高等教育と大学の役割

早稲田大学名誉教授 鳥羽 欽一郎

 

■学長敗残の記

 今年の夏、7月から8月にかけて東南アジアを回ってきたが、各国の経済困難を実感した。東南アジアの経済危機では、まずタイのバーツから始まり、その後インドネシアのスハルト政権が倒れた。さくら総研のデータによると、今年6月末の数字だが、タイの通貨が38.9%下落(対米ドル)し、インドネシアに至っては83.7%下落した。マレーシアは想像以上に深刻で、57.7%下がった。また韓国は35.3%。しっかりやっているのは、台湾とシンガポールであろうか。他は相当な経済的打撃を被っている。

 日本の産業の人材は優秀なのであろうが、非常にアンバランスになっている。つまり経営の新陳代謝が遅れているのである。米国に比べると研究開発費が非常に少ないが、産業分野によって格差が大きい。特に金融関係では遅れが目立つ。興銀、日銀、長銀などかなり優秀な人材がいるはずなのに、その優秀な頭脳を何に使っているのかということにもなってくる。

 私が感じるところでは、元気のいい企業は国際化の中で競争してきた会社、早くコンピュータその他のシステム化が達成された会社である。あるいは新しい第四次産業に活路を見いだしている会社などである。ところが金融業界にはあれほど優秀な人材が揃っているはずなのに、うまくいっていない。なぜか。それは教育のためかもしれない。人材はいるのだが、活用がうまくできていないのか。それとも間違った人材を採用してしまったのか。

 私の専門は戦後の経営史であるが、戦後の経済発展を担った人というのは必ずしも東京大学出身というわけではない。松下幸之助氏は小学校だけ、イトーヨーカドーの伊藤雅俊氏や、ダイエーの中内功氏にしても皆専門学校出身である。造船業界、証券業界のトップもごく最近まで、ほとんど専門学校出身者であった。東大出身の人がトップになってから会社がおかしくなったとさえ言えるかもしれない。

 まず最初に大学学長敗残の記を述べよう。4年間学長職にあったのだが、今年の正月にはそれを辞めようと決意した。というのは、学長職務によってストレスだけが溜まり、勉強はできない上、英語などの語学を使うチャンスはほとんどなかったために、まったく錆びついてしまった。ものを書いたり、考えたり、本を読むことが好きな私個人にとっては、この点では大いにマイナスであった。この点でいえば、敗残であったと思っている。

 私は長年,早稲田大学に勤務した。そこでは自由を非常に満喫させて貰った。海外にも行けたし、かなり自由があって、教授会に時々欠席しても勤められた。しかし今度の大学では、今年で5年目であるが、教授会を休んだことは一度もない。現在どこにも出かけられないというのは、人間というものは一生の間でどこかでバランスをとるものだからかもしれない。

 私立の新設大学は、地元が金を出す第三セクター方式をとる公私協力方式が少なくない。地方に行ってくれるいい先生というのは、それほど多くはない。実は、私が学長になったのは急なことであった。開学のときまで一橋大学の小島清氏が学長として決まっていたのだが、いろいろな理由からそれが白紙となり、私が頼み込まれて学長になったというのが実情であった。それが躓きのもとである。

 教授陣の約3分の2が東京からの通勤となっており、若手では文部省がなかなか認めないので、70歳以上の人が主要課目を占めている。私と同年が4〜5人いる。一番の長老が78歳。若手はほとんどいないので、教員の平均年齢は64〜5歳であった。更に非常勤講師を東京から呼ばなければいけないのだが、年寄りの先生たちが仲間を連れてくるために私よりも年上の人がかなりいた。まるで老人ホームのようで、非常勤講師の平均年齢は69歳であった。

 私の一番の課題は、過渡的に75歳を定年として、この学校から早く年寄りをなくすことであった。文部省の許認可を取るときに教授になってくれるのは、ほとんど70歳以上の人で、開学に際して若い人はなかなか集めにくい。この定年制を提案したところ、大反対を受けた。老齢教授たちは、「現代は高齢化社会だ。学問というのは年をとるほど磨きがかかって立派になる」など、それは大変だった。しかし何とかこの提案を決定することができた。私の考えでは順々に定年の年齢を下げていき、数年のうちに70歳以下にしたいと思っている。このことで相当神経をすり減らした。

 他方、東京と地方との文化的落差も大きい。日本というものをこれまで私は平板なものと考えていた。東京の大学文化と地方のそれとの壁は、極端な話アフリカとの壁よりも厚いのではないかとさえ思えるほどである。

 先日ある実業界の人と話をしたが、最近では企業を終えてから大学に教官として就職する人が少なくない。そうするとノイローゼになる人が結構いるという。学生がぺちゃぺちゃしゃべって講義を全然聞いてくれないというのである。また学生が講義中でも、出たり入ったりしている。ノイローゼになって大学を辞めた人さえいるという。

