宗教的回心の心理学

米国フラー神学校準教授 ヘンリー・ニュートン・マロニー

 

■回心のプロセスは全て同じ

 「宗教的回心の心理学」というテーマでお話ししたいと思いますが、まず言葉の定義から始めます。私たちが関心事としているのは「宗教的回心」(religious conversion)でありますが、このコンバージョンという言葉は、もっと一般的な意味で、ありとあらゆる変化に対して使われる言葉です。すなわち一つの信条から他の信条へと意見を変えるということです。

 例えば米国で言えば民主党員から共和党員に変わったとか、あるいは長髪で髭をはやし、職もなくギターを弾いていたヒッピーが、今や髪を切り髭をさっぱりと剃り、素晴らしいマンションを買って、コンピュータのビジネスマンになったということも、コンバージョンを経験したと言います。あるいは、今までは車なら絶対にフォルクス・ワーゲンだと言っていた人が、トヨタの自動車に乗るようになったというのも、ドイツ車から日本車に乗り換えた、つまりコンバージョンしたと言うのです。

 この同じコンバージョンという言葉が、宗教的信条においても使われます。ですから、ある個人が自分の伴侶がたまたまカトリックだったという理由でその宗派に転向したという場合もそうですし、またすでに故人となった米国の人気歌手でダンサーのサミー・デイビス・ジュニアがユダヤ教徒になったというのも、コンバージョンです。私が特に指摘したいことは、通常コンバージョンという言葉は宗派を変えるという意味で使われるわけですが、実はもっと一般的な意味がありまして、それは人生の中における重要な転換を意味する言葉なのです。

 この会議において考察すべき更に重要な点は、宗教的回心においても、その他のケースにおいても、その心理的なプロセスはさほど変わらないものであるということです。宗教的回心は、マインド・コントロールや洗脳と呼ばれるものの結果であると主張する著作家もいますが、実際にはそのような仮説を裏付ける証拠は何もありません。

 しかし、マーガレット・シンガーのような著作家は、マインド・コントロールや洗脳というものは、ありとあらゆる回心のプロセスに含まれるのだと言っており、特にその回心について後になって後悔するような場合には必ずそうだと言っています。このことは重要な点であり、大抵の人は自分の回心について後から振り返って悔いるということがなければ、自分の回心の過程にマインド・コントロールや洗脳が含まれていたとは考えないのです。

 この点についての私の見解は、社会的影響のプロセスというものは、宗教的信条の変化を伴うものにせよ、その他の信条の変化を伴うものにせよ、すべて同じものであるということです。そのプロセスには、回心が起こる状況において物理的な拘束や身体の危険が伴わない限りは、決して特別な性質というものはありません。さまざまな分野における回心の中には、ごく稀にこのような状況を伴う場合もあるわけですが、このような虐待的な社会的影響の例は、決して宗教の分野に限られたものではありません。実のところ、「不当圧迫」とか「強制的説得」などという言葉は、むしろ今日におきましては宗教の伝道活動よりは、商品の広告において使われている手法に対して用いた方が良いくらいです。

 ですから私はコンバージョン(回心)という言葉を、より一般的な概念である「社会的影響」という言葉の中に含め、どのようなコンバージョンであれその心理的なプロセスは、使用されるテクニックにせよ、結果的になされる決断にせよ、同じものであると主張します。ここにおいて私は、どのような影響を与えるためのテクニックが用いられたかということよりも、むしろ回心の決断がどのようになされるのかという点に主たる関心を払います。しかしながら、次のことを忘れてもらっては困ります。それはイスラム教徒がムーニーになるという決断は、私によっては、電動タイプライタを使っていた人がコンピュータに買い替えるのとまったく変わりがないということです。

■宗教の定義

 さて次に、宗教というものを私なりに定義してみたいと思います。なぜならわれわれの第一の関心事は、宗教的回心であるからです。私の見解では、宗教的回心というものは、心理的なプロセスという点では他のコンバージョンと変わりありません。しかし、決断の中身が異なるのです。

