フェミニズムと家族

作家、前ポルトガル国会議員 パトリシア・ランサ

 

 「母権の転覆は女性の世界史的な敗北であった。男は家内でも牛耳をとった。女は、威厳の地位からおとされ、隷属させられ、男の欲情の奴隷、単なる子供をうむ道具となった。...最初の分業は、子をうむについて男女の分業である。...歴史にあらわれる最初の階級対立は一夫一婦制における男女の敵対の発展と一致し、また最初の階級抑圧は男性による女性の抑圧と一致する」。

(フリードリッヒ・エンゲルス著『家族、私有財産および国家の起源』国民文庫より)

「女性に関する問題」の歴史は、当然ながら、かつて19世紀に知られていたように本質的には家族の歴史である。上述の引用は実際にどこからジェンダー・フェミニズムが始まったかを明らかにするためのものである。エンゲルスの著作『家族、私有財産および国家の起源』(1884)は家庭における女性の位置の歴史ではなく、家族に対する攻撃であった。結局エンゲルスが知っていたように、家族の歴史は女性の問題に連結している。

この論文の目的は、エンゲルスの観点が我々の時代をどれほど深刻なまでに急進的なフェミニズム思考へと導いてしまったかについてばかりではなく、彼の見解の虚偽性を示すことである。彼の考え方は、家族のみならず、社会的安定と男女間の健全な関係に対する総合的攻撃なのである。「新しい波運動(new wave)」(注1)や「ジェンダー・フェミニズム」の基本的な考え方、および家族に対するその影響について考察したい。。

 初めに、「ジェンダー・フェミニズム」と「エクイティー・フェミニズム」を区別しておくことが重要である。私が支持する後者は、他の多くの社会史分野に見られるように、女性解放運動を人間精神の自由化と個人の主体性の段階的発達の一過程であり、それは現在も進行中であると見ている。

例を挙げれば、黒人の奴隷制度からその廃止と完全な公民権獲得までの動き、労働の尊厳性の認知と労働組合や農民組織の発展、代表制民主主義の出現と拡大、民族的・宗教的平等のための差別反対運動などである。このように女性解放は継続する社会化の一過程と考えられ、以下の序列で人間の発達に有機的に連結している。即ち、知識、科学、技術、工業化、民主主義の順である。こうした知識に基づく発展過程は、経済・政治構造の進化と密接な相互作用の中で進行し、特に正義と自由の概念に関連する深い倫理・道徳的含みを持つ。それと同様に女性解放運動は、将来における家族の変容の仕方に対して、深い影響を持っている。

フェミニズムに対するこのような見解は、マルクス主義的歴史決定論や、また歴史は主に階級又は集団の闘争によって決定されるという考えに影響された分析を否定する。もちろん、闘争そのものは確かに過去にも現在にも存在するし、そのことを否定するものでもない。カール・ポパーが説いたように、歴史――とりわけ社会史――は、人間の知識の発展とそれがもたらす驚くべき結果の歴史として見られるのである。もし社会が存在し続け、更に繁栄して、知識の発展に必要な自由な時間をうみ出そうとするなら、歴史の初期段階においてはある社会制度が不可避的に必要であったようである。これらの諸制度のうち消滅したものもあった。残った制度のうち、特に家族制度はいまだに我々と共にあり、時と場所によって家族のあり方は異なるが、家族制度に完全に取って代わりそうなものはどこにも見当たらない。

 典型的な例として、奴隷制度について考えてみる。今日奴隷制度は忌まわしいものと考えられているが、我々は全ての文明がいずれかの時代に奴隷制度に関わっていたという事実を認識しなければならない。また第三世界に対して思い入れをもつ人々だけが、祖先が奴隷制度で果たした役割について人類の一部に罪悪感を負わせようと試みるのである。古代ギリシアでは、一般的に奴隷になることは誰にでも降りかかりかねない最大の不運であると受け止められていた。奴隷制度は戦争の必然的な結果であった。つまり、自由人はいつか奴隷にされる可能性があり、奴隷にされている者は自由になる可能性があったのである。

 アリストテレスのような思想家は、奴隷制度は道徳的に弁護されるものではないが、アテネのような文明化した生活は奴隷無しでは不可能であり、単なる必要悪であると信じていた。奴隷制度がもはや必要とされなくなって初めて道徳的な観点が取り入れられ、その廃止を支持することが可能になった。価値相対主義者が好んで語るように、道徳的な判断はその前後関係を考慮に入れて成されなければならない。奴隷制度が当然とされる社会においては、奴隷所有者や奴隷商人を道徳的に非難するのは無意味なことである。しかし奴隷制度を否定した社会や世界で、その慣習を非難することは大きな意味を持つ。19世紀のアメリカ奴隷制度廃止主義者がその例である。そこには技術的進歩の副産物として、経済的観点から奴隷制度が不必要かつ望ましくないという道徳的発達があったのである。

 女性問題と家族の歴史は、上述したのと同様の観点で見ると、より明確化してくる。古代文明人が奴隷制度を不要で望ましくないとするだけの技術的に変化した世界を予想できなかったように、男性による女性の保護・従属に依存せずに存続できる社会を19世紀まで誰も予想することができなかった。古代ギリシア人は一個人が奴隷になったり自由人になったりする境遇を確かに想像することができたのである。なぜなら彼らは奴隷制度を本来的なものではないが必要なものと考え、そして個人に関する限り、それは個人責任の結果と考えていたからである。

 ここに女性に関する問題との決定的な差がある。女性の位置は必要とされているだけでなく、本来的に従属的なものと考えられていた。そしてもし女がいつも従属的な立場に置かれているならば、社会(男性も女性も)は実際に女性があらゆる面で劣っているという見方をしていたのである。即ち、肉体的に劣っているから知力や創造力が劣っている、と推定するのはその第一歩である。もしほとんどの女性が、全生涯を主に子供の世話に費やし、また法的な地位や社会習慣においても子供とそれ程変わらなければ、女性が子供じみていると考えられてきたのも理解できる。