 その人に私は言った。「大学は会社ではない。会社では給与を与えており、上司と部下という関係であるので、おとなしく話を聞いているかもしれないが、大学は教員が学生から給料をもらっているのだから、その辺を理解しないとノイローゼになってしまう。いくらいい講義をしたと本人が考えても、私語は止まらない」と。

 そうした学生たちをコントロールするこつを知っていない人にとっては、大学の現状はびっくりすることだと思う。

 最近手にした「諸君」(98年10月号)に次のような記事があった。

「大森弥東大教養部長の話を聞いて、びっくりしました。『教養学部から三悪を追放したいと新入生に訓話した』というんです。三悪とは何ですかときいたら、『万引き、ゴミのポイ捨てとカンニング』なんだそうです。」(森本哲郎氏の話)

このような現状である。大学もかなり変質してしまった。

 私のいる大学は、新潟市から車で30分ほどのところ(加茂市)にある大学で、静かでオットリとしたいい町である。人も親切である。しかし入ってみると、文化の壁が相当に厚いことが分かってきた。夏目漱石の「坊ちゃん」は、3ヵ月で逃げ出してしまったのだが、私は4年の任期だけは全うした。今考えると長すぎたと思う。

■高等教育とは何か

 高等教育についての理解が混乱しているのではないかと思う。日本の大学教員は、一般的に年功序列制、終身雇用制であり、私もずっと早稲田大学に勤めた。日本の他の大学では集中講義などしか経験がなかったが、早稲田大学で「国際部」を創設するときに責任者を務めたことがあった。また海外の大学ではいくつか学部にかかわったこともあった。例えば、米国五大湖付近にあるGreat Lakes College Association という1000〜2000人の小さい地域大学(community college)が連合して運営する大学とかかわったこともある。またカリフォルニア州16の州立大学リーグと交渉したこともある。米国の地域大学(大学院を持たない大学)についてもある程度知っている。そこでこうした点を踏まえて高等教育とは何かについて考えてみたい。

 現在のところ4年制大学のレベルをもって高等教育というのか。あるいは大学院、大学院大学をもって高等教育というのか。この点は、私にもはっきりとしない。

 日本や発展途上国などでは、一般的に高等教育あるいは大学とは、「エリート養成のためのものだ」というのが通念となっている。私もそう思うし、欧州の大学事情を見ると、その通りである。欧米で、大学がエリートの養成だけではなく、普遍化しているのは米国だけではないかと思う。つまり「大学が大衆化されている」ということである。しかし博士号を取った場合に、どこの大学で取得したのかという区別はついて回る。またどこの大学卒業かでも違ってくる。

 同じ「大学の大衆化」といっても、日本と米国とではどこが違うのだろうか。私の印象では、途上国型大学も一般的にエリート養成のものとなっている。限られた資源で国を建設するにはエリートを養成するしかないからである。エリート養成についていえば、戦前の日本はその伝統を持っていたと思う。しかし戦後はエリート養成型が専門型となっておかしくなった。2025年には希望者全員大学に入れるというが、そうなると皆誰でもが高等教育を受けることになり、どこにエリート教育の意味があるのかということになる。そしてエリート意識が欠如すれば、矜持がなくなってしまう。最近の東大出身のエリート官僚を見ても分かるとおりである。これは「大学の大衆化」のせいではなかろうか。

 「諸君」(前掲)の文章を見ると次のように書いている(要旨)。

 「教養とは、教導の教と養育の養が教養である。つまり知識を教えることと同時に人格教育という意味がある。教養があると中国人が言うときには、人格が立派だということを意味している。ところが日本で教養があるという場合は、知識人であるという意味で、知識型となっている。中国では、知識がある人を博学という。日本も明治からしばらくはこのような使い方をしていたのかもしれないが、戦後はずいぶん変わってしまったのではないか」。

■悪しき平等主義

 それはなぜか。それは戦後、悪しき平等主義が入ったためではなかろうか。日教組がいい例であるが、点差を付けてはいけないとか、皆平等だとか騒ぎ立てて、エリートという言葉が非常に悪い意味の言葉になってしまった。最近では、エリートといわれると怒る人がいるかもしれない。欧米ではそうではないと思う。このような考え方が大学にどんどん浸透して、文部省もその流れに押されてその方向に行ってしまった。小・中・高も同様で、大学も同じ傾向にある。誰にでも平等にたくさん大学を作って誰でも入学させておけばいいということになったのではないか。東大をはじめとする有名大学を叩いて、つまり足を引っ張って悪平等になったというわけである。

 ここにはいい面もあったであろうが、むしろ悪い面が全面に出てしまった。文部省も悪いことに、そうした傾向に迎合して、通産省のまねをして「これからの世の中には何が必要なのか」ということを考えて大学を設立してきた。我々の大学を設立したころは、「国際」と「情報」が一種のキャッチフレーズになっていて、「国際」か「情報」を付けると何でもよい時代であった。ところが5年も経過すると「国際」も「情報」も飽きられてしまって、人が集まらなくなってしまった。今は「福祉」あるいは「看護」。福祉を冠したものなら許可が下りる。まるで政府の政策で大学が動かされているようだ。一方大学側もそれに迎合して、時世にあった学部を作った方が学生が集まるのではないかと考えた。例えば「不動産学部」というのができた。今後私は「ベンチャー学部」でも出てくるのではないかとさえ考えている。

