教育改革で何が問われているか
―教師の条件を考える―

玉川大学学術研究所研究員 長谷川 義縁

 

■教育問題は教師の問題に帰着

 本日の標題は、「教育改革で何が問われているか」であるが、皆様一人ひとりがそれぞれにこの問いに対しての意見や考えがあるかと思う。私どもの年代の人間は、今の学校教育の状況を見たときに、このままでいいとはとても考えられない。では、どのような見通しや方向性を持って、これから子どもたちを教育していけばいいのか。いささか手前みそになるが、私の体験を紹介しつつ、それらを探ってみたい。

 今から15年前(1983年、昭和58年)の2月15日、私が当時勤務していた中学校の隣の町田市立忠生中学校で、教師が生徒を殺傷するというショッキングな事件が起きた。ニュースを聞いた時、「生徒が先生を刺した」のではないかと思ったが、直ちに学校長をたずねてみて間違いなく「教師が生徒を刺した」のであった。図らずも、私はこの事件後の同年4月、同中学校に校長として赴任したのである。正直なところ退職までの3年間は大過なく勤めたい気持ちもあり、この人事には素直に承諾できなかった。しかしいろいろと考え抜いた結果、この人事を受け入れ、3年間勤めることとなった。

 今振り返ってみると、忠生中学校に赴任するまでの私の「教育観」は間違っていたと反省している。私は師範学校を出て、戦後直ちに郷里で教師を勤めたが、更に勉強したい思いから上京し、再び大学で学び、卒業後に東京都の教師となった。30数年間の自分の教育に対する情熱と子どもへの愛情は自負するものがあったが、荒れる子どもたちを目の前にしたときに、それが本物ではなかったことに気づくと同時に、これまでの自分を厳しく省みる機会を与えてくれた。そしてこうまで荒廃するに至った学校を見て、「教育の問題は、教師の問題に帰着する」ことを改めて痛感した。

■めちゃくちゃに荒れた学校

 最初赴任して一番驚いたことは、学校がめちゃめちゃに荒れているということであった。あれほど荒れた学校は、私にとって初めてのことであった。例えば、4階の3年生男子トイレは、見事にぶち壊されて何もなく、便器だけが床に残されている状態であった。視聴覚室の配線ケーブルはずたずたに切断され、廊下の天井板には穴が空き、床のタイルは剥がされ、窓ガラスは破られっぱなしというすさまじい状況であった。校長室のドアには鉄板が張られていた。なぜこうなるまで放っておいたのか。打つ手はなかったのか。大勢の教師たちが皆、なぜ放っておいたのか。これが最初の率直な私の感想であった。

 新学期が始まり、子どもたちは登校してきた。私は校門で「おはよう」と迎えたのだが、どの子どもたちも「おまえは何者だ。どこから来たんだ」と言わんばかりの態度と冷たい表情。全校生1200人の顔が、みんなこわばって見えた。特にツッパリグループは、横柄な態度で「おまえ、校長かよ。俺たちを取り締まりに来たんだろう。ぶっ殺せ!」と言い、不良女子生徒のグループは「この人どこのおじさん?」と鼻にかけた笑いで軽蔑視していた。

 私がかつて岡山で教師をやっていたころは、「教師とは聖職であり、先生はトイレにも行かない人間」と思われるほどに尊敬された存在であった。それからわずか30年後の忠生中学校での生徒との出会いが、これほどまでに変わっているとは想像もしなかったし、一縷の望みも瞬時にして崩れ去った。子どもたちの心の荒廃がこれほどひどいとは、驚きでしかなかった。「モノの壊れは金銭で直せるが、心の壊れたのは金銭では直せない。それを直せるのは、教育しかない。この生徒たちを元どおりにする人間の心を持たねばならない」と自分に言い聞かせ、「やるしかない」と決意したのであった。しかし心の奥底では、泣いていたのである。

■教師の「真心」

 1ヶ月以上、流動食以外何も口に入らなかった。本物の力というのは、権力や暴力などではなく、精神力(真心)なのだとつくづく感じた。この精神力が今の我々(子ども)に欠けているのではないか。これからの教育に最も必要なことの基本は精神力であり、本当の誠実さ、真心だけが荒れる心を鎮め、世の中も変えることができるのではあるまいか。そう信ずるしかなかった。