 今日、女性の従属を必要とする自然な状況は、見る影もないほどに変化してしまった。よかれあしかれ性交渉はもはや生殖と必然的に結びつかない。労働条件や関係の変化により、以前は男性に制限されていた数々の仕事にも女性が従事できるようになっている。市場経済の拡大――労働の需要と消費者の需要――により、女性は家から外へ出るようになった。同様な機会と訓練を与えられれば、肉体的な強さに関係しないほとんどの分野で、女性は男性と同じくらい有能であることをより進歩した科学知識と経験的立証が示した。その結果、女性は完全な市民権を主張し勝ち取った。現代経済が変化を要求するのと同様に、正義も変化を必要とした。しかし、ちょうどヨーロッパとアメリカの奴隷制度廃止運動がその非難の的となっていたワスプ(アングロサクソン系新教徒の白人)自身によって最初に始められたのと同じく、このプロセスが前世紀に始まった時に女性解放を最初に支持したのは男性だったという事実をジェンダー・フェミニストはいつも忘れているのである。

 人間解放――奴隷、農民、労働者、植民地の人々、女性の解放――の様々な側面を何らかの歴史的あるいは経済的決定論に帰したり、またそれらが葛藤なくもたらされたと主張したりするつもりはない。もちろん変化にはそれに対する抵抗がある。知識や解放を勝ち取るためには闘いが必要である。道徳的発達への道のりを導くのはいつも少数派である。そしてそれ故に世界のどこであれ、女性が現在自由だとすれば彼女たちは祖母、曾祖母、そしてAphra Behn、ウルスタンクラフト(Mary Wollstonecraft)、また女性解放運動の全ての開拓者に敬意を払うべきであり、実際に彼女たちはそうしているのである。

 残念ながら過去数十年間にわたり、運動の威厳を保つために女性知識人達の間で解放と知識の両方の前進を危機にさらす、常軌を逸した思想分野が現れた。それは理性と家族を共に脅かす危険な風潮であり、論戦される必要がある。

■ジェンダー・フェミニズムとマルクス主義

全ての生物種は、その生存に有利な戦略を採用する。それ故、想像上の幻想世界ではなく実際の歴史を背景にして見る時、家族と人間の文化が繁栄するためには、女性が家に引きこもるのは必要な状況であったように見える。このような女性の引きこもりは、社会階層の高いレベルほど強調される傾向がある。生態学的な隠喩を使うなら、女性は実際のところ「保護された種」であり、そしてこの保護は経済的な依存の中で必然的に与えられたのである。社会の最下層は別として、女性の生活は一般的に男性の生活より極めて危険が少なく安全なものだった。暖かい家庭を守るために戦争へ行かなければならなかったのは男性である。戦士、航海者、冒険家は男性であり、それは必然的にそうだったのである。名誉と栄光の崇拝は男らしさを刺激し、臆病は女性的な弱さと見なされた。

このような状況の中では、ひとつの目的に向かって専念しなければならない政治や芸術などの社会生活が男性に独占されていたのは、何ら驚くことではない。また男性と女性が求めた自己や異性のイメージが、社会の生存に必要な機能をより強化するように発達したのも驚くべきことでない。

ジェンダー・フェミニストの理論は、資本主義と労働者階級の役割に関するマルクス理論の亜流である。というのは、その理論は毛沢東主義思想の影響を受け、後に歴史の原動力としての「植民地革命」を含めることになった。これらの概念は、資本主義をシステムではなくプロセスとして理解することができなかったという点に、その知的根拠を置いている。そのプロセスとしての資本主義については、実際のところマルクスよりアダム・スミスによってより詳しく説明されている。マルクス主義が非科学的かつ循環論法的な「閉鎖系」であるとのK.ポパーによる性格付けは、同じ説得力をもってフェミニズムにも適用されるだろう。

マルクス主義(そしてフロイト主義も)のように、ジェンダー・フェミニズムもその虚偽性が立証される余地のない方法で理論を展開している。その理論を批判すればするほど、反対者たちは逆にその理論の真実性を証明していると言われるのである。即ち、反マルクス主義者は救いがたいほど「ブルジョア」的で、階級志向の世界観を単に主張していることになってしまう。また反フロイト主義者は彼らの抑圧された思考が暴露されることに対して、潜在意識的に抵抗していると言われる。そしてジェンダー・フェミニズムの反対者は、どれほど深く男性に支配された、いわゆる男性中心の社会で男女の役割を受け入れさせられてきたかを示すことになる。それゆえ全ての批判は階級意識、あるいは自己主義や間違った意識によって絶望的なまでにダメにされ、無視されるのである。実際、ジェンダー・フェミニズムの反対者は、度々「女嫌いの女」として非難されるのである。

急進的なフェミニストによって用いられるこれに関連した戦略は、マルクス主義者の先駆者のように先ず文化的相対主義を訴えて道徳論議で宣戦布告をし、その次に道徳的な憤慨の対象となる敵を見つけることによって、道徳に関する話題の独占を取り返すのである。これはMichael Polanyiが共産主義を指して「目的指向型の活動家の連結(dynamo-objective coupling)」と説明した、有名な方法の例である。

 道徳的な情熱を満足させるという理由で受け入れられた科学的主張は、一層その情熱を興奮させ、従って問題の科学的主張に誇張された説得力を賦与する――これが延々と続くのである。その科学的な部分に対するいかなる批判も背後の道徳的な情熱によって反駁され、その一方で道徳的反論は科学的発見の無情な裁断を引き合いに出して冷たく一蹴される。この二つの各構成要素、力学的なものと客観的なものが攻撃されると交替でそれぞれへの注意を互いに逸らすのである。

『家族、私有財産および国家の起源』の中でエンゲルスは、マルクス主義における家族と両性の役割の理論を明細に説いている。この本はマルクス主義の古典作品の一つとなり、全ての新党員の必読書となるはずであった。しかし共産主義者が権力を持つところ全てで、他のマルクス主義理論と同様、その理論の示唆するところは実際容易に忘れ去られたのだった。しかしながら、エンゲルスの観点には注目に値する。明らかにジェンダー・フェミニズムの根本がどこにあるかを示しているからである。

