道徳教育の宗教的・哲学的基盤

摂南大学教授 渡辺 久義

 

■「精神的衰弱」にある日本

 97年10月下旬、私は大阪で開催されたあるシンポジウムにパネリストの一人として参加しました。その時のテーマは、「日本の精神的衰弱とそこからの脱却」でした。この「精神的衰弱」という表現は、現在の日本の状況を実に的確に表現したものだと思いました。
「精神的衰弱」というのは、「堕落」とは少し違います。「衰弱」は、善悪のけじめが分からなくなっている状態です。ですから方向性も分からず、どちらを向いて生きていけばいいのか分からない、精神そのものが腑抜けになっているという状態です。

 一方、「堕落」は、善悪のけじめは分かってはいるものの、どうしようもなく悪の方向に引き込まれていくという状況です。こちらは方向性ははっきりしています。その意味では、「堕落」の方が「衰弱」より、まだましであると思います。

 歴史の中に、「堕落」を経て、逆に高い精神的境地に至った人物もいます。例えばアウグスチヌス、親鸞です。彼らは、自分はどうしようもない人間であるという自覚から出発して、絶対的なものに向かうという非常に高い境地に立つようになりました。

 このように考えてみると、現代の私たちが置かれている状況は、まさに「衰弱」状態だと思うのです。

 さて、私が97年3月まで勤めていました京都大学の研究室から、近くの中学校の正門が見えます。その正門の所に何年も同じ看板が掲げられていて、今もあります。そこには、「大切に生きよう、一度限りのこの人生」と記されています。

 それともう一つ、私の自宅近くの公園に、次のような看板があります。「しっかりと自分を見つめる強い意志」。

 私は現在の勤務先の大学の学生に、この二つの標語について意見を聞いてみたことがあります。学生たちは、「ピンとこない」「浮いたことを言っている」、あるいは「どうしろと言うんだ」といった反応が大半でした。他の大学でも似たような反応が返ってくると思います。

「大切に生きよう」は中学校に掲げられた標語ですが、確かにここ数年、生命を粗末にする傾向があります。例えば、自殺、暴走、麻薬、性非行など、さまざまな問題があります。この中学校の生徒の中には、大学のキャンパスに入ってきてシンナー遊びをする生徒もいました。ですから、生命を粗末にする傾向に何とか歯止めをかけようとして、このような看板を掲げておられるのでしょう。もちろんその熱意は疑うべくもありません。

 ただ、私が神戸の児童連続殺傷事件の少年のような立場であったとしたら、「一度限りの人生を、なぜ大切に生きなければならないのか、その根拠を言ってほしい」と問いつめるでしょう。というのは、「大切に生きる」根拠も理由もなければ、私はそれに従うつもりはないからです。せいぜい快楽を貪って、お金と体力がなくなった時点で、さっさと自殺してしまうでしょう。このような質問を受けた時、この標語を作った人は、答えられないのではないでしょうか。

■生命は「私のものではない」

 しかし私は、ここには明確な根拠があると考えています。それは、「私の生命はどこまでも私のものだが、同時にそれは私のものではない」からなのです。つまり、私の生命は私のものではありますが、だからといって私は、私の生命を私物化することはできない。そのような根拠があると思います。これは人間として生まれた以上は、そうなのだということです。

 というのは、私は自分自身で、自分の生命を創ったわけではありませんから。私はやはり何者かによって生命を与えられている、つまり「生かされている」わけです。自分で生命を創ったのであれば、勝手に扱ってもいいかもしれません。しかし、それは決してそうではありません。私の生命は私のものではありますが、しかし同時にそれは私のものではない。これは矛盾ではありますが、私はこの矛盾が「人間存在の本質」であろうと思うのです。そのように考えなければ、人間のあり方というものを理解できないと思うのです。

 例えば、哲学者・西田幾多郎は「絶対矛盾の自己同一」ということを言いました。要するに、人間というのは自己矛盾というあり方が、すなわち自分のアイデンティティーなのだという意味だと、私は解釈しています。

 また、やはり西田の言葉に、「私は私自身の底を通じて他である」、あるいは「宗教心というのは、いかなる場合に意識せられるのか。我々が自己の根底に深き自己矛盾を意識した時、我々が自己の自己矛盾的存在たることを自覚した時、我々の自己の存在そのものが問題となるのである」というのがあります。

「大切に生きる」根拠は、どうしても宗教的次元にあると言わざるを得ません。ところが、「宗教」に少しでも関わってくると、「そんなことを口にしてはならない」とタブー視する、おかしな風潮が日本にはあります。「大切に生きる」根拠が宗教的次元に根差していることが分からなければしようがないが、分かっている人であっても、それが言えない。これがわが国の現状ではないでしょうか。これは例えて言えば、飢えている人は救わねばならないが、食物だけは与えてはならないということと同じ愚かな矛盾ではないかと思うのです。