 学校再建に向けて何から取り組むべきか。一番最初にやることで勝負が決まるだけに、真剣にならざるを得なかった。そこでまず、事件が起きた2月15日から春休みまでに先生方は何をしたのか、職員会議録を見せてもらうことにした。初めはお互いの欠点を挙げることばかりが目立ったが、そのうちにある一人の教師から、「一番悪いのは私だ」という発言が出てきた。それは「私が一番最初に暴力を振るったから、子どもたちも暴力を使うようになった」という真剣な反省だ。この教師の発言がきっかけとなり、次々に生徒指導のまずさについて、各自が厳しい反省を加えている。そして終わりのころの職員会議では、一人ずつ全員が自己批判をやった。この記録から、私は「教師がこの覚悟なら、学校再建はできる」と思った。

 事件当初のころの教師のやり取りは、まさに私がこれまでの学校で経験してきた状態と同じ姿勢であった。ところが自分の過ちを素直に批判するという姿勢には、学ぶものがあり、その教師の真心が見えていた。私はこのことに大きく教えられた。「自分にはこういう心が足りなかった」と発言する教師の言葉一つ一つが、私の心を強く打ったのである。

 もう一つそう思わせられた出来事があった。それは忠生中学校に赴任する以前のことである。2月15日の事件以降、マスコミの報道陣が忠生中学校の生徒にマイクを向けても、彼らは口を固くしてなかなか話さない。そんな中で、ある新聞社が生徒のコメントをとり、翌日(2月16日)の新聞に掲載した。私はその子どもの記事を読んで胸を刺される思いがした。それは「忠生中学の先生をどう思うか」という質問に対して、生徒は「一日中さぼっても、誰も何も言わないよ。『どこへ行ってた?』『気分悪くて保健室に』ですんじゃうんだから…」。先生の多くを評して、「生徒におどおどしている」とも答えているものだった。

 これは学校の指導力の甘さをはっきりと示している。少しぐらい服装が乱れていようが、子どもがうそをついていようが、「そうか、それならまあ仕方がない」と甘くみて、一つ許し、二つ許しして、歯止めが効かなくなり、そのうち全部の子どもがダラダラしはじめ、やがて荒れ出す。こうした傾向が昭和55〜56年ごろから目立ち、校内暴力化した学校は多い。この生徒のコメントはまさに、「教師の連帯感」を問うものであり、学校の指導体制の崩壊を暴露したものであった。

 さらにもう一人の子どものコメントもあって、それには「ごく普通の生徒の声」として、「忠生中学の先生は汚ないんだ。服装や髪の問題を本気で直させないといけないのは、ツッパっている連中なのに、やれスカートが長いの、靴がどうのなど、まじめな子どもをつかまえて叱るくせに、ツッパリ生徒には肩をたたいて『このごろ調子はどうだ?』とゴマをすっている」というものであった。教師の多くは、荒れる生徒たちを避け、スクラムを組んで非行に立ち向かう姿勢が現実になかったことを示し、それを冷ややかに見詰めていた多くの生徒たちへの対応のなさが事件を大きくしたのであろう。これらの生徒のコメントは私の愚かな心の中を見抜いているのではないかと恥ずかしい思いがした。

「忠生中学校にいくのはいやだ。ツッパっている子どもに注意するのは避けたい」という思い。その上、見て見ぬふりをしながら、「クラスには非行化した子どもがいたら早めに指導しなさい」、「あなたの教え方はまずいのではないか」と、自分は手を下さないで口やかましく言うのが私のこれまでの姿勢ではなかったか。虚勢だけの管理職ほど醜いものはない。このような「恥じらい」を胸に抱いて、忠生中学校に赴任した私であった。だから忠生中学校の生徒の態度や言葉の一つ一つが、私の心を強く鞭打ったのである。

■学校、家庭、地域が一枚岩に

 このようにして、職員会議録や生徒のコメントなどを参考にして、具体的なことから全員が力を一つにしてやれることを考えた。教師の中には、強い者もいれば、弱い人もいる。女性もいれば、男性もいる。そうした能力の違いを超えて、理屈や能書きを言わずに、目標に向かって全員が一枚岩になって、全力投球してみようということが、私の狙いであった。教師は危機には一つになれるかもしれないが、学校再建には強力な一枚岩が必要で、これに加えなければならないのは、家庭の父母、地域の人たちである。学校、家庭、地域が一枚岩になってこそ本物である。