 イロクォイ族の習慣を研究したアメリカの考古学者ルイス・モーガンの、信用には値しない研究結果に基づき、エンゲルスは家族についての偉大な絶対的真理を発見したと信じた。19世紀のアメリカ・インディアンの当時の観察に基づき、ある普遍的な母系制社会を「原始共産主義」の田園詩的段階にある、と一般化した際、彼はほとんど科学的な厳密さを持たなかったと言わざるを得ない。エンゲルスはこの取るに足りない事実から母系社会から家父長制社会への普遍的変遷を推断したのである。アイスキュロスのOresteiaが祝ったと言われているのでその変化は古代ギリシャの大昔に認められた、という主張はマルクス主義ではよくあることである。

■女性と歴史

 ジェンダー・フェミニストの理解とは異なるが、女性問題は実際のところ資本主義の発展と深く関わっている。なぜなら資本主義とは、富の生産過程以外の何物でもなく、たとえ初期的な形態であったとしても、それは文明の発生とともに存在していたからである。多かれ少なかれ、資本主義は政治構造に保証された自由の程度に比例して繁栄してきた。市民や組織が自由度が高ければ高いほど、資本主義がより多くの富を生み出してきたことを歴史が証明している。また自由の雰囲気の中でより多くの富が創造されれば、人間の幸福もより拡大する傾向にあった。知識、技術、芸術も同様であった。我々が知る通り、人間が楽しみを持たないところには文化がない。そして資本主義が高度に発展し、いくつかの場所で多数の人々の生活水準が我々が過去二世紀、とりわけ第二次大戦後に体験したレベルに向上するまで、男女を問わず大多数の人間は理性や魂に属することがらを手に入れることができなかった。国家が弱かったり存在しなかったり、また社会が無政府的で不安が蔓延している場所では、人々は強い存在、戦士や将軍に依存する他なく、それは封建的な依存をもたらす結果となった。

 もしジェンダー・フェミニズムが、このような主張を無視せず、本来人類史に言及しなければ理解できない女性解放問題にそれを応用をしていたら、これら全ての事柄は単調で退屈な歴史的平凡の物語を構成したことだろう。そこで我々はさらに深く追求することにする。

 次の三つの発展が起こるまで、女性はおおむね男性に依存する以外に可能性がなかった。第一に、産児制限の知識と手段、第二に生産を家外に移したことによる経済の拡大、第三に女性がそれまで男性の領域だった農業、工業、軍務に従事できるようにした技術の進歩である。

 これらが全て資本主義の発展に密接に関連しているのは明らかである。文明の夜明けにおいて、一般的に女性が男性の餌食にされないように、母とその子供はその権利をある程度主張できる男性が保護と世話を保証してくることを必要とした。これが家族の起こりであって、女性性を支配しようとする男性の理不尽な決定ではなかった。――もちろんこれは巧妙で搾取的な女性が常に存在したのと同じく、支配的で残酷な男性が常に存在したことを否定するものではない。

 人間のある集団(この場合、女性性)の全てが他の集団(男性性)に保護と世話のために依存する時、依存する集団が依存される集団に適切に扱われるかどうかは、主にそれぞれの気質と道徳の質、そしてその文化の道徳的雰囲気が問題となる。それ故、我々が歴史上および今日存在する家族の伝統的なモデルを見る時に、人間状態の典型的な付帯現象を発見するのである。即ち、虐待された妻と妻の尻に敷かれた夫。見捨てられて無一文になった女性と離婚手当の人質となった男性。メッサリナとドンファン。圧制的な父親とリア王の年長の娘達。そして、これはごくわずかの例に過ぎない。

しかしながら我々の関心は、およそ均等に付与されている両性の悪徳や美徳ではなく、自由および権利と機会の平等の問題にある。女性は生理的・経済的自立の可能性が確立されるまで、自由になることも、男性と平等の権利を享受することもできなかった。女性が新しい地位を確立したために、今日発生している問題は、このような全てのことが家族にどんな影響をもたらすかである。しかし、まずジェンダー・フェミニズムの議論の中味をほどき、その詳細について扱ってみよう。

家族に対してあからさまな態度で敵対する好戦的なフェミニストは、シモン・ド・ボーヴォワールと共に、「女性は女として生まれたのではない。社会がそうしているのだ」と主張する。このいい加減な言葉の遊びは、フーコー、デリラや彼らの弟子によって提起された脱構築(deconstructionist)理論でその極みに達し、死も社会的構成概念であるなどという、常軌を逸した主張にまでつながるのである。現実にはこの社会的構成概念の議論は、氏か育ちかの議論で先天的な資質を否定するのと同じ人物たちから来ているのである。それに対し、二つのことがはっきりと宣言されなければならない。まず第一に、男性あるいは女性であることは社会が決めたのではなく、哺乳類、鳥類、爬虫類、魚類、昆虫に共通な性的な生殖方法と関係する、生命という生物学的事実である。ボーヴォワールは、機能する羽を持つ鳥が飛ぶのは社会がそのようにしたのであると事なかれ主義的に言った。第二に、どんなに様々な社会が女性の役割を異なって見つめようとも、女性は決して社会の外部にいるのではない。最も決定力があると言えなくても、男性の役割と同様、女性自身が自らの役割を定義する重要な部分となっている。結局、どこでも子供を最初に教育し、形作るのは女性である。

“herstory(彼女の物語history=his storyに対して)”というグロテスクな新造語の発明者はもちろんのこと、女性は歴史学者に無視されていると痛烈に訴えるジェンダー・フェミニストは、歴史を無視することでその復讐しようとしているらしい。そこで彼らの基本的な前提を指摘し、その後彼らへの反論に目を向けることにする。

■ジェンダー・フェミニズムの「信仰信条」

 第一に、長年にわたる女性の公の生活からの排除と、妻あるいは母としての家庭的な仕事への束縛は権利の剥奪を構成する要素となり、またそれは男性によって差別と暴力の過程を通して、抵抗する女性犠牲者に押しつけられたものだと考えている。