ウィリアム・ジェームズが何年も前に言ったように、宗教とは「個々の人間が・・・神的なものと考えられるものと関係していることを自覚する場合に生じる、感情・行為・体験」であります。この言葉は単純でありながらも深い意味を持っています。これは「宗教」という言葉が適用され、興味の対象となる分野の限界を取り除くものであります。宗教的回心というものは、神聖なるものと何らかの関係を含んでいます。職業上の転向は、仕事や職業と何らかの関係を含んでいます。芸術的な転向は美学と何らかの関係を含み、料理の好みの転向は新しい食べ物に対する関心を含んでいます。ジェームズは、宗教と呼ばれるからには、そこには個人と神聖なる実在との関係がなければならないと言っています。そのような実在が存在するかどうかということはまったく別にして、宗教的な行動というものはこのような前提に基づいます。

この宗教とは何かということに対するより現代的な規定は、1961年にレメレットという人によってなされました。彼は、「宗教とは人々が超経験的な考えのまわりに集まることである」と提示しました。私はこの定義が気に入っています。これは実体的・経験的アプローチと呼ばれてきました。それが持っている価値は、宗教の枠組みというものをより広くすることができる上に、すべての観察者の目に見える、すなわち経験的に一つの社会集団として検証できるということです。これはジェームスの理解をより精密にしたものです。「超経験的」という言葉を使うことにより、仏教徒やサイエントロジーなど、有神論者以外の人々も含むことができ、しかも、宗教の核となる思想は人間の五感による検証を超越したものであるということはきちんと押さえています。

 もちろんこの定義は、新しい宗教や異なった宗教への回心を誘発する内的な動機というものについてはほとんど触れておりません。それは宗教的回心とその他の回心とを区別するのを助けてはくれませんし、われわれが目撃する宗教的行動の意味を明らかにしてくれるわけでもありません。

 一番最初に宗教的行動を誘引する動機について言ったのは、インガーであります。彼は、「宗教は人間が神秘、悲劇、境遇に対する答えを必要とするとき、それに応えるものである」と言っています。この定義によれば、宗教的行動が起こるときには、常にその個人は人生におけるさまざまな神秘、悲劇、あるいは自分のおかれている境遇に対処しようとしているということになるでしょう。神秘とは人生そのものの意味であり、悲劇とは喪失、失望、あるいは挫折であり、そして境遇とは人々が直面している八方塞がりでどうにもならない状況のことです。宗教は、このように人生において不可解でどうしようもないことに直面したときに、それを補い、前進することのできるエネルギーを与えてくれるのです。言い換えれば、宗教はこのような状況に意味を与え、これを乗り越えることのできるエネルギーを与えてくれるのです。すべての人がこのような問題に直面するのでありましょうが、しかしながらすべての人が宗教的にこれらの問題を解決しようとするとは限らない、と言えるでしょう。この場合「宗教的に」という意味は、超経験的な信条を中心に形成されたグループに所属することによってということです。

 このことは、私の最後の仮説へとつながっていきます。それは、「動機なき行動というものは存在しない」ということです。「宗教」と言われるグループに属するようになるときには、その行動には必ず何らかの動機が存在するのです。そしてその動機とは、先述した三つのニーズ、すなわち人生の神秘や悲劇、境遇に対応しなければならないということです。

■回心の「問題解決モデル」

 いくつかのグループ、たとえば米国の南部バプテストにおいては、コンバージョン(この場合日本語では「回心」の意味)という言葉はすべての信者に期待されている「生まれ変わり」の決断を意味するのですが、より一般的にはコンバージョン(この場合日本語では「改宗」の意味)という言葉は、自分が子供の頃に慣れ親しんだグループとは違った、なにか新しいグループに属するようになることを意味します。

 宗教的「適合」(conformity)という言葉は、その人の宗教的文化圏において期待されているような行動をするよう決断することを意味します。それは例えば、日本においては、仏教や神道のやり方に従うことですし、私が生まれ育った米国においては、子供のころに教会で「コンフォメーション・クラス」という宗教的適合のためのプロセスを通過することです。「適合」と「回心」では動機が異なるかのように思われますが、このような仮説は「生まれ変わり」を体験した南部バプテスト信者や、子供のころからのメソジストの信者や、神社に参拝する若者たちに、「なぜ」という質問を投げかけることによって、簡単に検証することができます。たとえそれがイエスを救世主として信じましょうという招待に応えた人であっても、あるいはある宗派に生まれ、親に言われた通りに従っているだけの人であっても、誰もみな同じように、神秘と目的、悲劇と希望、状況と慰めということに関連して決断をしたのだと答えるでしょう。