 まず最初に取り組むものとして、この三者が一体となって取り組む具体的な活動を考えた。「職員会議での自己批判を見れば、このことは可能である。責任は私が取る。先生方に災難が起こるようなことはさせない。それだけに一枚岩になることは絶対に必要だ」と、教師に、保護者に、地域の人々に訴え続け、協力を求めて一つにまとまっていった。そして非行撲滅の目標に向かって、最初の手段として、「服装をきちんとさせること」、これが全員一致の取り組みとなった。学校、家庭、地域が同じ歩調で指導できるのは、服装をきちんとさせることだということになったのである。

 しかし、私には一つの注文があった。これまでも服装を正すことに取り組んできたはずなのに、一向に改められていないのはなぜかという疑問である。そこで私は条件を出した。「4〜5月の2ヶ月に限定して取り組み、その間に服装を正すことが達成できなかったら、服装のことはこれ以上言及しない」。次に、「この期間に成功しなかったときには、職員全員が子どもの前で謝る。『今後、一切服装のことは言わないから、好きな格好をして登校してよい』と生徒に言い渡すのだ」、と。教師の中には反対の声もあったが、これまでの弱腰ではやれるものもやれないと気づいて、この取り組みが始まった。「責任は、校長が取る」と言ったことが、先生方を勇気付けたようであった。

 学校だけではなく、父母も地域も、全部応援してくれる。これが強力な味方になった。まず教師が先頭に立つ。教師が決意を示さないで、父母や地域の人たちの協力が得られるものではない。教師がやる気がないのに、誰が応援してくれると言うのか。このように、これからの教育には、三位一体の「支え合う」「結束」ということが重要だと思う。例えば、学校週5日制の導入に伴う対応にしても、学校だけがスリムになって、何もかも家庭だけ、地域だけに任せるのではなく、学校という施設を積極的に活用して、子どもたちに何をさせるか、これまで以上に学校が中心になって計画を練る必要がある。

 服装を正すことの大変さは、本当に取り組まないと分からない。(父母を含めて)生徒たちが決めた基準・校則に、1200人がきちっと則るようになるのに、20日間かかった。やればできるということである。4月6日に取り組みを開始し、4月27日には、最後まで粘りぬいていたツッパリの代表が校長室にやってきた。彼ら自ら床屋に行って、髪をきちんとしてきたのであった。

 この20日間の汗と涙の物語は、短い時間にお話できるものではない。特にこの間のマスコミの攻撃には、ほとほと手を焼いた。毎日5〜6人のマスコミ記者が来る。とうとう一人の記者が、校長室に乗り込んできて「いくらなんでも、服装が悪いからといって教室に入れないのは学習権の剥奪だ」と言う。彼らに対して私は、「あなたがたは、そうとられているが、私は学習権を認めている。学校は勉強をするところだから、勉強するにふさわしいきちんとした服装をしてもらわないと、他の生徒にしめしがつかない。学習したいなら、それにふさわしい服装で来ることだ」と答えた。

 私たちは、単に服装が悪いと言って帰すだけではなく、子どもと教師がその子どもの家まで行き、服装を直させて、学校に連れてくるように指導した。この繰り返しであった。絶対に教室に入れないということではなく、家庭に連れて行き、服装を直させてから授業を受けさせるという徹底した指導である。

 それから1週間ぐらいして同じ記者が来てこう言った。「毎日、校門に立って今日まで見てきた。先生方がいつ根をあげるかと思っていたが、先生たちは毅然とした態度で指導している。2ヶ月前にそのような態度で子どもを指導していれば、おそらく忠生中学事件は起こらなかったであろう」と。教師が毅然とした態度で指導できるか否かは、校長が毅然とした態度、気迫をもって教師を指導しているかにかかっていることを、マスコミの記者は感じていたのである。

 一方、父母には服装の全体指導は直接できないので、校門に立って実態を見てもらい、挨拶をするという「一声運動」を起こしてもらった。生徒たちは、教師に対してだけでなく、保護者に対してもさんざん憎まれ口を吐いた。保護者の方も、学校が荒れ、器物が壊される現実を目のあたりにし、教師とも親とも思わない狂暴な態度、人間に対する言葉遣いのできない生徒の実態を直接見たのであった。