 第二に、女性の家父権への従属と法の下での二次的な地位は、抑圧と搾取という男性的傾向の法的承認を表わしていると言う。

 第三に、女性の婚前の純潔と夫への貞節を主張することは、男性性によって創り出され、男性性のために存在するタブーであったと言う。そしてそれは後継者の父系を確実にするために、女性はその生殖能力を厳しい管理下におくべき生殖奴隷であると考える、男性による女性観の一部であると言う。

 ジェンダー・フェミニストはこの最初の三つを支える効果を持つ、さらに二つの「信仰信条」を加えている。

 第四に、女性が従属的な役割を受け入れることを確実にするために、男性支配の社会はおよそ尽きることのない数多くの策略を作り上げ、それにより劣った地位を受け入れさせるための女性の「性の役割」を教え込んだと言う。

 第五に、これはおそらく全ての女性知識人にとって最も有害であると思われるが、いわゆる女性が歴史から排斥されていると言う主張である。

 ジェンダー・フェミニストは、先入観にとらわれていない全ての人には明らかなほどの数々の基本的事柄に気付く必要がある。女性の従属が持つ自然さは、単に明らかなだけではない。それは動かぬ事実であった。即ち、それは人工的介入が可能になるまで、太古から変わることのなかった生物学的事実から来ているのである。そして今日でもこのような介入が未だ不可能な場所が世界各地にある。議論する双方にこれほど深く、ほとんど本能的なまでの感情を引き起こさせるのは、特に彼女たちに生来押し付けられたひどい待遇に対して感ずる深い不公平感というわけではなく、おそらくこの自然さそのものであろう。そしてここには、問題とされるいくつかの事実がある。

 第一に、いくつかの動物の種は単婚であり、他の種は不特定の相手と関係をもつ。ただ人間の女性だけが常に性的な求めに応じることができ、また人間の男性は常に「発情期」のような状態にある。なぜこのようになったのか、また1万年前までの長いホモサピエンス以前の歴史の中で、人類の様々な分派生物の間でどのような家族のあり方が普遍的であったのか、今のところ我々は知らない。ただ、家族に関する理論は憶測に終始するものを基礎とすることはできない。

 第二に、人間の言語、知性、個性、また長い目で見れば社会自体の発達を可能にしたのは、その限りなく長い幼児期と小児期である。無力な幼い赤ん坊は今日(我々がどのように安全な母乳の代替物を与えるかを知っている時代)以上に、過去において母親の存在をより必要とした。しばしば何人もの子供の世話をしていた母親たちは戦争や狩りをするどころか、ほとんど自分自身を守ることさえできない立場にあった。彼女たちは他の男や野生動物から自分や子供を守ってくれる男性を必要とした。マルクス主義の創始者たちが言及した「分業」は、生物学的のみならず社会的機能の分業としてより適切に説明され、多くの動物種で見られる。男性が持つ、より重くがっしりした体の作りと、しばしば見せる女性と子供への保護行動を、何かあやしげな性の役割の思想教化のせいにすることはできない。

 第三に、未発達の技術を持つ産業革命前の経済の中で、出産と育児を両立して女が携わることのできた唯一の生産的な仕事は、多少の例外を除いて、家と周りの畑の中の仕事であった。そして熟練した技による生産が何千年も残ってきたのは、正にその場所、家庭であった。

 第四に、栄光に結びつく狩りや戦争などの活動は危険であり、優れた肉体的強さと特別な技術と性格の発達を必要とした。母親たちを戦いに送ったり遠く離れて放浪することを許したのは種族的自殺を決心した集団だけであろう。

 このように、社会のみならず種の生き残りのためには男性が豪胆と武勇の礼賛の中で育てられることが不可欠であるべきである。それは男性たち自身も同様であるが、女性たちが息子たちの中に養いたいと願う資質である。

 第五に、婚前の貞節と結婚相手への忠節というタブーが実際普遍的でなかったとしたら、女性、特に若い女性は略奪と無責任な男性から守られなかったであろう。

 第六に、これはしばしば忘れられている点だが、世界が人口過剰に直面したのは今世紀に入ってからであり、そしてマルサスがこの可能性への注意を喚起したのは19世紀の初めになってからのことだった。それまで人類は度々その生存そのものが深刻な脅威にさらされていた。フェミニストたちは中世後期の黒死病によりヨーロッパで人口の少なくとも4分の1が絶滅したのを聞いたことがないのだろうか? 肉体労働が生産の唯一の手段であったので、殺人だけでなく中絶を含む全ての嬰児殺しの形態に対してタブー視されていたのは驚くべき事ではない。事実、これらのタブーが最も発達したのは正にキリスト教西洋社会においてであった。これに関連して触れるとすれば、生殖の可能性に関係しないあらゆる性的行為に対するタブーも、特に神への奉仕に生涯を捧げなくても全ての人々の義務と考えられていたのである。

 しかし、フェミニストの議論の誤りを見つけるために我々は本当に原始、古代、または中世の社会にまでさかのぼる必要があるのだろうか? 我々は最悪の時代と言わるヴィクトリア朝時代以前の、例えばジェーン・オースティンの時代の女性の運命をただ熟視すればよいのである。18世紀の日記作者は革製品について述べているが、生ゴムはまだブラジルで発見されておらず、コンドームや他の避妊具は一般的に手に入らなかった。健康、多産で、性的に活発な女性は1年に1度妊娠することが多かった――もし出産時に流産や、その他の医学が目覚しい進歩を遂げるまで人々を悩ませた合併症などで死ななければの話だが。

ここでしばらく時代を越えて、既成のパターンから「脱落」した、ある社会階層の少女の運命を想像してみよう。もし彼女の両親が未婚のまま妊娠した娘を受け入れたとすると、彼らは将来の義理の息子どころか、余分に養なければならない口を抱えることになる。もし両親が娘を拒絶すれば、彼女は体を売る以外に何ができるだろう? 従って家族が婚外妊娠を全くの災難と考え、婚前の貞節を唯一可能な防衛手段と考えるのは至って自然なことである。つまり、この故にタブーは両性の若者に繰り返し教えられたのであり、明白な理由からその適用の仕方は両性間で同じではなかったのである。圧倒的多数の女性は、依存的だったのでそのタブーを疑問視する立場ではなかった。女性が家庭内の仕事以外に雇われる可能性はほとんどなかった。