 これには異論があるかも知れませんが、私はそうだと思っています。そしてこれらの答えは新しい宗教や異なる宗教に改宗した人々が「なぜ」と聞かれたときに答えるその答えと似ているでありましょう。言い換えれば、子供の頃からの宗教を続けているという若者たちは、外側からは、ただ単にその伝統に適合しているだけだと思われるわけですが、実際に彼らに「なぜこの教会に所属しているのか」と聞いてみれば、彼らは決してそのようには答えないのです。彼らは、この教会は私に生きる意味や目的を与えてくれるとか、人生の悲劇を慰めてくれると答えるわけです。

 ある文化の一員が、その文化において受け入れられているこうした基本的なニーズに対する答えでは満足できないとき、その文化がそれを憂慮し、猜疑心をもって対応するということは非常によく理解できます。しかしまた一方で、われわれの住む世の中は、現在ますます多元的な環境になっているのであり、そこにおいてはこうした不可解な疑問に対する回答にも多くの選択肢が存在し、宗教的な面において文化的な枠組みに簡単にはまらない人々は、特に若者たちの間では、今後も存在し続けるでしょう。すなわち、ひとつのサイズがすべての人に適合するというようなことは過去においてもなかったし、今後もないのです。

 私がこのことを申し上げたのは、1965年に初めて提示されたロフランドとスタークの回心の「問題解決モデル」について説明し、そしてその後ルイス・ランボーによってこの理論がさらに発展したということを紹介するためです。

ロフランドとスタークのアプローチの重要な点は、もともとそれが当時米国の新宗教であった統一教会への回心を説明するためのモデルとして提示されたという点にあります。しかし私が強く確信しているのは、このモデルで提示されている一連の心理学的過程は、すべての宗教における回心の基礎をなすものであるということです。また、それほど過程というものを強調しないランボーのアプローチが持っている価値は、個人がさほど葛藤がない形で回心のプロセスに入れる場合のモデルを提供しているという点にあります。

 ベインブリッジが言っているように、ロフランドとスタークのモデルは創造的な手法で「緊張理論と社会影響理論とを統一したもの」です。彼らが提示した二重構造からなる一連の過程は次のようなものです。

 まずある人が個人的な緊張やストレスといった不均衡の経験をする。そして、それに引き続いてグループの状況の中でその体験を解釈するようになり、そのグループから受ける社会的影響の中で問題に対する答えを発見していく、というものです。これらはまず一連の素因的な状況というものが存在し、それがその気にさせる出来事へとつながっていくという意味で、“predisposing set of circumstances” と “disposing events” と呼ばれております。彼らはこのような一連の段階的な過程を「段階モデル」または「問題解決モデル」と呼んでいます。

 回心のプロセスは三つの素因から出発します。第一に、人生における神秘、悲劇、状況に対する回答を宗教を通して求めるという傾向があるということ。第二に、フラストレーションを感じているということ。そして第三に、現在の信仰ではそれに対する答えが与えられていないという思いです。こういった思いが、人をして宗教的な求道者にするのです。彼らは、超経験的な源泉からもたらされるような回答を求めるようになります。これが私が先ほど提示した宗教の定義にいかによく当てはまり、この種の源泉によって与えられるニーズにいかによく適合するかを、よく心に留めていただきたいと思います。

 宗教的回心へと至るような「その気にさせる出来事」は、このようなムードの中で起こり始めます。求道者と、彼らの問いかけに答える用意のある宗教団体とが出会い、話をすれば、そこに社会的な交流が始まります。彼らはもともとそうしたものを求めているために、そのような問いかけをしていない人とは違って、外的な状況の偶然性に影響を受けやすくなります。