■進歩主義教育に誤り

 このように荒廃するに至った背景には、いろいろな原因があった。まず家庭のしつけの欠如である。それに加えて、学校が「自由、自主性」を口にしながら、子どもの放縦を許した結果だと見ることができる。米国でも、1980年頃からレーガン政権時代に、デューイの流れをくんだ「進歩主義教育理念」に誤りがあったとの認識に至り、本質主義的な基本理念に回帰しようという流れがある。

 ところが戦後の日本は、このデューイの進歩主義教育を金科玉条のごとくに取り入れてきた。私たち戦中派は、忠君愛国の国体観念を基本原理とした教育を受け、敗戦と同時に自由・平等を掲げて教壇に立ち、あまり悩まずして転身してしまったところに問題があるのではないか。何が正しく、何がだめなのかの慎重な思索と判断を失ってはいなかったか顧みる必要がある。

 20日間で正した服装の問題は、目的ではなく、非行をなくすための一つの手段であって、非行や暴力・いじめのない学校をつくることが目的である。学習意欲を高める授業の工夫、挨拶をし、きまりを守る秩序ある生活づくりなどを、次々と段階的に進めて、半年後には学校は平常に復したのである。我々の取り組みで、目的と手段を取り違えることが往々にしてある。服装を取り締まることが目的となったり、遅刻の取り締まりが目的に置かれていることが多いことに注意する必要がある。

 生徒が新聞にコメントしていたように、「教師が本気で正すべきツッパリ生徒を避けて、そうでない普通の生徒に口うるさく言う」という教師自身の態度を変えることが重要であった。こうした教師の態度を変えない限り、生徒との信頼関係は取り戻せないと考えたことが成功の鍵であった。服装の20日間の取り組みで、全員の服装を正すことができたとき、1200人の生徒は拍手で教師を迎え入れたのである。生徒の心を動かすのは、理屈ではない。生徒に「やれ!」と言う前に、まず教師が自分でやってみせないといけない。今荒れている学校にこのような教師が少ないのではないか。会議を重ね理屈は言うが、生徒と共に汗し涙を流す教師がいない。見て見ぬふりでだらだらやってきたことが、わずか20日間でできたという教師は、実践の喜びと同時に、「やっぱり先生は凄い!」との生徒からのエールは、生徒の信頼を取り戻すことができたという実感を本心から喜んだことだと思う。

 これで第一段階は成功したと思っているが、もちろん取りこぼしがたくさんあったことも事実である。

 この年の2学期以降は、学校で平常に授業ができる状態になり、他の学校はまだ荒れているのに、忠生中学校は平静を取り戻した。また3学期は、次年度の人事や校務の分担を決める時期である。職員組合の幹部は、既得権だと言って、主任を決定することや校務分担について要求してきたが、私は校長の権限を侵すものだとして一切受け付けなかった。東京都の教員組合は、共産党系が強く、校内人事を職場組合員の主導権でもって決めている小・中・高校も多いのである。

■行動を伴った内容が必要

 昨年(1997年)暮に、「校長が変われば学校が変わる」というドラマがあった。このドラマに私が直接関係はないけれども、そのタイトルには若干の関わりがある。それは私が忠生中学校に赴任して取り組んだ内容をもって、東京都教育委員会や文部省が「校長が変われば学校が変わる」ということを当時言い出したのであった。そして私が退職した翌年、東京都の校長の任用試験に「『校長が変われば学校が変わる』と言われているが、これについてあなたの考えを述べよ」という問題が出たのである。この論文試験に合格した久保田先生が、羽田空港の近くにある、いわゆる底辺校である羽田高校に校長として赴任し、苦労の末単位制の学校に切り替えて、立派な学校を作り上げた。久保田校長は、上記の校長任用試験の時に書いた論文をもとに学校を建て直したのである。これをドラマ化したのが、前述のテレビドラマであった。

 これからの学校を考えるときに、一番大事なことは「心の教育」とか「生きる力」といった語呂合わせの文章ではなくて、具体的、実践的で、行動性を伴った内容が必要だ。物をはっきり言わないということは、要するに責任を取らないということである。「自主性」「自由」といった抽象的言葉で問題が解決されるわけではない。