 こんなことで高等教育とは何かが混乱している。果たして「不動産学部」が高等教育と言えるのであろうか。

 欧米では、人間(学生)が大学を利用するものである。私がお世話になったライシャワー博士はアメリカ、フランス、日本など3〜4つの大学を歩いている。Ph.D.をいくつもとる人は外国にはいくらでもいる。欧米においては大学とは利用するものであるから、いい先生がいればその大学にいきそこで学位を取り、また別の大学に移る。つまり大学とは利用する対象であって、自分の能力を高める場であるとの認識である。

 それでは日本はどうか。日本における大学とは、「肩書」である。どこ(の大学)を出たのかによって、エリートになったり、ならなかったりする。日本は肩書主義になっていて、発展途上国型から抜け出ていないのではないか。戦後6・3・3・4制の米国式大衆化教育の手玉に乗って、そうなってしまった。むしろ戦前の大学の方が自由であったように感じる。例えば、飛び級制度があった。小学校5年から中学に入れた。ところが現在の教育は平準化、単純化され、肩書のみになってしまった。偏差値によって大学に入学させるから、医学部に入ってくる秀才の学生に医者としての適性がなかったりして、医学部の先生も嘆いているのが現状である。

それでは日本に高等教育が存在するのか。私には存在するように思えない。

文部省などは「大学院大学」が高等教育だと考えるわけだが、これはむしろ専門教育ではないかという気がする。米国では大学院大学が、かなり普及しているが、ビジネス・スクール、ロー・スクール、メディカル・スクールなど専門の必要性に応じて存在する。日本で大学院を作る場合、文学部も教育学部もというようにすべての学部で作ることになる。その必要が果たしてあるのだろうか。皆平等化、平準化してしまうために、大学院はおかしなくってしまう。それで大学院大学にすれば解決するという発想なのである。

 私はハーバード大学に2年いたが、ここには「ハーバードメン」という言葉がある。これは大学院卒ではなく、学部卒のことである。ゼネラリストの養成である。ハーバード大学の大学院にいくと、ハーバード大学から進学したものは大体3分の1程度で、あとはその他の大学から英才が集まってくる。そこでは職業教育をする。ビジネス・スクールなどはそのよい例である。

 日本は、その辺の考え方がおかしくなっている。つまり小学校教師よりも中学校教師の方が偉く、中学校教師より高校教師、それよりも大学教官の方が偉いというように考えている。更に大学院教官はもっと偉いと考えている。これこそ肩書き主義である。

 かつて小学校教師のことを「訓導」と言った。「訓(おし)え、導く」というわけである。そして中学校からは「教諭」といった。「教え、諭す」という意味。大学は「教授」であり、「教え、授ける」のである。ところが現在では、小学校から高校まで全部「教諭」になってしまった。誰も教え導かないために、小学生がいい気になってしまった。また「教諭」は、教え諭さずに、おだてるためにおかしくなってしまった。大学教授は、教え授けるから、我関せずで、10年前の講義ノートを読んでいても何も言われない。こんな状態であれば、小学校の先生を教授と呼び、むしろ大学教授は訓導か教諭にした方がいいのではないかとさえ思う。

■戦後の大学改革の誤り

 日本が戦後、6・3・3・4制を導入したのは本当によかったのか。これは通算就学年数が16年である。戦前はもう1年長く、6・5・3・3制であった(飛び級の場合を除く)。

 この点について、元文部次官の木田宏氏にたずねてみたことがある。6・3・3・4制導入当時、この点は大問題になったという。当時の文部大臣天野貞祐氏とともに就学年数を短縮していいのかという議論を戦わせたという。天野氏いわく、「日本は今後産業立国していくのだから、高等教育を早く普及した方がいい」と。確かに高等教育は普及し、経済も発展した。

 その結果として戦後の大学院がおかしくなってしまった。実は私の祖父は明治22年頃東京大学を出ているのだが、そのころでも大学院の制度があった。祖父は大学院生の身分で、驚いたことに同時に陸大の教授を兼任していた。旧制を卒業した私の頃は、旧制大学院を出たことになっているが、担当教授が何かを授与するわけではなく、教授のお手伝いをするという形のものであった。文部省留学制度のような名残もがあった。それらが新制大学院に切り替わった。

 戦前と戦後の教育制度の違いについて見てみると、確かに米国の教育政策の影響が大きかった。6・3・3・4制の定着とともに大学教育、あるいは高等教育が普及し、その結果生産性の向上などをもたらしたし、一般的な知的水準も高くなったというプラス面は確かにあった。