「私」という存在は、私を超えた根源につながっているという意識がなければなりません。そういうものが土台になければ、上記の標語が意味をなさないわけです。

 もう一つの「しっかりと自分を見つめる強い意志」という標語ですが、よく読むと文章がおかしいと思わないでしょうか。「しっかり」という言葉は「見つめる」という動詞にかかっています。では、「しっかり」「見つめる」べき目標である「自分」自身がぐらついていたらどうするのか、と反論したくなります。見つめ方はしっかりしていたとしても、見つめる対象となっている自分がしっかりしていなければどうするのでしょうか。ですから、これにも最初の標語同様、矛盾があるのです。

 この標語が成り立つためには、まずしっかりした「自分」というものが前提となっていなければなりません。その上で、何か誘惑が起こった時にふらふらとそこを離れる自分を戒める。それがこの標語の本質であるはずです。ただ、これでは「自分」というものが何なのかは分かりません。

 このように、この二つの標語はいずれも宗教的次元に足場を置く文化が前提になければなりません。しかし現代社会では、それが抜け落ちてしまっています。学生がこの標語にピンとこないと言うわけは、こうしたところにあるのではないでしょうか。この標語が成り立つための文化的基盤が日本にないのです。

 私は最近、京都大学の学生新聞に「自分探しのすすめ」という題でエッセイを書いています。そこでも書いたのですが、自分をしっかりと見つめるためには、その前提として自分が何かに支えられているという自覚がなければならない。自己完結的に、あるいは自己充足的に生きている人間には、しっかりした自分というものを持つことはできないと思うのです。「自分はどこまでも自分であり、自分のために生きているのだ」という自己完結的な自分であっては、しっかりした自分にはなり得ないと思います。しっかりした自分であるためには、宗教的基盤が不可欠なのです。ところが、宗教というとタブー視されてしまう。これは私たちの文化の大きな矛盾であると思います。その矛盾が、二つの標語がピンとこないということに表れているのです。

■武士道の倫理

 先ほど、私の生命は私のものであって私のものではないと申し上げました。ですから、「私は私の生命を私物化することはできない」という倫理が社会の根底になければなりません。その倫理は、かつての日本においては「武士道」であったと思います。

 ところが戦後教育というものは、まさに「権利」「自己主張」「自由」のみを教えて、「責任」「義務」を教えませんでした。「責任」の概念自体、おかしなものになってしまいました。例えば、何かの組織で不祥事があった時、その長が責任をとって辞任するとか、自殺さえする。あるいは「世論」と違ったことを言うと、「申し訳ありませんでした」と頭を下げる。こうしたことが「責任をとる」ことの意味になってしまいました。

 しかし、より根本的な、「人間としての責任」があるわけです。それを教えてこなかったのが戦後教育ではなかったでしょうか。

 かつての武士道は、まさに「自分の生命は自分のものであって自分のものではない」という意識だったと思います。司馬遼太郎の小説『翔ぶが如く』の中に、宮崎八郎や滔天の父親が子供たちに、幼年時代から徹底して、「おまえたちは、畳の上で死ぬことを恥と思え」と教えたという話が出てきます。私たちの感覚では、「何と野蛮な」と思います。しかしその半面、そういうことを言ってくれる父親が欲しいと思うのではないでしょうか。

 現代の親は子供に対して、「できるだけいい大学に入って、いい会社に就職して、できるだけ安楽な生活をして、死ぬ時はちゃんと畳の上で死ぬんですよ」と教えると思うのです。これは親の愛情としては有り難いのですが、これでは何かむなしさを感じざるを得ません。親が子供に対して、この程度の言葉しか言えない。それは親の責任ということも言えますが、親が子におくる言葉としてそういう言葉しかないような文化そのものに問題があるのではないでしょうか。

 今の学生に、今以上に「自由」や「権利」を与えると言ってやっても、喜ばないでしょう。むしろ「君には責任があるのだよ」と言った方がいいのではないか。青年たちは「責任」を自覚した時に初めて、本当の喜びを感じるのではないでしょうか。人間というのは「責任」を持たされた時に大きな喜びを感じるものです。

「ノブレス・オブリージ(noblesse oblige)」という言葉があります。身分の高さに伴う責任と義務のことです。武士道はまさにこのようなものだったと思います。「ノブレス・オブリージ」の自覚を促さないと、今の青少年はだめになってしまうのではないかと思います。