 教育には、多数決もない。その代わり、校長あるいは教師一人ひとりが、「本当の教育とはこれだ」という信念を持たないといけない。戦前の教育には、国民の守るべき徳目が示され、それを貫く国体の基本理念が筋金入りとして入っていた。この筋金を失った戦後の民主主義、あるいは民主政治、自由で平等を基軸とした教育は、無責任と放縦と不正だらけの社会人を作ってしまったのではないか。新しい国や、新しい教育を作っていくのに際して、何が背骨にならなければいけないかということを、なぜしっかりと考えなかったのかと反省している。だらだらとやってきた結果がまさに今の教育の危機を招いている。

 かつては、「先生、ありがとうございました」「すみませんでした」というように、敬語も反省も心からの言葉であった。しかし今はどうか?「うるせえなー、おまえの言っていることがやかましいんだよ」というように、教師の授業を平気で罵る。そして新聞やテレビの報道は、生徒に味方する中味ばかりで、学校や教師がいつでもたたかれる。都市では、子どもをいじめから守ってくれる私立学校に人気があり、中高一貫教育で大学に進める学校には金に糸目をつけないという家庭が多くなっている現状である。「子どもがいじめられ、殴られても、公立学校の先生は子どもを守ってくれない。だからそのような学校には行かせたくない」という親たちが多くなってしまっている。このような実情を臨教審の委員の方々は、どれだけ改善されたのか。かゆいところに手が届かないところがいっぱいある。

 一方、現場の先生はもっと声を大にして、そうした実情をなぜ訴えないのか。これは日本人の非常にまずい側面だと思う。それは「心の貧しさ」にも通じると思われる。戦後教育の中でそのような心の貧しい子どもを教育してしまった我々に責任がある。それが今親となり、その子どもが児童や生徒、学生である。我々が生半可なことしか教えなかった結果、巡り合わせとして今の子どもに接している。ムカついたり、キレたり、暴れたりする子どもたちを我々が責めるということは、天に吐いたつばが今自分の額に戻ってきているということではないか。この反省なくして、新しい教育を論ずる資格はないと思う。

■実践することで授業に活気を

 教育改革で今問われていることの第一は、学校が閉塞的だということ。教師は給与がもらえるから学校に行っているのであって、「非常に学校が楽しく意欲的にやるぞ」と意気込んで学校に勤めている教師は、非常に少ないと思う。平等意識の強いこの閉塞状態からいかにして抜け出るか。今後の大きな課題だ。

 それはまったくやる気のない子どもと同様で、まず教師自ら体を多く動かし、内面を活性化する精神力を養うことから始めるべきだ。自分で課題を見つけ、学外の研修に出かけて、化石のようになった固い頭脳を柔軟にし、思い切った転換を図ることが必要だ。

 私は常々子どもたちに「やる気、勇気、根気の3本の木(気)を育てよ。木(気)には水をやらないと枯れてしまう。水とは何だ。汗だ。汗を流せ。体験をせよ」と呼びかけてきた。戦後の50年間は理屈を言うことばかり教育してきた。つまり「座学」だけであって、「実学」は教えてこなかった。だからこれからの授業は、実践、体験、行動することで、授業に活気を取り戻さなければいけない。

 ところが行動ばかりやっていると必ず暗記力は落ちる。それが「学力低下」だと言われる。しかし本当の基礎学力とは、記憶や暗記力ではなく、創造力である。基礎学力を伸ばすには、自然や社会の体験を豊かにすることである。日本の教育は従来知識の暗記に偏重してきた。創造力をつくる思考力、判断力、表現力は劣っていた。これらを高めるためには、練習・訓練が必要だ。知行合一説の言う実践を重視し、まず行から始めて、知に入ることを重視したい。空覚えや一夜漬けが、創造力の役には立っていない。

 漢字を覚えるにしても、算数にしても練習である。繰り返し、繰り返しやることが肝要だ。ところが今は国語にしても理屈ばかりで練習がない。創造力の原点は、能動的な思考力である。自力で自発的に考えを進めながら、その成果をまとめ、他人にアピールできることが基本になる。創造力は各自がもともともっているものである。自分が生きるために、自分の生きる方法を必ず自分で考えるようになっている。なぜそれを生かす教育をしないのか。何でもかんでも与えてしまい、あれもこれも食えでは、創造力など伸びてはこない。何にもない無人島に一人ぼっちで放り出せば、必ず自分が生きるための工夫をするようになる。これが動物の持つ本能でもある。そういうものを磨き上げる必要がある。