 実際のところ、フェミニストの思想から著しく欠けているのは、近代経済が出現するまで男女とも国外での雇用の可能性はごく少数の貴重なもので、それ故経済的単位としての家族への依存はかなり絶対的なものだったという意識である。男性性が得ることができた仕事は荒っぽく、汚く、危険なことも多かった。それは決まって長時間労働、最低水準の賃金を意味した。ホッブズが指摘したように、多くの人々にとって人生は厄介で残酷、かつ短いものだった。未婚の女性の純潔が重荷というより、防衛手段と考えられていたのは驚くべきことだろうか? また修道院での生活が敵意のある世界からの避難場所として開かれ、偶然にもそこが女性が知的活動に携れる唯一の場所であったことも、驚くべきことだろうか?

■性、病気と社会

 しかしジェンダー・フェミニストが無視する更にもうひとつの事実がある。彼女たちが最初に自分の体に対する権利、性的な快楽の権利を大きく話題にしてオーガズムの仕組みにまつわる不可解な議論にふけり始めた時、そして女性のそのような喜びを否定したと主張し男性に非難を浴びせ始めた時、その過激派たちはある事実について忘れてしまったか全く学んだことがないかのように見える。即ち、何故あらゆる時代の多数の女性たちが、欲するのと同じくらい、あるいはそれ以上にセックスを恐れ、ある特定された条件の下でのみ、つまり結婚し男性が妻と子供に責任を持つという仮定の下でのみそれに合意したかについてである。

 極めて頻繁に起こる死と、度重なる苦痛は出産と出産後の様々な病気に関連していた。実際のところ病気に対する世界共通の恐怖と強い清教徒主義の観念は、ヨーロッパでの梅毒のすぐ後に続いた。ヨーロッパ北部では特に顕著で、梅毒の影響を弱める抵抗力と考えられるマラリアが一般的に存在しなかったために、この病気は南部よりもひどく発生した。従ってこの医学的事実は清教徒の価値観の地理的な広がりを説明しているようにも見える。上流社会の正統派的信念に見られるような、欲求不満でひねくれた聖職者の悪意ある発明でも、またフェミニストが主張する所有欲の強い男性の思いつきでもなく、両性の婚前の純潔と結婚後の貞節は文字通り、当時治療不可能でエイズのように恐ろしい末路をたどっていた病気から免れる唯一の保証であった。これら全ての要因は、女性が自分の体に対して持つ最も貴重な権利は「ノー」と言う権利であることを彼女たちに納得させるのに十分なものだった。(この先祖伝来の教訓は好戦的なフェミニストのごく最近の強迫観念に興味深い痕跡がある。セクシュアル・ハラスメントである。もし女性が自分自身を守るべき立場にいると考えられた時代が一度でもあったならば、セクシュアル・ハラスメントに関する主張は時代錯誤的である。)

 たとえ一連の誤った政治的・経済的考え方が広く一般に受け入れられたことの責任が、マルクス主義にあったとしても、フロイト理論は、現代の家庭の中でもその中心概念が語られており、その結果として、性と家族生活に関してかなりの思想上の混乱をもたらしたと言える。

 自己修養が性的抑圧から、さらには病的な状態へとつながるという考え方を無批判に受け入れることは、寛容な土壌を作りあげ、そこから強く快楽主義的な社会精神を生む結果となった。そして、今までにないほど物質的に豊かで、性的事柄に寛大なった現代社会の心理学的困窮をよく知る人は皆、実際に快楽主義と寛容さが必ず幸福へつながるとは信じることができない。しかし、多くの人々が伝統的価値観に賛成して、何か主張しようとすることさえ妨ぐからといって、これらがそれ自体善であるというのは誤った考えである。

しかしながら、わずかな黙考をすれば以下のことを認識することができる。もし性的衝動が最も強い本能のひとつなら(フロイト自身が性衝動が全ての本能の中で最も強力な衝動だという仮定を、全ての理論の根拠とした)、文明の誕生以来全ての組織化された社会がこの本能を包含し、生存に有利な方向へと導こうとしてきたとしても少しも不思議ではない。「ブルジョア家族」が「退屈なヨーロッパ白人男性」のもうひとつの創造物だと信じる人々のように、ジェンダー・フェミニストは文明生活の最も基本的考え方を無視している。即ち、組織化された社会はそこにルールを必要とするのである。昔は全ての子供が教えられたように、ルール無しでは人生は耐え難いものになる。自然が我々の種に強い性衝動を賦与し、人類が(ほとんどの動物種と異なり)季節に関わらず性的に活発になり易いとすれば、社会が繁栄するためには性的活動をコントロールして女性とその子供を保護する、あるメカニズムが明らかに必要である。

 たとえどのような構造上の形式的差異が存在しようとも、いかなる場所でもその進化したメカニズムこそが「家族」であった。多婚性であろうと単婚性であろうと、家族制度はあらゆる場所にその構成員の行動、家族内または他の家族に対する権利と義務に関する明確なルールを確立した。考古学者たちは大冊を捧げて血縁関係のパターンと、異なる社会で進化した近親相姦を防ぐため戦略を記述した。そして、もしタブーがなければ他の動物と同じように人間も実行し、その結果家族生活に破滅的な影響をもたらす、ある特定の性行動の形に対してのタブーの他に、一体何が近親相姦のタブーとなり得るだろうか?