 先の「諸君」での討論は「教養のガイドラインを求めて」というタイトルだが、意味するところは「教養」とは一体何かということである。「教養」はどこかに行ってしまった。いや行きはしなかったのだが、新制大学では「教養部」というのがあった。大学の前期2年間を「教養部」とし、後期2年を専門教育という。そして旧制高校と旧制大学がごちゃごちゃになってできた大学が多かった。その中で東大の教養学部は教養部が独立したものである。私の考えでは、米国式のリベラル・アーツが唯一成功したのは、東大教養学部ではないか。その他はみなおかしくなり、学生たちは「教養部は高校の延長ではないか」との疑問を投げかけた。そして「教養課程廃止論」が出てきた。

 この議論の方向としては、欧州的な教養主義を求めている。確かにそれは戦前にはあったと思う。つまり旧制高校がそれに相当したといえる。哲学や文学にふけるなど、自由にやるのが誇りであった時代である。今の学生は哲学の「て」の字も言わない。長編小説も読まない。古い形の教養主義はなくなってしまった。ある時期、マルクス・レーニン主義が風靡したこともあったが、あれが教養かどうかは問題である。

 旧制高校がなくなり、いかに大学に入学するかということが至上命題となり、偏差値中心の教育になった。その結果、教養を修める暇がないうちに大学に入学してしまうことになった。そして大学は専門と教養がごちゃごちゃで、教養部教官よりも専門学部の教官の方が偉いと威張っているから、教養部教官は一種のコンプレックスを持つ。語学も同様だ。教養がどこかに行ってしまったというのは、このような意味である。

高等教育とは、「教養」にそのポイントがあるのではなかろうか。このごろ私はこのことを実感することが多い。日本の専門教育は、まさに「たこ壺」方式であり、他の分野のことは全く分からないという状況である。

 大学院教育は、米国式に「高度の専門教育」と位置づけたい。日本でも戦前には専門教育として「専門学校」という立派なものがあった。戦前の日本の専門学校はある意味で成功したと思う。戦後の経済発展をもたらした大企業の創業者の多くは専門学校卒業である。各業界のトップが大卒になったのもそんなに昔のことではない。

 日本が戦前において教育制度である程度成功した背景には、徐々に専門学校を整備していった経緯があった。最初小学校は4年間で、尋常高等小学校2年がそれに続いていた。その後尋常6年、高等2年になった。高等2年にいくものですら田舎ではエリートであった。商業学校、工業学校でもエリートであった。上に進学するものは旧制高校、行かないものは、旧制の専門学校。現在の地方国立大学のコアはほとんど専門学校であった。医学部ですらそうである。医学専門学校が医学部になった。各地にかなりレベルの高い学校があり、中央集権ではなく、地方分権型であった。そのため地方の高校に行くのも、成績一辺倒ではなく、その人の好みも大きかった。旧制一高よりも京都の三高の方がいいという人も多かった。二高には本多先生がいるからといってそちらに行った人もいた。

 ところが戦後は、画一化されてしまった。高等教育は、米国式のジェネラル・エデュケーションであって、それが見えなくなったのは、日本ではないか。ハーバードメンはいなくなった。英国のオックスフォード、ケンブリッジも大学院はあまり発達しなかった。教科の内容を見ても、英米ではポップスやミュージッシャンが相当数大学を出ている。実技は大学ではやらない。それは専門学校(例えば、New England Conservatoryなど)で学ぶ。理論は大学で教える(例えば、Department of Music)。教養と実技とは切り離されている。米国でも、実業界(中核メンバー)に出るにはハーバードメンであって、専門家は採用しないという話を聞いたことがある。 大学院を出るものは、エキスパートとして採用され、出世する。こういう背景が基本にある。それらをリベラル・アーツと呼んでいるのだが、それが日本では見えなくなってしまった。

 私が2年間客員教授をしていたマラヤ大学には、英国流の伝統が残っており、リベラル・アーツが色濃く残っていた。その代わり大学院はお粗末であった。

 教養部2年、専門2年とするのは間違いであって、もしこの形を取るのであれば、教養2年で専門を3年とすれば良かったのではないか。また人材は青田狩りのような状態であったので、企業もなるべく早く学生を買い出そうと考えた側面もあった。大学教育の足りない部分を企業が教育してくれていたという面も否定できない。企業が留学制度をもち、人材を仕込む国は、日本以外には余りない。西欧では、入社する前に学生が自分の能力を高めて、それを企業に売り込むわけである。会社とは学生(人材)の能力を開発するところではない。西欧人で大学院で学んでいる人々は、「我々は自分の貯金で勉強しているのに、日本人は月給をもらって勉強している」とうらやましがっているほどである。しかし「日本人は勉強した後に、元の会社に戻らなければいけないが、その点で我々は自由に人生を選択できる」とも付け加えている。

 日本の企業としては、大学の就学年数は短く押さえておいて、自分のところで教育させようと考えてきた。外務省も例外ではない。外務省は、大学を卒業しない方がいいのである。優秀な外交官は大体大学3年くらいで試験をパスして、大学を中退している。