 学習指導要領に従って、受験のためにはこれくらいの知識を詰め込まないとだめだといった教師の心配が、実は生徒をだめにしていると気づかなければいけない。子どもたちを真っ裸にして、基礎学力である創造力を徹底的につけることを一斉にやれば、親は大拍手をするに違いない。子どもたちは理屈で動かそうとするから動かないのだ。今の現状から抜け出していくためには、これくらいのことをやらないといけない。

 一つ実践例を紹介しよう。

「おまえ校長か、ぶっ殺すぞ」と暴言を吐いたツッパリの生徒たちは、私がリヤカーを引いて掃除をしていたとき、教室から「お!用務員だ」と顔を出してからかった。それでもその姿をよそ目に見ながら、黙々と掃除をしていると、ある日一人のツッパリがやってきて、「先生、そんなにごみ拾いおもしろいの?」と聞いてきた。それで「ああ、おもしろいよ。こんなおもしろいものはない。やってみないか」と言うと、「いやだよー。そんなの」と答える。それで「そうだろうな。おまえみたいに誇り高き男はだめだろう。先生なんか、埃だらけだから。だからまず、自分の心からきれいにしなければならないから、掃除をしているのだ」と言った。 

 ところが、それから2〜3日すると、そのツッパリが増えてきた。そして「先生、手伝おう」「そうか、それはありがたいな」。そのうちツッパリ仲間で校庭の草取りをやるようになった。「もう先生、(雑草が)ないからいいじゃない。止めようよ」と言う。「まだいっぱいある。学校の周りの道路清掃をしなければならない」「えー、そんなことやるの」。そしてリヤカー2台、スコップなども増やし、学校周辺の道路清掃をやった。すると周りの商店街のおばさんたちが出てきて、「まあー、えらい。あんたがこんないいことするの」と言ってきた。これらのツッパリの連中は、商店街に行っては、ラーメンを無銭飲食したりしていた連中だったが、彼らが先生と一緒になってリヤカーを引きながら道路清掃をしたことで、おばさんに誉められてうれしくなり、「もっとやってもいい」と言い出した。

 教室にいても勉強しない連中ばかりだが、ほんの少しだが働くことを覚えたのであった。その結果、「俺は、高校に行かなくてもいいや」そういう気持ちになった生徒もいた。つまり彼等は、みんなが認めてくれる仕事をきちんとすれば、誉められるということを悟ったのである。今まで自分のやることで人から誉められることがない彼等は、「自分はだめ人間だ。家に帰っても、近所でもだめで、いつも白い目で見られている」と思っていたのに、初めて誉められることによって、考えが少しずつ変わっていったのである。こんな些細なことでも考えは変わるものなのである。

■子どもに自分を発見させること

 もう一つは、いじめの問題。暴力の陰には必ず3倍くらいいじめがある。なんとしてもこれをなくさないといけない。これは最初の年の2学期から3学期の私の大きな課題であった。そこで教師たちに次のような提案をした。

 1学期は、子どもたちの悪いところを見つけて、つぶすことをやってきた。燃える火に水をかけて消すことを一生懸命やった結果、2学期はかなり落ち着いてきた。そこで2学期はこれまでとは逆のことをやってみようと考えた。つまり「子どもには必ずどこかいいところがあるのだから、いいところを一つ見つけて誉めてやろうじゃないか」ということである。しかも大勢の前で、小さなことでもいいから、誉めることにしようということにした。しかる時は、こっそりと厳しくやる。その代わり、少しでもいいことがあったらみんなの前で誉めよう。こういう趣旨であった。

 ところが教師の中には、「校長の言っていることは分かりますが、そう簡単にできるわけはないですよ。昨日と今日とでやり方をひっくり返すなんて」と言う者もいた。それで「発想の転換というのは、昨日と今日がひっくり返るんだ。ただ誉めただけでは誉め殺しになるから、本当に誉める価値のある者に対しては校長賞を出そう」と説得した。反対意見もあって、2学期中には決定できず、3学期になってようやく決定できた。全員の納得の上で実行に移すことになった。