■ジェンダー・フェミニズムと家族の崩壊

 これら全てはあまりにも明白なため、一目見ただけでは人がどのようにジェンダー・フェミニズムに騙されるのか理解し難い。しかしながら、他の解放運動と同じく女性解放運動も、軽率な支持者や感情的な態度で現実を歪曲する活動家たちを引きつけるのであり、それはまた女性自身に対してのみならず社会全体への脅威となっている。

 現在女性解放運動は、法制度上からみても、また相当程度の実態面から見ても、大半の西洋社会において事実上完了した。残されたのは女性が自分自身を新しい可能性に順応させ、それを利用することのみである。それでは何故このような時にジェンダー・フェミニストは今までになく耳触りになり、不平を訴え、かつ影響力を持つようになったのか? その原因は、ある面において女性の平等権獲得運動の大成功によって生じた社会崩壊にあるといえる。

 歴史的観点から見るとその過程は速いもので、技術発達の速度と同じくらいであった。またそれは社会のさまざまな領域に一様ではない影響を与え、一般的により高い教育を受けた人々の間で最も広がり、逆に社会階級のより低い部分では広がらなかった。

 職場や大学内でどんな議論や衝突が起ころうと、本当の闘いの場は家庭の中と家族の中心部分にあった。過半数とは言えないまでも、かなりの数の男性たちが未だに父母から永らく伝えられ、メディアによって勢いづけられてきた昔ながらの固定観念の影響を受けている。

 今日多くの男性は、相手の女性と基本的にかなり異なる熱望を持って結婚にいたる。最初の素晴らしく、なりふり構わぬ恍惚が終わると、夫婦は現代生活のあらゆるストレスと緊張にさらされる。そして両者は失望する傾向がある――それは今、単に今世紀初期の世代に典型的なロマンスの消失による失望ではない。それは収入獲得競争および家庭でのレジャーや他の恩典獲得において、配偶者がライバルまたは競争相手となったことを知った失望である。あるいは夫が家庭に肉の糧をもたらすために不可欠な存在ではないと知った時の、自己像に対するショックであり、その結果その失望はしばしば無責任さの増大をもたらす。結婚は緊張状態により破綻にいたるが、男女間の闘いはそこで終わらない。それは継続する。即ち、結婚生活を送った家の所有権、子供の養育権、離婚の慰謝料などをめぐる闘いである。マスメディアが絶えず矛盾し、全く一貫性のない情報を送り続ける社会において、頭が混乱せずにいるのは困難である。ジェンダー・フェミニズムの要求が世に喧伝された一方で、我々はメディア、特に広告産業が、継続して若さや美しさ、家庭生活の特質を賛美し、両性の伝統的な関係を最高に価値あるものとしていることに気付く。メディアは昔から確立されている性の対象、あるいは母親像としての女性のイメージを助長し続けている。物質的、性的な成功は全ての人の目標であり、そのどちらにおいても失敗することは最悪の罪とされる。

 結婚生活に失敗したり、ずっと未婚の母であったあまりにも多くの女性たちは、職業や独りでの育児、男性からの経済的援助の喪失によるストレスに対処するのが困難だと感じる。結果として生ずるライフスタイルとしては、やむをえず独身生活を送ることになる。このような女性たちは苦々しい気持ちになり、敵対感情を扇動するジェンダー・フェミニストの恰好の餌食となる。このような状況の中で彼女たちを悩ます原因についてもっともらしく説明してくれる理論こそジェンダー・フェミニストの理論だと分かって、怒り、不愉快になり、物分かりが悪くなった女性少数派が存在するというのは果して不思議だろうか?彼女たちの立場と反応は、マルクス主義理論を真に受け、極端な場合テロリズムの熱烈な信者となる失業中の労働者や不満を抱く知識人に似ている。

 人々が不幸で自暴自棄になる時、歴史が十分に示したように、彼らは極度に単純化された主義、特に感情を吐き出す手段を与えるものを信じ込む傾向がある。そしてジェンダー・フェミニズムの主張が男性に対しても影響を与えたことを忘れてはならない。否定的に反応した男たちもいたが、それはジェンダー・フェミニストの言い分を勢いづける結果となった。 「男性優越主義者のブタ野郎」 (male chauvinist pig)という言葉は「金目当ての(gold-digging)女」と同様、いまだに多用される。しかしこれらは全体の中では極端な一部の例に属する。

 もっと一般的な例は、ジェンダー・フェミニストが正常な女性解放の過程においてだけでなく、多くの分野で成功したがゆえに、多くの男性たちのアイデンティティーと自己像が動揺し、不安になったことである。そしてこれはよき結婚とよき父権にとって決して健全な処方箋とはなり得ない。

このように、ジェンダー・フェミニズムは家族を虫食む数多くの要素のひとつであるので、特に危険である。左翼思想には祈る人物を直ちに救い難い反動主義者として決めつけた、三者関係が常に存在した。神、国、家族の神性さについて語ることは、場所によっては嘲りの高笑いを引き起こすのに十分である。後に独自の新しい神を作り上げたフランス革命のジャコバン主義者とちょうど1世紀後のレーニンの好戦的無神論主義者は宗教に宣戦布告した。19世紀と20世紀初めの共産主義者は神だけでなく愛国意識にも宣戦布告し、1917年以降にソヴィエト帝国主義をカムフラージュするための旗じるしとして国際主義をもちいた。

 しかしながら、家族に対してあえて公然と宣戦布告した大きな運動はひとつもない。権力を握るところではどこでも共産主義者は家族賛成の政策を支持していることを自慢し、ソヴィエト連邦は沢山の子を産んだ母親のチャンピオンに賞を与えた。彼らは伝統的な基準から見ても申し分のないレーニンの家族に関する言葉を引用した。即ち、自由恋愛を熱烈に信じる人の相手を特定しない性行為を道の水溜まりの水を飲むことにたとえた、彼の有名なセックスの「コップの水理論」である。また輝かしい社会主義者の未来を信じられず、子供を持つことを拒んだ共産主義の夫婦たちに向けられた彼の非難の言葉である。

 実際問題、公共政策(指導者が個人的に何をしようとも)として、共産主義政権はヨーロッパやアメリカの人々にさえ厳格すぎると思わせるような、性に関する基準を一般的に取り入れた。ソヴィエト連邦における同性愛者に対する社会全般的迫害とフィデル・カストロのエイズ患者の隔離はその適例である。

しかしながらジェンダー・フェミニズムはこの問題に果敢に立ち向かう。それでも教義上であったとしても実際に家族への攻撃を開始したのは共産主義者であり、1世紀後にジェンダー・フェミニストを鼓舞したのも共産主義者であった。このような考え方の継続的悪影響がなかったなら、我々はマルクスが19世紀半ばの不十分な情報を根拠ととしていたことを知ってマルクスに対して寛大だったように、このようなフェミニズムの誤った見方に対しても寛大でいられただろう。しかし、エンゲルスが近代的な動物行動学の研究成果を利用することができず、またマルクスが資本主義が産み出す科学技術の驚異と富を夢にも思わなかったとすれば、我々の時代の理論家はそのような言い訳をすることができない。そして、ジェンダー・フェミニズムの基本的前提には、エンゲルスが自分とマルクスが発見したと信じていた内容との驚くべほどの類似点がある。

■家族はジェンダー・フェミニズムの

 攻撃から生き残れるか?