 企業側も知的投資をやったのだが、その結果大学にいびつな形を残してしまったと思う。それほど日本経済の成長が早く、人手が足りず、人材が払底していたのかもしれない。

■日本にリベラル・アーツなし

 現在文部省が作ろうとしている「大学院」なるものが、はたして高等教育なのか。高等教育と呼んでいいのか、あるいはそうなるべきなのか。あるいは旧来の4年制大学を高等教育と呼ぶべきなのか。

 最近考えることは、早くから専門分化してしまうと、大局が見えなくなってしまうということである。これからの日本は、事に当たって大局の見える人材が必要な時代となっており、この点を強調したい。ある一分野にのみ詳しい人材も時には必要かもしれない。しかし経済とか、経営とかになると、最近のインドネシア情勢に見られるように、政治リスクまで読み込める人間がこれからはますます必要になってきている。それが欠けると企業の存亡に関わってくる。一般的にもそのような目をもつ人が組織のトップに行くとは思うが、もっと大局的にものが見えて、スタッフが使いこなせるような幅の広さが教養ではないか。専門馬鹿のいい例が教員である。

 リベラル・アーツが目指す教養主義あるいは高等教育とは、先述したように「教養は人格の養成である」という観点から、幅広く問題状況が看取できる人間を育てることになる。現状をクールに判断できる人間とも言える。このような人材を養成することが高等教育だと考える時に、現在の学部では情けないような気がするけれども、それでやってほしいと思っている。

 大学はさまざまな学部に分かれているが、企業からすればその学部からのみ人材を採用するわけではない。大蔵省が東大法学部から多くの人材を採用するというのはおかしなことである。中国的な意味での教養で言うと、文系の人が行政官をやって、法律は専門家だからスタッフだという。日本が行政国家で長年やってきたために、法律の専門家をもってやってくるようになったのかもしれない。

「東京大学ができた時には、文科大学、法科大学などのカレッジが集まってユニバーシティーになったわけでしょう。文科大学を卒業したものが文官で、法科大学を卒業したものが法官だったのです。本来文官が政治を担当し、法官はあくまでも技術者であったはずです」と、元東大総長の茅氏は言っている。

 戦前は理工系と文科系でこの差別が生まれた。理系はトップにいかず、専門家であると一ランク下に見られたものであった。戦後は随分変わったけれども。この議論は、文科系からもっと人を採用しろということが言いたいわけである。ジェネラル・エデュケーションが大事であって、それを欠いている法学部、経済学部などの専門領域だけを勉強した人は、欠陥人間だと言っているような気がする。

 日本の社会は、まだ発展途上国型を脱しきれておらず、肩書き主義がはびこり、教養主義はどこかに行ってしまった。大学で専門科目を教える専門教員も、実にかたわでおかしな存在ではなかろうか。奥さんは芸術に造けいが深いが、夫はそのような分野はぜんぜん駄目と言う人も多い。自分の専門分野だけにこだわらずに、もっと芸術、歴史、技術などにも関わる必要がある。英仏は歴史を大事にする国である。それから古典を大事にする。ラテン語を知らない教養人はいない。日本では最近では日本の古典である漢文を殆ど習わなくなってしまった。欧州文化の中では、ラテン語をはじめ、文化の基本を持ち続けている。例えば、ハーバードでも卒業式の学生の答辞はラテン語でやっている。日本ほどあっさりと伝統を捨ててしまう国は少ない。

■大学院の行方

 大学院は現在成功しているのか。今後どうなっていくのか。文部省は今後どう位置づけようとしているのか。

 文部省がやっている大学審議会での議論の中で、教官の任期制や評価制度は、あくまでも小手先の問題であって、基本的な議論に欠けているような気がする。現在の大学院は実に中途半端な存在になってはいないか。日本ではどの学部も同じように大学院を作りたがっている。教養学部、更には体育学部でも大学院を作っている。私立大学には、そのような余裕はない。

 私のいる現在の大学は学生数1000人程度のもので、小さな大学である。新潟県の主産業は米。昔の藩で言うと、新潟県にはあまり大きな藩がなかった。日本の大地主の3分の2は新潟県である。豊かで文化人はいるが、経営者に乏しい。新潟県には大学数が非常に少なかった。都道府県別の大学数を最下位からみると沖縄と新潟県であった。そこで近年慌てて6つも作った。そうすると学生の取り合いになった。理系の大学は設備費がかさんで大変であるが、文科系でも小さな大学は簡単ではない。その上教官の中に大学院を作れと叫ぶ人がいる。「連合大学院」を作れとも言う。新潟駅前に作れという。

 新潟県の中で一番大きい新潟大学でも数年前に大学院の校舎ができたが、あわれなものであった。総合学科のようなものであった。大学院といっても、やはりピンからきりまである。大学院をむやみに作ればいいということではないのである。

 あわせて教員の問題も大きい。専門教育を米国のように大学院でやるのはいいが、ここでも平等主義や肩書き主義が横行することになる。私の大学で採用した若い先生は、「僕は修士課程を出ているんだ」と自慢していたのには、あきれてしまった。つまり能力の問題にせずに、修士課程を出ているのに相応の待遇をしてくれないというまさに肩書き主義の考え方である。