サンフランシスコの統一教会のメンバーは、街に入ってくるバスを待って、行く当ても夕食の当てもないような若者たちに話しかけました。これは彼らが自分たちの状況に対する宗教的な回答を聞く用意があるだろうという前提に基づいた方法です。それに引き続いて、求道者と伝道者との間で激しいやりとりが行われるわけですが、その間、宗教的な回答は一貫した社会的支援の中で提供されるのです。回心のプロセスが進行するに従って、求道者はそのグループの教義についてさらに深く勉強するように勧められ、その他のグループとの関係を断絶するように勧められます。こうした行動をとることによって、この求道者は自分の経験についてそのグループなりの理解を強めていきます。

■「継続型」モデル

 さて、どの時点で回心が起こったと言えるのかという問題については、まだ答えが出ておりません。私と同僚(ジョンソンとマロニー)で今、「継続型」モデルというものを構築していますが、それによれば回心というものは継続的なプロセスであって、求道者が完全に回心するということは有り得ない、むしろその宗教団体に徐々に入り込んで行くのだということになります。

 最近のルイス・ランボーの概念規定をもう一度見たいと思います。彼のアプローチは、ルフランとスタークと同様、危機から始まる段階モデルです。しかし彼のモデルは、現代世界においては多くの人々が回心のプロセスに先だってその素因である葛藤を経験しないという真実を深刻に受けとめています。1965年に発表されたスタークの未発達の論文を12年間にわたって掘り下げたロフランドもまた、多くの回心者が緊張を体験していないことを認めています。

ランボーは、人々が回心のプロセスに至るための危機を感じる以前に位置している「社会的コンテキスト」に比べるならば、緊張は二次的な役割しか果たしていないと言っています。したがって、危機というものは、個人的経験と同様に、浸透性によって発達するものなのでしょう。このことは今日よく報告されている事実と一致しています。すなわち宗教団体に参加する最初の原因は友情にあるのであって、信仰は第二の理由でしかないということです。しかしながら、社会的関係が友情関係を超えて、神秘、悲劇、状況といった不可解な疑問に対する超経験的な答えに起因するようにならない限りは、その回心のプロセスというものはまだ不完全である、ということを最終的には確信するでありましょう。

 とはいえ重要なのは、生まれたときから死ぬときまで、すべての行動というのは社会的コンテキストの中で起きているということです。心理学者として、われわれは知能と習得の違いというものの絶対的な区別をするは決してできません。われわれが幼児を評価できるようになるころには、彼らが他者との関係を通して習得したものと彼らの中にもともとあった能力とを区別できないほどに、彼らは社会的環境と関わっているのです。これは回心においても同じことです。ある宗教を受け入れるか、または別の宗教にするかを、完全に自律的に決定するなどということはあり得ません。ランボーが強調しているように、行動というものは、必ず社会的なコンテキストの中で起きるのです。何人かの理論家が推論しているように、自律的な決断という理想は幻想です。

 私が生まれ育った米国南部では、キリスト教を受け入れさせるためのリバイバル運動が勧誘を行っていましたが、これは新宗教運動の中にみられる、いわゆる「愛の爆撃」と変わらないものです。それらは共に、普段は感じないような内に秘められたニーズを呼び覚まし、それを支援し、人格的な交わりの中で解決を与える社会的コンテキストです。広告や宣伝も、宗教団体における勧誘も、そのプロセスは同じです。ただグループの中にはこれをより意図的に使うものと、それほど意図的に使わないものとの違いがあるだけです。意図的に使うということは犯罪ではありません。

 新宗教運動を禁止したり社会的に統制しようとする動きと結びついて、社会的に受け入れられるような宗教性を規定しようとする動きは、よく知られた社会的適合と権力闘争の事例としてとらえることができます。彼らは誤った偽りの理論を持ち出すことによって、自分の縄張りを守ろうとしているのです。宗教的回心のケースをめぐっては、米国の法廷においてはそのような考え方は科学的な理論ではなく、個人の意見であると判断されてきました。 

(1998年5月24日、「新しい世紀と宗教の自由」日本会議において発表)