 ジェンダー・フェミニズムに対する議論は整理され再確認される必要がある。なぜなら、女性解放の過程は概ね完了されたが(少なくとも悪く言われていた西洋社会では)、現在のフェミニストの闘争性の毒々しさは家族と自由な社会の未来にとって極めて重大な問題を提起している。

 社会学者は家族について話し合う時、その数多くの機能をあげる。性、生殖、経済、社会化、そして病人と老人の世話などの機能である。しかしながら、最近の工業化社会における家族の全ての現実的評価は、これらの機能が今や家族の外で自由に果たされていることを示している。家族の中で継続している唯一の経済的機能は消費であり、生産ではない。社会化と教育さえも、家族外の機関にますます(その機能が)取って変わられており、中には、実際家族が存在し続けるために社会事業と懸命に努力しなければならない家族すら存在している。さらに、現在の多くの社会的病いが、家族の崩壊に直接起因していることを示す、より多くの深刻な研究が見られる。これがひとつの側面である。他方面では、沢山の機能障害を持つ家族と、それが構成員に及ぼしかねない悲惨な影響に関する社会学的、心理学的データがある。事実、現代の小説や映画はフロイト理論の文学界への侵入の犠牲者であるが、それらに親しんでしまうと、家族という制度はなくても何とかなるという結論につながる。従ってジェンダー・フェミニストの痛烈な攻撃は、家族を侮辱することに興味をもつ者たちの攻撃に収束するのである。しかし、もし結婚と家族が即座に崩壊するならば、何がその代わりとなるだろう?また家族は情報革命がもたらそうとしている新しい社会でもまだ必要とされるだろうか?

 これらの問いに答えるために、我々は上述の家族の諸機能が完全であるかもう一度見てみる必要がある。

 最重要ではないとしても、とても重要な機能が忘れられているのが明らかになる。即ち、人間の感情の中で最も重要な愛情の器、養成者としての家族の役割である。子供は健全な家族の中で愛することを学び感情を発達させる。騒然とした世界の中で大人が避難場所とし、慰めや勇気づけを見出すのは愛のある家族の中である。子供が分かち合うこと、自己修養、忠実さ、義務、その他の古風な美徳を学ぶのは、家族という単位の中である。家族の感情的な健全さを通じて外部の社会に肯定的に取り組むことを最初に学ぶというのが、長い間の伝統的理想である。我々は皆、理想がしばしば達成されないことを知っているが、それでも理想は存在していたのである。女性が解放される以前は、家族は父権主義的であったり、権威主義的であったり、時には残酷な組織体であった。しかしながら、もし我々が女性解放運動を文明化の過程の一部として見るなら、それが家族の崩壊ではなく、反対にその向上に貢献したと見るべきである。

 ジェンダー・フェミニズムと違い、エクイティー・フェミニズムは家族に関する事柄の男女の平等な責任を追求する。つまりお互いを高め合い、子供に最善の模範を示す夫と妻の平等な協力関係である。教育された母親がより教育された子供を育てるというのは、以前はジョン・スチュアート・ミルのような女性解放運動の先駆者たちに用いられた女性の平等賛成議論のひとつだった。これは確かに真実であり、シモン・ド・ボーヴォワールを論駁するために支持されるべきである。 彼は、「女性が子育てのために家にとどまるという選択肢を持つべきではないと信じている」とベティー・フリードマンに語った。もし社会がこの選択肢を与えればあまりにも多くの女性が家にとどまることを選ぶので、彼女は社会がそれを許すべきでないと考えた。急進的なフェミニズムのグルとなったこの人物の驚異的な権威主義は、彼女の支持者の民主主義的な信条を大いに明らかにし、未婚の母あるいはレズビアンの両親となった女性は男性よりも権威主義的ではないと言えるのか、という深刻な問題を提起した。

もし家族が消滅し、国家がそれまでの家族の機能を独占して責任を引き受けたなら――ハクスレイの“Brave New World”やオーウェル、その他多くのサイエンス・フィクションで述べられているように――愛情はどこで見出されるというのか? ソヴィエト連邦でさえも、施設で育てられた子供は学習障害や感情障害で苦しむということを児童心理学者が早くから発見している。結果として彼らはボルシェビキ革命初期の反家族的風潮をやめ、家族の中で子供の人格が統合されるように薦めた。これはよく熟練した全ての教師と児童福祉担当者にとって基本的事項である。幼児期における愛情関係の経験、健全な感情の発達、肯定的な男女の模範の欠如こそが、暴力的で破壊的な若者の増加の背後にあるという見方について、実際よい例をあげることができる。しかしながら官僚制度が拡大するという宿命的な傾向を持っていることは疑う余地もなく、EUや北米などの福祉国家では当然市民個人の領域であるべき分野への社会福祉事業機関の蚕食が増加している。

 多くの国で報告された虚偽の児童虐待の発覚に関連する、全く不吉な現象は言及するまでもない。同時に、社会福祉事業の官僚制度が拡大するにつれ、彼らが対処すると主張している病気の救済策ではほとんどよい結果を得ていないようだが、政府の経済学者と国家財政の専門家は西洋国家が現在の規模で福祉予算を継続することは単に不可能だと至る所で騒々しく警告している。EU全土で減少する出生率と着実に高齢化する人口は、福祉国家の全体構造を脅かし、既に多くの場所でそれを減らすための措置が講じられている。