 米国のビル・ゲイツは、ハーバード大学にいったけれども、学ぶことがなくなったので途中で中退した。彼は大学卒の肩書きを取るために行ったのではない。同様のことを言ったのは谷崎潤一郎だ。彼は全然学校に行かなかったという。「自分が赤門で学んでよかったことが一つだけある。それは劣等感がなくなったことだ」と言っている。

早稲田大学の文学部からは小説家が随分出ている。彼等は大体中退している。中退したものが本物であって、卒業したものにはろくなものはいない。なれてもせいぜい教授だと彼等は言う。文学部には文芸学科を作ったが、そこからは俵万智等が出た。その学科の主任教授は芥川賞の候補にはなったけれども、芥川賞や直木賞をとった教授は一人もいない。中退したものがそうした賞を取る。私は教授がそうした賞をとる必要はないと思う。なぜなら野球でもコーチや監督としてはうまいが、選手となるとうまくないという人がいるのと同様である。

 新潟県の新設大学で成功したと思うのは長岡造形大学。全国から学生が集まっている。その学長に「教授陣は芸大卒などの人が多いのか?」と聞いてみたところ、「そういう人は少ない。多くはデザインや専門学校卒が多い。しかし最近はだんだん芸大系の人が増えている」との答えであった。教員の平均年齢は37歳と言っていた。例えば、亀倉雄作は自学の人である。

 能力で成り立つ学校か、肩書きで成り立つ学校かという点が日本の大学の分かれ目である。大学を個人の能力を高めるために利用するという考え方が弱いのも、日本の大学の特色となっている。そのために独創性やベンチャー企業家が出てこないような環境となってしまっている。

 専門のたこ壷に入って行けばいくほど、他から叩かれない。ごく狭い範囲の研究をしているために、他の人が口を挟む余地がないのである。米国のMITやハーバード大学での研究者同士の議論を聞いていると、米国の学会の雰囲気は日本のそれとはまったく違っている。専門家の発言があった後に、専門の異なる学者が幼稚としかいいようのない質問をぶつけてくる。しかし専門家にとってはそのような質問ほど困るのである。子どもの素朴な質問ほど答えにくいのと同じことである。そのような質問に答えられないとだめなのだ。

授業も簡単な言葉で説明していく。しかし一つ質問を受けると、ぐーと専門領域に突っ込んで入っていく。けれども先生たちは難しいことを言って煙にまくようなことはしない。他の分野の先生でも質問できるような表現方法で発表している。逆にその質問等からヒントを得て、一つの刺激を得られるのではないのか。

 一方、日本はなるべく突っ込まれないように逃げて歩いている。日本の学界には、安楽椅子というのがある。大教授になるとソファーに座り込み、学生や弟子に仕事をやらせる。「○○教授監修」という著書の方式は外国にはない。その教授先生に会わなくても監修にすることができるほどである。つまり教授の名前で本を売るのである。それは米国ではできないであろう。

 大学院では専門を教え、学生は研究者になればいいのが日本。同じことを繰り返して教え授ければいいわけである。しかし米国では違う。例えばハーバードのビジネス・スクールの場合、サマースクールには有名企業の副社長なども出席している。そのような人をも説得できるようなものでないといけないのである。教授はそのような質問にも耐えられるようでないと勤まらない。敷衍すれば現場をかなり知っていないといけないということになる。教授たちも実によく現場に出て行っている。同分野の日本の教授たちは現場に行かないし、現場でも入れてはくれない。それで畢竟外で理論だけを横のものを縦にしてしゃべっていればいいという傾向になる。だから一大事が起こったときに、何も返答ができなくなってしまう。

最近のような経済の変化について、民間のエコノミストは発言しても、東大経済学部の教授はあまり発言しないということになる。その点では慶応大学や早稲田大学の方がマスコミには出やすいのかもしれない。格が高いほど恐くてものが言えなくなってしまうのである。

しかしそのような問題に対して答えられないとハーバード・ビジネス・スクールの先生にはなれない。学生層が違う。大学院の教員は、大学で幅の広い教養を身につけて、その上で専門領域に入った人でなければ務まらないと思う。大学時代から狭い分野にとどまっていて、更に突っ込んでいったらどうしようもない。

東大医学部附属病院にも「総合内科」という診療科ができた。心臓外科とか、消化器とか部位ばかりの専門では、患者の悩みの治療を十分することができなくなってきている。「総合内科」では、いろいろな分野の医師が協力して診断し、トータルに集まってチェックしようという方式を取っている。そういうのができるのが大学院である。

米国などのfaculty clubとは全く逆に、日本の大学の教員室では学問の話は一切出ない。日本では、専門と教養との関係はもちろん、専門同士でさえよそよそしくてミックスしないのである。学際領域の研究といっても、自分と他の領域をしっかりと区別してしまっていて、相互に交流することは少ない。

