宗教の自由と民主主義の基礎

テンプル大学名誉教授 フランクリン・リッテール

 

■活発な新興宗教への迫害

 まず日本国憲法について話したいと思います。日本国憲法第9条は「戦争の放棄」(暴力の放棄)ということを政府の方針として述べています。

 日本国憲法第9条「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」。

 私の国を含めた、他の国民のモデルとして取り上げることができるこの非常に賞賛すべき誓約は、現代社会の特性になっている暴力と強制、すなわち、対外的な侵略や国際的戦争を防止することを意図しています。

 偉大な宗教、あるいは預言者は、慈愛と平和を主張してきました。しかしながら、その現実的な見方から、暴力の放棄は理想主義として一掃されてきました。皆さんに対して試験的な質問を投げかけたいと思います。インド国民のことを考えてみましょう。インド国民は、政府が核兵器実験の禁止という国際的協約に反する核兵器を開発することによって、国民がより安定した世界に住むことができるようになったでしょうか。理想主義として一蹴されるよりも、より現実的な選択をしたということができると思います。

 「戦争」ということを考えるときに、いつも内戦、ないしは国際戦争のことを考え、論じがちです。しかしながら、私たちは、意識の奥底にある本能の欲求に従うとき、「ジャングルの原理」(弱肉強食の世界)が今なお生きている他の二つの政策分野があることを忘れがちです。一つは、国内政策の方策としての集団殺害です。専門家によれば、1900年以来、1億5100万人が自らの政府によって標的にされ、殺害されてきたことが指摘されています。これは、同じ期間に起ったすべての国際戦争と内戦とで命を落とした人を合わせた数のおよそ3倍に相当します。

 政府による暴力と強制が依然として継続している他の部門というのは、非常に活発な新興宗教に対する迫害という分野です。

 「集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約(ジェノサイド条約、1948)」が虐殺を禁じており、また国連の「世界人権宣言(1948)」の18条も少数派宗教に対する迫害を禁じているにも関わらず、世界の広範な地域では依然としてジャングルの抑制のない暴力の原理が優勢です。特に不幸なことには、政府の共謀のもとにそうしたことが行なわれているということです。

 ハワイ大学のラモン教授が何冊か本を書き、またこの問題についてたくさんの記事を書いています。対外的に侵略的な政府、独裁主義、そういった国、政府は、内部の少数派に対して弾圧をする性格を持っています。国内で敵と考えるグループに対して弾圧政策をとっていくのです。

 政府の他国に対する侵略的な政策及び国内における少数グループに対する虐殺政策と、少数派の宗教団体(いわゆる新興宗教)に対する迫害政策との間には非常に深い繋がりがあることを、私たちはしばしば見逃しがちです。しかし、そこには密接な繋がりがあるのです。迫害と虐殺の間の繋がりは明白であり、それにともなって健全な公共政策の道徳、倫理の衰退も明かです。

 そして虐殺というのは、近代社会、現代社会における犯罪です。ルワンダ、ブルンジ、チベットで、そしてボスニアで虐殺が起こっています。私の知るすべての人が宗教的信条を越えて、それは悲惨な現実であるということを認めています。200年の歴史を考えるときに、それが現実だというのです。それは、ちょうど洪水などの自然災害と同じように何もすることができないという見方をしています。大虐殺というのは、現代社会の犯罪です。また、それは官僚主義者やテクノクラートの効果的な道具となっております。「バイシクル・マン」ということを話しましたが、一体どういう人が「バイシクル・マン」であるかというと、自分の目の前、上に立つ人には深々と頭を下げます。そして、自分の目下に対しては過酷な扱いをします。そのナチスのユダヤ人虐殺は、そのようなバイシクル・マンの行動と同じです。

■大虐殺への道

 次の千年期における、自由の尊重、人間の尊厳性と誠実さを基調とする、人間関係における最も高い基準というものを考えてみたいと思います。私は今日、法王ヨハネ・パウロ2世ほどそれを体現した人はいないと思います。ある社会が繁栄の極みを過ぎるとき、その口実がいかに抜け目のない打算的なものであったとしても、非常に滑りやすい坂道を転げ落ちて行くことになります。

 まずはじめに、他人に対する寛容があります。自由な男性、および女性の対話を排除した寛容があります。

 それに続いて、軽蔑があります。そして、偏狭さが落し穴で悶え苦しむ蛇のようにもがき苦しみます。時に襲いかかります。

 次に偏見というものが、消すことのできないしみのごとくに社会の組織構造を通じて広がっていきます。

 そして攻撃的言語というのが、ほとんど社会的暴力を含まずに広がり、社会的、公共の討論の場を毒していきます。それは、最終的には虐殺への道を急速に進んでいくことになるのです。

 個人的不道徳は集団的悪の中に埋没していきます。ますます慣習によって差別が行なわれ、次第に法的手段で行なわれるようになります。抑圧的な評価がなされます。

 それから標的を設定します。特にメディアを悪用することによって行なわれます。

 それから孤立化(ゲットー化)です。それは標的にした者の孤立化を図るのです。

 そして軍事的警告があります。攻撃的な戦闘の準備です。「国内の敵」も、外敵が侵略により攻撃されるのと同様に扱われることになります。20世紀における犯罪である集団殺害というのはまた、軍事的、官僚的技巧を投入して行なわれるのです。それから大虐殺が始まるのです。

 もう一度繰り返します。専門家によれば、1900年以来、1億5100万人が自らの政府によって標的にされ、殺害されてきたことを指摘しております。これは、同じ期間に起ったすべての国際戦争と内戦とで命を落とした人を合わせた数のおよそ3倍に当たる人数です。

 集団殺害への転落に注意を払うならば、理論的にも実践的にも、標的とされた宗教的少数派への迫害と、標的とされた宗教的少数派、文化的少数派、あるいは民族的少数派の壊滅とが密接に繋がっていることを知っておくべきです。

 30年前に早期警報システムについて出版しました。潜在的に虐殺的性格をもつグループに対しての警報を発するシステムです。合法的政府がいつ合法性を失っていくようになるのか、それをいち早く発見するのです。それは、非常に活発な新興宗教団体に対する敵意が露骨になり、政治的評価が増大するときに変化が現われてきます。その時に、私たちは赤信号の旗を大きく振り警報を高らかに鳴らさなければならないのです。

 人々の間の平和、良心に対する尊重、自由に対する尊重といったものが民主主義の根幹となっています。これらがすべて一つのユニットとして組み込まれています。

 イングナー・バーグマンというスウェーデンの映画監督がいます。彼はナチの台頭に関する映画を作っています。『大蛇の卵』というタイトルで発表され、アカデミー賞を獲りました。この意味は何かと聞かれた監督は、「大蛇の卵の被膜は非常に薄いので、この被膜を通して既に蛇の形が現われているのです」ということを言ったのです。良心の自由を脅かすような、また、宗教的実践、高潔、品位を脅かすようなものは挑戦を受けなければなりません。蛇のように鎌首を持ち上げたそのときに、まずこれを抑制しなければならないということであります。

(1998年5月24日、「新しい世紀と宗教の自由」日本会議において発表)

注)世界人権宣言第18条 

 すべての者は、思想、良心及び宗教の自由についての権利を有する。この権利には、宗教又は信念を変更する自由、並びに、単独で又は他の者と共同して及び公に又は私的に、教導,行事、礼拝及び儀式によってその宗教又は信念を表明する自由を含む。