 武士道のことで付け加えれば、やはり司馬遼太郎の『坂の上の雲』という長編小説があります。これは日清戦争から日露戦争にかけてのことを書いたものですが、この中に乃木希典の話が出てきます。乃木は一時、ヨーロッパに遊学したことがあって、当時のヨーロッパは、ちょうど社会主義が台頭し始めていました。乃木も社会主義についての講釈を受け、「あなたはどう思うか」と聞かれたそうです。それに対して乃木は、「貧富の差をなくすというのは、実に素晴らしい。しかし私は日本の武士道の方が立派だと思う。なぜなら、武士道は自分の生命を捨てて他の人を救う道だからだ」と答えたそうです。こうした精神が、幕末から日露戦争の時代にかけて、日本という国の「エートス(気風)」として存在していたと思うのです。だからこそ日本は一致団結して、あの時代の国難を乗り越えることができたのではないでしょうか。

 また、日本は戦後何もないところから、まずは物質的な豊かさを求めて一致団結してきました。つまり、言わず語らずの中にも「国家目標」があったわけです。ところが、現代はそうした国家目標がなくなった状態です。どうすればよいのか。そこにはやはり、「知徳の目覚め」と言いますか、「自己実現」と言いますか、より大きく目覚める方向を目指すということが根底になければならないでしょう。全ての人の意識の底にあるべき目標です。生命を投げうってでも実現させるべき、高い目標がなければ、これからの日本は国家として立ちいかなくなるのではないでしょうか。ただ自分だけを大事にするというのでは、社会は崩壊する以外にないでしょう。

■生命としての宇宙

 今日のテーマは「宗教的・哲学的な基盤」ですから、私が考えていることを述べたいと思います。

 最も基本的な問題は「意識改革」だと思います。例えば、「宇宙をどうとらえるか」ということは非常に重要な問題です。私たちは今まで何となく、「この宇宙は機械である」と考えてきました。ニュートン、デカルト以来、このような考え方が支配的でした。

 私は、こうした考え方は反省すべきであると思っています。宗教は、宇宙は機械ではなく、「生命」であるとして、「生命としての宇宙」と捉えます。私はこれを、宗教に任せるのではなく、私たちの日常の考え方の中に、これが入ってこなければならないと思います。

 生命というのは、目的を持った存在です。宇宙の進化ということをよく考えてみるなら、私は進化の考え方そのものから人生の目的が出てくると思います。つまり、進化というのは、普通は体の構造や機能が発達したり、精巧になっていくという外面的な変化のことをさしてそう言います。しかし私は、進化というのは「心が目覚めていく過程」ではないかと思うのです。それに伴って、あるいはそれを実現させるために、体が複雑化し、機能が高度化していくのであって、根本は「心が目覚めていく」ということなのです。

 例えば、地球上に恐竜しかいなかった時代があります。大きな図体の恐竜が捉え、生きていた宇宙は、(恐竜にとって)非常に小さいものでした。たぶん彼らは、食物のこと、あるいは交尾をする相手のことぐらいしか考えないのですから。恐竜が捉えていた、あるいは生きていた宇宙は、非常に小さく、暗く、狭く、低いものだったでしょう。

 一方、人間が捉えている宇宙は、もっと大きく、明るく、高いものです。というのは、人間は言葉を持っていますし、科学、宗教、社会制度なども持っています。ですから、人間が生きている宇宙は「広がった」のです。つまり、進化の過程というのは、「心がより大きく目覚めていく過程である」と言えるわけです。

「仏陀(ブッダ)」という言葉は、「心が目覚めた人」という意味です。ですから、宇宙の方向が、より大きく心が目覚めていく方向を指しているのだとすれば、仏陀を目指すのが宇宙の方向であるといえます。つまりその方向は、一人ひとりの人間の生きる方向でもあるわけです。

 私たちの人生の方向は、そこから出てくるのではないかと思います。宇宙がより高く、より広く、より明るい方向を目指しているのであれば、私たち一人ひとりも、より高く、より広く、より明るい方向を目指すのが、私たちの生きるべき方向ではないでしょうか。それは「自己中心性から離れる」方向でもあります。

 恐竜の生き方というのは、やはり自己中心的だと思います。食べ物のこと、交尾の相手のこと、そして相手を倒すことだけを考える。恐竜が絶滅した(絶滅させられた)ということは、この宇宙には恐竜は必要なかったということなのではないでしょうか。人間を創る過程として必要だっただけであって、永久的に残す必要はなかったから絶滅した(させられた)と考えていいと思うのです。