 例えば、日本の歴史学をみても、東洋史、西洋史などと分けるのははおかしい。日本の歴史のうち横浜までは日本史の専門領域とし、ヨーロッパに入ればヨーロッパ史の専門領域、その途中は皆東洋史、あるいはアラブ史。そこに首を突っ込むと文句を言われることになる。文明の生態史観(梅棹)とか海洋史観(川勝)のように総合的にものを考える最近の傾向は、まったく新しい発想である。つまり幕末の生糸の流れを追っていったときに、横浜で日本史の先生の研究は終わる。そこから英国に持っていく過程は東洋史の領域となる。このように全部分業となっている。

アジア不況の問題もそうだが、発展途上国の場合は政経分離では解釈できない。どこまでが政治問題で、どこまで経済問題なのかを区分けするのは非常に難しい。政治といっても国によって発展段階が違うし、社会主義かどうかによっても違ってくる。そこまで総合的に考えないと経済一つにしても分かってこないのではないか。

経済学で言えば、アダム・スミスなどの古典派はみな歴史から始まっている。この点は偉い。マルクスもそうだ。数理経済学になると非常に専門化するが、そのことゆえに却ってデメリットもあるに違いない。

 日本の大学院が育つか否かは、社会がどう受け入れるかによる。最近は金融関係者で夜間大学に通う人が非常に多い。法政大学、上智大学、青山学院大学などで開催している。受講生には40代の人たちが多い。先行き不安の中、違う見方も持っていないといけないようになってきたのではないか。

 留学や海外旅行に意味があるのは、違った世の中を見るという意味であったと思う。自分の身近や国内だけを見ていたのでは分からない面がある。この度の私の地方大学での失敗は、地方を知らなすぎた証であった。

 その辺についての先生方の自覚も必要ではないかと思っている。現在のような社会の激変の中で、先生がどの程度対応できるのか。リベラル・アーツのように、哲学などを含めて、幅の広い学問に、集中的に考えさせる時期が必要だと思う。それを経た後でこそ、自分の専門領域として何がむいているのかが分かるのではないのか。そうすれば転部する学生も出てこないであろう。その中で自分の選択の道を見出す。

 このように大学院教育は、ジェネラル・エデュケーション(高等教育)を済ませた上での専門教育になってほしいと思う。

■日本近代史の転換点

 日本の近代史において三つの大きな転換期があった。

 まず明治維新。これは明らかに維新という形で旧体制が崩れ、若い力が変革を求めて実現させた。けれども江戸時代に蓄積されたノウハウや伝統は、十分生かして転換している。 

 第2番目が敗戦。これも旧来の支配体制がなくなった。新しい企業家が続々と出てくる変革があった。この場合も、戦前が決して無駄であったわけではない。戦時中、海軍技術将校が船に乗っていて地団太を踏んで悔しがったという話がある。軍艦に乗って米艦をさがしても見つからない。にもかかわらず米艦からは弾丸が飛んでくるし、飛行機を襲ってくる。これはレーダーの技術の差であり、その時の口惜しさが戦後のエレクトロニクス技術発展の原動力になったという。大きな構造転換期が敗戦であったと思う。この時も若い人が活躍した。

 今回が第3番目。しかしこれは目にははっきりとは見えないが、大きな変革だろうと考えている。この3つとも共通しているのは、黒船(外圧)である。日本は外圧がないと変われない国だともいわれている。

 米作保護ばかりを主張する新潟県の農業関係者に「需要も変化していることを考慮しないといけない」と注意したことがあった。20数年前に韓国に行ったときに、弁当箱を見ると日本の大工さんのそれよりも大きかった。当時韓国は一人当たり米を124kg消費していたが、日本は100kgに近づいていた。中国に行ってみるともっと大きい弁当箱を使っていた。そして副食が少なかった。しかし現在の子どもたちはそんなに米を食わない。その時話した米作関係者ですら、朝食にパンやシリアルを食べていた。

■スタンダードの発展段階

 スタンダードには、ローカル・スタンダード、ナショナル・スタンダード、グローバル・スタンダードと三つの発展段階がある。その発展段階には、国全体としてのものもあるが、その国の中の地域ごとにも見られる。

 例えば、私の勤めた地方大学はローカル・スタンダードである。また東京の大学はナショナル・スタンダードからグローバル・スタンダードになれずに困っている段階。企業には既にグローバル化したものもたくさんある。現在の日本の金融機関の遅れはグローバル化しなかったという側面があるし、大蔵や日銀の役人も同様だろう。 

 それではグローバル・スタンダードとナショナル・スタンダードとはどこが違うのか。それはヒューマン・ネクサスの差である。つまり人間関係の中心が濃いほどローカルになる。ローカル・スタンダードというのは、ほとんど人間関係(ファーミリー)である。ナショナル・スタンダードというのは、ローカル・スタンダードが拡大してきて、国家次元(ナショナル)で考える。つまりネーションビルディングと同じ意味で考える、あるいは企業で言えばはナショナル・マーケットを前提にするという考えになるかもしれない。国の段階で言えば、ナショナリズムの段階ともいえる。日本人あるいは日本民族というヒューマン・ネクサスである。銀行の護送船団方式というのは、ナショナル・スタンダードであったと思う。