 私は朝礼で、校長賞について説明した。「校長先生の頭のてっぺんから足の先まで、真ん中から2つに割ると、右の方は善いことをする心があるが、左の方は悪の心がある。善い心と悪い心が一つになっているのだ。今忠生中学校は日本一悪い学校と言われているが、なぜかというと、左の持っている悪い心ばかり外へ出して、1200人分の悪いものが日本中に広がったのだ。今日限り悪い心を出さないように努力して、善い心を出すようにしよう。そうすれば1200人分の善いことができる。この努力をした人には、校長賞をやろう」と。今まで校長の朝礼なんか、聞きもしなかった子どもでさえも、一生懸命聞いていた。

 終わって校長室に戻ると、もう生徒が5〜6人来ていた。「先生、校長賞、何をくれる?」「あ、まだ考えていなかったな」「なんだ、つまんないな」「そうか、じゃあ考えておこう」「できるだけいいものがいいな」「そうだな。じゃあ、先生方とも相談して決めよう」

 そういうことがあってから、学校内を歩いていると、今まで知らん顔して挨拶もろくにしなかった子どもたちが、「校長先生、おはようございます」とやりだした。掃除の時は、「校長が来たぞ!」と顔を見ると、すぐ箒を動かし始める。遠ざかっていくと、友達同士で「僕は校長賞がもらえるぞ」とはしゃいでいる。子どもというのは、このように単純で純粋な存在なのである。

 この話を職員会議でしたら、ある若い教師が、「校長、これは第一号が勝負だね」と言った。「そうだ。そのとおりだ。第一号が勝負だ」。どういうことをすればいいとか、悪いとか、そういうことは一切説明していない。「ただ善い心を外に出そう、みんながいいことを認めてくれるのなら、校長賞を出そう」という話をしただけである。子どもたちの中には、挨拶したら、掃除をしたら校長賞をくれると思って、目先だけで動く者もいる。

 それから1ヶ月後に第一号の校長賞を出した。その第一号の子どもの推薦をしたのは、講師の先生であった。専任の教師ではなく、音楽の講師の先生がおそるおそる私のところにやってきて、「校長賞はこの子がふさわしいと思うのですが」と言ってきたのであった。その子は、生徒会の副会長で、野球部ではピッチャーを務めている。しかしそれが理由ではない。その子は、毎日クラスで誰か欠席者があると、その子に代わって当番をやってあげる。日直も掃除当番もやるし、欠席者が男であれ女であれ区別なくやる。更にその日の授業の大事なところを全部自分の小遣いでコピーして、その日のうちに欠席者の家に届ける。これが音楽の先生の推薦理由であった。

 その後、私はその子の担任を呼んで、「この事実を知っているか」と聞くと、「知りません」と言う返事。出身の小学校に問い合わせてみると、小学校5年生からそのような行いを続けているという。それでこの子を校長賞第一号にしようと決めた。職員会議でも満場一致で承認された。

 そして朝礼の時間に、全校生徒全職員の前で、私がこの子の行状と校長賞の由来をまとめて話した。1200人の生徒は、真剣に聞き、「あのような人でないと、校長賞はもらえないのだ」と心から納得していた。

 これが教育ではないか。つまり「子どもに自分を発見させること」である。校長の前で挨拶したり、掃除をしてへつらうのは本物ではないということを、子ども自身に発見させること。しかしそれまでの過程においては、へつらい、まねがあってもいい。だが最後には、自分が本物をつかむ。

 なぜそういう教育をやらないのか。親がやってみせる、これによって子どもは動く。感化である。教師は徳をもって生徒を感化させるのである。机に座っていて理屈で教育できるのではない。現代の教師は、免許状さえあれば人格なんてどうでもいい制度的教師である。だから味のない人間が多くなっている。単に偏差値が高く、採用試験に合格しただけの教師をつくることを、なぜ中教審は改めないのであろうか。これからの教育は、一人ひとりの人格ある教師が自信を持って感化させる教育をしないといけない。最後にもう一度、「あらゆる教育の問題は、教師の問題に帰着する」と声を大にして主張したい。

「教育改革は、自己改革である」。つまり教師の意識革命から始まるのである。

(1998年1月13日発表)