 したがって、我々は多くの矛盾する傾向の中に置かれているようである。家族崩壊と未婚の母の極端な流行。少年犯罪、薬物濫用、社会の混乱の増大。今までにない介入権の拡大を要求する社会福祉事業の官僚制度。福祉分野への政府の過剰予算投資の結果生まれた、巨額の赤字予算と公共部門予算の削減要求。そして最後に、我々はそれ自体が同時に他の困難の原因および結果となる、価値観における深刻な危機に直面している。

 それゆえに家族の崩壊は、西洋社会で全く衰える様子のない普遍的危機の根本部分となっている。性病の再燃、特にエイズの出現は数多くの伝統的価値観が現代に与える知恵についてよく考えるきっかけを与えるかもしれない。それでも我々はフェミニストの圧力団体による家族とその価値観そのものに対しての攻撃が激しくなっているのを目にする。

 フェミニストが家族とその伝統的な機能を支持せずその更なる破壊運動をしている時、彼女たちは西洋社会における様々な社会主義者による諸組織の拡大がもたらそうとする、全体主義の発生を助長しているのである。急進的フェミニストの要求――雇用などの割当て制度、非現実的な性差別とセクシュアル・ハラスメントの基準、施設での子供の世話、未婚の母の奨励――これら全ては、もし実行されれば、計り知れないほどの「乳母国家」の拡大と人生のあらゆる領域での束縛を招くだけであろう。この官僚主義的な悪夢は、ヨーロッパ連邦主義とブリュッセル、ストラスブールにある強力なフェミニストの圧力団体が与える脅威によって、より間近に迫るのである。全体主義を待ち望み、東ヨーロッパの崩壊を嘆く人々は、間違いなくこの方向に攻撃目標を定めている。結局のところ、専制主義や「真の社会主義」への抵抗の中心にあったのは家族だった。おそらくこれはソヴィエトとその同盟国が、エンゲルスによって最初に論じられた急進的なフェミニストの主張を取り上げるのに失敗したからであろう。

 しかしながら90年代のリベラルな左翼権力組織はこの失敗を正すことができたようであり、その成功は自由社会に対する極めて現実的な脅威となっている。

 けれどもリベラルな左翼がジェンダー・フェミニストの耳障りな意見に賛成したわけではない。彼らはジェンダー・フェミニストがどんな味方を持っているかさえ認識していない。この「政治的に正しい」運動の信奉者たちはその表現を誰が思いついたかさえ理解していないようである。ジェンダー・フェミニズムのように、「政治的な正さ」はマルクス主義理論の兵器庫から直接出てきたのである。これは1950年代のアメリカのマルクス主義者雑誌、“Masses and Mainstream”を参照すれば即座に確認できるであろう。リベラルな人々は、「真の社会主義」国家がかつてのように多くの西洋知識人たちを魅了しなくなってから、また特にヨーロッパで共産主義が崩壊する一方で資本主義が物質的な面で富を与えられるようになってから、西洋のマルクス主義者がごまかしに乗りやすい新しい味方を探していることを認識していないようである。彼ら(西洋のマルクス主義者)は実際左翼が人種集団、フェミニスト、「虹の連合(rainbow coalition)」(注2)としても知られる「ゲイ」やレズビアン組織のような「抑圧された少数派」と連携すべきだと、かなり公然と述べている。長い間ブルジョア家庭と、いわゆる中流階級の価値観をけなすことを習慣としていたリベラルな左翼知識人たちは、この点で相変わらずソヴィエト連邦からその偉業を称えつつ帰ってくる騙されやすい同志の旅行者たちのように振る舞っている。

 このような連合体とその内部集団に固有の核分裂性、およびその様々な立場がもたらす不調和は、短い寿命と影響力の乏しさを決定付けるのに十分のようである。市民、教会、政府、裁判所が家族の価値観に対して少なくとも空世辞を言っていた頃からもう何年にもなるだろう。今日の西洋で、我々は「コンドーム文化」として知られる社会に住んでいる。そこではロンドンの英国国教の主教が「姦淫は罪ではなく単なる不親切な行為だ」と宣言する。また多くの西洋国家がホモセクシュアルの結婚と「ホモセクシュアルの親権」を法的に認め、子供のいない夫婦と未婚の母の数が急上昇している。このようなことがほとんど反対されず受け入れられ、ジェンダー・フェミニストとその共鳴者のふざけた行為が寛容な楽しみと、さらには共感さえもって見つめられているのである。

 しかし道徳的堕落の雰囲気に、都市部の荒廃、危険な通り、犯罪率の増加、拡大する麻薬の濫用とそれに続く多くの病気が示すように、社会の目に見える退廃が加わる時、我々は急進的なフェミニストの哲学者、アン・ファーガソンが言う「男性でも女性でもない人間が絡み合ってできた個人」によって、眼前に浮かび上がる、気が重くなるような将来像を決して驚くことができない。

この荒涼としたシナリオの中で、我々は何をもって楽観的になればよいのだろうか?実際、家族の未来には少しでも希望があるのか? 私はあると信じる――ただし、そこにジェンダー・フェミニズムの存在する余地はない。そこに存在するのは――実は家族の未来を信じるための最高の根拠を与える要素となるものであるが――エクイティー・フェミニズムの価値観と昔ながらの家族の価値観の結合である。そしてこれらが人類史の正しい認識や、平等なパートナーシップとしての結婚理想に向かって進化してきた長く困難な闘いと共に、学校で若者に教えられるべき内容なのである。ジェンダー・フェミニズムはそのようなパートナーシップを破壊しようとしてきたのである。

  (1995年8月PWPA世界会議における発表論文)

 

注1new wave :新しい波、ヌーベルバーグ。芸術・文学・政治などにおいて、伝統的な考え方・価値・技法などとの関係を断とうとする運動・傾向・流行。(「ランダムハウス英和大辞典」より)

注2 rainbow coalition 虹の連合。米国の黒人運動指導者Jesse Jackson牧師が提唱した政治・社会運動のスローガン。黒人、ヒスパニック、アジア系、女性、高齢者などの結集を虹にたとえたもの(同上)