 グローバル・スタンダードというのは、ある意味でクールな関係であり、人間関係は消失してしまう。デリバティブのような取り引きはコンピュータで一瞬に済んでしまう。電子マネーもそうである。クレジットで自己破産者が増えたというのもその一つの現象かもしれない。そこには人間が見えてこない。

 しかしそこにはまた国際的に通用するある種の合理主義が作用している。これを見失うとこわい。そのこわさは、今回東南アジアを歩いてみてその経済破綻に接した時に、実感したものである。

 日本でシステム化(標準化)を早くから導入してきたところ(例えばトヨタのカンバン・システムなど)、あるいは企業経営のグローバル化をシステム的に進めてきたところは、比較的うまくいっている。城南電機の社長が倒れて3ヶ月でその会社が倒産してしまったという例は、まさにローカル・スタンダードということになる。ヤオハンもうまくやっていると思われていたが、中国進出でつまずいてしまった。ヤオハンのトップは中国のリスクの大きさを知らなさすぎたのではないか。ヤオハンの代わりに出ていったイトーヨーカドーは2番手主義であるので、かなり慎重だから、今後どう展開するか。

 また海外への進出に対しても、対応できる筋があるということになる。これからのアジアでの日本の地位はまだまだグローバルにまで至らなければいけないのだが、そこにいけない国がたくさんあるのも事実である。それが一番はっきりするのがお金の世界で、その世界はボーダーレスになっている。

 先般榊東行氏が『三本の矢』という小説を出してヒットした。それは官界、政界、金融界を表現している。あれはヒューマン・ネクサスの世界である。その分野はグローバル化していない。現在の経済不況の大きな原因がその辺にありはしないかと考えている。日本の不況の影響が東南アジアに波及し、それがブーメランのように再び日本に戻ってくる。1200兆円の預貯金があり、ファンダメンタルがよく、貿易収支が黒字で、昭和2年の昭和恐慌とはまるで条件が違うにもかかわらず、このような状況である。

 企業で言えば、終身雇用、年功序列という伝統は今後も残るであろう。同様のシステムは米国にもある。IBMにもある。コアの部分にはそのようなものが残るであろうが、周辺部には専門家が能力を発揮して、契約制度や任期制度、年俸制の給与体系、といった社会に近づいていくのではないか。そうすると大学生も自分の能力を高めることを考えるようになろう。

 また就職するに際しても、給与の高さだけが職業選択の条件ではなくて、例えばジャイカでやりがいのある仕事がしたいといった、考え方も出てくる。それがまた国家としての豊かさの一つであろう。大学でも大学院レベルで開発学科などを設けている(例えば、早稲田大学のアジア太平洋研究センター)が、その他さまざまな試みがなされつつある。多角的な社会の中で、多角的な専門教育をする大学院レベルの大学ができてきていい。

そうなると経営者自身の引き抜きが起こってもおかしくない。樋口広太郎氏も銀行マンだけであれば、あれほど有名にはならなかったであろう。

 40数年前に初めてハーバードに行って驚いたのは、当時の総長は39歳のピューシーという人であった。彼は学者ではなく、経営者であった。有名な教授にそのことを尋ねてみると、「それがいいのだ。学者がなるとみなそれになろうとして研究をしなくなるから。それよりも経営力のある人を雇っておいた方がいい。資金を調達してくれる人の方が(経営的には)ありがたい」との答えであった。日本の大学では、学長など管理職になりたがって汲々する人が少なくない。

■求められる教育の変化

 企業側の人材に対する要請も、今後変化するだろう。現在日本の企業にプロ(専門家)として雇われているのは、公認会計士と弁護士くらいであろう。近年、コンサルティング会社が発展している背景には、そのような専門家への需要があることを示している。

 例えば商社の中で、例えば中東方面に進出することを考えた場合、中東方面の事情や言語に精通する人が必要になってくる。そのようなスペシャリストとは契約関係としてもち、必要がなくなれば契約を解除すればいいわけである。その人は、また別の会社に回っていく。このように、企業の人材観が今後変わってくるだろうと思われる。

また今後は、外国人労働者を積極的に国内に入れていかないといけないだろう。現在でも、優秀な外国人は日本企業にも採用されている。例えば中国人で日本企業に採用された人は、中国に帰りたがらない人すらいる。現状では、不法就労者が30万人を切らいない現状であり、これをなくしてしまうと日本の雇用問題に影響を及ぼすことも考えられる。

 日本企業も、現地採用だけではなくて、本採用として外国人を採用し、その人を現地の地域マネージャーにするという姿勢も必要であろう。このような経験は、既に欧州では実施されている。そうなるとあくまでも日本人でないといけないという考え方に固執しなくなる。そうすることで却って日本の伝統も生かされていく。

 もう一つは社会の多角化という点。そのような社会の変化に伴って、教育も変化していかなければいけない。そのときこそ、日本の伝統を身に付けた幅広いジェネラル・エデュケーション(general education)を、現在の大学(4年制)でやるべきではないだろうか。

(1998年9月3日発表)