■使命と目標を持って生まれた人間

 このように考えてきますと、人間の生きる方向というのは、こうしたところから自然と明らかになってくるのではないでしょうか。つまり、より心が目覚めた方向に向かう。ということは、自己中心性から少しでも離れた方向を目指して生きるということです。つまり、私たちは偶然この世に生まれたのではなく、使命と目標を持って生まれてきたと解釈しなければならない。使命と目標というのは、神という言葉を使えば、少しでも神に近い方向を目指すということです。それが進化の方向であるとすれば、私たち一人ひとりも当然その方向をめざして生きるべきでしょう。

 あらゆる宗教は、「自己中心性から離れよ」と教えています。仏教が教える6種の煩悩、「貪・瞋・痴・慢・疑・見」は、いずれも自己中心性を表すものです。「貪」は、物欲、性欲、食欲など自分だけの欲望を貪って満足を得ること。「瞋」は、怒りや妬み、恨みです。「痴」は愚かさですが、言い換えれば「自分のことしか見えていない」ということになります。「慢」は、慢心、傲慢、思い上がりです。「疑」は、自分の勝手な判断で仏法を疑うことです。「見」は、偏見、邪見という意味だそうです。つまり、こういう世界から抜け出せということなのです。

 自分を中心とした世界に閉じこもっているということは、非常に小さく、暗く、低く、狭い世界に閉じこもっているということなのです。そしてその世界が全てだと思っている。それに対して、「そうではない。もっと大きくて、明るく、高い世界があるのだ。そこに上がって来なさい」と教えるのが宗教ではないでしょうか。

 また、私は芸術も本質的には同じように、人間を導くものだと思います。そして教育というものも、本来はそういうものでなければならないでしょう。その意味で、教育は、自己中心的に、小さな世界にいる者を、もっと高く、広く、明るい世界に引き上げることです。

 そのように考えると、「知」の教育も「徳」の教育も、同じ項目に含めることができます。これを「心の教育」、あるいは「本来的教育」と表現しても構わないでしょう。つまり、科学技術や芸術が発達するということも、人間の心のレベルが発達することも、同じ方向を目指しているととらえることができます。「目覚める」ということの意味は、知的にも目覚め、徳、つまり霊的にも目覚めることなのです。これが「知」だけの目覚めであると始末が悪くなる。やはり「知徳」の目覚めが必要なのです。

 先般、京都大学の創立百周年記念シンポジウムがありまして、私は一聴衆として参加しました。実は、そのテーマが、「21世紀に向けての知の可能性」とか、「知の軌跡と大学の可能性」というように、やたらに「知の」という言葉が使われているのが気になりました。

 なぜ「知」ばかり言うのか。なぜ「霊の」と言わないのか。「知的」レベルを向上させるのは大切なことですが、なぜ同時に「霊的」レベルも向上させると言わないのか。パネリストの一人が、なかなかいいことを言ってくれました。「知だけを追いかけていると、ヤマイダレが付きますよ」と。つまり「痴」です。私も、まさにその通りだと思いました。

 夏目漱石は「知に働けば角が立つ」と言いました。私たちは、「知に偏れば痴ともなる」と言うべきでしょう。

 もちろん、知的レベルと霊的レベルは並行して発達させなければならないと思います。決して一方に偏ってはなりません。別の言葉では、「科学教育」と「道徳教育」あるいは「宗教教育」と言ってもいいでしょう。それは先ほど申し上げた「心が目覚めていく過程」という捉え方をすれば、両方が入ります。社会制度の整備・発達、科学・芸術文化の振興、心の発達、知と徳の発達、霊的レベルの向上など、全て一つのものとして捉えることができるのではないでしょうか。

■大きく「目覚める」方向 

 恐竜と人間の二つの点を結べば、直線ができます。その直線の示す方向が宇宙の目指す方向であるということです。ですから、私たちがこの人生で目指す方向は、自ずと定まってきます。より大きく「目覚める」方向です。その中には知の目覚め、霊の目覚め、徳の目覚めなどがありますが、より大きく、明るく、高いものを目指すという方向です。

ですから、宇宙は決して「機械」ではありません。「生命」なのです。「生命」というのは必ず「目的」を持っていて、それを実現していきます。「自己実現」していくものです。宇宙とはそういうものですから、私たち一人ひとりも、また国家としても、そういう自己実現的存在であると解釈していいのではないでしょうか。

このように考えると、「心の教育」という問題も解答を得られるのではないでしょうか。少なくとも、途方に暮れるということはなくなると思います。「心の教育」の問題を考える時に、私自身は、必ずしも「宗教」という言葉を使う必要はないと思っています。宇宙の目覚めに合わせればいいわけですから。それは自己中心性から脱却する方向なのです。歴史を通じて、宗教がそのことを言い続けてきたのです。

(1997年12月6日発表)