちろんこれは容易な事業ではない。英語力を改善するための最も有効な手段は、英語を国語に採用することであるという、過激な意見さえある。もちろんこれはこれまでの日本の伝統をすべて捨てよという意味になり、到底実現できる案ではない。

多分実際的な改善案は、すべての生徒に対してではなく、将来高度の会話力を必要とする限られた生徒たちを対象として、もっと早期から外国語教育を施すことであろう。

 ここで自動翻訳について、私見を述べたい。これまで多くの未来予測において、自動翻訳機械は最も切望されている技術である。しかし完全な翻訳機械は、恐らく不可能という気がする。それはこれまでの機械が、「意図」を持っていないからである。会話の基本は、自分の思っている内容を話して、他人に伝えたいという意図にあると信じられるからである。したがって我々は、機械にだけ頼らずに、語学教育システムの改善に取り組まねばなるまい。そのためには計算機が有力な補助手段であると期待される。例えば、日本語のワードプロセッサは、欧米人に漢字学習のために有力な道具になっている。よく使われる言葉のデータベースも完備してきた。また単語の意味を言葉でなくて、図解で示す辞書も試作されている。このような道具は、これからの言語教育の改善に、有用な手段となることを期待する。

■結び

 以上は、国際文化交流のために、新技術を活用する僅かな例に過ぎない。

 現在世界には、国の数よりもはるかに多くの民族がいるといわれている。残念ながら、民族紛争が21世紀の深刻な課題になりかねない。そのためにも国際文化交流と相互理解とが、それを解決する一助となることを期待する。究極的には、国民全員に対する適切な教育こそ、未来社会の鍵になるであろう。

(1998年12月2日発表)